パンチの独り言

(2008年3月24日〜3月30日)
(狂気、修正、艱難、確定、異様、対立、手入れ)



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3月30日(日)−手入れ

 迷惑メールの中には、押し売りの類のものが目立つ。性に纏わるものも多いが、資格に関わるものも沢山ある。中でも、学位、大学や大学院を卒業、終了したことを証明しますと誘うものがあり、輝かしい過去を手に入れたいと願う人がいることに気づく。確かに、金で買えないものはないと言った寵児もいたのだが。
 既に、悪い評判が流布されており、これらの学位は全く無効であるとして扱われる。某大学の学長となった人も、それを手に入れた一人だが、本人の主張は違うところにあるらしい。いずれにしても、手に入れたいと思う人がいるというのは、それが世間で必要とされるからだろう。しかし、必要とされるにはそれなりの理由があり、それを経てこその資格なのである。この辺りの誤解が何処から出るのか、追い込まれた人間でないと理解できないのだろうが、それでは何とも情けない。同じように金で買えると思われているのが、子供の教育ではないだろうか。学校に金がかかるのは当たり前として、所謂家庭教育にまで、その考えが及んでいることには驚かされる。幼児教育の道具を高額で売り捌く業者、優れていると評する場を提供する業者、様々な人々が蠢いているが、その多くは無意味に近いものだろう。家庭教育とは全く違ったものであり、生きるための知恵を授けるところであり、知識を身に付けるところではないのである。全てを家庭に押し付けるなどという批判を紹介する人々の多くは、出発点から誤っており、そんな観点からの議論は無駄と言うしかない。格差の問題を論ずる人々も、金が基本と考える節があり、そこでの誤解に気づかぬようだ。家庭における教育で最も大切なものは、おそらく時間ではないだろうか。子供の話を聞いてやる、子供に物事を教えてやる、などということには、ある程度の時間と辛抱が必要となる。金を第一に考える人々に、この話をすると面白い反応が返ってくるが、まさに本末転倒の極みだろう。手間をかけることを惜しめば、それが子供の将来に重大な影響を与える。この話を金に置き換える人々は、おそらく本質を垣間見ることさえできない。

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3月29日(土)−対立

 反論もせずに、ただ頷くだけという国民性に、自虐的な批判が集中したのはいつのことだったか。いつの間にか、無責任な意見を声高に主張し、行き先の見えぬ議論を闇雲に続けるのが、当たり前のようになった。議論を深めることの重要性を忘れ、ただの思いつきを並べ立て、自慢気にふんぞり返る姿は何とも情けない。
 こんな様子を描写すると、誰のことか気づく人も多いだろう。しかし、ある特定の人を指すわけでなく、今永田町と呼ばれる巣窟で蠢いている人々の多くは、こんな様子なのではないだろうか。実は、国民性には殆ど変化が無く、今でも追随するだけの人々が多く、自分でものを考えることができない。だから、責任を持った意見を吐くわけでもなく、無礼千万と相手を恫喝したり、責任の擦り合いに終始する。そこから生まれるものは何もなく、無駄な時間が過ぎるだけと思う人は皆無で、如何にも意義深い遣り取りをしていると悦に入っている。その姿が何とも情けなく、見窄らしく見えるのである。子供の時代のガキ大将は、そんな理不尽なことをしなかった。こういう人々の過去は、そんな立場にはなく、ただ情報操作と虐めに明け暮れていたのではないだろうか。まさに子供の喧嘩としか見えない遣り取りに、呆れかえる人々もいるが、自らも同罪と思う人は少ない。何故なら、あれほど下らない人間をあの巣窟に送り込んだのは、まさに自分達に他ならないからである。政に携わる人々の体たらくを嘆く声の主は、果たしてその責任をどう感じているのだろうか。昔と同じように情報操作に熱を上げ、自分達の都合の良い方に誘い込もうとする思惑が、ひょんなことから当て外れとなる。そんな状況で、急に批判を繰り返したとしても、自らの浅慮をさらけ出すだけである。誰がやっても同じことという考えもあり、そこには諦めの文字も見え隠れする。だからといって、ただ批判的な態度をとればいいのではなく、もっと大人の対応をすべきである。

