パンチの独り言

(2008年4月7日〜4月13日)
(岐路、並、泡沫、数物、想定、無視、放題)



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4月13日(日)−放題

 凶悪犯罪が起きる度に、犯人の心理を推測し、生い立ちを紹介する報道がなされる。興味本位と言ってしまうと即座に反論が返ってくるだろうが、特殊な犯罪が起きる背景にどれだけの意味があると言うのだろう。何か一般化できるのならば分かるが、その気さえなく、猟奇的な事件への興味をそそらせるだけなのに。
 では、同じような分析をしたとして、それを一般化する手立てはあるのか。おそらくあると思うが、今のやり方でそこまで到達することは不可能だろう。個々の事例を個別に解析し、その特殊性を際立たせる手法では、他への適用は困難である。多分、こういう分析をする人々の心の中には、それぞれが特異な事例であり、例外として扱うことで、他に波及することを避けようとする気持ちがあるのではないだろうか。その真偽は兎も角、そんな態度で取り組めば、一般化は不可能であり、分析の意味はなくなる。ここに現手法の矛盾があり、無駄な努力とも呼べる行為が繰り返されているわけだ。もし一般化したいのなら、いかに特殊なものでも、それが一般大衆の中の何と類似するのかを考察すべきだし、そういう進め方が不可欠となる。ただ、これをすると大衆から嫌悪感丸出しの視線を向けられるわけだから、画面の向こうで顔を曝す人間には難しいことだろう。では、一般化の方法は他にないのか。視点をがらりと変えて、正反対の方向から見れば、全く違った進路が取れるのだ。つまり、特殊性を取り上げるのではなく、その特殊性が表面化した社会状況など、他との関わりを分析の対象とするのである。犯人の異常な心理は他に適用できなくとも、それを許した環境、のさばらせた状況などを分析することはさほど難しくない。仲の良い家庭だった、良い子だった、等々、そんな声が聞こえる場合でも、他人との関わりはどんな状態だったのか、詳細に分析すれば何か解るかも知れない。断定的な答えでなくても、何かのヒントとなれば、それは一般社会に適用できる。社会がそれらの犯罪を起こさせたとは言わないが、防げなかったのは事実であり、その原因を探ることが一般化の起点となるのだから。

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4月12日(土)−無視

 大地震の後の仮設住宅で、孤独死の急増が問題となった。ずっと昔にも、大都会の真ん中で人知れず死んでいく人がいて、人間関係の問題として取り上げられてきた。社会性の生き物として人間を捉えた時、これらの問題はかなり重要な意味を含んでいると考えられてきたが、何処に問題があるのか、未だ不明確である。
 これは、人付き合いの得手不得手の問題として捉えられることが多く、死んでいった人が抱えていた課題と受け取る向きがある。その観点が明らかな間違いとは思わないが、果たしてその方向からの見方だけが肝心なのだろうか。都会におけるこれらの事件の示す意味は、そこに住んでいた人々の対人関係に起因するものだけとは言われず、当時は近所付き合いの希薄を問題視する動きがあった。それに対して、仮設住宅はまた違った環境を作り出し、孤独死が問題化したのに対して、訪問者の数と訪問の頻度を増やすことによって、未然に防ごうとする働きかけがなされた。それでも、数が減ることは殆どなく、根本的な解決には程遠いことが明らかとなっている。地域から委託された訪問者の数や頻度を増やしたとしても、毎日顔を見せることは困難である。数日の遅れでも、病気に罹った老人にとっては致命的であり、手遅れとなる場合があり、たとえ死に至らなくとも、処置の遅れが決定的な打撃を体に加えることに繋がる。これもまた、福祉の仕組みの問題として捉えられることが度々あるが、何処か的外れな印象を受けてしまう。この国の特徴として、向こう三軒両隣という隣組の仕組みがあり、互いに毎日顔を合わせることが当たり前とされてきた。いつ頃からか、おそらく都会から始まったこの関係の希薄化は、個人主義の台頭と相俟って加速化し、周辺地域へと急速に広がっていった。顔を合わせることが監視されているように感じる人々が増え、道で行き会っても挨拶さえ交わさない人が出てきたのは、まさにこの時代の特徴だった。その結果、個人を尊重することが、自らを孤立する方向に繋がり、周囲との関係が絶たれることとなる。つまり、一見、本人の問題とも思えることが、実は周囲からの働きかけの問題なのであり、最近の社会現象の多くがここに起因しているように思える。もし、この国独特の習慣を捨てた結果とすれば、それを取り戻す工夫が必要なのではないだろうか。

