パンチの独り言

(2008年6月16日〜6月22日)
(金融緩和、創意工夫、理路整然、軌道修正、生殺与奪、紆余曲折、侃々諤々)



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6月22日(日)−侃々諤々

 皆の意見を採り入れて、という話は成長期にはよく聞かれたが、弾けてしまった後にはとんと聞かなくなった。行く末に不安が過ぎり、責任を回避する気持ちが高まるにつれ、意見を出すことは危険を伴うと思われたのだろう。いよいよ、上が引っ張る番と上意下達が実施されたが、肝心の頭になる人がいない。
 笑い話としか思えない話だが、成長期に漫然と組織に仕える人間になっていた人々には、組織を牽引する力はなく、突然現れた救世主に頼るしか無くなる。しかし、この類の人々は口先だけの議論ばかりで、実践力がないから、結局救いの神どころか、混乱の種を撒き散らすだけとなった。普通なら、一度の失敗で懲りるはずだが、組織も救世主もどちらもその気になったままで、同じことを二度三度と繰り返す。無駄な時間と呼ばれる間にはそんな遣り取りがあったようで、そろそろ落ち着く頃には、身近な人が適任者として登場したようだ。面白いのは、そういう擦った揉んだの挙げ句に、上意下達の難しさが再認識され、再び下意上達の雰囲気が出てきたことだろう。組織内からのし上がった人にとっては、単純に命令を下すよりも、様々な意見を集約させて、巧みに組織を操る方が容易であり、多くの場合より良い選択が可能となる。無礼講よろしく、上に立つ人間に文句を並べる人は少ないだろうが、それでも自分の意見が採用されるとなれば、積極性が出てくるものだろう。ただ、このやり方は操縦術に長けた人の存在が不可欠であり、一つ間違えれば、船頭ばかりの集団となってしまう。議論の場も喧々囂々の呈を示すだけで、無軌道で要領を得ない意見ばかりが目立ち、収束の兆しが見えなくなる。たとえ、下からの意見を集めるとしても、思慮に欠けたものだけでは役に立たず、先を照らすものが待たれるわけだ。特に、大改革で必要とされるのは、現体制に遠慮せず、全体として方向性の定まったものであり、それが出てくるためには、上下の区別を排することが必要となる。ただ、あくまでも議論の場でのことであり、普段からそうなると、けじめのつかないものになってしまう。

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6月21日(土)−紆余曲折

 当事者にしか分からない、と言われるものは多いが、中でも精神的な衝撃による後遺症は、その最たるものではないか。同じ被害を受けても、人によって傷の残り方が違い、それが原因で起きる不安症に程度の違いを生じる。尚更、経験しない者には、その感覚を思い描くこともできず、理解不能となるわけだ。
 心の病は、様々な現れ方をし、各人それぞれに違った症状を示すから、対応の仕方も複雑となる。それらを列挙し、分析が進められているようだが、現実には答えを出すことは難しい。そんな中で、大きな衝撃の後に起こる不安症に関して、関係する仕組みの一部が解き明かされたという情報が流れた。その真偽のほどは分からないが、この成果によって勢いを増す人々が出るような気がする。何故なら、そこに仕組みがあることは、その症状の確かさを裏付けるものであり、疑いを排除することが容易になるからだ。おそらく、最後まで解明されないのでは、と思われている人間の心に関する事柄は、他人に理解できる形での説明が困難で、その様相を正しく伝える手段は無いに等しい。そんな状況に追い込まれる中で、今回の情報はある意味朗報と受け取られるに違いない。ところが、事はそう簡単に運ばれないものではないだろうか。これまでの数々の例からしても、こんな形で特定できる話が出た後に、個別の例外が続出し、それによって当初鮮明だった像がぼやけてくる。有用な情報は歓迎されるが、種々雑多なものは邪魔扱いされる。都合の良いものだけを拾い出し、それを列挙することで自らの主張を強化する手法はごく当たり前に使われるが、始めから不鮮明な対象であるだけに、思い通りに行かないことが多い。説明を聞いても理解しにくいことだけに、まだまだ道は長いと言えるのではないか。光明が見えたとする向きもあるのだろうが、現場の研究者にはそんな思いがあったとしても、患者と見なされる人々やその周囲にとっては、一筋の光となるまでにまだ振り回されるのだろう。

