能天気に暮らすことをとやかく言われるのはかなわない。折角、これまでコツコツと積み上げたものを楽しもうとするところへ、世の中の不安を次々に持ち込まれても、我関せずを決め込みたいと思う気持ちは分からなくもない。自分勝手と言われても、それまで社会に尽くしてきただけに、これからはと言うだけのことだ。
自らの老後を考えた時に、そういった振る舞いのことに思いを馳せる人は、昔は多かった。しかし、今では社会を揺るがすほどの不安が喧伝され、まるで滅亡の日がすぐそこにあるかの如く触れ回る人がいる。そんな中では、文字通りの隠居は不可能であり、全てが白日の下に晒されているような感覚になりかねない。自らの生活を守ることを第一として、それまで築き上げてきたものに、突然他人のことを考えるべきと言う言葉が降らされても、何もできるわけではない。多分、こんな不満や文句を言い並べる人々も、自分の今の窮状や不安に対しての思いを表明しているだけで、いざ老後の生活に入ったら、全く違った論理を展開するのではないだろうか。無常なものと理解していても、経験に基づくことしかできない身では、突然の変化に対応することは不可能であり、老い先短い体に鞭打つようなことは誰だってしたくはない。まして、それなりの安定した生活を苦労の末に手に入れた人々にとっては、今更それまでの積み上げが無効だと言われるような話には耳を貸したくはないだろう。では、このまま坂を下る社会を放置しておけばいいのか、と詰問されても、隠居の身には辛さが増すだけである。一番の問題は、社会を支えるべき現役世代がどんな態度をとるかであり、今の世の中が彼らの不満を第一に扱っていることではないだろうか。権利主張を第一とする人々には、自らの働きかけよりも、社会から施されるものの方が優先され、出すものも出さずに文句が出る図式が出来上がっている。経済低迷の最中に、高額商品を買い求めに旅行を繰り返す人々にも、単なる浪費に明け暮れる人がおり、まるでアリとキリギリスの世界が展開されている。しかし、現実社会は物語とは全く違って展開になりつつあり、不条理ばかりとなれば、幸せを感じることはより難しくなるだけだろう。
若者たちの傍若無人ぶりを嘆く声は、いつの時代にも聞こえる。自分もそうだったことを忘れ、ただ無闇に批判する老人共に、反省を促す声も上がるが、それもまた虚しく響く気がする。問題はそこにあるのではなく、面と向かって注意できず、影でこそこそする態度にあるのではないか。自らの経験との違いはそこにある。
年長の者が若者を叱る姿は、昔はよく見られたものだが、最近はとんと見かけなくなった。禁煙車の喫煙に気づかぬふりを決め込む人々には、どんな言い訳があるのだろうかと思うが、誰一人として動かない。意を決して注意したものの、当然ながら復讐の恐れはあり、気が気でない時間を過ごした人間には、その他大勢の役立たずに対する怒りがこみ上げてくる。よく考えればいきがっていただけの未成年だったのかも知れないが、何も起こらず、平穏な時間を迎えることができた。若者の我が物顔を嘆く前に、自らの不甲斐なさに何か思うことはないのかと思え、そこにこそ、現代社会の抱える問題があるように感じる。一昔前、電車の座席取りに、自分の子供を派遣して、大人の隙間を潜り抜け、親を呼ぶ声の明るさを眺め、何と情けないことと思ったが、今度は中学生と思しき子供が、車内を席取りに走る姿を見て、情けなくなった。ゲームに明け暮れ、目上を尊敬せず、隙を見つけて勝ち取る人生に、何が残るのか、さっぱり分からない。彼らには明るい未来があるのかも知れないが、同じ連中がぶつかり合った時、必ず敗者が出るわけで、破れし者の向かう先には何があるのか。そんな年代から、蹴落とすことだけを使命とし、自分の目標の定まらない生活が続けば、狂うのも当たり前のことだろう。誰がそんなことをしたのか、本人の責任もかなり大きいが、一番身近にいる人間の思慮の無さの表れという面もあるのではないだろうか。注意するのを躊躇するほど恐ろしい人間が増えていると思いこめば、社会の向かう先は滅亡しか無くなる。何も、分別のない野獣を相手にするわけでもないし、野生の動物とてある程度の分別は持ち合わせている。そんなことを考える余裕もなく、自分勝手な生活を送るのでは、明るい兆しは見えるはずもない。
経済の課題で最も重要なものはインフレーションと言われる。経済成長を続けている時には、収入の増加も伴うからある程度までは許容できるものの、頭打ちになっているところに物価が上昇すれば、深刻な事態になりかねない。それを未然に防ぐ為の手立てとして、様々な方策が講じられているのだろう。
