パンチの独り言

(2008年5月19日〜5月25日)
(判別、環流、信望、窓口、インフレ、戦備、無関心)



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5月25日(日)−無関心

 この国の人々は教育の意義を理解し、熱心に関わると言われている。しかし、それが事実ならば、義務教育制度の導入の必要はなく、それぞれの判断に任せておいてよかった筈だ。住居地による違いという分析もあるだろうが、国民全体の意識という意味ではそれを全ての理由とするのには無理があると思う。
 田舎から都会に移り住んできた人々にとって、教育の機会を子供たちに与え、資格を取らせることは重要であったに違いない。これは義務制度が導入される前の状況とは異なり、基礎教養を身に付ける為の「読み書き算盤」ではなく、自らの立場を有利にする為のものであり、親にとっては明確な目的がある。それでも、資金の問題や意識の違いなどから、始めのうち高等教育を受けられる人の数は限られていた。戦後の成長の時代を経て、高度な知識を身に付けることが必要要件と見なされるようになると、進学率が急上昇し始め、今や半数以上の人々が高等教育機関に進む。その一方で、教育現場の荒廃が深刻化し、子供たちの抱える問題が世間に知られるようになった。その中で、情報の共有はあらゆるところで重視され、それが恰も当然のように扱われる時代だが、果たして本当なのかと思うことがある。学校で毎日のように起こる事件が報道され、荒れる学校の実態に全ての人々が接している。取り上げられるから増えたと言うのは言い過ぎかと思うが、これだけ日常化すると、どこにでもあるような錯覚に陥る。現実にはほんの一部のことで、異常な例だけが目立つ仕組みによって起きる現象だが、そのことを説明する話が報道されることは少ない。問題教師についても、各所で発覚し、如何にも大きな問題であると取り沙汰されるが、同じような人間は昔から存在した。局所的な話題と共通の話題、余り違いがないように思えるかも知れないが、実際には大きな違いを産み出すのではないか。局所で、一部の人々が抱える問題は、その中で何らかの解決を図り、結果を出すことができるが、共通の問題は、誰もが他人の問題として、意見のみを出し、真の解決に導く動きは出てこない。結果として残るのは、批判の雨霰によって引き出された被害者意識のみなのである。

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5月24日(土)−戦備

 戦略と聞くと、身構える人が多いのではないか。何か飛んでもない落とし穴が仕掛けられ、そこに導かれるような印象を抱く人がいる。現実には、ごく真面目に取り組む場合にこそ、戦略的な視点が必要となり、それに基づいて想定を尽くすことで、的確な対処が可能となるわけで、それを誤解されては困るわけだ。
 将棋の展開で大逆転がある時、勝利を確信する人間の見落としを誘う戦術が施されたと言われる。現実には落とし穴を数多く仕掛けるのではなく、複雑な展開に誘い込み、手順の誤りに導くだけのことで、正攻法でなく、陰険な戦法と見るのは正しくない。元々、こちらの優位を保つ為に様々な手順を駆使するわけだから、そこに特別な区別があるわけではないが、心理的な不安定を誘う雰囲気に対して、こんな評判が立ってしまったのではないか。勝負事に限らず、何事においても自らの考えを通す為にはこのような手続きが必要であり、ただ闇雲に突っ走るだけでは良好な結果は望めない。熟慮の上で作戦を練ることが大切であり、種々の要素を列挙した上で、展開を想像することが必要となる。しかし、時間の使い方が自分の思い通りになる場合ならよいが、必ずしもそうなるわけではなく、どうにも切羽詰まった中での対応が迫られる場合も多い。そんな中で場当たり的な対応を繰り返せば、ついには正反対の展開を招くことになり、取り返しのつかないこととなる。日頃から戦略の基本形を練っておき、それを時と場合に応じて使い分けるようにすれば、こんな悲劇は容易に避けられるのだが、そんな準備を煩わしく思う人もいるだろう。要するに時間があれば何とでもなるが、兎に角時間が無くて困るという人が多いわけだ。練り上げる為の時間が足らないというのであれば、せめて断片的な形ででも記憶の抽斗の中に収めておく必要がある。じっくり考えずとも、その場での思いつきより幾らかましな形のものを揃えておくわけだ。これなら効率よく準備できるが、形が整っていない分、結局はその場での戦法はあやふやになるから、別の備えも考えた方が良い。