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6月20日(金)−生殺与奪

 人権を重視する声が強くなるにつれて、あらゆることに権利を追求する動きが急となった。金銭取引において、ある権利を手に入れるために対価を支払った場合、余程のことがない限りそれは保障される。しかし、そういう遣り取りがない場合には、保障されるか否かは定かとはならない。時と場合によるとされる。
 時代の流れだろうか。そんな雰囲気ががらりと変わり、何にでも権利が主張できると思う人が世の中に溢れ、大きな顔をするようになった。特に驚かされるのは、弱者の権利を大きな声で訴えるのが、弱者救済に奔走する人から、弱者自身に変わったことで、人権の問題と同様に、当事者が直接に関わることの危うさが垣間見える。様々なものを金銭価値として捉える風潮も、こういった流れに拍車をかけるわけで、次々に新しい権利が登場し、色々なところで雁字搦めになった人を見かけることとなる。下り坂では、一度走り出した車を止めることは難しい。まさにそんな様相を示す社会現象は、次々に飛び火し、新たな犠牲者を産み出す。加害者になった人々は逆の立場にならないように注意し、攻撃こそ最大の防禦と新手を考え出す。一度守りに回った人間には、逆の立場につく機会は与えられず、その場での対策に追われることになるだけだ。そんな中で、口先だけの呼び掛けが重視され、それを求め、追従する人が増えた。暫くして、その勢いが緩んだ時に見えてきたのは、中身のない大層な器の残骸であり、ある人々はその後始末に追われることになる。権利主張の台頭がそんな展開に繋がると予想した人はいないだろうが、不慣れな訴えに力を入れる人も、それに対抗する人も、どちらも無駄な時間と力を費やしたに違いない。中には、そんな価値判断にそぐわないものもあり、どうにもならない混乱だけが残ってしまったが、さてこれからどんな展望を抱けばいいのだろう。不安を煽ることが最善の策とされた権利主張の原理は、不安を解消する選択を許さない。根本の所から見直すしかないが、さて、妙案が浮かぶものか。

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6月19日(木)−軌道修正

 世の中には聞き上手と言われる人がいる。黙って聞いていればいいのかと誤解をした人が真似してみると、思ったようにいかず首を傾げる。改めて様子を見てみると、何処かが大きく違っている。一方的に喋らせているのではなく、相槌を打っているようだ。その折と内容に何か秘訣があるらしく見える。
 人の話を大人しく聴く、と何度も言われた人間にとって、相槌は高度な技に思える。兎に角、じっと我慢して話を聴かねばならないのに、それだけでなく、相手の話の内容に沿った問い掛けをするのである。子供の頃にはそんな芸当はとても無理だったのに、ある年齢を超えると、その無理難題をこなせと促される。できることならやってはみるが、できない相談はされても困る、といった感覚なのではないだろうか。この時期に、皆総じて戸惑うことが多い。周囲からはそういう役割を押し付けられ、自分なりの対処を試みるが、話し相手は不快な顔をする。こんな遣り取りが何度か繰り返されると、誰でも嫌になってしまうものだ。しかし、肝心なことを見過ごしていることに気づかない。遣り取りとは、一方的なものではなく、双方向に働きかけるものであり、話題の主導権は話し手にあるように見えて、実際には双方が同等に握っているのである。話し手はどんな場面でも聴衆に合わせようと努力するものの、自分が話題の中心である以上、軌道修正は容易でない。それに対して、聞き手は聴衆の代表であり、何をどのように聞きたいかを考えることができる。それを上手く探し出し、話し手を誘導することによって、聴衆にとってより魅力的な話に仕上げることができるわけだ。当然、話の中身が無くてはいけないから、話し手の責任は重大である。しかし、それに任せてしまうと、数多ある話題の内から何を選択するかがいい加減になる。そこに一本筋を通すことによって、全体の構成が築き上げられ、引き込まれるほどの話が展開される。遣り取りはこんなことから重要なのだが、どうもそれに気づかぬ人が多いのは何故か。黒子に徹する聞き手に、此処でも上手く騙されているのかも知れない。

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6月18日(水)−理路整然

 思いつきの文章を書きながら、こんなことを言うのは少しおかしな気がするが、どうにも通じない話を読まされるのは困ると思う。そんな思いに駆られるのは、此処彼処で見かける文に通るはずの筋がないからであろう。一本筋が通っていれば、大した苦もなく読み進めるのに、あちこち飛び回るものは、どうにも食えない。
 元々、文章や話は自分の考えることを相手に伝えるための媒体である。それが互いに通じ合うためには、共通の思考回路を持つ必要がある。同じ環境で育ったものであれば、ある程度の共通部分を持ち合わせる筈だが、年代の違いで代表されるような、違いが生まれる可能性は大きい。しかし、たとえその可能性を認めたとしても、何処かに共有するものがあり、それを緒にして展開を図ることは難しくないように思える。現実には、恰も何の重なりもない人々が、互いに通じない話をすることが多く、大きなずれを感じさせられる。特に、気になるのは時の流れを共有するはずの同世代の人の間でも、こんな現象が見られることであり、そこには何か大切なものの欠如があるように見える。自らの思考を自分なりに思い起こしてみると、それなりの順序を持って事柄が登場する。そうであれば、相手も無理なく追従することができる筈だが、そうならない人がいるのは、多分順序が乱れているからではないか。彼方此方飛び回るのも困ったものだが、人によっては、自分の中でしか通用しない順序を使う人がいる。論理の共通性が失われた時、理解の機会は消滅し、対話は成立しなくなる。文章を読む場合には、この状況は更に際立ち、一方的な理解を促す必要があるから、その中での順序、つまり論理は必要不可欠となる。そうでなければ、あらぬ誤解を受け、論争の種を蒔くことになり、相互理解の目途が立たなくなる。肝心なことは、論理の構築が不十分であることであり、独り善がりな意見が罷り通るのも、そんな背景があるのではないか。では、論理を身に付けるためには何をすればよいのか。簡単ではないが、試行錯誤が手法の一つで、意見交換の機会に確かめつつ、軌道修正を繰り返すことが大切である。常に、一方的ではいけないわけだ。

