パンチの独り言

(2008年3月31日〜4月6日)
(煽惑、離脱、適材、回避、親子、心機、着手)



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4月6日(日)−着手

 仕事のできる人とそうでない人、違いが何処にあるのかについて、意見は色々とあるだろう。それまでに接してきた人の違いもあるし、自分自身の経験の違いもある。それに、できる人の多くはその理由を語ることはないし、語られなくても理解できる人でなければ、できるようになる筈もないわけだから。
 それでも、現代社会はあらゆることの手法を詳らかにすることが歓迎されるので、様々な場面で訳知り顔の人物が解説をする。上に書いたことが真実であれば、それを聞こうが聞くまいが、何の変化も催さないはずだが、心理的には秘法を伝授して欲しいと願うものらしく、つい気持ちが動くようだ。結果的には何も変わらず、できる人間になることもないわけで、今まで通りの生活が続く。根本的なところの違いは、ちょっとしたきっかけで埋められる筈もなく、自分でその違いの本質を見極めない限り、埋める手立てを見出せるわけがない。確かに、能力の違いと言ってしまえば、それまでだが、それでは埋められる可能性は皆無に等しい。もし、そうでないとしたら、何処に違いがあるのか、できる人間の行動を観察することが必要だろう。簡単に見つかるのは、仕事の速さであり、質の違いよりも量の違いに現れる。要するに、仕事を停滞させておく時間を如何に短くするかが肝心であり、考えたり悩む時間は極力短くしているように思える。それでは、ゴミばかりになると思う人がいるだろうが、現実には、ゴミさえ出てこないのでは、何も生まれないことを知っておく必要があるだろう。始めに出した案が常に最終のものになるとは限らず、そこに紆余曲折があるのは当然のことだが、下地のないところに上塗りすることはできない。多くの人々は始めから完成形を求め、そこでの立ち往生に終始してしまう。動かねば、先に進めないのは明らかなのに、何故か動き出そうとしないわけだ。殆どの話はこれが全てであり、躊躇が何の役にも立たないことを意識できるかどうかにかかっている。仕事の出来不出来は単に質の問題だけでなく、量の問題にも繋がることに気づけば、取り組む姿勢にも変化が出てくるだろう。

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4月5日(土)−心機

 門出にあたり、思いも新たにしている人もいる。しかし、何処をどう新しくするのか、これという答えがあるわけではない。今までは、本に書いてあることを信じ、自分なりの考えより、人の経験をあてにしてきたのが、ある日突然、新しい考えを導入せよと言われる。指南書にそう書かれた時、さて何をするのだろう。
 指示待ち人間になるな、と言われても、自分独自の考えで動けば、間違いを犯すおそれは大きい。それを避ける唯一の方法は、正しい答えを見出すのではなく、動かぬことと思っている人が多い。それが他人から見れば指示を待つだけの人間と映り、どんな経過を辿ったかを問題にされることなく、同じ人種として扱われる。失敗は取り返しのつかないものではなく、その後の対応次第で、改修可能なものも多い。にも拘わらず、それを避けようとする心理が働く背景には、失敗そのものを悪と見なす強固な思いこみがあるのだと思える。間違いを繰り返しながら、何かを身に付けていく、という作業は、たとえば二本足で歩く時に経験しているのだが、余りにも昔の話で、実際のところを思い出すことはできない。そう思うと、失敗を重ねた上で何かの能力を獲得したことは、意外に思えるほど記憶の中に残っておらず、それが大切といわれても、すぐに実感できるようなものではないらしい。そんな中で、指示を待つより、失敗を重ねろといわれても、そこに不安が漂うのも無理はない、と言えるように思える。しかし、現実には、この考え方自体に無理があることに気づかねばならない。知らないことだからできない、というのであれば、殆ど全ての新しい試みは成功しない。そこに新たなものを作り出すこともなく、ただ古いものを繰り返すだけとなるわけだ。そう考えてみると、ごく当たり前に思えた考え方も、何処かに破綻を来していると見なす必要がありそうだ。それが何処にあり、どんな形をしているのか、探してみなければ分からないものであり、その為にはまず動くことが大切というわけだ。それが、新たな気持ちの核となる部分なのではないだろうか。

