誰もが休みを取りたい時期は、隙を狙う人々にはよい機会となるのだそうだ。全世界がそうなる時期はないものの、かなり多くの地域が同じような動機から休みを採り入れ、束の間の休息に浸るとき、そうでない地域や世の中の流れに逆らう人々が守りの薄くなったところに迫る。警告は発せられたが、さてどうなるのか。
その場での対峙が唯一の手段だった戦争の時代と異なり、全く別の手段で世界中を結ぶ仕組みが始まってから、その隙を狙い、金や秘密を奪い取ったり、混乱を悦びとする人々が暗躍するようになった。所詮人間の作り上げたものだから、完璧など無く、更に利用者の知識不足がそれに輪をかけるとなれば、多少の混乱は想定の内と思う人もいる。伝染病での経験と同じで、蔓延を防ぐためには隔離が最善の策となるが、一度繋がったものは、知識のない感染者自らが切断しない限り、隔離することができず、その点が伝染病との絶対的な違いとなっている。感染源の特定は容易であるように思えるが、情報の流通がこれほど大きくなると、蔓延を食い止めるほどの素早さで対応することは不可能のようだ。要するに、自己責任で何とかしろというわけだが、感染を防ぐことは可能としても、蜘蛛の巣のように繋がれた仕組み自体が受ける被害を食い止めることは一個人には不可能である。参加者全体の問題ということだが、そこにはピンからきりまでの人々がおり、容易ならざる状態を作り出している。ゴミ捨て場と見紛う程のメールには、なりすましのものが数多く見られ、仕組みそのものの欠陥を露呈する。拡大あるのみの市場原則の致命的な欠陥も、こんな場で露見しているわけで、現代社会の抱える問題が全てこの網目の中に組み込まれたようにさえ思える。しかし、一度掴んだ便利さを手放す気持ちは毛頭無く、欲望に走る人々には、何も見えず、何も聞こえないのだろう。身勝手な欲望のせめぎ合い、巻き込まれるのは御免被る。
輸出大国として名を馳せている国も、以前は劣悪な製品の代名詞となっていた。努力の積み重ねだろうが、いつの間にか先進国を追い抜き、首位の座についたが、その地位も危うくなりかけている。この発展は、あくまでも追い越せ追い抜けと追随した結果であり、独創性の欠落を嘆く声が依然として大きい。
その一方で、単純に加減しただけではこのような発展はなく、何らかの独創が潜んでいるという声も聞かれる。どうも、嘆くことを好む国民性なのか、開国以降の流れも、常にこの線に沿ってきた。嘆息が酷くなり、独立を望む声が強くなると、極端に走るわけで、出る杭が打たれたあと、再び嘆きの声が大きくなる。いずれにしても、開国以来続いた輸入超過の歴史は、内よりも外を尊重する傾向を強め、何かにつけて、欧米を引き合いに出した提案がなされる。経済活動においてその傾向は特に強く、それも海を挟んだ向こうの国の模倣に終始する。本来の国民性の違いはこういう場面で更に広げられ、矛盾が噴出する結果となるが、外を正しいものとする人々は、意に介さないようだ。新たな領域を開拓しようとする意欲に基づくベンチャーなるものも、あちらの成功を羨望して、次々に参入したようだが、芳しい成果は殆ど聞こえてこない。初期投資を食い潰すのみの活動が目立ち、模索のうちに資金が尽きて消滅することが多いのは、成立過程と取り組み姿勢に大きな違いがあるからなのではないだろうか。考え方の違いと言ってしまえば簡単だろうが、それなら導入する意味はなくなる。補助金などの注入も功を奏さず、どぶに捨てる結果となるのも、何か大きな誤解をした結果に思える。よく似た現象として、公的機関による町興しがあるが、補助金目当ての人々の餌食になることが多い。では、この国には新規開拓の歴史はなかったかといえば、そんなわけもなく、全く違った経緯を辿っただけのことなのだ。模倣に徹する背景には、失敗を恐れる心があるのだろうが、そう何度も失敗をした上で、まだそのやり方に固執するのは何故なのだろうか。
大混乱が起きるとの予想は当たったのだろうか。一部では小競り合いもあったようだが、概ね平穏に流れたように思える。その意味では外れに近いわけだが、どうしてもそこに問題を生じさせようとする力が働き始めているように見える。暫定税率失効時の対応と復活時の対応が違うのに、意図を感じる人もいるだろう。
