パンチの独り言

(2008年6月2日〜6月8日)
(回帰、落胆、誤送、拒否、決断、時宜、均衡)



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6月8日(日)−均衡

 燃料代が馬鹿にならないほどになっている。流通が全ての基本となる便利さを享受する社会では、全てに転嫁されるものだけに、安心していられない。直接的な影響も徐々に現れ始め、何となくわざとらしさばかりが目立つ人々から、深刻な悩みを抱える人までいる。物価高騰の恐れも出始め、対策を望む声が強い。
 国としては、大きな税源であるだけに、無視することもできないが、同時に、最近話題になっている環境との関わりが、問題を複雑化しているかも知れない。いずれにしても、対策を講じたとしても、現状の価格設定の仕組みが維持される限り、焼け石に水どころか、石を焼き続ける作用が止まらない。投機的要素の大きさを指摘する意見と、正反対な意見が入り乱れ、何が直接的な原因なのか、結論は出ていない。しかし、供給が漸増する中で、需要が急増したわけでもなく、何が不均衡のきっかけとなっているのか、全く見えてこない。ただ、このところの様々なものの先物相場の変動からは、従来とは全く違う、需要と供給の均衡を無視した力の介入が感じられることだけは確かだ。変動は先取りする限りは、被害を受けることはなく、自らの立場は維持できる。しかし、後手後手に回ると、様相は一変し、坂道を転げ落ちるような、劣勢に追い込まれる。一部の投資家が先手をとり、大部分の投資家と、社会全体が、後手に回れば、どんなことが起きるのか、想像するのは難しくない。現状がそのものであるとの確証はないが、何処かそんな雰囲気が漂っているように見える。このまま病状が進行すれば、治療の手立てもないままに、一部の社会だけでなく、世界全体に負の螺旋を降りることになる。自己中心的な考え方だけでなく、不均衡を生じる動きを進める人々は、自らの存在価値を高めることに力を集中する。その結果、自分が所属する社会が荒廃したとしても、大したことはないと考えているのではないか。実際には、もう少し、じっくりと考えることが必要で、多面的な捉え方を心掛けるべきだろう。

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6月7日(土)−時宜

 理性を失うことの恐ろしさからか、本能に操られることを恥と感じる人がいる。理性は人間にだけ存在するもの、という考えから、犬畜生同然に堕ちることを思い描いているのだろう。しかし、欲望の多くは生きるために必要なものであり、それを排除することは自らを殺すことになる。程度問題とすべきだろうか。
 一方で、自分を律することで一線を越えないように気をつけている人がいる。これを理性と呼べばそうなのかも知れないが、始めに書いたものとは少し違ったものに思える。欲に駆られた人々は、獲物を追い続ける余り、適度なところで止まることを知らない。どこまでも追及の手を伸ばし、結果的に、過激なことを始めるのが常である。ある線を越えた時、全体の利益から自らの満足へと相転移が起き、周囲との軋轢が高まる。初期段階であれば、忠告も耳に入るのだろうが、ある時点から、忠告は邪魔としか思えなくなる。そうなれば、聞く耳持たずの状態となり、我が道を行くこととなる。全体の利益を追い求めるうちに、いつの間にか対象が入れ替わり、自分の利益を優先することとなる。しかし、心の中では全く正反対の解釈がなされ、大義名分はそのまま維持されるから、頑なさは増すばかりとなる。何とも扱いにくい状況に陥るわけで、この段階で全体は対処を急がねばならない。でないと、手遅れになり、暴走列車を止めることは不可能になるだけでなく、脱線という惨事を招くことになる。走り始める時には、大きな力を要するわけで、その段階で活躍する人の多くは、一種の思いこみを抱きつつ、一心不乱に走ることを得意とする。それに対して、ある程度軌道に乗った状況からは、様々な調整が必要となり、脇目もふらずに進むことは、逆効果を産む。相転移が起きる段階で、担当者を交替させることの重要性はそこにある。本来ならば、相転移を起こさず、自らを律して、状況の変化に応じられる人材が求められるが、昔から希有なものと思われてきた。人員配置の観点からも、適材適所に加え、適時といった考え方が必要なのだろう。

