パンチの独り言

(2008年5月5日〜5月11日)
(論外、無法、四散、付加、自利、虚実、自他)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



5月11日(日)−自他

 場の雰囲気を読む、慣れればさほど難しいことではないが、そこに至るまでは人それぞれに苦労があるようだ。始めのうちは、周囲も温かく見守ってくれるものの、何時までも埒があかないようでは、そのうち冷たい扱いが始まる。その雰囲気の変化も読めず、ただ被害を受けている感覚だけが残るのはどんなものか。
 雰囲気という言葉が空気に変わったからと言って、大きな違いはないと思う人もいるだろう。しかし、内容を聞いてみると、かなり大きな違いがあるように思える。雰囲気とは場に存在する人々全ての総和のような感覚があるが、空気と使うときには、そこに中心となる者がおり、それに従うかどうかが問題とされる。常識的な範囲での話となる雰囲気に比べて、空気にはその範疇から大きく外れることさえ許される。世間的常識と一部の常識の違いと言えばいいのかも知れないが、兎に角かなりの差異があるように感じられる。集団のぶつかり合いと見なせば、どちらが主導権をとるかが唯一の要素であるものに対し、中間も含めて合意が得られる線を設定することがより重要となるものと言うべきか。いずれにしても、常識などというものも一部の人々にしか通用しないものもあるはずで、ただそれに当てはまらないからといって、非常識の烙印を押すべきかは明確ではない。何とかの常識は世間の非常識、などと表現されることが最近多いところを見ると、やはり似たもの同士が集まって自分達の主義主張を押し通すことが増えているのかも知れない。集団を維持するために力を尽くし、そこからはみ出すことを恐れる人々には、どんな感覚と見通しがあるのか理解しがたいが、多方面からの考えを集約することができなくなった集団には、将来性がないように思う。まずは、自分達の立場だけでなく、様々な立場からの考えを集め、その中からより良い解を導き出す姿勢を持たないと、状況の改善は望めないだろう。一方で、今が一番であり、このまま変化しない方が良いと考える人が増えているのも、雰囲気や空気との関係があるのかも知れないが。

* * * * * * * *

5月10日(土)−虚実

 どの程度深刻なのかは分からないが、兎に角話題になっていることは確かだ。子供たちの世界でのインターネットによる悪影響のことである。親子関係から言えば、ごく普通に何の支障もなく解決できるように思えるが、最近の親子にはそんな親密な関係は望めないらしい。ネット批判の前に、それをと思うのだが。
 子供に悪い影響を及ぼすものを排除することに一部の人々は躍起になっている。しかし、海の向こうの荒んだ社会とは違い、まだまだその段階に達していないように思えるところで、この大騒ぎはどうかと思う。何処かで遭遇する可能性のあるものに対して、一番重要な事柄の一つに、出遭った時とその後の取組方がある。当然、子供自身の問題なのだが、親の関わりが必要不可欠となる。最近の話から察するに、この部分が問題となっており、何もかも子供任せにする物分かりのいい親の存在が、諸悪の根源なのではないかと思える。同じように理解を示す親たちの中でも、何の分別もなく全て丸投げとする大人には、責任感は微塵もなく、悪い結果が出た途端に、責任回避や押し付けに躍起となる。保護者という意味はこういう人々には通用するはずもなく、更には外からの働きかけを拒否する姿勢が強いことが、問題を大きくするようだ。ネット上での揉め事から、殺人や傷害に繋がることに驚く人がいるが、現実には、人間関係の構築を忘れたままに、人との関わりを結ぶことに大きな問題があり、その点から言えば、当然の結果とも思える。姿の見えない相手に、一方的な罵詈雑言を繰り返すのは、精神の幼児性を露呈するものだが、これは何も子供に限った話ではない。自らを律する心に隙ができれば、大の大人でも不平不満を露わにすることがあり、それが仮想空間を通した向こう側の人間に対する八つ当たりとなって表面化する。子供との大きな違いは、大人の人間関係では、ネットを通じたとしても多くの相手は現実社会のものであり、超えてはいけない一線がそこに厳然とあることである。子供のことを論じると同時に、大人の世界の問題も議論してはどうか。