税率が下がったときに、どの位の値下げをするかが問題となる。多くの場合、額面通りの対応ではなく、何かしらの理由を付けて、利益を確保することになる。それを批判する声は余り聞こえず、ただ単に表示される額そのものに注目が集まるだけとなった。その後、世の中の流れを読む気のない人々が、予定通りの復活劇を演じ、一夜の夢とは言わないまでも、あっという間の狂騒劇が終了した。本来ならば、これにて一件落着と行くべきだが、この騒ぎをろくでもないものとしたい人々は、復活の茶番劇に加えて、更なる攻勢に出ているようだ。便乗と評された話に、成る程と思った人もいるだろうが、規制に乗り出す人々にどんな策があるのか、さっぱり見えてこない。値下げの最中にこの話が出てこなかったのが、まずは不思議に思えることであり、次には、便乗と妥当の違いがどこにあるのか分からない。消費者の権利を守るというお題目はいつも通りのことであり、それ自体に重みは全く感じられない。そうだとしたら、この規制の対象はどこにあるのか、どんなことを想定しているのかが気になる。いつもの通りであれば、そんな線引きはどこにもなく、ただ脅しをかけているだけのこととなるが、今回もそのままなのだろうか。まだ、終わってはいないものの、今回の顛末では様々なことが見えてきた。意外なほど冷静な大衆にとって、今回の混乱は無いに等しいものだったこと、話題を漁る伝達者にとって、話を膨らます必要を痛切に感じたこと、制度に関わる政治家にとって、馬脚をあらわさないような注意が必要なこと、人それぞれに思いは色々あるだろうが、心穏やかならざるひと月だったのかも知れない。
悪い噂が立ったとしても、早晩忘れ去られるもの、と言われてきたが、根も葉もない噂なら、そうでなくては困るだろう。しかし、明らかな根拠を持つものをそう簡単に忘れてしまうというのも、ちと困る。情報過多の時代には次々に新しい噂が湧き出て、全部覚えておけないからと言い訳をするようじゃあ、ねえ。
昔、暗記のために必要なこととして、一夜漬けでなく、二度三度と覚えることと言われた。特に、ある感覚を持って繰り返すことが、記憶の強化に役立つと言われたが、噂話にも当てはまることだろう。始めは注目が集まり、盛り上がったとしても、そのうち話題に上らなくなり、ついには忘れ去られる。まさに、こんな感じの流れがあるわけだが、重大なものほど、これでは困るわけだ。ところが、幾つか人々の記憶の奥底に染みついて、消し去れないものがある。公害の原点となった水銀中毒、省庁との癒着の象徴となった血液汚染、健康食品の落とし穴になった毒物混入、等々と、並べ上げればきりがない。三つ目のものはアミノ酸を含む栄養補給剤に製造過程で毒性のある物質が残存したというもので、当時遺伝子組み換えの問題点を突いていた人々に格好の的とされていた。この事件自体が取り上げられることは少ないが、遺伝子組み換え反対論者にとっては、記念碑的なものであり、何かある度に話題にされ、忘れ去られることが無い。これと比べると、前者の二つは被害者の救済策を含めて、これまでに何度も取り上げられ、ある意味定期的に話題となることで記憶の強化が行われていると言える。血液の問題は、企業の合併再編により、事件当時の社名は既に存在していないにも拘わらず、その流れを汲んだ企業の社名が紹介される。旧社名を忘れたとしても、新たな名前が記憶に残るわけだ。水銀については、当時そのままの社名が残っているが、事業内容は全く違ったものとなり、関係する部門は縮小されてしまった。その関係から、再編に伴う分社化の提案もあるが、責任追及する人々からは厳しい声が浴びせかけられているようだ。記憶を抹消したい人々とそれを拒もうとする人々、せめぎ合いは何時までも続き、社会も忘れることはない。だが、その一方で、膨大な数の大事件が忘れ去られていることに気づく人は殆どいないようだ。
社会制度に対して不満を募らせる人が増えているようだ。確かに、不公平感を払拭させることは難しいし、個々の例を解決しようとすると、全体の均衡が保てなくなる。そんな中で、自分が苦しい立場に追い込まれれば、不満の捌け口を求め、社会に矛先を向けることとなる。ごく当たり前の話なのである。
では、全ての不満がその範疇に収まるかと言えば、飛んでもないと言うしかない。公平という感覚が、自己中心的な考えに基づくものとなれば、全体を対象としたものにならず、自分に有利になるもの以外は全て悪と見なすことになる。身勝手な論理が展開され、常識的な人々からは見放されるのだが、最近はそういう人々に手を差しのべる善人面をした人が目立ち始めた。何らかの利益を得るために対価を支払うことが条件となるのは、資本主義の基本の一つだろうが、支払いを逃れる人々の増加が社会問題となっている。特に、学校現場ではこの傾向が強く、給食費はその一例として話題となったが、ついに、授業料や入学金にまでその被害が及んでいる。貧困層にとって、学費は大きな負担となり、その救済を訴える声が大きくなっているようだが、高校以上の学校は自由意志で進学することが常識である。進学率が高まり、義務教育と同等と見なされるという主張をする人は、その的外れな論拠を恥じるべきだろう。