収入の伸びが鈍化した時、将来への不安を和らげる為に、個人も色々なことを考える。成長時には預貯金でも十分な利益を上げることができたが、停滞期に入った時には別の運用先を探す必要が出る。それが株式であったり、債券であったりするわけだが、これらの伸び自体は物価への直接的な影響を持たないようだから、最悪の事態への流れは引き起こされないと思われる。しかし、資産運用においては、被害を最小限に留める為に、多種多様な運用形態が望まれ、次々と編み出されることとなった。これは、安全性を高める手段として考えられたものだろうが、その一方で、新たな問題を産み出すことにもなっているようだ。株式や債券のように、必ずしも実体を持たないものであれば、ある意味での仮想世界での存在となり、実社会との繋がりは薄れるのだが、商品取引のように、そのものずばりが社会で流通する品となれば、その変動は物価に大きく影響することとなる。ごく当たり前のことで、昔からそんなことは承知されていたのだろうが、このところの先物相場の動きから、安全の為の分散化が、それまで想定されていなかった関連性を導き、そこに鎖が連なるような構造を作ったことで、従来にはない副作用を及ぼすことが明らかとなった。つまり、資産を拡大することが物価上昇を招き、経済状況の悪化を引き起こすわけである。この場合、全体的な経済成長とは違い、一部の利益追求が悪化に繋がるわけだから、他の大部分の人々の上に災厄が降りかかることになる。全体としてみれば、警戒された事態に陥るわけで、社会全体の安全性は低下したこととなる。そんなことは微塵も考えなかったのかも知れないが、一部の利益追求の果てがこうなることに、異論を唱え始める人が出てきても良いのではないだろうか。
新製品を購入した時、その取扱方法で戸惑った経験は誰にでもあるだろう。新たな技術、新しい考え方、様々な新しさに面食らい、気に入って選んだことなど忘れてしまう。救いを求めて手に取った説明書は要領を得ず、更に混迷が深まると、ただ単純な機能だけで満足せざるを得ず、何の為に買ったのかと思う。
技術の発達は目覚ましく、全てを理解できる人はいないだろう。技術は製品になって初めて意味を持つだけに、開発の勢いは衰えることなく、次々に新たな情報を取り込む必要がある。開発に携わる人々は、常に窓を開けて、業界の情報に気を配るが、そこには新製品に対する思いはあっても、経営に関する感覚はほとんど存在しない。技術開発においても、その方向を決めるのは現場の人間であり、社会の要求に応える姿勢は余り強くない。技術の進歩が急なだけに、さほど問題と思われなかったことが、最近大いに問題視されるようになったのは、技術の進展が多様化し、それを全て理解した上で、全体の調整を図る人材が枯渇し始めたからかも知れない。と言うより、そんな人材は元からいるはずもなく、種々雑多なものが溢れて初めて、問題化しただけのことだろうか。いずれにしても、入口も出口も多彩になり、経営にはその段階での判断が必要不可欠になったわけだが、現場はそれに間に合う人材も能力も持ち合わせていないのが現状ではないか。数で勝負することも可能だろうが、経済の低迷が続く中では、賭のようなことをするのは更に難しくなっている。こう考えてくると、これまで同様に技術力で勝負する人材は不可欠だが、全体を見渡して先を読む能力を持つ人材を登用する必要が高まっているように思える。しかし、本当にそんな人間がいるのか、今までそんな目で眺めていなかっただけに、すぐには対応できないだろう。人それぞれに向き不向きがあり、それぞれに適所があることを考えると、これからはそんな視点からの品定めにも力を割く必要がありそうだ。これは新人だけに限らず、既にいる構成員に対しても、評価基準の一つとして取り組むことになるだろう。
学歴不問を謳った求人活動は、最近は余り話題にならないようだ。優秀な人材を確保する為に、有効な方法を模索するうち、同じような学歴を持つ人々も、現実には全く違った素質を持つことに気づき、履歴ではなく人を見ようという決断をしたと言われる。ただ、実際の採用の傾向については、疑問も多かったらしい。