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6月17日(火)−創意工夫

 構造欠陥、構造改革、構造という言葉は、余り良い印象を持たれていないようだ。堅牢なものと言えば聞こえがいいものの、一方で柔軟性を欠いたものと言われ、変動の時代にはその頑丈さが臨機応変な対応を妨げ、あらゆる面で壁として立ちはだかることとなる。本来ならば運用の工夫で対処できたはずだったのだが。
 元々、組織や規則はその時代に適したものを定め、最適な環境を整えようとするものである。だから、時代の変遷によって、周囲の環境が大きく変われば、ある程度の変更もやむを得ないものとなる。しかし、どの方向に、どのように変えればいいのかについて、答えが用意されているわけではない。つまり、どちらにしても良い方に向かうかの保証のないまま、進んでいくしかない状況にあるわけだ。その場に居る人間にとっては、こんな状況であるにも拘わらず、この変化を推し進めることを周囲に訴えかける人々は、恰も明るい未来があるかの如く振る舞い、先頭で引っ張り、後ろから押し続けようとする。改革が成った暁には、全ての難問が解決する筈が、多くは別の問題が山のように押しかけることとなる。堅い構造を組み換えることで、別の堅いものを作り出すだけで、根本的な解決には至らないのである。制度とか規則は、何かを限定するものであり、そこに堅さが出ることは避けられない。それを、まるで魔法のように何でもできると騙すから、話がおかしくなるわけだ。更には、定めた範囲では十分な整備ができないのに、好印象を与えるために都合のいい話をでっち上げる。最も重要なのは、制度そのものでなく、その動かし方であるのに、不完全な想定に基づき、見切り発車をするから、何事も上手く運ばない。これは、単純に国の政策にのみあてはまるのではなく、地方の小さな組織や企業などでも同じようなことが起きている。組織、制度、規則は堅いものであり、それを柔らかくするのは動かす人間の工夫だということに、気づかない限り、無駄なあがきが繰り返されるだけなのではないか。

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6月16日(月)−金融緩和

 投機とは、短期間の変動の差益だけを狙って行う取引のことだそうだが、最近、その様相が一変していると見る向きもある。依然として旧来の見方を堅持し、全く違った分析をする政府関係者もいるようだが、商品の需給均衡との関連が薄いこともあり、どうにも不可思議な変動にはこんな臭いもするようだ。
 一時の変動を誘導し、それにより更なる儲けを狙う人々も多く、異なる市場の間での連動性を巧みに利用しているようだ。対象や地域の異なる市場が互いに繋がりを形成し、安定した状況を形成するはずが、実際には全く逆の効果が現れている。この原因の一つとして考えられるのは金余り現象で、投資の対象を探して世界中を駆け巡っている。当然、利益を追い求める人々の手にあるものは、その対象を絞り込み、大量の資金を投入することで、自在に価格を操作できるほどになっている。本来ならば、商品の価格は需給の均衡によって左右される筈だが、こんな投機行動が蔓延り始めてからは、実勢とは全く異なる状況が産み出された。その一方で、市場の信頼性を維持しようと躍起になる人々は、現実をそのまま伝えることの危険性を考慮し、別の形の分析を発表するように心掛け、却って傷口を大きくしているようにも見える。短期間という言葉に拘り、それが連続する如くの現象を、全く異なる原因によるものと見なす。それにより、確かに信頼性の維持は可能となったのかも知れないが、反面、現実離れした価格変動を放置することとなる。このまま行けば、一部の人々の利益追求が、残りの大部分の人々の損失誘発を招き、市場の混乱は度を増すばかりとなり、その信頼性の失墜が起きることも十分に予想される。元々、行き場を失った現金が、資産運用の海の中で破壊的な津波となり、運用とは無縁な人々にまで被害を及ぼすこととなった。自由市場の原則を貫こうとする人々が意図的に招いた金余りが、現実には自由を縛る結果となることを予想した人はおらず、このまま行けば自ら息の根を止め、世界的な混乱を招いてしまうだろう。

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