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5月23日(金)−インフレ

 何でも値上がりすると、生活は苦しくなる。誰でも想像できる流れだから、それを警戒する声が世界中を駆け巡る。その声の効き目かどうか、異常な成長を続ける国や政情不安な国を除けば、物価は比較的安定している。ただ、どんなに成長が減速しても、続けることが大前提であれば、同じ水準を保つことは不可能だ。
 通貨の供給量を指標とすれば、政府の制御が可能であり、警告への対処もできる。しかし、このところの物価上昇はそういう仕組みとは異なる、一部の人々による市場操作を背景とするものに見える。制御の重要性を認識する人たちには、こういう憶測は危険な成り行きを意味し、それを否定することが唯一無二の対応と見なされる。現実には、投機的な資金の動きが引き金となったことは否定できず、経済の原則である需要と供給の不均衡が原因とすることは的外れとなる可能性が大きいにも拘わらず、それを前面に出すことで、自らの力の影響下に市場をおこうとする意図が明らかだろう。ある操作に対して、別の操作を発動することで、全体の均衡を保とうとすることは、施政者の課題であることは確かだが、ここまで状況が悪化したところでの動きでは、遅すぎることは否めない。原材料の問題だけでなく、生産拠点間を繋ぐ輸送に直接的な影響を及ぼす資源の問題は、あらゆる物品の高騰を招き、物価上昇に拍車をかける。この段階に至ってからの見解では、何とも心許ない、力強さの欠片もない姿が露わとなる。今早速の対応として、価格操作を望む声も上がるだろうが、一時的な効果を狙う余り、全体の損失が膨らむ恐れがある。それよりも、末端部分での対応を仕掛けることが必要で、ここまで抑え続けていた労働賃金の上昇を促す手立てを考えるべきではないか。年金受給者には厳しい時代となるが、そちらに対する一時的な措置は別に定めるとして、今は社会全体を支える人々の苦しみを軽減させる手法の適用が不可欠となるだろう。

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5月22日(木)−窓口

 地域の役所に行くたびに腹を立てて帰ってくる、という経験はないだろうか。地域どころか、役所や公的機関を相手にして、立腹しないことなど無い、という人もいるだろう。機械的な作業は得意でも、幾らか違った要求をすると、その途端に身動きが取れなくなる。そんな人間を相手にして、苛々するからだろう。
 それにしても、何故、臨機応変な対応ができないのかと不思議に思う。確かに、慣れた作業を日々繰り返すだけだから、それが得意になるのは当然のことであるが、だからといって、それ以外のことには無力というのでは、かなわない。多くの市民が抱く不満はそんなものであり、ファーストフードの徹底したマニュアルのように、一つの対応のみに専念させ、それによって質を保とうとする考え方とは、似て非なるものが展開される。特に、相談窓口での杜撰な対応には、想定の甘さだけとは思えないほどのいい加減さが漂い、更には態度の傲慢さが重なると、火に油といった雰囲気となる。この話は組織の問題としてよく取り上げられる事柄だが、多くの場合にはそれよりも人それぞれの問題として考えた方が良いように思われる。特に、地元の役所で働く人間にとっては、日頃接する人々の多くは、近所付き合いの対象であり、その気持ちが表に出れば少しは違った対応が期待できるのではないかと思える。最近の傾向からすると、たとえ住んでいるところでも、そこに対する愛着を感じることができず、あくまでも冷徹な対応が表に出る人が増えている。そんな中で、親身になって相談に応じる職員がいれば、異端として扱われ、組織内では冷遇されることにもなりかねない。何とも情けない状況と見る人もいるが、さて、自分も含めて、そういう対応に気配りを怠らないようにしているだろうか。基本は普段、日頃の生活にあるわけで、それが確かであれば、何の心配もいらないはずである。がしかし、現実にはそうでない人の方が圧倒的に多いわけで、何処かに大きな矛盾があるのではないか。ちょっとした気の持ちようだという声もあるにはあるが。

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5月21日(水)−信望

 人の信頼とは何で決まるのだろう。基準は色々とあるのだろうけれども、多くの人から信頼を得る人は、様々なものに見合うという意味で、何か特別なものを持っているように思われる。ただ、当人に尋ねてみると、多くは何も特別なわけでなく、ごく普通に振る舞っているだけとの返答がある。どこが違うのだろうか。
 信頼を得るために努力するという人に出会うと、確かに様々な努力を尽くしている。しかし、それが功を奏しているかは確かではなく、却って不信感を抱かれる場合もあるようだ。信用されるためには欺かないことが重要だが、努力の中には相手に合わせる部分が含まれ、その際に首尾一貫性が崩れる場合がある。相手の気を惹くための努力だが、その気になる人なら兎も角、自分の変心は棚に上げて、迎合の危うさを指摘するわけだ。これらの人々は役に立つかどうかという点では大いに評価されるが、信頼という意味では疑いを持たれることとなる。時と場合、その場での最適解を差し出すことは、表面上は無難な受け答えとなるものの、そこまでの経緯を知る人々にとっては、重大な裏切り行為となる場合もあるからだ。他人の為として考え抜いた末の決断が、自らを窮地に追い込むことになるわけで、物事を進める上での絡む要素の複雑さを如実に表していると言える。表の顔しか見られない人々にとっては、正論を展開する人として信頼を寄せたくなる人物も、裏での成り行きが札の裏表のように、展開に応じてくるくると変わるようでは、全幅の信頼を得ることはできない。首尾一貫した態度をとりつつ、そこでの解を探り当てる姿勢こそ、表裏ともに知り得る人間から頼りにされるようになるのではないか。時には嘘も必要なのだと言う人がいるが、それをどちら向きに発するかが重要であり、誰の信頼を得たいのかが問題となる。ただ、本当に頼りになる人は、どちら向きとかには無関係に、判断を下すところが大きな違いなのかも知れない。

