パンチの独り言

(2008年4月21日〜4月27日)
(抽出、愚臣、空騒、断絶、我意、歓迎、不満)



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4月27日(日)−不満

 最近、道に座り込んで話に夢中になっている若者を見かける。潔癖症の問題を解く寄生虫学者にはどう映るのか、すぐには想像がつかないが、見た目が汚れていないからと考えるしかなさそうだ。その一方で、道にしゃがみ込んで、癇癪を起こしたように泣き叫ぶ子供の姿は、とんと見かけなくなった。
 この違いは何処から来るものなのか。道の汚れが目立たなくなったのは、国民性に拠るところもあるが、やはり生活が豊かになり、必要最低限の範囲が大きくなったところも関係するだろう。同じように、泣き叫ぶ子供が減ったのも、欲しいものが手に入らなかった時代と異なり、何でも買い与える親が増えたからなのではないだろうか。店の前に飾ってある素敵な靴をやっとのことで手に入れたら、すぐまた次に別の色の靴を欲しくなったことを歌い、欲望に限りがないことを身近な例で示した歌手は、まさに貧しさから立ち上がる時期に幼少時代を過ごした。その時代と違い、今では限りない欲望でさえ、いつの間にか満たされてしまう。こんな世の中で、何が不自由になるのかと言えば、おそらく自分自身なのではないだろうか。自分の心を満足させる金品を手に入れることは可能でも、それで着飾った自分の中身を満足するものに仕上げるのは不可能となれば、どうにもならない気持ちになってしまう。見かけを変えるのと中身を変えるのが、連動していた時代には、分相応が当然と思われてきた。しかし、いつの間にか、見かけが大事であり、中身に触れないことが、自分を保つための唯一の手段と思う人が増え、分不相応を戒める声も小さくなってしまった。背伸びは、自分を高める手段として大切なものだが、目的を無くした手段は意味を成さない。ただ、その瞬間の享楽を手に入れるための手段となり、快楽に酔いしれる精神だけが肥大化する。そのくせ、心の隅には常に不安が居座り、絶頂の向こうにあるどん底を思い描き、恐れ戦く。こんな不安定を忌み嫌う人々の多くは、それが自分の作り上げた幻に過ぎないことに気づかない。これら全てが、自分の中だけに閉じ込められていればいいが、今や外に向かって爆発するようになった。危ない時代と言えるのかも知れない。

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4月26日(土)−歓迎

 落ち着いて成り行きを見守る、という姿勢が見せにくくなった。世知辛いという表現もあるだろうが、批判を恐れて行動しなければならないのは、何とも異常な状況だ。無難に生きると言っても、人生にはそれなりの冒険が必要となるときがある。それを逃してでも、ただ平穏に生きることに、どれ程の意味があるのか。
 安定した世の中では、こんな考え方が当然と受け取る向きがある。その一方で、企業経営の基本を説く人々は、安定しているときこそ新たな試みをすべき、と主張する。明らかな矛盾だが、個々の事象に対して見解を述べている人は、こういう違いに気づかないらしい。人それぞれに都合があり、それに基づいて論理を組み立てるから、複数のことを相手にしたとき、その間での調整を怠ることがある。おそらく、視野を広げることもなく、個別の事情を振り回し、その中で閉じていれば安心という感覚からなのだろうが、それにしても大局観の無さには驚かされる。一つの主張をすることで、別の主張が揺らぐことに気づかぬ人たちには、広い視野や異なる観点を期待することはできない。世界中が祝ってくれるはずのものが、何処で釦を掛け違えたのか、国内事情への批判に曝されている催しは、その様相を一変し、自国の人々による盛り上がりで、収拾を図っているかの如く見える。しかし、本来の姿はまるで逆なわけで、他の国による祝福を受けつつ、世界中を旅するはずなのであり、その立場が逆転した時点で、この催しの意図は破壊されたと言うべきだろう。御都合主義の人々にとっては、そんな情勢も自らの責任によるものではなく、一部の過激な行動に出る輩による妨害としか映らない。しかし、そんな思いしか抱けず、深慮に欠けた行動に出る人々こそ、この問題を更に深く抉る結果を産み出すのではないだろうか。自分達の力を誇示するだけなら、こんな手段を講じる必要など何処にもないからだ。力ではなく、思いを示すためのものが、いつの間にか、姿を変えつつあるのは、あくまでも内から湧き出すものが関係しているのではないか。