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4月4日(金)−親子

 子供が思うようにならず、周囲から圧力がかけられた時、親がどんな対応をするのかは、興味深いものである。自分の間違いを一生懸命探す人がいる一方で、自らを正当化するための言葉を探し続ける人がいる。どちらにしても、子供たちは育てたようにしか育たないし、その子の持つ性質、才能が徐々に芽生えてくる。
 時間が解決するとして、焦りを戒める声がある一方、その場での的確な対応が第一と説く人々がいる。子供側の主張はその多くが要領を得ないから、殆ど参考にされず、結局は大人の見地からの考えが採用される。中には、きちんと理解する子供もいるだろうが、しっかりとした考えを持つ親ほど、それに耳を傾けないから、結果は変わらない。それでも良い方に向かえば、心理的には安定し、対応も柔らかくなる。しかし、多くの場合はそうならないから、焦りは募るばかりとなる。それをいけないと言われても、無理というものだろう。その中で言い訳じみた言葉での正当化を選んだとしても、仕方のないところなのではないだろうか。自分のためだけの正当化であれば、平静を取り戻すために必要なことだが、それが子供を巻き込んだ形となると、問題は更に拡大する。これに気づかず、ずるずると子供を悪い方向に向かわせる言動をしてしまう親たちは、少し違った見方を試みる必要があるだろう。自分を棚に上げることは安心のために重要だろうが、それに続いて、子供までも棚に上げてしまうのはどうか、ということだ。こういう人に限って、周囲の人を自分の思い通りに動かそうとし、子供に対しても同じように振る舞うために、悪くなると止められないこととなる。人と人との関わりは、親子の間でも同じようにあるわけで、一方がもう一方を占領するということはあり得ない。ある程度の依存はあるとしても、依存は占領とは違う向きに働くものだということを認識すべきだろう。責任の果たし方の誤りとならぬように注意して欲しい。

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4月3日(木)−回避

 凶悪犯罪が増大しているとはいえ、所詮人の起こすものだから、防ぎようがあるかも知れない。それに対して、天変地異は人の力ではいかんともし難いものであり、防ぐことよりまずは起きてしまった時の対処が重要とされる。地域ごとに対策が練られ、避難場所が決められているが、どれだけの住民が知っているのか。
 情報伝達が整備され、様々な形で提供される情報を受け取ることができるようになっているが、その多くは電力などのライフラインを頼みとする。大地震などが起これば、当然それらの供給が止まり、孤立した状態に追い込まれるから、起きた後の情報伝達を頼りにするのではなく、事前に最低限の情報を手に入れておく必要がある。しかし、現実には何処に逃げればいいのかさえ知らない人が多く、居住地域外では更に状況は深刻化する。忘れた頃にやってくるわけだから、忘れなければいいと思う人もいるだろうが、それにしても暢気なものである。一方、ハザードマップと呼ばれる災害時の被害予測などを描き込んだ地図についても、基本情報の不足から予測が外れることもあり、大災害というものに対する認識の低さがこういうところにも表れているようだ。このような事態を深刻に捉え、十分な対策の必要性を訴え、各人の意識の向上を狙った企画をする人々がいて、不安感を抱きやすい世相と相俟って、注目を浴びるようになっているようだ。しかし、その内容は劣悪なものが多く、何処かから流れてきた情報をそのまま流すだけでなく、その状況を分かり易く伝えようとする努力ばかりが目立つ。現実には、始めに流される情報の質の悪さが問題なのだが、それにしても、意識を高めるのならば、別の工夫を凝らす必要があるだろう。災害による交通機関の不通により、徒歩での帰宅を余儀なくされる話は、暫く前から取り上げられてきた。ただ必要性を唱えるだけでは不十分との判断からか、帰宅経路の混雑度を示す報告がなされ、取り上げる報道機関が増えている。しかし、その実態を伝えるための工夫に力を入れ、独自の解決策を示そうとしない姿勢には、首を傾げてしまう。報告の内容を理解させる必要もあるのだが、現実には不安を煽るだけの結果となり、有用な情報は何も示せない。その時必要となるのは、どうすればその混乱を避けられるか、ということなのに。

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4月2日(水)−適材

 人材不足、と一言で片付けてはいけないのだろうが、今の世の中はまさにそんな様相を呈している。こんな話を書くと、その通りと頷く人がいるかも知れないが、当人が例外とは限らない。不足しているのは、以前のように新人ばかりではなく、中堅、上層部、それぞれに厳しい状態に陥っているのではないか。
 他人のことを嘆くのはごく簡単なことだが、自分のことを嘆く人は少なく、問題がそこにあるとしても、そうそう簡単には変えられないと呟くのが精々だろう。平穏無事に時間が過ぎていた時代は問題が表面化することもなかったが、変革の時代と言われ、殆ど外圧のみによって変化を余儀なくされ始めた時、あらゆる階層で課題が顕わとなった。しかし、前例を踏襲するのみの対応しか知らず、時間が解決すると信じて階段を上ってきた人々には、露呈した課題を解決する手段を持ち合わせていない人が多かった。そんな中で、一度動き始めた変化は止まることを知らず、歪みの上に歪みが重なり、どうにも身動きのとれない状況に追い込まれた。一昔前なら、上層部の交代によって解決が図られたが、おそらく、誰がやっても同じことが明白な中では、貧乏籤を引く無謀な輩は現れない。結果として、無能な経営者も巨大な企業の中では、殆ど目立つこともなく、生き長らえることができるようになった。入社式という形式だけのものでは、旧態然とした人間こそが本領を発揮するわけで、そんなところにだけ姿を現す人の顔を久しぶりに眺めていた。統合に向けての組織整備に失敗し、誤操作による損失拡大の問題を抱え、様々な問題を乗り越えたわけでもなく、ただ、小型船の行き交う湾内を漫然と進む大型船の船長の如く、的確な状況判断を下すこともなく、変革の時代を生き抜いてきた人は、まだ、そこにいたのである。不思議に思えることは沢山あるが、これが実態なのだと受け容れるしかないのが、似非変革の真の姿なのでは無かろうか。