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3月28日(金)−異様

 いつ頃からか、人に無いものを持つ人間が重用されるようになった。優劣がつけられるものであれば、相対的な評価から判断できるが、他の人が持たないものだけに、それが優れたものかどうかの判断が難しい。にも拘わらず、闇雲と思えるほどの調子で引っ張り上げ、重要な役割を任せるようになったわけだ。
 確かに、人と違うところがあれば、それに基づく決断が可能となる。しかし、それが結果として正しくなるかどうかは、違うかどうかによるものではない。独創的な提案をする人は、確かに他人と違う考え方をするだろうし、そこに独自の思考がある。しかし、違うだけなら幾らでもできるわけで、ただ間違えれば済むことになる。では、世間から期待された独創的な人間とは、何処が並の人間と違うのだろうか。そのことを考えもせずに、ただ違うことだけに注目して、話を進めてしまったことに大きな問題があったのだろう。今、世の中で言われている独創性には、何処か怪しいところがあり、使われている尺度が違うように見えるのは、その辺りから来ることなのではないだろうか。従来の考え方を否定して、全て逆に考えれば、おそらく他人とは全く違った結論が出せる。では、それに従って動けるかどうかとなると、多分殆どの人は躊躇するに違いない。何故なら、経験のないことであり、今まで成立していたことの逆となれば、確実性が低いことが十分に予測できるからだ。普通に見れば、こんなやり方はただの無茶であり、そこから生まれることは失敗でしかない。少し考えれば、そんな展開が見えてくるはずなのに、どうにも流行に押し流されてしまうものらしい。何でもかんでも独自の路線を編み出し、暴走を繰り返す人々が現れた時代があった。彼らなりの勝算があったのかも知れないが、そこには確固たる理屈は存在せず、思いつきの積み重ねが不安定なものを築き上げる。独創を育てると豪語した人に、少し後から批判が集中したが、それも同じような誤解から来ているように思う。

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3月27日(木)−確定

 人を騙す人々は、思い当たるところから始め、いよいよ騙しに入る時には、何処か矛盾した話となる。相手や自分自身の状況を心配し、そのことに心が奪われた人は、ついその口車に乗せられてしまうという。成る程と思うかも知れないが、冷静に考えれば子供騙しのようなものに過ぎない。しかし、乗せられるのだ。
 騙され奪われるほどの資産を持つという意味で、昔とは随分違った状況にあるのだろうが、さてそれだけが違いだろうか。亀の甲を上回るものを重ねてきた人々が、いとも容易く騙される。他人事と思えば、すぐに見破れる嘘を見過ごしてしまうのには、何か特別な理由があるのかも知れない。もう一つ気になることは、他人事でも嘘を見破れない人がいることで、そこに推測の危うさがあるように思える。社会的にこんな状況が産み出されてきたのには、何らかの理由がありそうだが、すぐに思い付くのは安定による感覚の鈍りである。日頃から同じことが同じように起きる中では、大小に関わらず変化に備える気持ちは萎えてしまい、兆しをつかもうとする心構えは無くなる。大の大人がこんな始末では、子供たちに大切なことを伝える仕組みはなくなり、ただ漫然と流れに身を任せることが重要になる。少ない選択肢を分け与え、それを如何に無難にこなすかを問題とする。そんな中で、決まり文句を覚える以外に、アドリブに気を配るために時間を費やすことなど、無駄としか思われていない。若者たちの想像力の無さを憂うばかりで、何が問題かを見極めようとしない社会は、まさに全体が平和ぼけになっていると言わざるを得ない。そう思って眺め回してみると、そんなことに基づく事件、珍事が世の中に溢れていることに気づくだろう。決まった道を決まったように進めと命令しておきながら、そこに不安が漂うと、それに対する処し方を教えられない。平穏な環境しか想定せず、危機に気を配ることがない状態で、生き延びる術を身に付けられるものか、何とも不思議な状況に違いない。これは大きな社会問題であると同時に、個々の人々がもっと真剣に取り組まねばならないことなのだろう。

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3月26日(水)−艱難

 偉人、これも死語となりつつあるのだろうか。広告で使われることはあっても、その人となりをじっくりと理解しようとする若者はいない。本が売れないこともあって、伝記も意義が見出せなくなった。一世代、二世代前には当然と思われたことが、全く通用しなくなったのは何故だろう。気にするのがおかしいのかも。
 そういう時代になってしまったのだから、今更何を言っても始まらない。そんな諦めの声さえ聞こえているが、少なくとも何が変わったのかを知りたい人がいるのではないか。親の世代との違いが何処にあるのかは明確である。周囲を見回しても、その時代とは生活環境が大きく変化している。だからこそ、ある時代に郷愁を抱き、それを追いかける人々がいるのだろう。古き良き時代と片付けることは容易だが、そこに今との違いの源があるとしたら、どう思うのだろう。偉人の伝記を読んだ時、その内容に感動した人々は、それが想像の範囲に収まっていたからこそ、同情や一体感に到達できたのではないか。想像力の減退もあるだろうが、それに加えて環境の激変は、子供たちから感動のきっかけを奪ってしまった。偉大な人間はいつの時代にも尊敬の対象になると思う人もいるが、想像の域を超えてしまえば、別次元の存在としか思えなくなる。そんな存在から学ぶべきものはなく、特殊な人間として別枠に閉じ込めてしまえば済むこととなる。だから、以前なら通用した辛酸をなめた立身出世話も、絵空事としか思われず、そこから自らの意欲を増進させる気持ちが生まれるはずもない。苦労話が通用したのは、それが前提条件として成立した時代だからであり、そういう脚色は時代の要求でもあったのだ。しかし、現実には苦労が前に立つのではなく、意欲が先に立ち、後に顧みるとそこには言いしれぬ苦労があったかの如く見えてくる。つまり、現実にその時間その場で必要となるのは、苦労ではなく意欲であり、そこに没頭する姿勢に過ぎないのだ。素直に目の前のものしか見られない、現代の子供たちに対して、その場と後での違いを推し量る力を期待するのは無駄なことであり、結局は、その場の真の姿と気持ちを見せることが重要なのではないだろうか。想像力の欠如を認めることには賛成しかねるが、現実はそんなものだろう。

