春の狂想曲はそろそろ終わっただろうか。そんな雰囲気が街に漂い始めた頃、ふと別の風景に目を転じると、そこにまたほんのりと赤いものが目立ち始めてきた。こちらも新緑の象徴が芽吹くより早く、花がその姿を現すために、強い印象を見る者に与える。そんな理由もあるのだろうか、街路樹として使う所も多い。
こんなことで、既に季節の移ろいは、と思っていたが、まだまだ狂想曲は続いているようだ。紙幣の印刷より、通り抜けで有名な所は、今が盛りと祭りとも狂乱とも思える風景が広がる。関山、一葉、鬱金、御衣黄、普賢象などと言われて、すぐに気がつく人は余程の趣味人なのだろう。しかし、この国には昔からそういう類の人々が沢山いたのではないか。こんなに多くの、そして、全く違った顔つきの花をもつ樹木を品種改良で編み出してきたのである。一重のものより遙かに多くの花弁をもつから、その根元にはまるで薄桃色の絨毯を敷き詰めたような景色が広がる。単に、花が咲くのを愛でるだけでなく、その散りゆく様やその後の成り行きまでをも楽しもうとする心が、そこにあったのかも知れない。改良によって耳目を集められるものができれば、それが商売に繋がると下世話な想像を巡らす人がいるかも知れないが、そんな心だけではとても長続きするものではないだろう。一年で結果が出ることならば、次々と試してみることが簡単だろうが、花が咲くまで時間がかかるだけでなく、商品として世に出せる段階に至るまでとなると、更なる年月を要する。たとえ商売と雖も、そこまで先を読み切って踏み切ることは、容易なことではない。と考えると、やはり違う動機も必要となることに思い至る。何でも即席に片付き、何でも投資に見合う儲けを期待する。こんなことだけ考えていては、こんな酔狂にのめり込む人は現れる気配は出てこない。実際には、違った様相を呈しているのだから、やはり世の中そんな守銭奴ばかりではないのだろう。
習慣となっていたものを、法律で規制されているからと止めてしまうことに抵抗を覚える人もいるだろう。自宅を建てるのに、近くの神社の神主に来てもらって、という話はよくあるが、これが公共施設の地鎮祭となると、微妙な状況となる。地元の祭りも、神社仏閣と無関係なものは少なく、首長が関わることは難しい。
政教分離が定められた時点で、政治家と地元との関係は、選挙絡みのものだけでなく、こんなところにまで問題が及ぶようになった。機会を捉えて活動するのは原則に反すると、杓子定規なことを言うのは簡単だが、人間関係を無視した形式的な決め事には、違和感を覚える人が多いのではないか。信じる信じないに関わることだけに、それを利用することを禁じる必要があるのは、何となく理解できるが、その一方で、直接的ではないにしろ、宗教団体が政治の行方を左右する現状には、何処か矛盾を感じてしまう。直接的、表面的でなければよいが、それが表に現れる形となるのはいけない、というのではまるで暗躍者を増やしているだけに思える。例の宗教団体と比べると、その起源となった旧来の宗教は、千年ほど昔と比べると遙かに弱い関係を政治との間で示している。多くの僧侶は政治そのものへの関わりに言及することなく、世界情勢に対しても意見を出すことは少ない。これも一種の政教分離であり、それに深く関わっている団体が特殊に見えるのは、こんな背景もあるのだろう。しかし、最近はこちらも徐々に姿を変えつつあるようだ。催しを積極的に誘致する古い歴史を持つ寺があるというのも、その現れの一つと思われるが、度が過ぎると思えるものもあり、幾ら観光名所となっているとはいえ、ここまでやるかということまで起きる。ところが、その勢いも世界情勢の変化から腰が引け、辞退を表明する事態となった。混乱を避けるためという理由は理解しやすいが、つい、政治情勢に対する見解まで表明してしまった。それ程軽率になりつつあるのだろうが、今一度、本分を見つめ直すことが仏に仕える意味を理解するために必要なのではないだろうか。
流行廃りに乗りやすい人のことを表現するのに、熱しやすく冷めやすいと言うことが多いが、服や電化製品などの品物に執着する場合には、それで済んでしまうからまあ始末におえる。しかし、これが事後処理を必要とするものとなると、簡単に済ますことができず、始末におえないということになりかねない。
