学校を出て、やっとのことで職にありつく。そんな時代もあったが、今はずっと簡単になっているようだ。売り手と買い手のせめぎ合いは、世相を反映して勝敗を決する。学生達の実力とはまったく違ったところで決まるから、本人達にとっては傍迷惑な話だが、それが時代の流れというものだろう。
勉強に励み、知識を豊かにしたのに、それを活かす場が与えられない。そんな時代に生きた人々は、何とも情けなく思い、折角の努力も水の泡と思ったのではないか。しかし、時代は流れ、いつの間にか様子が変わってくる。これも運のうちだろうが、昔取った杵柄で知識そのものは活かせないものの、勉学意欲を活かす場面が登場することもあるだろう。なるほど、一生懸命打ち込む人々は新しい事柄も抵抗なく受け入れ、そこから更に先へ進もうとする。やっと自分の能力を遺憾なく発揮する場ができたと喜ぶわけで、ある意味で報われたということになるのだろう。その一方で、どんなにあがいても大した職に就けるわけでもなし、卒業証書を手に入れさえすれば十分という割り切りで学生時代を過ごした人の多くは、そのまま周囲の流れに任せて、それぞれの時代を生きる。無理に目立つこともなく、新たなことに取り組むこともない。確かにこういう生き方もあり、無難に終わることもあるが、変化の方向によっては、ある時点で職を失う結果となる。そうなってから悔やんでも始まらないが、憂き目に遭った人の多くは会社での功績にばかり気持ちが動く。現実には、それ以前に築き上げたものが大きく影響したにも拘わらず、そんな考え方をすること自体、どこかが大きくずれているということだろう。勉強とは、強いるという字を使っており、いやいやという感覚が残る。にも拘わらず、それに意欲を見せる人々は、それに楽しみを見出しているのではないだろうか。何が違うのかを明らかにすることは難しいが、一つだけ言えるのは、始めから何かが違っていたということだろう。
何かの拍子に、相手の優れたところを指摘すると、「私などはまだまだ」という謙遜の言葉が返ってくる。上を目指す意欲を示すものと受け取ることもできるが、その後の話の展開は全く違う方に向かうことが多い。自らの足りなさは、不徳の致すところだけでなく、他に原因があるということなのだ。
多くの場合、不満の矢が向かうところは、この国の教育制度となる。昔から、「読み書き算盤」と言われ、教育の重要性が認識されていた証として引き合いに出されるが、それでも不十分と考え、批判の矢を放つ。論点は、国民の多くがそんな心掛けを持っていたとしても、制度を決める役所が不甲斐なく、時には邪魔までするというわけだ。こんな意見を聞いていると、謙遜などというものは消し飛び、何と身勝手な輩かと眼前の人物を見る目が変わるのを感じる。確かに教育制度が及ぼす影響は大きいが、それが全てではないし、制度によって影響を受ける人の割合はほんの僅かに過ぎない。ただ、教育の重要性を主張する人々にとって、このことは主張を妨げるものであり、なるべく触れたくない事柄だから、議論の中では外に追い遣られることが多い。自らの不徳を自ら指摘するようなものだが、本人は気づくはずもない。兎に角、そんな中で教育論議が展開されるから、的外れな批判や提案が山のように出され、結果として無為な時間が過ぎる。国民の知識水準を測る指標は色々あり、その一つに文字を読み書きすることが挙げられるが、最近の計測はもう一段上の知識に注目しているようだ。本来、雑学的な知識の有無を問うことには余り意味が無く、様々な情報を手に入れ、吟味することの方が普段の生活にはより重要となる。そのために読み書きが大切となるわけだが、それ以前の段階として自己表現があることに目を向ける人は少ない。様々な媒体がそのための道具となるが、中でも言葉、話し言葉による表現が必要不可欠である。この段階を経て、文字へと移っていく過程で、表現力が養われるわけで、それを欠いた人間は殆ど役に立たない。教育の基礎という意味でのこの段階での関わりの大切さを、現代社会の構成員の多くは忘れているように思えるが、どうだろう。
「書き入れ時」「濡れ手に粟」などは商いが好調なときに使う言い回しだが、このところの経済の停滞を眺めていて、同じような感懐を抱くのは何故だろう。詐欺紛いの商品を掴まされ、巨額の損失を抱えてしまった金融機関が悲鳴を上げる中で、そこに現れる数字に疑問を持つ人はどれ位いるものなのだろうか。