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4月11日(金)−想定

 国や自治体の制度が変更された時、必ずと言っていいほど混乱が起きる。それを変更された制度の問題のように思う人がいるようだが、的外れとしか言いようがない。完璧な制度の存在を信じる以外に、こんなことを思い付く人はいない筈だが、そんな考えもないらしい。常に、自分以外に責任の所在を求めるからか。
 実際には、住民の責任は総じて軽いものである。確かに情報が流され、全ての人々がそれを知る機会があったとはいえ、それに従おうという気分にはならない人もいる。問題はそこにあるのではなく、また、新たに始まる制度に不備があるからとも限らない。制度の変更においては、旧と新の間での橋渡しをすることが必要であり、そこでの様々な想定が不可欠となる。興味深いのは、混乱が起きた場合の多くに、想定外のことが起きた為との見解が出されることで、まるで予想だにしなかったことが起きたような扱いをすることだ。しかし、実際に起きたことはごく有り触れた間違いであり、その頻度からは希とは言えないものである。この間にある見解の相違は何処から来るのか、これも少し考えれば思い当たるところがある。つまり、想定の範囲の設定の誤りということで、制度の変更が無事にできれば、といった方向にしか考えを巡らさない、何とも不可思議な思考回路の存在なのだ。こんな話をすると、識者の多くは危機管理を引き合いに持ち出すだろうが、危機という言葉の持つ意味を考えた時、この表現は大仰過ぎることに気づくべきだろう。悪い方に考えてみるという程度のことを、危機と見なす人はおそらくいない。危機とは、非常に危険な状況に陥ることを意味し、その場合にどう回避するかを想定するのが危機管理と思う人が多い。そんな中で、小さな間違いが起きることを想定してみるといった話を大袈裟に扱っては、後退りする人を増やすだけのことだ。肝心なのは、上手くいく話で飾り立てるだけでなく、様々な障害が起きることを想定し、それを回避する手立てを講じることであり、それ自体はさほど難しいことではない。また、新たな制度を立案する場合に、回避手段を考えることは肝心ではなく、まずは良い制度を作ろうとすることが重要である。この辺りの誤解も多く、無駄な労力を費やす方向に動くのは馬鹿げていることに気づかねばならない。

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4月10日(木)−数物

 数の論理を使って、思い通りに事を運ぶ。多数決と民主という二つの主義の違いを理解できない人々にとって、これは当然の権利であり、それが力の象徴ともなっていた。しかし、何処で躓いたのか、自らが仕掛けた罠にはまることになり、奈落の底へと落ちている。圧倒的多数を誇る場所での優位は脆くも崩れてしまった。
 様々な意見を吸い上げ、それらを元に議論を繰り返すことで、より良い国を築くというのが究極の目的であり、その組織の存在意義だったはずだが、議論は一方通行のみとなり、多数派の思うがままになる状況では、民意の反映は覚束ない。多数派を送り出した人々は、その時の責任を思い出すこともなく、状況の悪化を嘆くが、自らがそれを招いた一因となっていることを自覚すべきだろう。振り子のように右左と振れ続けるのが情勢であり、一所に留まることは却って危険であるという指摘もあるが、現状を見ると、揺り戻しが起こる気配はない。多勢に無勢と言われてきたが、まさにその状態を招き、目先のことに囚われて吟味を怠った責任は重い。自分に都合の良いことを行動に移すのは人間として当たり前のことだが、それが巡り巡ってどんな結果をもたらすかを考えられない人々に、大きな組織の舵取りは任せられない。一見誠意を示しているように感じられた人々が、数を得た時の豹変ぶりには、これまで何度も驚かされてきたが、今度も例外ではなかった。ただ、今回の遣り取りで興味深いことは、これまでなら一方だけに当てはまる話だったものが、双方に違った形で該当する点である。心の奥底に蠢く欲望が頭をもたげてきた時、それを抑えるだけの自制心が働くかどうかが重要となる。修行を積んだ僧侶でさえ苦しむことに、欲望に駆られてその世界に飛び込んだ人々が耐えられるとは思えず、この結果は自明なことなのかも知れない。いずれにしても、膠着状態を打ち破るためにはかなり強い力が働く必要がある。それも内圧には期待できず、おそらく外圧だけに可能性が残っているだろう。外圧といっても、ここでは国の外とは限らず、あの人々を選んだ人間という意味もある。望み薄との声が聞こえてきそうなのだが。