* * * * * * * *

5月9日(金)−自利

 世のため、人のために動いている人の話を聞いて、感激する人がいる。尋常でない話が多く、自分にはできそうにもないから、というのが理由だろうか。逆に言えば、そんな殊勝な人が沢山いるはずもなく、世間的にはあり得ない話だからこそ、人の心を打つ物語ができるのだろう。となれば、真似する人もいない、となる。
 新聞やテレビで取り上げられるような大層な話でなくとも、近所や組織の中で滅私奉公かの如く、動き回る人は時々見かける。こういう類の人が世のためと思って動いているかと言えば、そうとも限らず、本人は他人のことを気にかけるよりも、自分中心の考えで動く場合も多い。これは、利己主義とは少し異なり、自分のためになることが組織のためになり、組織のためになれば自分にも良い結果をもたらす、といった感覚が近いのかも知れない。始めに取り上げたような殊勝さは、やはりかなり人間ができていないと実現不可能だが、こちらの方はまだ手が届きそうなのではないだろうか。人によっては、こんなことを臆面もなく話すと、偽善者を見るような目を向けるようだが、本質を見抜けぬ人に、わざわざ理解して貰う必要も無かろう。まずは、自分の周囲を整え、それが広がりを見せれば、組織全体に影響が及ぶこととなる。近所付き合いでの挨拶はその一つの例であり、始めは面食らった人々が、ごく自然に交わせるようになる。互いに挨拶を交わすことは、一つの繋がりを感じるきっかけとなり、近くに住む人間の付き合いが可能となる。企業などの組織についても、同じことが言えるわけで、他人の批判ばかりを口にする人間は、共感を得られないかも知れないが、人それぞれの役割を考え、分業を実現しようとする試みは、各人の才能の認識のようなものから、共同作業を円滑に行うためのきっかけを与える。自分の作業効率を上げようとすることが、他人を巻き込み、全体の効率を向上させることに繋がるわけで、本人がそこまで深慮遠謀する必要はない。まずは手軽なところから始めることの大切さが、最近はとんと取り上げられなくなり、困難極まることのように扱われるのは、何とも不思議な気がするものだ。

* * * * * * * *

5月8日(木)−付加

 何とも都合のいい理由と思うが、この世の中を生き抜くためには経済観念が必要ということで、小学校などで特別授業が開かれていると聞く。将来の客の確保という直接的な目的は表にせず、処世術の一つとして教え込むことに、違和感を覚える人は少ない。それ程、先立つものの大切さを痛感しているというのか。
 収入が少ない頃、金を貯め込むための唯一の方法は食べるものを減らすことだった。何か手に入れたいと思えば、肉類を減らし、パンのみみで暮らす人もいたほどだ。ホームレスのグルメなどという話題が出る時代には、想像できないだろうが、そんな時代や生き方があった。だからというわけでもないだろうが、そんな時代には食料と金は直接に結びついていた。更には、幾ら食い詰めると言っても、生きるための最低限は守り抜く意識はあったはずだ。ところが、金の亡者が世の中に溢れ、順位付けではなく絶対的存在として、金銭感覚のみで生きる時代になると、この辺りの均衡に配慮する気持ちはなくなる。その表れと言うと呆れられるかも知れないが、このところ話題になっている資源問題は、まさにこの感覚が欠けたために起きたものと言えるように思う。石油資源の枯渇はもう何十年も前から言われ続けているが、底が見えたことはない。にも拘わらず、毎度お馴染みのように不安を掻き立てる情報が流され、別の資源を模索する必要が訴えられる。発電に関わる部分は随分開発が進められたが、燃料に関する部分については余り進んでいないのが現状なのだろう。そんな中で不足分を補うための画期的な資源として、バイオ燃料なるものが登場した。しかし、ここに存在する落とし穴に気づいた人は少なく、暴走が露呈する段に及んで、やっと重い腰を上げ始めたようだ。本来、バイオ燃料は穀物の食料部分を除いた残りを原料とすることが検討されたが、手っ取り早い方法として澱粉醗酵によるアルコール産生が採用され、結果として食料を奪うこととなった。これも、付加価値という経済原則によるものであり、いかに馬鹿げたものかが理解されつつある。しかし、情けないことだが、金次第と思う心に、この窮状が響くとは思えない。

* * * * * * * *

5月7日(水)−四散

 ほんの一部の人に過ぎないし、取るに足らないことに違いない、と思いたいが、それにしても、流行っていると取り沙汰された途端に飛びつく習性はどうしたものか。どの位の割合の人々がこういう病に取り憑かれているのか調べた人はいないと思うが、ブランド志向という伝染病を防ぐ手立ては無さそうである。
 流行廃りと言われるように、流行すればその地位を保つために以前にも増して励まねばならない。羨望の対象は憧れの頂点に違いないが、頂はあくまでも先端であり、どちらを向いても下しかないからだ。上り詰めようと努力する人々を批判することはできないが、そういう人々が話題になった途端に擦り寄る人々は批判の対象となりうる。確かに、恵まれない人を巧く操り、恰も才能があるかの如く推奨し、話題を集めようと努力する人は、それなりの働きをしている。しかし、その段階では手を出さず、商品価値が高まったところで、便乗する人には高い評価は与えられない。一方、そういう輩に乗せられて、次々に出てくる話題の新人を追い掛けて渡り歩く人にも、軽蔑の眼差しが向けられるようだ。無名時代から支持することを潔しとし、新人発掘に精を出す人たちと違い、中身が理解できるわけでもなく、ただ話題性だけを追い掛けるのは、誰にでもできることだからだ。それにしても、昔からこういう人種がいたに違いないが、情報過多の社会では更なる増殖が起きているように見える。ブランド品でも同じような傾向が見られるが、ある意味社会経済を支える大きな柱となっている人々には、このところの経済停滞は全く別世界のものに見えるのではないだろうか。困っていると声高に叫ぶ人がいるそばで、ブランド品を買い漁る人々がいる。日々の燃料代に困る人々がいる一方で、高額の海外旅行に出かける人々がいる。こんな対照的な世の中に、どうやって一つの考えを当てはめられるのか、どうにも無理難題のような気がしてきた。勝手な人々が勝手な方に走る、それだけのことなのかも知れない。

