パンチの独り言

(2008年6月9日〜6月15日)
(奉仕、決意、更新、対人、峻拒、構文、分析)



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6月15日(日)−分析

 惨事、災害、震災、人が関わっているからこう呼ばれるのだが、関わり方はかなり違う。積極的に事件を起こす場合と、外からの力で起きた事故が結果として大きな被害をもたらす場合では、人間の関わり方が違うのだ。にも拘わらず、このところ画面の向こうでは同じような分析が流れている。どうしたものか。
 人間に関係するのだから同じ、と思う人もいるかも知れないが、原因を考えると全く違うことに気づくだろう。きっかけを含めて人間が起こした事件と、きっかけは自然の力としても、それが人為的な作用で大きな災害を産み出したものとでは、人間の力の及ぶ範囲が大きく異なる。また、後者の場合、手抜き工事や対応の不手際など、一般化できる要素が数多あるのに対し、前者は、個別の例として片付けることが余りにも多い。事が起きた当初は必ず分析や解析の重要性を説く意見が多く出てくるが、いつの間にかそんな雰囲気が吹き飛ぶ。特に、猟奇的事件ではその傾向が強く、ある時点を越えると途端に興味本位の問い掛けが増え、野次馬だらけとなる。事件直後でさえ、その話が現場では話題になっていたそうだが、情報収集の重要性を主張する人々の多くが、その意義を理解できる形で説明できないこと自体が、この作業の無意味さを語っているのではないか。天変地異によって引き起こされた災害については、それ自体を避けることはできないものの、被害を最小限にする努力は必要である。自然の力の大きさを実感したからと言って、私利私欲に走る人々や物事の軽重をはかれない人々の心に響くところまでは至らない。社会の制約によって厳しく処することのみが、彼らの暴挙を未然に防げるのだろうが、その力も狂気には打ち勝てぬものらしい。同じように、凶悪な事件を起こす狂気についても、社会が及ぼす力は小さなものでしか無い。大きな組織より、小さな集団による働きかけが、どちらの場合にも有効であることに、気づくべき時が来ているのではないか。

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6月14日(土)−構文

 読み書きよりも聞く話すが大切とされている。学校で習う英語の話だが、疑問の声が上がっているようだ。主体の変更は、役に立つものを、という意図に基づくものだそうだが、一部では達成されているものの、それによる弊害の深刻さを問題視する人もいる。中途半端もいけないが、極端もいけないということだろうか。
 言葉の習得は、母国語の場合、周囲で使われているものに直に接し、毎日新しいものを獲得することに始まる。この場合は、目から入る情報より、耳から入る情報の方が先だつのが常である。成長するに従って、聞いていただけのものが、話すようになり、自在に操れるようになるわけだが、読み書きについては、また別の機会が必要となる。言語習得の過程はこんなもので、かなりの時間を要する。しかし、母国語以外となると、普段から接する機会は殆どなく、授業などで習う時間だけが、習得に使えるものとなる。当然、日頃から自然に入ってくる筈もなく、努力をした時だけ接することができる。また、二つ目以降の言語を習得するのは、多くの場合、一つの言語体系を構築した後であるから、同じ過程を辿る必要は必ずしも無い。そんな背景から、以前は読み書き中心の学習を促していたが、習得の度合いが芳しくないこともあり、大転換が求められたようだ。その時に、頼りとされたのは母国語の習得手順なのではないだろうか。その後の展開からは、様々な問題点が浮かび上がり、展開の効果と逆効果が並べられるようになった。そこで明らかになったことの一つが、文法の理解不足の問題である。確かに、日常的な会話の習得は進んだものの、少し複雑な構文には殆ど触れず、ちょっとした文書でさえ理解できない人が増えたと言われる。本来ならば、四六時中接する筈が、僅かな時間になってしまった上、何年もかけて徐々に発達するところが、短い時間での集中を余儀なくされる。そのため、始めの部分での効果が大きい割に、その後は逆効果が目立つことになる。容易ならざる状況だが、そんなものに違いない。ここから見えてくるのは、母国語を含め、文法に関する知識を高めさせる手立てが、必要かも知れないということだろう。

