独占的に権利を握ったり、手を結んで一定の利益を得ることは、法律で禁止されている。だが、改めてその理由を問われたら、返答に窮する人が多いのではないか。法律の制限があるから、と言うのでは答えにはならない。何故そう決められたかが答えの筈だが、すぐには思い当たらないのではないだろうか。
自由競争社会において、自由を奪う行為は厳しく罰せられる。制限の根本にあるのはこの考え方であろうが、まさか自由を追い求めることが逆に制限をかけることに繋がるとは、誰も思っていないようだ。自由競争は、より良いものを求める為に必要不可欠なものであると言われてきた。健全な競争であれば、互いに上を目指そうとするから、必然的に改良が加えられる。改良は質だけでなく、量にも及び、更には金銭的なものにも波及する。資本主義の根幹を成すものと思われる考え方には、一欠片の綻びもなく、より完全な姿へと発展しているように見えた。しかし、今の社会を見渡してみて、そう思う人は少ないだろう。数多くの歪みが表面化し、その内の幾つかは深刻化しつつある。それが露わになったとしても、根本原理を変更すれば大きな混乱を招くから、誰も手がつけられない、というのが実情なのではないか。競争の魅力を得々と語る人がいるが、そこにある落とし穴に気づかぬ限り、破滅が訪れるのを防ぐことはできないだろう。自由競争の原理は、同じ対象に関わるとしても、そこに様々な指標が存在することによっていた。それに対して、最近流行の競争原理では、ある指標が設けられ、その上での優劣が勝負の分かれ目となっている。これは、勝敗を裁く為には重要な要素であるが、真の自由競争の姿からは程遠いものとなっており、一つの観点からの判断は、競争の対象を画一化する方向に力を発揮する。その結果、本来ならば多種多様な特徴を持つ組織が、ごく少数の特徴しか持たないものとなり、独自の路線は次々と絶滅することとなる。このことに気づいて、周囲を見渡してみると、競争の弊害があらゆる所に及んでおり、影響の甚大さに驚かされる。まさか、誰かの陰謀ではないだろうが、破滅への道を進むことを止める為に、何かすべき時に来ている。
粉骨砕身、滅私奉公、どちらも死んでしまっただろうか。他人の為に、社会の為に、自分を犠牲にして尽くすという行動は評価の対象となる、ように思われている。その一方で、私利私欲に走り、他人を押し退けて自己主張を繰り返す人々がいて、一部から賞賛され、羨望の的となる人もいる。何という矛盾か。
人々の心の中に巣くう邪悪さを自ら抑えることが大人としての振る舞いと捉える向きもあるが、上に書いたことはそれが容易でないことを表す。しかし、別の見方をすれば、情けは人の為ならず、を思い出すことがある。極端なほど自分を犠牲にする行動をする人がいるが、逆に、人の為と称して、自分を目立たせる動きが際立つ人もいる。前者に対しては何も言うつもりが無いが、後者は偽善の塊であるとしか見えず、何とも情けない姿を世に曝していると、同情したくなる。結論から言えば、同情の対象でもなく、嫌悪感が伴うこともあるくらいだが、現代社会の抱える病はこの辺りにも現れているようだ。個別の例を挙げ、一つ一つを検証するのは、如何にも馬鹿らしい話であり、ここでそんなことをする気は毛頭無いが、その代わりに、始めに書いたことについて、別の見方を紹介しておくことにする。人の為と主張するのでなく、自分の為とするならば、全てのことがすんなりと片付く。組織の中でも、社会の中でも、直接、自分の利益にもならないように見えることに携わる時、ほんの一言、自分の為と、自らの心に向かって話しかけるだけで、気が楽になるのではないだろうか。他人の為とした時に、何の評価もされなかったら、辛い時間が続くことになる。そういう時に救いの言葉を投げかけてくれる人の存在が大きいという話が本に書かれていたりするが、そんなものを待ち焦がれるより、自分の中で解決の道を探る方が余程簡単で、手っ取り早いのである。これを偽善と呼ぶ人もいるが、善意を振りかざす偽物より、まともな本物と見るべきだろう。
三文の得ならまだしも、何の得にもならないことに、賛成するはずもない。何十年も前に、激論の末に試行され、害有って益無しと決めつけられた制度が、亡霊の如く蘇った。あの時代との違いは、社会的な影響を最優先させたことだろうか。しかし、何かを省減する一方で、何かが増えるのは迷惑千万である。
