パンチの独り言

(2008年6月23日〜6月29日)
(三分の理、一知半解、危機回避、酔生夢死、誤字脱字、驚天動地、頑迷固陋)



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6月29日(日)−頑迷固陋

 夢を持たない若者を憂う声がある。その一方で、一度定めた目標を目指し、まっしぐらに突き進む若者がいることに、心配する声も上がり始めた。この目標が彼らの夢かどうかは分からないが、幻に終わらせたくないとする気持ちが、頑なな態度となり、実現不可能なものへの果てしない道筋が続くこととなる。
 夢との違いは、それが意外に身近にあるように見えることかも知れないが、それにしても、方針転換は有り得ず、如何なる修正も施されない。何故これほど強い意志が働くのか理解に苦しむところだが、少し眺めているとその様子が見えてくる。一度始めたことを止めるのは、失敗と見なされ、敗北を宣言するものと考えているようだ。そのため、勇気ある撤退は選択肢として存在せず、方針転換は負のものとしてしか映らない。あらゆる変更が忌み嫌われ、無知な時代から続く設定を堅持することが最重要課題となる。実は、この辺りの状況は夢を持たない若者たちと重なりが大きく、実現不能と思われる夢を抱けず、大いなる目標の設定を回避する心理と、似通ったものではないかと思われる。これを現実主義と呼ぶ人もいるが、実際には、現実を垣間見ることもできず、自らの殻に籠もる人々によく見られる行動様式であり、あらゆる変化を回避することに専念することとなる。本来は目標に向かって邁進するはずが、外からかかる力に対抗することだけに集中するから、目標も徐々に不明瞭なものとなり、そこへの道筋も消えかかる。そんな転換期は誰もが経験するものだが、状況判断の欠如が別の見方を排除し、適切な選択の機会を失わせる。その後の展開は、今更書くまでもないことだが、敗北の歴史となるだけのことだ。敗北を避ける為の決断が、より大きな敗北を招くことは、経験によってのみ理解できるが、その回路も欠落しているらしい。何とも情けない話だが、外との関わりの希薄さがそれを招いていたとしたら、まずはその点の重要性を再認識する必要があるだろう。闇雲に突き進むことは勇気のある行為とは限らない。

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6月28日(土)−驚天動地

 天変地異、大災害をもたらすことが多く、人々の不安を掻き立てる。特に地震は、突然降って湧くだけでなく、その後も揺れ動くことが多いから、不安定な心は落ち着く暇を与えられず、度を増すばかりとなることもある。ただ、人それぞれに反応が違い、そこでも心の構造の複雑さに感心させられる。
 自然災害によって人の無力さを再認識させられるが、人が引き起こす事件でも、自らの無力を実感する人が出る。なぜ止められなかったのか、と悩む人を見る度に、彼らを批判するだけでは、何の解決も得られないことを感じさせられる。この手の展開が進む時、不思議に人々は事件を起こした本人への批判の手を止める。それは、一種冷静になる機会を得る為に必要な手順に見えるが、実際には、その段階で矢を違う方向に向けるだけで、冷静になることが少ないだけに、殆ど意味がないものと思われる。周囲の人間にとって、青天の霹靂のような事件であり、全く予想だにしなかった事柄だけに、彼らの抑止力に期待することは、少々過ぎることのように思える。ただ、彼ら自身も、事件後に冷静に分析すれば、そんな素振りが垣間見えたと思うところもあり、そんなところから反省の弁に繋がる人もいる。しかし、その場での判断から行動に移れなかったとしたら、後の分析にどれ程の意味があるのか、怪しいものではないだろうか。事件の背景を分析する必要性については、様々な考え方があり、本来は個別の例の分析が、何らかの抑止策へと繋がることは少ない。特に、心の問題が関わった事件ほど、その傾向が強いように思える。家族がお互いに芝居をするという物語は何度も上演されているが、それと同じように、心に問題を抱えた人々が、周囲の人間を相手に演技を繰り返すことはあり得る。そんな中で、裏読みをして働きかけることをするのは、後から考えれば、あり得るように見えるかも知れないが、現実には難しいだろう。演技を続けてきた人が、自分の心の堰を切って、一気に爆発する。そんな展開に曝される度に、何故と思うのは、彼らの心の動きが尋常でないからで、そこまで理解する必要は無いのではないか。その行動様式は、やはり何処かで狂ったものなのだろうから。