金貸しが阿漕な商売を続けるのは、物々交換の時代が終わった頃から社会の常だったに違いない。しかし、裏の世界とか暗黒街という表現で括られた時代から、表舞台に大手を振って現れ、その商いに便乗する時代となると、事情は大きく変貌する。ほんの一握りの人々が握っていた権利に多くの人が飛びつき、過熱化した奪い合いは、基盤が崩れるとともに、土石流のように下流に襲いかかった。その結果、ババを掴まされた人々は大きな損失を抱え、経済のグローバル化によって拍車をかけられ、世界中に被害が拡大した。ここまでは、何度も聞かされた展開であり、経済の連携によって、他の商売にまで悪影響を及ぼしつつあることが明らかになっている。しかし、決算報告が各国から届く度に、そこに表示される数字が全く異なる事実を表していることに気づく人がいる。悪影響をなるべく減らしたいという意図からか、どこも最終損失を小さくする努力や場合によっては困難な中で黒字を報告するところがある。損失の先送りによる操作と受け取る向きもあるが、ここで問題にしたいのはそのことではない。件の被害によって出た損失と最終の収益の差額に驚いているだけのことなのだ。巨額な損失が出ることにより、収益が激減したという報告だけなら、気になることもないのだろうが、そこには数千億の損失と激減したとは言え、同じ桁の利益が報告されている。損失がなければ、両者を加算した利益が上がっていたわけで、それを産む商品を扱っているわけだ。金融商品では、何もないところに現金が出現するわけではないから、どこからかそれだけのものがやってくることになる。一体全体、そんな美味しい商売がどこにあるのか、これはまるで始めに書いた言い回しそのものではないか。阿漕さは相変わらずということか。
恵まれない人に愛の手を、年末になると何度も流れる言葉だが、反応は人それぞれだろう。最近の傾向で興味深いのは、手を差し延べられるのは自分だ、と思う人が増えたことではないか。悲観的な物語の主役を射止めたつもりの人々は、何かにつけて恵まれなさを引き合いに出す。何をそんなに悲観するのか。
社会が成熟し始めると、格差が広がり始めるという。安定した世の中では、立場の逆転が少なくなるだけでなく、富裕層と貧困層の差が広がるというわけだ。そんな中で、下にいる人々は不満を募らせ、上に立つ人間にとって脅威となる。そのために、とは言い過ぎかも知れないが、救済や援助に力を入れる成功者が増える。しかし、それによって格差が狭まることは決して無く、その維持に一役買うことの方が圧倒的に多い。この図式は欧米に見られるもので、そんな土壌に社会主義が出現したのは当たり前だろう。しかし、歪みの上に、歪んだ仕組みを築いても、自ら崩れるしかない。それに対して、極東の小国では明らかに違う社会制度が築かれ、全く違った感覚を持つ人々が生活を営んでいた。格差を当然と見なす人々からは未成熟の社会と蔑まれ、その意識を植え付けられた結果、歪んだ社会の模倣に走り、いつの間にか格差を産み、貧窮層の救済に力を入れる人々が現れるようになった。それでもまだまだ心の底から信じ切っていないとは思うが、このまま行けば立場を死守する人々が溢れる国に成り果てるのではないか。そんな過渡期にあって、やはり一番気になるのは、自らの不幸を主張する人々の台頭であり、それを殊更に際立たせる偽善者たちの活躍である。彼の地で何度も演じられた芝居を、辺境の地で再演することには、馬鹿馬鹿しさしか感じられないが、舞台に立つ人々は恰も自らの演技に酔いしれたが如くの振る舞いである。そろそろ、自らが築き上げてきた社会の良さを見極める時期に来ているように思う。
未来のことは誰にもわからない。だから、将来に向けての対策を練り、何らかの方策を立てるとき、予想という絶対確実とは言い切れないものに基づく議論を展開する。後から考えれば、明らかに間違ったことでも、その時には少しくらいの嘘が混じる程度のこととして、承知の上で主張することも必要となる。
嘘も方便と言い表される行為だが、元々は仏教用語で、真の教えに導くための仮の手段を指すとのこと、それがいつの間にか一般化されたのだろう。肝心なことは、上で書いたのは嘘という確信がないのに対して、嘘でもいいのだと言い切るところだろう。主張する人がその認識を持ちつつ、それでも必要不可欠という考えから、言及するわけで、正しい目的の達成に重要であれば、といった感覚がそこにある。しかし、一部を除き、目的達成が第一であり、その目的自体の正当性の吟味は不十分な場合が多い。このところ、様々な改革が行われているが、従来の仕組みに欠けている部分を補完するより、元の姿を残さぬほどの変貌を遂げる場合が多い。それだけ大きな変更では、波及効果を正確に予測することは難しく、様々な場合を想定し、その結果を吟味することが必要となる。しかし、現実には好都合な情報のみを選択し、薔薇色の展開を紹介することが多く、実施後の状況との乖離が甚だしくなる。政治の世界では、時間の流れとともに施政者の交替が頻繁に起き、改革一つを取り上げても、起案者と実施担当者が異なる場合が殆どである。その中で、提案の趣旨が通らなくなることが多く、議論の不足が指摘される。その紛糾した場面で、起案者たる人物が久しぶりに沈黙を破り、対応についての意見を出した話が伝わってきた。その余りの杜撰さに呆れた人がいると思うが、相変わらずの誤魔化しに溢れる言葉に、魅力を感じる人がいることに更に呆然とする。元々、嘘も方便が当たり前の世界においても、希代の詐欺師とも思える言動を繰り返した人も、ほとぼりが冷めたとの判断からか、嘘八百を繰り返す。分かり易いと言われる言葉には、何が含まれるかを見極める力を持たないと、また再びの愚を繰り返すことになるに違いない。