見なすこととそのものの違いは大きく、こんな論理を展開すれば、社会秩序が守れないのは明白だからだ。また、現場の弱腰にも首を傾げざるを得ない。大学の多くは授業料を納めなかった人間を除籍とする。除籍は退学と違い、記録の抹消を意味するから、入学自体が無効となるわけだ。高校が地元の学生を対象とするから、このような措置をとりにくいのだろうが、原則はあくまでも原則である。補助金や奨学金の整備は別問題として考えるべきであり、それがないから納めなくてもいいなどという論理が登場するようでは、法治国家とは呼べなくなる。その中で、偽善者が颯爽と登場し、彼らを持ち上げるような状況は、自由主義ではなく狂った社会と呼ぶべきものだろう。
思い悩んでいる人に向かって、心配するな、と声をかける人もいる。確かに、過剰な心配性は神経を磨り減らし、不安定な精神状態に陥るきっかけとなる。それを回避する手立てを持つことは、生き抜くために重要なことの筈だが、その度に手を差しのべられたのでは、いつまで経っても自立できないだろう。
現代社会は、心配しすぎることが問題視されている一方で、過度の楽観主義が問題を引き起こす例が多く見られる。計画を練る段階で、様々な想定を行うことは重要と言われている。十分な検討をした上で計画を実行することが、間違いを未然に防ぐために必要不可欠であり、何処までどのように検討を行うかは判断の難しいところだ。しかし、最近話題になっていることについて考えてみると、不十分だったために問題が起きた例が余りにも多く、どうにかなるという見込みに基づくいい加減な想定や検討が目立つ。その典型とも言えるものが、政治の世界で展開されており、法律や制度を司る立場の人々の無能さが目立つ結果となっている。特に、新制度の導入が予想に反した経過を辿っていることは、検討段階の見込みの甘さを露呈し、批判が集中するところとなった。要するに、制度の改定によって受給者が利益を得るとの話が、全く根拠のないものであり、正反対の結果を産んだことが、現在の混乱を招いている。小さな組織の努力によって支えられていた制度を、効率化という名の下に大きな組織に移管することが改定の目標だったのだが、そこで起きる変化の見込みを誤ったという話だ。しかし、当時行われた想定は提案者にとって誠に都合のいいものであり、明らかな誤認があっただけでなく、おそらく恣意的操作が盛り込まれていたのではないか。そうならば、これは詐欺とも呼べることであり、誇大広告と同じ代物となる。公的機関に属するものが制度改定に携わり、それによって予期せぬ障害が生じたとしても、罰することはできないと言われる。しかし、これほど意図的に、好都合な解釈のみを展開した場合には、その範疇に収める必要はない。それにしても、身勝手な議論を看過した人々の責任も、今更反対することで免れられるわけでも無かろう。
将来のことが心配で、夜も寝られないという人が増えているのだろうか。まるでそうしなければいけないように伝えられる話だが、勿論そんなはずはない。何を証拠にと言われれば、夜寝ない人は昼間寝ているのだからと答える。書いてあることは本当かも知れないが、それを自分に当てはめて受け取る必要はないのだ。
それにしても、のんびりと暮らすことが難しくなったように思える。これだけ世間が騒いでいれば、そうならざるを得ないと思う人もいるだろうが、今でものんびりとしている人の多くは、そんな下らないことに耳を貸してはいないだろう。心配したり、慌てたり、心に波を立たせることは、大切なことのように思えるが、現実には心の不安定から体の変調を来す人が多い。のんびりするために一番重要なことは、余計な心配をしないことなのではないか。ある事柄について考え込んだとしても、睡眠時間を削ってまでとなると行き過ぎだろうし、そこまでする価値について考えておく方が重要かも知れない。能天気と言われようが、世間知らずと言われようが、自分の生活、人生を守るために必要なことはやっておいた方が良い。そして、余計なことに手を出さず、地道に歩んでいれば、国の存在が揺るがない限り、大したことは起きないに違いない。こんなことを書くと心配性の人は、そんなことをしていたらまともな生活ができなくなる、と反論するだろう。でも、体調を崩してまで考え悩み、それで収入の道を絶たれることに、どれ程の意味があるのか。更には、結果的にはそれこそがまともでない生活の一つなのではないか。様々なことを熟慮し、最良の道を選ぶことは重要であるが、そのために費やす時間が過剰となることには、殆ど意味がないと思う。それより、引き際が肝心、無駄な考え休むに似たり、そんな気持ちで過ごすことの意義をもう一度考え直すべきだろう。