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4月25日(金)−我意

 空気を読めない人を表す略語が話題になったことがある。その異様さよりも、彼らが読めないと分類する特徴に、更なる異様さを感じた。場の雰囲気という表現を借りて、自分達の世界に入ってこない人を糾弾する行動には、異分子を排除する心理が働いている。もう少し大きな空気を考えれば、自分も読めていないのに。
 要するに、自分以外の人々の考えや行動に注意を払うという基本的な社会行動の欠如が目立っているということだろう。自分だけは大丈夫と考える人の多くは、まさにこの種の人々の一員となっている。にも拘わらず、ある表現を使って、何としてでも他人を排除し、自分を集団に含めようとする行動には、ある種の自分中心の思考が働いているわけだ。そう考えると、最近の社会現象の多くに納得がいき、何故と首を傾げる必要はなくなる。しかし、それで満足するのは、大きな間違いだろう。若い世代に理解を示そうと思う人々は、こんな選択をし易いが、それによって好意を持たれているように見えても、実際には信頼さえ獲得していないことが多い。叱りつけることが少なくなった時代には、迎合が一つの手段として選ばれるわけだが、反発することを常とする人々には、それが理解とは映らないことが多いからだ。何も考えずに行動する人間に、何も考えていないと言われる人々は、どんな感想を持つのだろうか。まあ、空気を読めない人間には、そんなことに考えを巡らす必要さえ感じられず、自己満足という自分中心の結論で十分なのかも知れない。それにしても、自分さえ良ければという考えがこれほど世の中に蔓延し始めたのは、いつ頃からだろう。世間では経済停滞が原因と見る向きもあるようだが、実際にはその前の上り詰める段階こそがその始まりと思える。抜け駆けを羨む声が聞こえた時、人間の心に大きな変化が訪れたのだ。

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4月24日(木)−断絶

 宗教と政治の分離の話を書いたが、今は、体育と政治の分離が取り沙汰されているようだ。といっても、体育という言葉が死語になりつつあるようで、国民的な催しの名前の変更が検討されているという。目的を言葉にしたものという意味では同じだが、直後の結果と長い目で見たものでは、かなり違いそうだ。
 世界的な競技大会の開催が迫り、様々な問題が出ている。競技場の建設の遅れを心配する声が出ていたが、そちらの方は何とかなりそうだ。その代わりとも言えないが、国内情勢が不安定となり、それをきっかけに開催国に批判が集中している。元々秘密主義の国が、ネットワークの導入とともに、多くの情報が共有できるようになったのだが、ことこれに限っては、情報統制の下におかれているようだ。ずっと昔、同じような体制の国で開催された時には、政治的な判断から不参加を決めた国が続出し、東側だけの大会の様相を呈したが、それ以降、政治との分離を訴える声が強くなっていた。ところが、このところの情勢を見ると、少し怪しげな雰囲気があり、今後どんな展開になるのか、注目する向きもある。これを政治の介入として憂慮する声も上がっているが、その対象となっているものを見ると、おやと思える部分が出てくる。政治介入の対象となっているのは、各国の宰相が開会式に参加するかどうかなのだが、国の代表として政治家が出てくること自体、この催しの拠って立つところを示しているのではないだろうか。王室や皇室が存在しない国にとっては、国民の代表を宰相が務めることは致し方ないにしても、存在する国も同じようにするのでは、何処かずれているように思えてくる。政治からの関わりを無くすためには、そこから考えていく必要があるのではないだろうか。それとこれとは話が違う、とするのは良くある話だが、今回の流れを見る限り、そう思っていない人がいるようだから。

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4月23日(水)−空騒

 目の前にいる人間を恫喝することはできても、画面の向こうにいる人間に同じような影響を及ぼすことは難しい。その代わりにとられる方法は、心の不安定につけ込むやり方である。一番簡単なのは、このままでは大変なことになる、とするわけだが、ある番組で毎週流されるようになってから、効果は薄れたようだ。
 脅し、とも受け取られる表現は、一歩踏み外せば、恐喝などの違法行為となる。しかし、それに近い言葉を発していても、画面の中にいる人々はある意味安泰なのだ。その為、あれやこれやの手段を使い、如何に危ない状況にあるのかを、懇々と述べ始める。それも一種独特の、まるで親切心から来るかのような雰囲気を漂わせながら、である。よくよく考えれば、詐欺師の常道なわけだが、画面の中ではいたって普通のことと受け取られる。この違いが何処から来るのかは定かではないが、兎にも角にもこのやり方で、世論を操作しようとする人々が後を絶たない。この一月、大混乱が起こると大袈裟に騒ぎ立てていた人々は、そのきっかけを与えただけでなく、これから起きるかも知れない騒動の引き金をも引こうとしている。主役は誰なのか明確なのにも拘わらず、まるで他人事のように脅すわけだ。詐欺師が芝居をすることとの違いは、おそらくどんなに努力をしても、見つけられないだろう。だからこそ、この茶番劇に対して、厳しい審判を下すべきだと思うが、目の前にあるものだけに心を奪われる人々には、その為にすべきことが理解できないらしい。互いの批判を繰り返す時、それは裏返しの表現となり、自らを貶めることに繋がる可能性を、一切考えない人々には、このまま平行線の議論という芝居を続けるしかない。それに対して、誰がどのような審判を下すかは、明白なわけでもないし、対立する意見と言いながら、妥協点が見出せないのでは、きりのない話にしかならない。では、何処に向かうのか、騒ぎ立てている人々を見る限り、行き着く先を見つめる人はいないように見える。