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4月9日(水)−泡沫

 砂上の楼閣が崩れるように、儲け話が一転大損を産み出すことになった。こんな話ほど伝わるのは早く、不安におののく人々に更なる圧迫感を与える。二十年近く前にこの国で起きた狂乱も、まさにこの体を為していたのだろうが、その時と同じ感覚を抱いた人もいたのではないか。損得は表裏一体であるのに、と。
 泡銭を右から左へ移すだけで、膨らむ泡の勢いが増す、という様相は、あの当時と全く同じ姿を曝していた。一つの違いは、既に経験した間違いを繰り返すことはない、という保証とも言える自信であり、その為に複雑な仕組みの解説が何度もなされた。しかし、それを聞いてもなお、あるいは、聞いたからこそ、好都合な展開予測に基づく様々な安全策の欠陥を指摘する声も上がっていた。にも拘わらず、金に目が眩んだ亡者たちは、都合の良い方に考えることで、批判の声に耳を塞ぎ、破滅への一本道を突き進んでいった。泡には耐えられる内圧の限界があり、それを超えればはじけるしかない。当然予測できたことを、夢の仕組みの実現と見誤った人々は、泡の中に次々に持ち金を放り込んでいった。それがはじけ飛んだ時、大きな損失が露出したわけだが、その損失だけを大きく取り上げることには、かなりの違和感を覚える。何故なら、突然露わになった損失は確かに莫大なのだろうが、金を産み出す夢の仕組みからは、それまでにその損失に匹敵するほどの利益が生まれていたはずだからだ。確かに、得と損が同じ人にもたらされたわけではなく、一部の勝者と一部の敗者が出されたわけだが、全体として考えれば、損得に大きな違いはないはずである。ババを掴まされた人々には気の毒なことだが、業界全体として眺めても、それまで甘い汁を吸い続けていたことを惚けるのはいかがなものか。経済活動自体が損得を産み出すことによって成立していることからも、こんな結末は十分に予想されたことであり、その警告を無視した人々に鉄槌が下ろされただけのことではないか。泡を食わねば生きられない業界と泡を食わされては困る人々、踊らされるかどうかは人それぞれの判断による。

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4月8日(火)−並

 国の様子が大きく変貌していた時代、変化は当たり前のことであり、それに対応できるかどうかに生活がかかっていた。その場に居座ったり、自分のやり方を押し通すと、時代の流れから取り残され、忘れ去られることとなる。それを恐れる人々は、自分の考えより周囲の変化を優先し、その対応に明け暮れたようだ。
 さて、時代は大きく変化し、次にやってきたのは、殆ど変化しないのが当たり前のもののようだ。決まったやり方を繰り返すことが優先され、それで十分生活できるから、新たな試みは不要となる。冒険するより、安住の地を見つけることが重要となり、人真似を軽蔑する空気は薄れてしまった。こうなると、上から降ってくるものへの対応が第一となり、自ら何かを探し回ることは二の次となる。場合によっては、彼らの行動表には既存のものばかりが並び、新規のものが見当たらなくなるほどだ。そんな時代には、賢く生きることが重要であり、最小限の力で最大限の成果を産み出す方法に注目が集まる。ここでも自分で探し回る手間より、成功者を真似る手間の方が少なくて済むことが重視され、試行錯誤を嫌う風潮が増すばかりだ。失敗を恐れる限り、試してみることは有り得ず、皆と同じであることが唯一の解となる。台本通りの芝居ができる人は兎も角、全ての人が役者に向くわけでもないのだから、こんな世の中について行けない人が出てくる。以前の変化に対応できない人と同様に、それらの人々は枠から外れてしまうわけだが、当時と大きく違う点がある。それは、皆と同じであることが条件の一つとなっていることで、それから外れることは全てにおける失格者の烙印を押された気分になることだ。暮らしにくさを感じさせる要因となっているのは、まさにこの点にあるのではないだろうか。だから、再出発を議論するより、不適合の烙印の問題を取り上げる方が先と思える。

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4月7日(月)−岐路

 値上がりが相次いでいる。原材料の高騰が直接の原因と分析されているが、さてどんなものだろうか。一方、それによる家計の打撃を伝える報道もあり、そろそろ物価の上昇が本格化してきたと言えるようだ。この現象をバブル期との類似に着目する向きもあるが、明らかに違う点が一つあることに気づくだろうか。
 何度も話題にしたから、またその話かと思うかも知れないが、大きな違いとは給与の変化である。物価が上がろうが、公共料金が上がろうが、それらを支払うための収入が十分であれば大した影響はない。今回の騒動でも、何となくそんな感じと思いながら、実感が湧かない人がいるのはそのせいだろう。給与の格差を取り沙汰する向きがあったが、ここに来て、その影響が現実のものとなっている。苦しいから値上げをするといった言い訳が聞こえてくるが、売る側は決断するだけで何とかなるのに対して、買う側は自らの決断だけでは何の変化も起こせない。特に、好不調に関係なく、常に先行き不安を煽る論調を維持する経営者たちの頭の中には、製品の値上げはあっても、それに見合う労働者の賃金の上昇は無いようだ。このままでは、心理的な圧迫が増すばかりであり、精神の不安定を招くおそれも大きくなる。社会不安がそこから始まるとしたら、そろそろ立ち上がるべき時と思えるが、組織全体のことを考えず、自らの利益のみを追求することに慣れてしまった人々は、それに気づく気配さえ見せていない。では、このまま悪い方に向かい続けるのか、誰がそのことを問題提起するのか、様々な課題が山積している割には、真剣に取り組む気運は高まっていない。ここには、個人主義と全体主義の間の乖離と、それを利用する人々の台頭があるように思える。個人の利益を追求することはさほど難しくないのに対して、全体の利益を求めることは利害の入り混じった中での決断を要することからかなりの困難を伴う。そんなことは百も承知の上で、という筈だったのが、今やすっかり忘れ去られて、楽な道が選ばれている。下り坂を選ぶか上り坂を選ぶか、先にあるのはどんな世界なのだろう。

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