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6月27日(金)−誤字脱字

 便利になった。何かを調べるにも、パソコンに向かえば事が済む。電子手帳なるものを持つ人々は、鉛筆の代わりに小さなペンを持ち、書き込みをしている。他のことを含めても、手書きのものを見る機会が減り続けている。当然、自ら書くものも、書くと言うより打ち込むと言った方が当てはまるわけだ。
 今の世の中で手書きが全ての世界は学校の中にしかないのではないだろうか。ちょっと思い出すと、漢字を覚えさせられた時、何度も何度も同じ字を書かされた。読んで覚えるより、書いて覚える方が効果的という考えからだろう。それが事実なら、今の世の中は、字を覚えることはおろか、次々に忘れていくような仕組みが出来上がっているのではないだろうか。そういえば、と思い当たる点が多い人がいる筈なのに、教育現場では更なる環境整備と称して、コンピュータの導入が進められている。これによって、社会に出てからすぐに適応できると、一部の人々は信じているようだが、大学位ならそうだろうが、初等教育の現場で、覚えることを主体とする中では、逆効果になることは明らかだろう。どうせ、ソフトウェアを使うんだから、自分で書けなくても良いという解釈は、普通の教育を受けてきた人々の想像力の欠如を如実に表しており、地固めのない建築と似ている。どんなに堅固に見える建物も、その基盤が軟弱ならば、倒れてしまうわけだ。何とも情けない、浅慮極まる考えに思えてくる。そんな人々が社会に出るようになり、文書に間違いが目立つようになると、作成者の教養の無さに呆れてしまうが、教養や常識の無さが深刻化すると、何が起きるのか、ある事件から見えてくるような気がした。競馬への投資を主体とする儲け話が告発されていたが、その仕組みの杜撰さには驚かされた。その一方で、その非常識さに疑いを挟まず、儲けることだけに目が向かう人々が沢山いたことには、驚くとともに、情けなくなった。こういうことに騙される人々の無教養がある意味の原因かと思えたのは、宣伝文句の中に間違いがあったからである。そこには、72.5%の「確立」で的中とあった。

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6月26日(木)−酔生夢死

 安定した世の中になれば、将来に対する不安が無くなるように思っていた。混乱の時代、あらゆることに予測が立たない社会では、こんな未来に夢を描いていたのではないか。ところが、実際に平和な時代になってみると、自分の将来が想像できるようになることで、却って表現できない不安に駆られることになった。
 将来に対する不安は、何が起こるか分からないところから出てくるわけだから、逆の見方をすれば、明るい未来を描けることに繋がる。不安とともに夢や希望が心の中に湧き、それに心を躍らせた人もいただろう。そんな時代に対して、自らの将来が見通せるように平坦な世の中になると、安心という心理と引き替えに、夢と希望を誰かに売り渡してしまったような雰囲気が出てくる。夢を持たない若者たちを憂う人々がいるのも、そんな世相から来るものと思われるが、それに異論を挟む人が出てこないことを、異様に感じることがある。確かに、夢を持つことは当たり前のように扱われているが、持たない人はあの時代には居なかったのだろうか。現実を現実として見極め、その中で自らの活躍の場を求める場合、夢として描くほどのこともない、実像としての未来がそこに見えていたのではないか。そう考えると、ぼんやりとしか描けない未来を心に浮かべる人々の方が、想像力が豊かであったとは限らず、どちらも将来に向けて邁進する姿勢を持つという意味では、何ら違いはないと思えてくる。こんな違いが許された時代と異なり、夢を持たねばならぬと強要されて育った世代は、何とも不幸な人々の集まりと言える。夢など描かなくても、自らの将来への道筋を見極めることは可能だし、手近なものを片付けることの繰り返しが、その道筋をさらに明確にすることも十分にあり得る。現実主義というものは、何か低級なもののように扱われるが、人それぞれにどんな距離に焦点を合わせるかの違いがあるだけで、そこに水準の違いなどある筈がない。こんな事情を無視して、画一的に扱うことこそ、最低の行動であり、それが引き起こした歪みは増すばかりである。依然として、この状態が続いているが、そろそろ、夢だろうが何だろうが、人それぞれに持つか持たぬかの選択の自由があることに気づくべきだろう。

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6月25日(水)−危機回避

 集団の中で一人きりになることは、単に寂しいという感情が湧くだけでなく、不安感を伴うものとなる。敵味方という区別にそのまま繋がるわけではないが、自分だけがはぐれ者であることは、その危険性を孕むからだろう。それを回避する為には、集団の一員として振る舞うことが必要で、同調が肝心となる。
 安全に見える集団行動も、船自体が沈んでしまったら意味がない。此処に大きな矛盾が生じるが、同調を基本としつつ、時に軌道修正に出る必要があるわけだ。不平不満とも受け取れる言動は、場合によっては孤立を招き、最も恐れる結果に至るわけで、匙加減の難しさを如実に表している。孤立を恐れる余り、口を噤んでしまえば、暴走を食い止めることは不可能となり、何かに衝突すれば沈没となる。誰か他の人が、と期待する向きもあるが、集団の中に高い見識を備えた人はそれ程多くない筈だから、他人任せは危険度を減じるものとはならない。自分が欠陥に気づいたら、その場で声を上げる必要があるのだが、当然、集団を率いる人々にとって、反対の声は歓迎できない。微妙な力関係と堅固な論理性の組み合わせによって、結果が左右されることもあるが、多くの場合、心理的な作用が大きく影響を及ぼす。集団としての無理強いは危なくなる兆しであるが、逆に、反対意見の強すぎる主張も、危ない話である。此処での危うさの対象は違うものの、こういう流れが起きることは、その集団の状況が悪化している証拠であり、それ自体からもそろそろ手を入れる時期と言えるだろう。人間の行動でもこんな様相が展開されるわけだが、人間が考え出す仕組みにも同じことがあてはまり、多数の要素を連結させ、全体の安全性を高める手法は、頻繁に使われているが、上昇気流に乗っている時には問題ないものの、安全性が真に問われるべき、危機に瀕した時、連鎖的に起きる下落を食い止めることは、難しくなることもある。危機の深刻さによるわけだが、安全を保障する論理が、意外なほどの脆さを露呈することとなる。完全な安全性はあるはずもなく、どんな仕組みにも欠陥があると承知していれば、また違った展開になるはずで、集団の中の個人の振る舞いと同じことが、此処でも当てはまりそうだ。