時間を有効に使う、という趣旨は認められなかった。一つには、そんなことを改めて言われなくとも、自分なりの工夫をする人がいたからだが、あの時代と違って、今はこの趣旨が通用するかも知れない。羮に懲りた人々は、様々な工夫を凝らして臨みたいのかも知れないが、同じ制度を実施している国々の現状は、昔と同じ趣旨でしかない。世界一の資源浪費国にそんな意図がある筈もなく、ただ労働を促すことと、終業後の浪費の機会を与える為のものでしかない。口先だけの論理では、早晩足下をとられることは確実で、特に成果が上がらねば、様々な無駄への追求が起こる。提案者たちはその責任を感じる筈もなく、例の如く、無責任を装うに決まっているから、うっかりその口車に乗らぬように注意して欲しい。これまでも、数多の政策を恰も希望の星のように推進してきた人々は、その後始末のことなどすっかり忘れ、恥知らずの顔を並べている。時間のずれは効率化の方策にはなりうるものの、変換前後の不安定は逆の影響を及ぼす。一日の時間はどんなことをしても変えられないのに、この一手で素晴らしい効果が産み出されるとする主張には、好都合な論理のみが採用され、一方的な捉え方が駆使されている。不快な時間はほんの数日に過ぎないと説明する人のうち、一体どれ程の人がその実際を経験したことがあるのか。社会の為にという言い回しは如何にもと思われるが、現実には時代錯誤のものであり、何の意味も成さないことに気づかぬ人々には、呆れるばかりなのだ。
情報の流入を拒絶すれば、疎外感に苛まれることになると書いた。しかし、その一方で、それに飢えて追い求める余り、蜘蛛の網に絡め取られるように身動きが取れなくなることもある。どちらか一方に偏れば、必ずしも良い結果が生まれず、様々な意味での不安定に陥ることとなる。現代社会の病巣の姿だろうか。
となれば、二つの極端の間で、ある程度揺れることはあっても、極端に振り切れることがないように注意しながら、過ごすことが重要となる。ここで気になるのは、昔との違いで、最も大きなものは情報源の広がりにあるのでは、ということだ。井戸端会議は、その場所となる井戸が消え失せた時代から、消滅したはずだが、近所の人々が道端で話し込む姿は、ついこの間までごく普通に見られた。井戸端会議が盛んだった頃、もう少し広い範囲での情報の流布は瓦版などの印刷物によっていただろう。しかし、それとても、精々都市の中での話で、国全体や世界に関心を持つ人はごく一部に限られていた。その頃の人々がそれに不満を抱いていたとは思えず、どちらかと言えば、情報の流入はあるものの、ごく一部の局地的なものに限られていただけのことなのだ。肝心なことは、自分の外の世界との隔絶を避ける為に必要な要素がある中で、それが過剰にならない状況にあったことで、当時で言えば、自然とそうなっていたのではないか。それに対して、現代社会はそのような制限は存在しない。手に入れようと思えば、何でも手に入る時代には、それを適度なところで留める為に自らの意志を発動させる必要があるわけだ。特に、相手の見えない状態で情報に接することは、想像力を掻き立てられる効果が強く、あらぬ方へ向かう可能性も小さくない。そんな中で、判断を欠いた行動は破滅に向かうこともあるだろう。人間は人間と接することによって成長すると言われるが、まさにそれとは正反対の状況が産み出されていることは、注意を要する事態なのである。ある程度まともな判断ができる精神を築き上げた上で、この状況に身を投じることが、現代における必要不可欠な条件なのかも知れない。
知らないことは分からない。ごく当然のことのように思えるが、新たなことを学ぶ段階ではおかしな話にしかならない。どんな世代においても、日々新しいことを学び取る姿勢が無くなれば、その人の成長はあり得ない。そこで停止した時間は、本人さえも自覚できず、次々と歪みを産み出し、精神を蝕む。
何とも大袈裟な話だが、人を自分の世界に閉じ込める圧力になる可能性もある。無知を恥じるかどうかは別にして、常に流れ込む情報を噛み砕いて、自分のものにする姿勢は人間が持つ好奇心の現れと思われる。もし、これが欠けているとしたら、人間の資質の重要な要素を欠落することとなり、精神を含めた不安定に陥る可能性が増す。現代社会の影の部分としてしばしば取り上げられる人々の多くは、今この時抱えている問題についての説明があるが、そこに至る道筋については不明な点が多いとされる。異常な人々の問題を彼らだけのものとして取り上げることは、案外的外れな解釈を導くだけで、確かな結論を導くことはできない。実際には、正常と見なされている人々も潜在的に抱えている問題をも含めて、全体的な分析を行う必要があるはずなのだ。そこで問題になるのは、最初に投げかけた言葉である。詰め込みを繰り返すことで何とか障害を乗り越えてきた人々が、本来の好奇心を失い、一部のものにしかそれを発揮できなくなった時、精神の歪みが始まる。外からの刺激を拒絶し続けることは、外の世界との隔絶を招き、まるでブラックホールに落ち込むように流れる。ここでの程度の強弱が結果の違いを決定づけているだけで、多くの人々は同じ傾向を持ち、自分がその原因を作っていることに気づかない。結局違いを広げているのは、好奇心の強さであり、従順で素直に見える人々ほど悪い結果に陥ることとなる。こう書くと、如何にも教育制度の問題のように受け取る人がいるだろうが、現実には親兄弟を含めた家族の影響が余程大きい。幼児期に、知ることの喜びだけでも伝えないといけないのだが。