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3月25日(火)−修正

 成功するためには、失敗を検証する必要があると説く人々がいる。成功の元となるものを知ることで、近づくための道を探し出そうというのである。成る程と思える部分も多いが、一方で本当だろうかと訝しむ気持ちもある。周囲を見渡すと、失敗のための失敗を繰り返す人々が数多く見受けられるからなのだ。
 こういう主張をする人々は、実際にはそのことにも注意を促している。つまり、失敗には無駄なものと意味のあるものがあるというわけだ。では、その区別はどうするのか。問題はおそらくそこに収斂される。成功する人の多くは、失敗の検証を行うことなく、正しい道を見出して、それを進もうとする。逆に、失敗を繰り返す人の殆どは、その原因に気づくこともなく、同じ過ちを違う道と思いこんで繰り返す。本当に問題なのは、この部分なのだが、それを解決する糸口は容易には見つからない。見つけられる人間は元々そんな心配をする必要もなく、自ずから明らかになるものを追いかける。反対に、見つけられない人間はどんなに心配して、どんなに身構えようとも、その機会を逸することになる。ここに大きな違いがあるが、その差を埋める手立ては殆ど見つからない。失敗の検証といっても、その大部分は無駄なものであるだけに、肝心なものに偶然行き当たる前に、諦めてしまうことが多い。そうなれば、彼らにとって検証は、無駄なものに無駄なものを掛け合わせるようなものであり、何も有効な対策は見出せない。人と同じことを繰り返すのが第一と考える人ほど、この傾向が際立ち、自分なりの判断を編み出すことはない。そんな状態が長く続けば、無駄な時間が流れるだけであり、自らの力を使った解決は望めない。他力本願が必ずしも良いことではないと分かっていても、どうにもその選択しか残らないのは、こんな事情によるのではないか。他山の石という言葉の意味が理解できても、どう処すべきかは見えてこないのは、こんなところから来るのではないか。我が振りの欠点を感じ取れない人間には、困難極まりないことなのだから。

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3月24日(月)−狂気

 人権、あらゆる人が持つ最低限の権利だが、犯した罪が重すぎる場合、最後の瞬間にその権利さえ奪われることとなる。罪の重さを問う時、一方で償うべき状況にあるかが問われる。つまり、重さを判断できるだけの力が備わっているかどうかが問題であり、その水準に達していない場合には、罪を問われないこととなる。
 耗弱とか喪失とか呼ばれる状態においては、正常な判断が下せない状況にあり、その状況下で犯した罪は問われない。心の病が大きな社会問題として捉えられ、多くの人々が罹患していると言われる事態では、こんなことはごく有り触れたことであり、特別な扱いを要しないと思う人が増えているのかも知れない。ここに大きな誤解が生じ、罪を問われるべきかの判断と本人の精神状態から判断される加療の有無に、隔たりが生じる。人の精神状態は状況に応じて大きく変化することもあり得るから、それを理由として正反対の判断が下されることもないわけではない。しかし、ある状況に追い込まれた時に、変調を来すとするならば、それを回避する手立てを講じる必要があるのは当然で、その為の方策がなされなければ、危険を放置することに繋がる。心の病が常に犯罪に結びつくはずのないことは理解されているのに、個々の事例に対して十分な対応がなされないのは、何とも不思議な感じがするが、ここにも人権という言葉が大きく影を落としているのかも知れない。精神病がごく希な病気と受け取られていた時代には、こんな対応が許されるはずもなく、かなり厳しい処置が行われていた。しかし、そこに人権意識が持ち込まれるのと並行して、患者数が激増してくると、状況が一変した。非人間的な扱いを容認する必要はないが、その一方で、危険因子を放置するような扱いに、疑いを持つ人は増えている。家族の問題に過ぎなかったものが、いつの間にか社会問題として扱われ、ここの責任が問われにくい時代になりつつある。その中で、罪を犯した人間に対して鑑定を行い、人権を擁護する動きがなされる場合、その後の手当ての保証は何処にあるのかを問うべきだろう。ただ単に被害者の心情に対するものだけでなく、社会全体として常に危険を排除することが大切なのだから。

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