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6月24日(火)−一知半解

 友人が車での通勤を止めた。燃料費の高騰で、経費が1.5倍ほどに膨らんだからだ。こうなると乗り心地より燃費を優先する人が増え、自由度は経費の重さに潰されることとなる。これを機に、温暖化の問題を論じた政治家も居たが、その中身は情けないほど薄っぺらだった。どうも関連づけに不慣れなようだ。
 この騒動の原因は原油価格の高騰にある。値下げの渋り方は尋常でないのに、値上げの気軽さは何の重みも感じられない。元々、様々な要因から価格維持が強いられてきた環境に、天の助けとも思える異常な上昇が降り、後押しされたようだ。恐るべきことに、階段状に上がる価格は踊り場に入る気配を見せていない。天井知らずの高騰に、脅威的な目標設定をする関係者まで現れ、将来に対する不安は増すばかりとなっている。原材料という観点からすれば、運搬を始めとするあらゆるものに関わるものだけに、法治国家ならぬ、放置世界が何処まで暴走を続けるのか、心配は募るばかりだ。そんな中で、海の向こうの政府高官は今回の高騰は投機筋の介入によるものではないとの解釈を示した。現政権の背景を考えれば、石油関連業界の潤いは歓迎すべきものであり、冷水をかけるべきものではないのだろう。その一方で、投機筋からの流入が急増しているとの分析が出され、真っ向から対立する図式が形成されつつある。どちらが正しいかは問題ではなく、此処での最重要課題は、不当な価格設定をどう是正するかにあるだろう。両者はそれぞれの思惑からの分析結果を示しているだけで、基礎となる数値は同じ筈なのだ。にも拘わらず、正反対の論理が展開されるのは解釈の自由度の無限性を示すことに他ならない。こんな状況で、産油国が重い腰を上げ、方針転換を示したにも拘わらず、市場は無視を押し通したとの分析があった。これも、別の要因をわざわざ上げることで、その正当性を取り繕ったものだろうが、無意味としか思えない。そろそろ下らない解釈に耳を貸さず、無法地帯に法の手を入れる施策を考えるべき時ではないか。

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6月23日(月)−三分の理

 画一的な教育を施され、同水準に達することを強いられて育った人々が、なぜこうも違ったことを考えるようになるのか、不思議に思う。生育環境の差が招いたものと見る向きもあるが、後天的な要素だけなのか、疑う意見もある。氏より育ちとする考え方と、先天的な才能によるものとする考え方、両極端に見えるのだが。
 その起源が何処にあるのかは一見重要に思えるが、実際には何処から現れたにせよ、差異の中身の方が重要であり、価値のある意見を示す人は貴重である。しかし、世の中にはその価値を認めるだけでなく、自らのものとしようとする輩がいる。文筆家にとって、独自の文章が湧き出すかどうかが死活問題となるが、魔が差すこともあるようだ。近付きがたい存在が多い中で、近所のおじさんのような振る舞いが人気を呼んだ人も、いつだか間違いを起こした。当時は随分叩かれたのに、今は普通に登場している。十分な反省の後に、ということなのだろうが、何となく気になるところだ。最近は、報道に携わる人々が剽窃という誤りを犯していることが伝えられている。様々な意見がネット上を流れることで、種々雑多な情報に接することができるようになったが、その簡便さからか、誘惑に負ける人が出るようだ。文章を書くことを職業とする以上、他人のものを奪う行為は最悪の犯罪と見なされる。魔が差したという言い訳では済まない話なのだ。一方で、ある新聞に掲載された読者が投稿した詩が有名な詩人のものであることが発覚したが、これは別の意味で情報点検の難しさを示している。全ての情報に通じることは不可能だが、それに近付く努力が不可欠であるということなのだろう。前者の例を考えると、ネット上の情報は、全ての人間が接触可能であり、盗む人間が見つけたものは、誰にでも見つけられることに気づくべきなのだ。その点に考えが及ばない人間は、大きな欠陥を抱えているわけで、どんな事情があるにしても、許されるべきでない事をしているのである。魔が差す、運が悪いと思うことこそ、重大な病を患っている証なのではないか。

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