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6月13日(金)−峻拒

 他人との関わりでは、事前に掴んだ情報の多少が影響を及ぼすと言われる。相手について知っておけば、発言や態度の意図を理解できるかも知れず、騙されたり、乗せられずに済むというわけだ。そこが始まりなのだろうが、何かにつけて情報を漁ろうとする人々がいる。しかし、鑑識眼無しでは、混乱するだけだ。
 国の間の遣り取りも、情報の有無が流れを決めると言われる。信頼できる筋からのものを如何に確実に手に入れるかが問題となるが、真偽を含め、裏をとることが難しいものだから、結果の良し悪しから判断するしかない。つまり、その時点での保証はなく、どんなに突き詰めても、外れる可能性は僅かながらも残ることとなる。結果だけを見て、分析することは比較的容易で、その辺りを書き綴ったものが巷に溢れているが、現場での判断は容易ではない。こういった書物から情報の重要性を感じ、自らもそれを実行する人がいるけれども、種々雑多な中から選別する手間を考えれば、無意味な徒労に終わることも多い。全てのものが情報であり、同じ情報でも多面性を持つから、その数は増すばかりである。その中で、確実なものを見出し、そこから何かを推測するとなれば、誰でもできるということではあるまい。しかし、社会の動向を見ると、まさにそれができると思いこんで没頭する人々と、そんなこととは無関係に、ただ闇雲に情報に接しようとする人々が殆どである。情報社会と見なされるようになってから、この傾向は更に高まり、戸惑う人が増えるばかりだ。にも拘わらず、垂れ流しにされる情報は増え続け、制限の可能性が議論されるほどになってきた。ただ、口に蓋をすることができないと言われるように、有効な手段が講じられる可能性はなく、結局は末端での判断に頼ることになるだろう。事件の起こる度に、挙って取り上げられる噂話も、その多くは無益なものに過ぎない。だとすれば、選別を心掛けるよりも、拒絶することの方が、有効なのではないだろうか。

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6月12日(木)−対人

 発展途上の社会は、個人による支援が全てであり、小さな集団の中で互いに助け合うなどのことが起きる。それに対して成熟した社会は、個人の寄与に頼ることなく、社会が全体として支え合うように見える。前者は確かにそうだが、後者はおそらく見かけだけであり、個々の関係が希薄になっただけではないか。
 自分たちが支え合う主体となる意識があれば、それが寄り集まってできる社会の支援体制は万全なものとなる。発展途上には様々な不満が募り、不足が深刻となっていても、互いの繋がりを意識することで、社会との連携は強くなる。ところが、これが徐々にピークに近づいてくると、格差ばかりが目立つようになり、個々の繋がりもその範囲を狭める方に向かう。これによって、似たもの同士が寄り集まり、格差を意識した集団が形成される。その結果、富める者と貧しい者の差はさらに広がったように感じられ、支援の必要性が高まることになる。その流れから社会全体の支援制度が整備されるが、見せかけのものである場合が多く、格差を解消できないばかりか、恰も維持する方向に働きかけることとなる。不満を抱く集団はあくまでも弱者であり、被害者を意識することが多くなり、それが基で爆発を余儀なくされると言われる。ある見方からすればその通りなのだろうが、果たしてそれが全てに当てはまるかと考えると、どうも論理のすり替えがあるような気がしてならない。収入の多少を基準として分類すれば同じ結果を導くことができるが、そこに至る道筋を分析することは少ない。彼らがまるで不幸の星の下に生まれたかの如く解説する人々は、おそらく結果のみを捉えているに過ぎない。そしてその原因を社会に求め、擁護者の役割を果たすことを狙う。現実には、そこに至る過程で逃避や怠惰などが深く関わることがあったにも拘わらず、それを看過することはどうかと思う。結局、こんな状況に追い込まれる人々の持つ特徴の一つは、周囲との関わりの希薄さであり、それも又社会構造に起因するものとされることにも、違和感を覚えるわけだ。個人の関わりの形成は、最も小さな集団から始まることを再認識すべきではないか。

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6月11日(水)−更新

 たまたま、検索か何かでヒットして、このページを訪れる人がいる。多くは、ここに直接入室するから、そんな事情と思える。その大部分は再び戻ることはなく、関係する内容だけを読んで去るのだろう。どんな感想を持ったのか知りたいところだが、接触する手立てはない。これがネット社会というものだろう。
 急に訪ねてくる時、多分その頃に書いた内容が検索と一致したのではないか。もしそうならば、そこにある話題はネット上を歩き回る人の頭に浮かぶものということになる。そんなことを考えながら、これまでのことを振り返ると、多くは経済や教育の話題を取り上げた時に起きているように思える。こちらもそれなりに先入観を持って臨んでいるから、記憶に残りやすい場合とそうでないことがある。そう思うと、こんな印象は必ずしも的確なものとは呼べないが、当たらずとも遠からずなのではないだろうか。検索する人々にとって、この独り言がどんな種類のホームページにあるのかは無関係である。中身との一致だけで決まることは、その場所とは無意味となるからだ。それはそれとして、今回も教育に関することに触れてみる。大学の学部によっては取得できる資格が卒業と教員免許しかないところもある。全員が取得する学部ではないが、そんな学部を出た者にとっては、重要な資格となり、それを活かせる職業を選択する人も多い。始めからその意欲があったわけでもなく、流れで進路を決めた人にとって、職場での成果が上がるかどうかは重要な要素となる。しかし、向き不向きもあり、進路変更を余儀なくされたり、悩み苦しむ人も多いだろう。そんな人を対象とはしないのだろうが、免許更新の導入が迫っているようだ。これも以前取り上げたと思うが、どんな制度を採り入れるのかは、現場の人間と更新に携わる人間にとって、気が気でない事柄だろう。少しずつ伝えられる話からすると、大混乱は免れず、場合によっては破綻に至るのではという危惧があるようだ。現場の状況を知らず、ただ机上の論理のみで制度を策定することは、他の制度においても、重大な問題を生じている。同じことがここでも起きつつあるようで、関係者は戦々恐々としているようだ。現場の工夫だけでは、何とも避けがたい過負荷をどうしようかと。