* * * * * * * *

5月6日(火)−無法

 事故の恐ろしさを伝える映像が流れる。そんな中で、携帯の画面を見つめる人を見かける。自分には関係のないこと、と思う気持ちからだろう。確率から言えば、まず起こりえないことが展開しているわけで、降りかかる不幸を予期する人はいない。実感のないまま学べることは皆無であり、警告も無駄というわけだ。
 たとえ事故を経験したとしても、自分の責任を感じられず、責任転嫁に終始すれば、心は救われる。そんな感覚が当たり前となると、悲劇が起きるまで思いを馳せることはない。後部座席のベルト着用が義務づけられると報じられているが、これまで数々の規制が定められ、取り締まりがなされているはずなのに、ベルトがぶら下がったままの車を日常的に見かけるし、助手席で子供を抱える親もいる。自己責任と言えばその通りかも知れないが、規制がかかった以上、そういうわけにはいかない。慌てていたからとか、面倒だからとか、果ては子供用の座席を買う金がないからなどと、ここでもまた責任転嫁が大流行であり、永遠に絶えることはない。飽き性で野次馬根性丸出しの報道は、規制直後には五月蠅いくらいに伝えていたが、最近は規制も見かけなくなり、堂々と耳に付けている運転手を見かける。止められた途端に座席の下に投げ捨てたという人がいると聞くが、第一、そんな光景を見かけることがない。危険の有無が議論され、徹底的な規制が必要と説いた声も、最近は聞こえなくなった。それより危険運転の方が問題だとか、整備不良が多いとか、確かに問題山積なのは理解できなくもないが、どれもこれも法規制の対象である。極刑に処するなどということでもない限り、確率の話で済まされてしまうのだろうが、たとえ厳しい罰を与えても、同様の反応に終わるのではないだろうか。地獄に落ちてから気づくこと、とでも言うしかないわけで、それが一生の中で起きなければよしとするのでは、こんな規制が効力を発することは殆どないのかも知れない。

* * * * * * * *

5月5日(月)−論外

 金が全ての世の中になったとは思わない。しかし、そんな話が当然のような意見が次々に出てくることは確かだ。そう主張する人々の劣悪さは、その後の展開を見れば明白であるにも拘わらず、依然として居座っているところを見ると、余程使い出があると思える。誰が何のために、なのかはすぐには見えてこないが。
 金が絡めば、学問の世界では経済学が先頭に出てくる。しかし、これを学問と呼ぶかどうかは、議論の分かれるところではないか。世界一有名な賞が設けられているのだから、と言う人がいるが、どこか情けない理由に思える。いずれにしても、学者と呼ばれる人々の意見を眺めるにつけ、その時代の最先端を追い掛けようと躍起になっていることが窺われ、根幹の欠けた風見鶏的な行動が目立つことが気になる。流行を追うことがこれほど重要な分野も少なく、また、そういう人間を重用する傾向が強いのも、経済の特徴なのではないか。これは学問に籍を置く人間だけでなく、財界や金融に携わる人にもよく見られる傾向で、まずは解釈が第一、次に分析が来て、予測はなるべく控えるといったところだろうか。それでも予測に精を出す人々がいるわけで、中でも悲観的なものを好む人が多い。始末に負えないのは、予測の正誤が明らかになった頃には、それ自体を忘れる性向で、総括などはあり得ない。記憶に新しいところでは、今でも話題になっている年金に関するもので、夫婦での分割が可能となれば離婚が急増するという意見はどうなったのか。この話に触れることはあっても、誰が主張していたのかを論じることはなく、その責任を負わされた人もいない。評論家を信じる奴が悪いと言う人もいるが、それなら、そんな連中に金を払うのを止めるべきだ。金が全ての世の中と豪語する人間が、下らない愚論を展開し、金を掠め取る姿には、まるで地獄で責め立てられている人々の、生前の姿が重なり合いそうだ。金銭的な感覚での判断さえ誤るようでは、嘘つきの札を付けておいた方が良さそうに思える。

(since 2002/4/3)