適用しにくい例だが、入れ墨はその典型だろう。勢いで入れてしまったものを取り除こうとすれば、入れるのに使った金額を遙かに上回る手術料が必要となり、それはそれで一大決心が要る。変な例を引いてしまったが、まさにこれと同じことが政策に関することで起きている。こんな話を始めると、年金か健康保険か、と高齢者に纏わる話と受け取る向きもあるだろうが、全く違う話である。これも流行の一つだったと思うが、何が何でも民営化という勢いが吹き荒れた時期があった。馬鹿の一つ覚えのように、まるで魔法にでもかけるが如く、何でも可能になるという触れ込みだった。しかし、現実は夢か幻か、正反対の方に進み始めた仕組みは、宣伝文句とはかけ離れた実体を曝すこととなり、それによって生じた歪みは修正不能な領域に達している。流行に乗った国民の責任も重く、負の遺産を清算するという目的は、更なる負債を抱えることで、打ち砕かれた。熱が冷めるだけで済めば簡単だが、ここではそうも行かない。にも拘わらず、未だにこれまた馬鹿の一つ覚えで、信奉者が絶えないのには呆れるばかりだ。学者に戻ったはずの大臣は、おそらく何の成果も上げられていないだろうし、最高責任者だった人間は、目立つ席にたまに登場するだけで、後は隠遁生活のようなものだろう。彼らの責任を追及する声は、多方面から出てくるものの、あの時代に恩恵に浴した人々は、その声を掻き消そうと躍起になる。自由経済などと謳いながら、勝手にされては困るものまで、市場に持ち込むことは、何を意味するのか。視野の狭さばかりが目立ち、当時からその手の批判を受けながら、愚民共の熱狂に押されて断行した政策は、その殆どが意味を成さないばかりか、障害を産む結果となった。まだ気がつかない人は、もう暫く悲鳴を上げるべきだろう。
役立たず、と言われたらおしまいである。たとえ出来の悪い人間でも、そこまで過激な罵声を浴びせられることは少ない。おそらく、極端な例を除けば、人は何処かに能力を示し、それを生かすも殺すも周囲次第となるからだろう。つまり、役立たずという言葉は、天に唾するようなものというわけである。
そんな背景から中々使えない言葉だが、逆の表現は此処彼処で頻繁に使用される。昔はどんな事柄でも巡り巡って自分に戻ってくるという意味で、役に立たないものは無いとされていたが、最近の風潮は、明らかに当てはまるものとそうでないものがあるように扱う。将来役に立つかどうかを明示できなければ、学習意欲が減退するという話は、昔の人が聞いたら驚くのではないだろうか。意欲を奮い立たせるために使う方便と見なす向きもあるが、始めの頃はそうだったとしても、最近はいかに魅力的な表現を使うかが重視されるほど、雰囲気が変わっている。ただ、分かり易く説明するほど、中身が薄く浅いものになることに気づく人は少なく、昔との差は開くばかりだ。学習を進める段階で徐々に認識するだけでなく、後々になって初めて気づくことが多いのは、まさにそれを示すもので、その場で意味が理解できたものほど、長持ちしないことを昔の人は知っていた。だから、一々説明せずに、強制とも思える形で学習機会を与えていた。今、そんなことをすれば、分からないの連発が出て、収拾がつかなくなるという。理解力の無さを棚に上げて、要求ばかりが高まるのも、そんな世相を反映しているのだろうか。現金取引のように、その場での決済を求める風潮も著しく、近視眼的な人間が目立ってくるのは当然である。金で全てが片付くという思いこみから、努力の代わりに金によって資格を得ようとする輩も増えている。ここで面白いのは、彼らにとって、資格が第一であり、それを持つ人間が何をできるかとは違った感覚であることだ。スキルと表現される、技能を現場は人に要求するが、要求された人間がそれを資格と受け取るのに対し、現場は何ができるかを重視するのが、この違いを表している。この歪みが矯正されない限り、人材育成は困難を極め続けるしかない。
また、続編である。どの組織も新人を迎え、互いに戸惑いを見せているのではないだろうか。「こんなはずではなかった」とは、どちらの台詞か、兎にも角にも何とか体裁を整えようと躍起になる。しかし、理想と現実の乖離は予想以上に大きく、戸惑いが諦めとなり、挫折へと繋がる人もいるだろう。
学校に上がった頃から、聞き分けのいい子供が賞められ、集団の中で目立つ行動は戒められた。指示待ちや受け身という態勢が築かれたのは、ここに源があると言われるが、社会性を構築するために重要なことであり、これ自体を批判するのは誤りだと思う。問題はその後の発達段階における変化にあり、昔からそれを促される雰囲気があった筈なのだが、最近は事情が変わったように見える。つまり、子供の頃に獲得した社会適応のための技術を維持し続けようとする人が増え、新たな展開を模索する手間を惜しむ傾向が強くなったのである。その為、自我が目覚めたはずの人間が、何時までも独り立ちできずに、そこに呆然と立ち尽くしていることになる。彼らにとって、自らの道は切り開くものではなく、誰かが舗装してくれた所を歩くだけのものであり、案内人の登場を気長に待つ態勢が出来上がる。これでは何の変化も起こらず、自分自身の特性を見出すこともない。昔ならば、自我の目覚めとともに、夢と希望を元とした遠大な人生計画を語る若者がいたものだが、最近では無難な人生を歩むための道を模索するのが精々のようだ。