禁煙の波が押し寄せた上に、値上げが続き、喫煙者の肩身は更に狭くなっている。それに追い打ちをかけるように、認証制度の導入が決まり、一部の地域では試行が始まったようだ。大方の予想通り、出足は低調であり、利用者の数は期待通りには増えない。趣旨を理解しないのではなく、何を今更という気持ちからか。
健康という呼び掛けは誰にとっても重要なものであり、それを望まない人はいない。その上に、医療保険問題が重大な局面を迎え、保険料の多寡だけでなく、医療の必要性を論点とする動きが起き、健康への取組が更なる注目を浴びることとなった。そんな中で、箱に警告が記されている商品が大きな顔をできるはずはなく、覚悟の上での嗜好ならばやむを得ないとしても、無知な若者の暴挙を未然に防ぐ取組が提案されたとしても、反対の声が上がるはずもない。いつの間にか実施に移された制度は購買者にとって面倒な手続きを必要とするものだが、社会的な意義から無視するわけにも行かない。しかし、これで本当に目的が果たせるのかは怪しいものだ。物分かりのいい年寄りがカードを貸す可能性は大いにあるし、子供に使いを頼む人も残る。期待通りの結果を産む為には、全員の協力がなければならない。同じことは、有害サイトへのアクセスについても言える。子供たちをそれに曝すことを防ぐ為の篩は不十分で、有用サイトへのアクセスも妨げるとの意見があるが、この際、全てのものを制限するくらいの手立てを講じないと意味を成さないだろう。子供の意見を聞いた上で、とまたぞろ物分かりのいい大人が登場するが、下らない輩と見なしてよいのではないか。親のふりをして子供がパソコンを使うことは簡単にできるし、携帯電話の使用でも同じことは起きる。更に言えば、篩の効果は一時的なものでしかなく、早晩擦り抜けるものが出てくるわけだ。要するに、不要とも思える道具を持たせることの是非を問うことなく、周辺整備によって対策を講じることには自ずと限界があり、イタチごっこが永遠に続くだけなのだ。これは、便利によって失われるものの大きさを再認識する良い機会なのである。
議論の場で、「君には関係ないだろう」と言われたら、返す言葉はない。関係ないことは確かだけれども、それでも関係する人々によかれと思って発言することはよくある。しかし、一部の人々にとって受け容れ難い意見を吐くと、時にこんな罵声が浴びせかけられる。最近、これと正反対のことが日常的に起きている。
関係のないことに首を突っ込む人々は、煙たがられる。特に、論争を解決に導こうとするのではなく、却って拗れる方に向かわせる一言は歓迎されるはずもない。目の前にそんな人が現れたら、何とか排除しようと努力する人が多いだろう。しかし、表に出てこず、裏で批判を繰り返す人がいるとしたら、それを排除することは不可能だ。今の世の中で深刻化していることに、この問題があるように思う。つまり、自分とは無関係な問題に対し、常に口を挟もうとし、非生産的な発言を繰り返す人々がいるわけだ。亀の甲よりも優れたものだからと、相談に訪れる人がいるのなら兎も角、当事者からの働きかけがないのに、非常識な見解を述べる。対面していない気楽さからか、口は軽く、冗談を交えて、深刻な問題への取組を説く。ほぼ毎日のように、何処かに現れている有識者連中もその一種だが、顔を曝さずに、暴言の投稿を繰り返す人々もこの範疇に当てはまるだろう。中には解決手段を探そうと真剣に悩む人がいるのだが、大多数の野次馬たちの陰に隠れてしまう。情報を共有することの大切さを訴える声が出ているように見えるが、それは媒介者の思惑によるものでもある。種々雑多な情報に曝され、それに一々関わる人が増えていることは、意義あることのように言われるが、実際には何の効果も上がっていない。ただ単に不平不満の捌け口が用意されているだけなのだ。これは、国民的な課題を論じることの是非を問うているのではなく、一部の人々にとっての深刻な問題が必ずしも共有財産とはならないことに気づくべきというのである。関わりないものに取り組む時間を、自分の問題の解決に向けるべきで、その身近さが実は重要な要素なのだ。