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4月22日(火)−愚臣

 自分の思い通りに物事を進め、注目を浴びたいと思った時、昔ならばどれだけの功績を残すかとか、成績を上げることが第一とされていた。しかし、いつ頃からか、実績が信用と結びつかなくなり、ついこの間まで信じてきた人に裏切られると、確かなものが無くなり、拠り所を失う人が急増してきた。
 そんな世の中になると、信頼の有無とは無関係に、人の言葉を受け容れてしまうようになる。踊らされるとか、煽られるとか、そんな表現が目立つようになった背景には、信用の喪失があるような気がしてならない。信じる者が救われない世の中と評す人もいるが、信じる対象の吟味をせずに、闇雲に、鵜呑みにしてしまうのでは、当然のことなのではないだろうか。受け手がそうなるにつれ、送り手の品格は落ちるばかりとなり、まずは大口を叩いて、注目を浴びようとする。以前ならば、人々の範となるべき立場にまでそんな輩が目立つようになったのは、かなりの驚きであるが、こんな流れの中では当然の帰結と言うべきなのかも知れない。そういう輩を排除するための仕組みが機能せず、ただ放置する中では、発言が過激になるのも当たり前で、そういう貧しい精神の持ち主に、高潔な人が就くべき地位を譲り渡すこと自体が、現代社会の抱える病の深刻さを表している。政治家は所詮は私利私欲の塊、などと呼ぼうものなら一喝された時代と違い、論理的な破綻を指摘された時に、誤りを認めず、相手を恫喝する時代となり、そんな連中が集団の代表として、破廉恥な発言を繰り返す。前任者も酷似した行動をとっていたところを見ると、昔なら非常識と映っていた態度が、今の世の中では自信に溢れ、首尾一貫した態度と見えるのだろうか。もしそうならば、彼らの誤解と言うだけでなく、国民が愚民化した現れと見るべきなのかも知れない。流石にそこまで地に堕ちたと思いたくないものの、日々行き交う情報の内容の薄さを見るにつけ、そんな状況に国全体として陥り始めているように思えてくる。今こそ、良識を無くすことの恐ろしさを再認識すべきではないか。

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4月21日(月)−抽出

 画面の向こうは、長々とした実時間のうち、ほんの一部を切り取ったに過ぎない。映像という媒体を手に入れた時、人々は誰もが信じるに値するものが登場したと思ったようだが、現実には全く逆の効果を産み出す場合もある。映画制作に携わる人が、小さな画面で見えるものを信じさせる大切さに触れたのもそうだ。
 他にどんな景色が見えていようとも、それを画面の中から排除してしまえば、観客に見えるものは意図したものだけとなる。それによって、事実を曲げることになっても、創作活動であるから、全く問題ない。しかし、それが事実を伝達することを使命とする者達が同じことを行うと、どんなことになるのだろう。これまでも、写真にしろ、映画にしろ、情報の抽出が行われることに問題が残ると指摘されてきたが、それを回避する手段は未だに見つかっていない。それどころか、最近では、この問題を逆手にとって、事実伝達に編集を加えようとする人々まで出てきた。時間の流れの前後を逆にしたり、余分と判断した所を削除したり、兎に角、話の流れが既にそこにあり、それに沿った事実のみを抽出する作業を繰り返す。これによって、制作者の意図は大いに反映されるが、その多くが事実を歪曲することに繋がり、大いなる欺瞞が渦巻くこととなる。とはいえ、そこに登場する人物が話した内容の一部が流れていることには変わりなく、たとえ、それ以外に重要な言葉を発していたとしても、事実として伝えられるのはその部分だけとなる。主張は言葉の組み合わせで作られるから、舌足らずになることも多く、それを補強する意味で、様々な表現が付け加えられる。ところが、こんな編集の憂き目に遭うと、ただ一言の主張のみが残され、それがもつ極端な意味が受け手に伝わる。主張は、それを示せば逆の含意も表面化するわけで、強いものほど逆も強くなる。それを避けるための方便が、作業によって割愛されれば、本来の意味は失われるわけだ。最近の論争の多くは、そんな所を彷徨するものが多く、結果的に何も産み出さないように思える。

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