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4月1日(火)−離脱

 信用できない話が続くと、信じることが馬鹿らしくなってくる。現実が冗談の洪水のようになっている今、本来ならば年に一度の嘘が許される日にも、真面目な話ばかりで溢れかえる。こんな世の中、真面目に渡り歩いても仕方ない、と思う人もいるだろうが、こんな時にこそ、自らを律する必要があるだろう。
 嘘で塗り固められた話に亀裂が入り、どうにも逃れられなくなると、多くの人間は開き直りを見せる。窮鼠猫を噛むと言われるが、果たして嘘つき共はちっぽけな鼠だろうか。どちらかというと、大きな顔をした猫が、小心者の鼠を弄ぶが如く、欺瞞に満ちた言葉を浴びせかけているのではないだろうか。こんな時代に必要なのは、偉そうに踏ん反り返っている人の真似をすることではなく、何が正しいのかを見極める力をつけることだろう。他人と同じように振る舞うことを唯一の道として学んできた人々には、初めのうちは辛いものかも知れないが、同じ道を一歩踏み出す前に、遠くを見渡してみようとする気持ちを持つことが大切だろう。すぐに行動を起こさないと叱責を浴びると恐れるより、慎重に道を探る心の余裕を持つことが重要である。新たな道を歩み出す時には、特にこの心掛けが有用で、今までとは違った自分に気づくきっかけともなる。不平を並べながらも、同じ道を歩み続けるのでは、そこに変化が訪れることは決してない。社会全体が大きく変貌する時に、自分の立つ場所も大きく変化するが、そこでの対応は遅れてしまう。その変化の兆しを感じるだけの感受性を高めるためには、漫然と追従することを許さず、自分なりの考えを入れ込む時間的余裕を持つことが大切なのだ。新たな出発では環境の変化も大きく、様々な障害が立ちはだかるに違いない。そこでの対応には、それまでに身に付けてきた知恵が役立つだけでなく、それを自在に操る精神が必要となる。さて、その準備ができているのか、今この時は、自分を見つめ直す機会でもある。

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3月31日(月)−煽惑

 傍から見ると本質がよく見えるという。何処まで本質をついた表現か分からないが、少なくとも渦中の人間とは違う視点を持つことができるだろう。人にものを伝える役割には、こんな感覚が重要とされ、第三者的で冷静な見方を貫く必要があるとされる。今、紙面や画面の向こうにある姿はこうなっているだろうか。
 おそらく多くの人が信用ならないと思い始めている。にも拘わらず、当事者たちは依然として思うがままの行動を繰り返している。第三者たるべき人々が、そこに利害や思惑を持ち込んだ時、貫くべき姿勢は一気に崩れる。崩れた人々の多くは、そのことに気づかぬままに走り続け、暴走へと繋がるわけだ。特にその傾向が際立つのは、批判の矢を放つ立場から、批判の的になった時であり、その際に貫徹すべき志を脇に押しやることが起きる。第三者が当事者になると、冷静な分析ばかりか、論理の破綻を来たし、ついには利己的な行動を起こす。その時、大袈裟に引っ張り出されるのが大義名分であり、自らの過去の行動を顧みることは行われない。これがまさに暴走と見なされることであり、それに陥らないように払うべき注意が蔑ろにされた結果である。本質を見抜く力が要求されているにも拘わらず、表面的な変化にばかり気を奪われ、ついには真の標的を見失う。そこまでは人間の犯しやすい間違いと言えなくもないが、それに気づかぬままに走り続けたり、気づいたとしても他の言い訳で蓋をすることで、自らを正当化しようとする。何も伝達者に限った話ではないが、このところそんな雰囲気が漂う話に接することが多いのは、この傾向がかなり極まってきた証左なのではないだろうか。税制の不手際で混乱が起きるかも知れないことを警告するのは当然のことだろうが、その混乱が社会的秩序をも乱しかねないものへと繋がるような表現には、首を傾げてしまう。混乱の実況中継は得意だが、それを防ぐ手立てや避ける方法には疎い実情を露わにしているのかも知れない。井戸端の噂話程度なら、電波を飛ばしたり、活字にする必要なぞありはしない。

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