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5月20日(火)−環流

 人気商売の辛さは、上り調子の時にあるのではなく、上り詰めたときにある。もう上が無く、その地位を極めたときから、現状維持という不安に駆られる立場に追い遣られるからだ。上昇気流の時と同じように新たな試みを仕掛けるにしても、そこには上がる選択肢はなく、ただ下がるか保てるかしかないのだから。
 人気を測る指標として投票が行われるのは、何もコンテストに限られたことではない。政治に関わる世界では毎度お馴染みとなっている行事であり、そこでは主義主張に応じて得票の多寡が決まるわけだ。では、票の行方を握っている人々は常に冷静な判断を下しているかと言えば、現状はそれから程遠い状況にある。まさに人気商売の一つとなり、大衆受けのする行動や言動が自らの運命を決定づけるものとなるからだ。そんな環境では、如何にも理詰めな政策を展開する人より、勢いのみの熱情派の方が評価を高める。一時の感情に走った結果は、今の捻れ状態に表れており、馬鹿げた熱が冷めた後の虚無感に似ている。その悪影響がこれほど露わになっているにも拘わらず、いまだに人気取りに走る人々は、付け焼き刃の政策論議を繰り返し、次々と最悪のシナリオを仕上げていく。先送りの汚点を知りつつ、俄仕込みの対策の破綻を直視しない人々には、人気の二文字しか見えていないのかと思えてくる。インフレの恐れを警告する人々はいても、値上げの連鎖とそれが産み出す困窮の回避の手法を説く人は殆どいない。ただ漫然と警告を出すだけで、対策を講じなければ制御は不可能である。昇給を渋る経営者の愚論と同様に、人気取りに走る政治家たちの増税への拒絶反応は、不思議な論理の展開をも可能とさせるようだ。年金を支給される人々に消費税を課し、それを年金に回すという話は、彼らには非常に魅力的に映るらしい。全員で平等に負担するという主張の欺瞞に気づかぬ人々と、それに乗る人々、こんな茶番が成立するのなら、自分自身の貯金のみで暮らした方が余程安心なのかも知れない。

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5月19日(月)−判別

 風聞とか風評と言われると、よからぬ噂と受け取ることが多い。実際には良いも悪いも区別しないものの筈が、それによる被害が頻発するために、悪い噂、悪い評判を指す言葉となってしまったようだ。確かに、相手に強い印象を植え付けるために、悪材料は最も効果的であり、その結果の表れなのだろう。
 悪い噂ほど信じられやすいとする向きもあるが、それよりも重大なことは、話をする本人が考えたことより、誰かから伝え聞いたことの方が信頼度が高い、という事実である。何人かの口と耳を経てきた事柄は、ある程度の批判に曝されているから、間違いは少ないのに対し、目の前の本人が考えたことは、吟味が不十分であり、信用できないということだが、この話の信憑性は如何ほどだろう。興味本位で伝聞が繰り返された意見には、殆ど何の修正も加えられておらず、たとえ明らかな間違いが含まれていても、面白さや話題性が重視されることで、放置されることが多い。それに比べたら、そこにいる人々の間で熟慮の上で交わされる会話の中身の方が、互いの責任の下に遙かに高い信頼度を有するはずではないか。にも拘わらず、こんなことが繰り返し起きるのは、受け手が何の思慮も無しに、伝聞を優先させるためなのではないか。こんな状況下では、送り手は自らの判断を加えることなく、ただ闇雲に伝言ゲームに興じることとなる。そんな傾向に乗じて、情報操作に励む人々がいて、それに乗せられる人が出る。そんな事件が暴露される度に、風聞に乗せられたとか、風評被害とか、そんな話が出てくるが、元を辿れば、自らの判断基準の設定における誤りが主たる原因の一つであり、それを反省し、盲信せずに慎重に判断することを心掛ければ、多くの馬鹿げた噂話に乗らされずに済むに違いない。自己責任の重要性を説く人々も、どういうわけか自己判断を勧めることは少ない。責任を果たすためには、判断が必要なことは明白なのに、何故そうさせないのか、不思議な話ではないか。

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