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6月6日(金)−決断

 このところ、組織内で問題を起こす人々について話題にしてきた。原因は彼ら自身にあるのは明らかだが、組織として考えた時には、その登用から考え直す必要がある。その際に最も重要な役割を果たすのは、その権限を持つ人間、その多くは組織の長であることが多いが、であり、その責任の重さは大きいのである。
 地位が人を作ると言われることも多いが、役不足などと宣う人ほど、頑なさばかりが目立つようになり、役目を果たせなくなる。期待を裏切る行動が表面化した時、再配置を考えるかどうかは任命者の責任である。直接的に行動するのでなく、助言などの手を尽くすことも必要だが、それが限界に達した時、選択の余地は無くなる。問題を起こす人々の意識の中には、自らの正当性が大きな割合を占め、あらゆる助言は雑音にしか聞こえない。そんな中で、上からの命令の如くの助言の役割は非常に大きく、最後の頼みとなることが多い。しかし、自らの判断基準を否定されることは、普通の人間にとっては、自分自身の存在を否定されたことと同等であり、受け容れがたいものだから、変化が起きることは滅多にない。周囲の人間から見れば、ごく当たり前のことを理解できず、不可解な行動を繰り返す人々が、組織の中で疎外感を持つのは、こんな流れの中では当然の帰結だろう。これが原因で体の不調を訴える人がいる反面、意に介さず自分を貫く人がいて、その精神力に呆れる意見が出る。しかし、何らかの圧力を感じる人間であれば、それへの反発に強い力を必要とするが、始めから何も感じない人間には、そんなものは不要なのだ。実際には、そういう人間を抱えた組織の中で、様々な配慮を必要とする立場の人間に、その場の歪みはのしかかる。何故あの人が、と言われることの多くは、こんな所から起きるのではないだろうか。そういう副作用も含めて、組織の上に立つものの責任は大きい。時には、子飼いの人間を切る勇気ある決断が必要ともなるわけだ。自分の周囲を見渡した時に、その能力を備えた人間がいれば、その組織は健全性を保っていると言えるだろう。

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6月5日(木)−拒否

 議論の場で、最も警戒されることは何か。多くの人は議論の混乱を挙げるだろう。しかし、そこには両極端の展開があり、片方は必ずしも有害なものではない。本質を捉え、それまでの議論の流れを遮ってでも、新たな展開を目指す意見が出た場合、本来は歓迎すべきなのだ。だが、もう一方は、明らかに無駄なだけである。
 無駄なものの代表としてすぐに思い浮かぶのは、否定的な意見の羅列である。同じように流れを妨げるわけだが、そこには建設的なものは欠片もなく、どこへも進めなくすることが目的である。意図的にこういう妨害を繰り返す人に対して、何らかの措置が必要と思われるが、現実には難しい状況にある。自由に意見を交わす場となれば、たとえ否定的で、何の意義もないものでも、耳を傾ける必要があるからだ。時間の無駄と分かっていながら、それと付き合うのは全く馬鹿げたことだが、これを始めから排除したのでは、それもまたやり過ぎとなる。実際には、妨害を念頭に置いて議論に参加する人は扱いやすい。時間を割いた後で、殆ど全てを無視すれば良いだけだからだ。しかし、妨げという考えが微塵もなく、真面目に議論に参加する悲観派は、扱いに窮するものの一つである。本人は建設的で、意味のある議論と思っている上に、その主張を最後まで押し通そうとする場合が多く、無視することを許さぬ姿勢をとる。だからといって、一つ一つの否定論を否定することは、下らない無駄な作業である。となれば、どう処するか、難しいこととなる。こういう人は、自らの主張以外は否定することを常とし、兎に角負の方向に進もうとする。何かしらの方策を練っている時に、この動きは障害となるだけで、無意味なものとしかならない。この辺りの遣り取りは、無駄と解釈する向きが多いが、現実には時間の無駄を覚悟の上で、説得するのが最良の策だろう。始めからこんな人がいなけりゃ良いのに、と思ってはいけないのである。

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6月4日(水)−誤送

 他人の秘密を漏らすことは、重大な罪に値すると言われる。個人的に相談されたことを、噂話として流すのは以ての外だが、組織のことを外の人々に伝えることも同様の筈だ。だが、ここで矛盾が生じる。組織の悪事を暴くことは、正しいのか、間違っているのか、立ち位置の違いで結論が異なってくる。
 一時話題になった内部告発も、最近は下火になってきた。と言うよりも、余りに日常的になり、話題としての価値が下落したのだろう。匿名での訴えを取り上げ、組織に調査の手を入れることは、社会的正義からすれば当然のことだ。しかし、組織の秩序を守る見地からすると、そのような手法は必ずしも正しいわけでなく、別の方策を講じるべきという声もある。告発の対象となる犯罪が重大であればあるほど、組織が受ける傷は大きく、時には癒えることなく、姿を消す事態に陥る。社会的影響を考えると、その損失が甚大なものも多く、ただ単に正義を振りかざすことの意味は、理解しがたいものになる場合もある。内部の軋轢が高まり、その結果として、悲劇的な結末を迎えることになるわけだが、軋轢の当事者以外の人々の立場は大いに難しいものとなる。悪事や事件性が関わる場合だけでなく、この国の人々は秘密の保持に対して、かなり緩い考えしか持っていない。守秘義務の意味も分からず、垂れ流しのような行為に出る人も多く、特に、電子メールが絡む事故は頻繁に起きている。ボタン一つで多数の相手に送付できる仕組みは便利だが、余程注意しないとろくでもない結果を産む。返信によって、送り手のみに返事を送ったつもりが、違う相手に届くこともあるし、特定少数が、不特定と言えるほどの多数に送られる場合もある。また、組織内部の多数へ送りつけるつもりで、以前のメールを引っ張ってきて、送ったつもりが、外部の相手が混ざっていることも。不注意で片付けることはできず、秘密を漏洩した罪は重いが、こういう人間ほど、その重大さに気づくことはない。結局、そういう輩を仲間に引き入れない配慮が必要だというわけか。