資産運用に興味のある人が、すべて、金の亡者というわけではないだろう。ここを読みに来る人はほんの少数に過ぎないが、彼らがどちらに属するのかは知る由もない。どちらにしても、このところの世の中の流れに対して、疑問を抱く人は少なくないのではないか。経済観念が全てという考え方は余りに異様だ。
誰しも自分が理解できる指標を持っていると思う。それを使って、直観的に理解しがたいものを、自分の指標に置き換え、理解を深めようとする。それぞれに独特のものがある中で、おそらく最も大きな割合を持つのが、金銭感覚を指標として持つ人であろう。物々交換の時代ならいざ知らず、今では余程の辺境の地でない限り、取引に金銭を用いる。そんな世の中で経済観念が最重要とされるのは無理もないと思えるが、しかし、現状は許容範囲を遙かに上回る段階にまで上り詰めているように見える。何でもかんでも金に置き換えて測られ、互いに比較される。下手をすると、他人に対する親切までそんなことをするから、まるで金貸しシャイロックの生まれ変わりかと思えてきてしまう。確かに誰にでも分かる変換なのだろうが、それは理解のためのものであって、制度のためのものではない。にも拘わらず、こういった姿勢に基づいた仕組みの制定が数多世の中に溢れているのは何故だろう。その典型と思しきものは、温室効果ガス云々に纏わる話ではないか。排出規制が世界規模で決定され、実現不可能とも思える目標が設定されたとき、まるで救いの神の声のような話が流れてきた。権利を売買することで、目標達成を容易にするというものだ。如何にもそれらしく装られた論理だが、実際には怪しげな匂いがぷんぷんしていた。というのも、そこに介在する人々や企業が取引仲介により利益を上げられることが明らかだったからだ。誰が何のためにという大義名分も、その実態に考えが及ぶと、何とも情けないほど薄ぼんやりとしたものになる。その後も、次々と荒技が登場し、雨後の筍のように利益追求を目指す企業が出てくるのを見ると、やはりという気持ちがより強くなる。何が悪い、という声も序でに聞こえてきそうだが。
自由と勝手の混同は時々取り上げられることだが、異分子が入り込むことによって、大きな迷惑を受けるのは周囲の人間である。理解されないから怒りという表現に頼ると解釈する人もいるが、それ程弱い人間ならば、大人しくしておいた方が身のためではないか。周囲も理解を示してはならないということだ。
大人になるはずの祝いの席で、羽目を外す人間が大きく取り上げられる。軽蔑の対象にしかならない姿が、画面の向こうに映った途端に素晴らしいものに見える精神は、既にかなり蝕まれているというしかないが、当人にはそれが自由であり、権利の現れと思えるのかも知れない。これほど馬鹿げた行為もないと思うが、冷静な判断を下せるほどの精神性がそこには存在していない。子供が大人に成長する段階で、当然身に付けていかねばならないものが、どこに忘れてしまったのか、欠落したままに大きな顔だけが闊歩する。何とも情けない姿に思える。ところが、こういう人種も不思議なほどに従順な行動を表す時があるという。確かに例外はあるだろうが、あるカルト宗教で使われていた方法らしく、今ではそんな使い方ではなく、団体行動を円滑に進めさせる手順として使われているようだ。要するに単純なことの繰り返しを行い、それによって注意を引きつけるわけで、教室で使われているように声を荒げて注意することはない。にも拘わらず、集団は予想以上に統率が取れた形となり、思い通りに指示を与えられることになる。成る程不思議な集団心理だが、一方的な手段より、自発性を含んだものの方が効果を産むということだろう。ただ、こういう手法で不安に思えるのは、この手のことで容易に操作されてしまう心理的な弱みと、その一方で、その手のことでしか動けない頑迷さの存在である。不安から来る怒りや頑固さは扱いにくいものだが、それが催眠術のようなやり方で簡単に誘導できるとしたら、その存在は脅威となる。一部の人間が常に煽動し、それに乗せられて理解不能なことを行うのでは、まるでテロ集団と変わらないのではないだろうか。そこまでのことを心配する必要はないのだとは思うのだけれども。