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6月10日(火)−決意

 役人や彼らと関係のある人々の暴挙が次々と明らかにされている。その度に議論の中心となるのは、国民から集められた税金の無駄遣いであり、そこから税金を納めることの無意味さを論じる人まで出てくる始末だ。勢いに乗った意見とは言え、ここまで言い出すようでは、彼らの想像力の欠如を疑うしかない。
 経済成長の勢いが衰え、後退するような状況になった時、国の運営は窮地に追い込まれた。それまでの十分に整備された状態を維持するためには、同額かそれ以上の税収を必要とするのに、それが見込めないこととなったからだ。そこからは強硬論が台頭し、構造改革という何を意味するのかさっぱり分からない提言の下に、様々な無理難題が実行に移された。如何にも効率化を目指すように見えて、その実、綻びだらけの改革案は、一夜のうちにその馬脚を現し、却って無駄を増やす結果となったものが目立つが、その後始末に更なる出費を要するとなると、余りの馬鹿らしさに呆れるばかりとなる。ところが、依然としてそういう考えに基づく議論が盛んで、無駄遣いばかりに目を向け、現実に必要となる物事に注目する人はいない。評論家たちの程度の低さを見るわけだが、その一方で、政治家たちの馬鹿げた論理にも呆れてしまう。確かに、無駄遣いはよくないことだが、改革後の状況からすれば、無駄な切り捨てを行ったものを回復するための新たな施策の必要性は非常に大きい。教育現場の荒廃ぶりはまさにその典型だが、そこに注ぎ込む資金のあては全くないようだ。そればかりか、現場の無駄に話を集中させ、活性化の兆しさえ見えないのには、何処かに世論誘導のようなものがあるように思えてならない。資金は税収に頼るしか無く、又、国の将来に重要なものへの注入は当然必要不可欠だが、増税は禁句となっている。一方で、それを言わないために、無駄遣いの話を殊更強調する風潮もある。このままでは、じり貧状態が続くだけで良いことはない。誰かが意を決して、訴えかける必要があるのではないか。無駄遣いの額を遙かに上回る資金が必要であり、そのためには消費税ではなく、別の増税が必要であると。

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6月9日(月)−奉仕

 自分の住む街をきれいにしようと掃除をする。奉仕活動の典型と思われるが、最近はそんな呼ばれ方はしない。好きでやっていることだから、と本人が語ったとしても、社会が受ける恩恵は大きい。一方、ボランティアと呼ばれる活動は、随分違ったものと思われている。社会への貢献が前面に出ているからだ。
 大震災の後に、その地域の人々に混じって、遠くから来た人が無給で労働奉仕をする。その姿に感動する人がいて、次の機会があると同じことをしようとする。何も特別なことが無くても、普段から行う活動と少し違った感覚があるが、困っている人がいるかどうかの違いかも知れない。どちらが偉いと決めつけることは無駄で、社会全体の利益は同じ軸に沿っていると思う。しかし、ボランティアと呼ばれるものにも、首を傾げたくなるものが多いのは残念なことだ。困っているには違いないが、それを個人の力に頼るのではなく、社会が支えねばならないことは沢山ある。にも拘わらず、何時までも制度の導入を見送り、個人の志に寄りかかるのは、社会全体の問題と捉えるべきだろう。特に、専門性を要する作業については、その杜撰な体制が際立っており、政策を含めた対策を講じる立場の人々の無関心に呆れてしまう。たとえば、外国人の子女が通う学校での日本語教育は、親の教育を含めて、本人達の生活を保障するために重要なものとなる。となれば、そのための仕組みが必要となるはずだが、実態は個人の力に頼るばかりだ。同じように、教育の場での外国語の教育の導入が間近に迫っているが、依然として体制は整備されていない。何でもかんでも、個人の力に頼る姿勢には、大局的な見地の欠如が顕著であり、流行に飛びつく貧しい精神の持ち主であることが明らかである。必要不可欠なものと解釈する一方で、その取組姿勢には積極的なものは見られない。掛け声ばかりの人が目立つ世の中だが、こんな所にも無責任が蔓延っている。

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