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6月3日(火)−落胆

 ある連合会の長が交替する直前、経済新聞が大規模な調査を行っていた。企業の長として改革を進めた実績から、期待する声は大きく、前任者とは違った新機軸を打ち出すものと見られていた。それから時が流れ、今同じ調査をしたら、落胆の声が大部分を占めるのではないか。踏襲という表現がはまりすぎている。
 減速、停滞、下降などと表現された経済成長は、長い期間を経て、回復基調へと移っていった。その過程で、経営者の判断は大きな影響を及ぼしたが、彼らの判断に影響を与えていたのが、連合会の方針である。縮小を余儀なくされている時に、手を差し延べる役割は大きいものの、個別の回復が表に出てきた時に、全体主義を貫く姿勢は矛盾に満ちたものとなっていた。さらに、落ち込みを経験した人々は、悪夢の記憶を払拭できず、将来への展望も自ずと否定的な方に向いていた。その結果、経営に歪みが生じ、それに乗じるように投資家の利己的主張が注目されるようになると、いよいよ、難しい状況が生まれることになった。その最中に交替があったわけで、ここでの方針転換は将来を見据える能力を測るものと思われたが、多くの期待を裏切る形で、何の目新しさも出てこない状況となった。こうなれば、勢いのついた歪みの拡大は止まらず、多くの悪影響が表面化することとなる。それに拍車をかけるように、投機を発端とする原材料の高騰が始まり、無意味に据え置かれた価格が堰を切ったように上昇し始めた。インフレ懸念から、様々な制限をかけていた仕組み全体が、この勢いに押されて崩壊し始め、いよいよ厳しい時代が始まったと見る向きもあるが、現実にはまだ手遅れにはなっていないのである。昇給を始めとする従業員の待遇改善は、価格への転嫁を含めた全体的な調整により、経営者の個別の判断で可能であるし、政を司る人々は、意を決して、法人、個人に対する増税の実施を進める必要が考えられる。景気を冷やすとか、消費を抑制するという指摘が当てはまるかどうかは、結果までの全体を見渡してから決めるべきであり、一つ覚えのように繰り返す姿には無責任さしか見えてこない。

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6月2日(月)−回帰

 流行は繰り返す。服飾業界でよく言われることだが、それ程でもないとも言われる。確かに、ある程度の反復はあるものの、詳細に見ればある程度の変異が感じられるからだ。繰り返しだからと、前の流行の服を出して着てみると、何処か不自然に感じられる。基本理念は同じでも、その表現方法が変わるからだろう。
 これと同じようなことは、殆ど全てのことに当てはまる。新しい技術が開発されても、表現方法には大きな違いが見られず、見た目や消費者への訴え方については、何の変化も見られない。表現の為の媒体が変わっても、変化が起きていないということは、結局、受け手である人間たちの感性に訴える手法に制約があるからであろう。表現そのものについても、循環が見られるとの指摘があり、最近の映像文化はまだその蓄積の期間が短すぎるので、余り指摘されることはないが、文学や評論といった文字を媒体とする文化に、当てはめられることが多いようだ。特に、文体の大きな変更があった時期から見ても、既に百年以上経過しているから、その中で流行廃りがあったり、復刻がなされることから、何かしらの反復を感じる人もいるだろう。流石に、古い文体で書かれたものは、そのままで復活とは行かないが、これも現代訳という形で、その時期の人々に理解しやすい解釈が発表され、何度もの復活を遂げる。この循環の背景となるのは、まさに流行廃りであり、ある時に持て囃された作品が、いつの間にか忘れ去られる。その時には、誰かの評論が作品の代わりとして流通し、ある個人の解釈が作者の代弁者となることで、元々の味が失われる。これが契機となり、衰退の道を歩むわけだが、その熱が冷め切った頃に、次の世代が直接に作品に触れる機会を得て、通説とは異なる新味を発見し、作品の復権が図られるわけだ。不思議な輪廻であるが、此処彼処で見られることから、よくある話と言えるのではないだろうか。他人の評価を鵜呑みにする傾向は、最近の情報流通でも高まっており、その弊害を心配する向きもあるが、文学界の例を見ると、人間の本性の表れと見るべきであり、それを避ける方法はそう簡単に見つからないものかも知れない。

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