この時期に儚い夢を打ち砕かれる経験をした人々は、その後、遠大さと着実さを巧く混ぜ合わせる工夫をし、技術と知識を磨くことに邁進した。それが自らの発展と成功に結びついたのだが、今はかなり事情が違っている。肝心な時期に無難を選んだ人々は、失敗を恐れ、何が間違いに結びつくかを知らないままに年月を重ねる。その結果、組織の中である程度重要な地位を占めるようになる頃に、吟味する力がないままに、突然遠大な計画を持ち出し、場合によっては嘘の上に嘘を塗り固めることを繰り返すようになる。何事も経験とはよく言ったもので、それによって手に入れられるものは大きいのに、避ける努力しかしない。そんな人間が組織に加われば、どんな結果になるか、説明の必要もないだろう。
同じ話題を続けるのを好むわけではないが、関連するというくらいで読んで欲しい。新たな出発と世間的には言われるものの、最近は殆ど変化することもなく、終わりと始まりの儀式を通り過ぎる。環境が変われば、気持ちも改まると言われたのは昔のことで、最近は自らを変化させないことが重要なようだ。
先人の歩んだ道をそのまま追い続けることは、以前ならば血気盛んな若者たちに忌み嫌われた行為だったはずだが、最近はそこから外れることを恐れる傾向が高まっている。人並みがどれ程重要なことかは分からないが、人並みの次に来るものの重要性を認識せずに、その水準で留まろうとする心理は理解しがたい。漸く人並みになれたという思いで心が満たされるのか、あるいはそれが全てと思いこんでいるのか、いずれにしても、個々の違いを際立たせる要素を如何にして排除するかが、最優先となるらしい。その割に、人との違いを明示する人々は、彼らの尊敬の対象となり、自分達が到達できない領域の住人として、神とも思える崇拝の対象となる。人並みかそうでないか、更には究極の存在か、といった分類の中では、自らを他と違う存在と認識できるのは、唯一人並み以下の場合のみであるから、それを避けようとする気持ちが起きるのだろう。しかし、人はそれぞれ違うことが自明であり、それを同じにしようという努力は徒労でしかない。その点を理解できないのが現代人の抱えた大きな欠陥であり、それを超えようとする意欲の喪失が社会の問題に繋がっていく。節目ごとに、新たな気持ちを奮い起こし、以前とは違う自分を作り出そうとする努力は、自分発見を重視する割には、殆ど為されることがない。これらの違いは何処から溢れ出すのか、舗装された道しか走ったことがないからか、あるいは自由に動き回る手立てを奪われたためか、様々な解釈があるだろうが、おそらくそれぞれの人々の心にある意欲や好奇心の問題と見るのが適切なのではないだろうか。もしそうなら、環境要因を考えるだけでなく、別の見方が必要となる。
権威の欠片もなく、井戸端の噂話ほどの価値しかないと散々扱き下ろしてきたものを、鵜呑みにするのはどうかと思うが、また理解不能な話が伝えられた。権利を買うために払うべき金を納めなかった人が、それを祝う式典に参加できなかったという話で、苦渋とか遺憾とか謝罪とか、場違いな言葉が並んでいた。
このところ、公が提供する事業なり、サービスなりに、対価を支払わない輩がいるという、飛んでもない話題が取り上げられている。罰せられなかった前例を頼りに、公的機関に属する人までもが、違法行為を繰り返していたことは、良識ある人々にとって異星人を見るような感覚を起こさせた。そんな社会風潮から、予防策が講じられるのは当然と思うが、今回はそれを実行したことに対して、批判の矢を放つ人々がいたという、これまた非常識の塊のような話が紹介されたのだ。親が支払わなかったことに対して子供には責任がない、との見解から、唯一の機会である式典への参加を認めるべきと主張した人は、折角の機会を奪う行為と述べたとあるが、そのまま支払わず権利を得られなかったら、参加はどんな汚点を子供に残すことになったのか、尋ねてみたい。また、機械的な扱いとの批判をしたとされる評論家も、金銭に関わることを機械的に処理せずに、何をしろというのか尋ねてみたい。特に、分割での支払いの可能性を示すなどの説明の意味は、彼には理解不能なのだろうかと、首を傾げるしかない。要するに、ただ忘れたに過ぎない人々を罰するなどというのは、人に何かを教える場にはそぐわないとでも言いたいのだろうが、その繰り返しがどれ程の損失を招いているかを考えるべきではないのか。ふざけた話が通用する時代と呼ぶ人もいるが、まさにその典型とも思えることに、まだ手を貸そうとする理解ある大人のような芝居には呆れるばかりだ。ただ、この話、式典の開催から数日を経て、報道がなされたところを見ると、誰かが何らかの意図を持って漏らしたと思える。そこにも、現代社会が抱える大きな問題があるのだろう。