人を採る側からすれば、人材を発掘することは最重要の課題の一つであり、組織の将来を決める大切な事柄である。ただ、実際の労力との比較を無視しては、無駄ばかりが目立つことになり、目標達成は覚束ない。その意味で難しい部分もあり、全ての企業が同じ手法を用いない理由もそこにあるようだ。一方、実力を試される側も、何をどう評価されるのか明確でなく、どんな準備が必要かがはっきりしない中では、傾向と対策の検討が難しい。不問と言っても、それなりの学歴は必要だろうという想像はできるが、そこに付加価値を加えるとして、何をどうするのかは明らかではない。そんな中で、一部で言われたのは、手に職をつけることとそれに関わる資格を取得することが肝心だという話だ。確かに、業務を行う上で要求される資格は持たなければ意味がないが、それ以外のものとなると何処まで必要かを計る手立てはない。不安を抱きながらも、一縷の望みを持って資格を目指す人々にとって、その取得は階段を上がるような感覚ではないか。資格を必要とする職種の場合、一般には最低限の要件として始めに要求されるだけで、その後は水準を問われることもなかった。ところが、学歴と最も関連が深い教育現場で、それが問題視され、ついには資格を維持する為の仕組みが導入されることになった。運転免許と同等と思えば理解できると言われるが、どうだろうか。綿密に準備されたと言われる制度の中身は、かなり厳格なものとなっており、実施に際して取得者本人だけでなく、審査する側にも負担がかかるものと言われる。水準を保つ為に導入するのだから、いい加減ではいけないという主張は当然だが、過度な負担は別の悪影響を及ぼしかねない。目標を外すことはできないにしても、負荷の大きさを検討する余地はまだまだ残っているように思われるのだが、このまま突き進むのだろうか。
ある病気になると、頑張れという言葉が重しになると言う。温かく見守ることが大切と言われるが、果たしてそうだろうか。こんなことを書くと、専門家でもないくせに余計なことを、と言われるのは確実で、そんな無理解が病状を悪化させ、病人を社会から排除することになるのだと、叱責されるに違いない。
しかし、ここに問題があることに気づかずに、そんな批判をする人がいるとしたら、そちらの方が遙かに無知蒙昧なわけである。一つ目の問題は、病気は本当の病かどうかである。そんな馬鹿なと言う人もいるだろうが、診断がどのように為されているのか知っている人は少ない。ネット上でもその質問票を手に入れることが可能だから、眺めてみると良いと思う。明るい気持ちでいる時には気にも留めない事柄に、少し沈んだ気持ちの時に接してみると、意外に多くの項目が当てはまることに気づくだろう。では、自分は病気なのか、と自問してみれば、ほとんどの人は否と自答するに違いない。単に気持ちの浮き沈みだけだと理解しているからである。しかし、目の前の専門家が同じ票を持ち出して、診断してくれたとしたらどうだろう。全く違った受け取り方になるのではないだろうか。ここにこの病気に関する騙しの仕掛けがあるのではないだろうか。もし、こんな程度のことで振り回されているとしたら、全く下らないことだろうし、それによって患者の数が激増したとしても、今ほど深刻に考える必要は無さそうだ。それより、あらぬ疑いをかけられることへの対処を講じるべきだろう。もう一つの問題は、温かく見守るという考え方である。元々、浮き沈みに過ぎないものを大層なものと捉え、腫れ物に触るように周囲が気を遣うことで、本人は隔絶された世界に導かれる。物理的な隔絶よりも、こんな形の精神的な隔絶の方が遙かに悪影響を及ぼし、沈んだ気持ちが晴れることは少なくなる。叱咤激励が必ずしも得策ではないとされるが、自らも現状に不満を抱いているところへ、賞めてできることだけ与えることは、何の解決にもならないだろう。そんな世の中では、逃避行動が看過され、避難所が溢れかえることになる。平和な社会がそんなものとは誰も思わないのではないだろうか。
しておけば良かったと後悔することは多い。しかし、先に立たないものをいつまで悔やんでみても、何も始まりはしない。次こそは、と準備することが重要で、それがなければ、後悔も単なる言い訳にしかならないだろう。その一方で、悔やむ気持ちをおくびにも出さず、強気で押し切る人もいる。これも疑問符である。
経済の変動は常に波のように起こる。上昇期もあれば下降期もあり、船を操るが如く、巧みに乗り切る必要がある。しかし、時には所謂三角波のように、突如そそりたつ大きな波に飲み込まれることもあり、常に安全な航行が約束されるわけではない。操縦において、予測は重要な要素の一つであり、先を読むことが経営の極意とされることも多い。ところが、このところの動きを見ていると、上げている時は下げと読み、下げている時は上げと読む、ごく単純な発想しか無く、とても準備万端とは言えぬやり方が目立つように見える。当たり前のことだけに、間違いと言うわけにも行かないから、何となくそのまま流されてしまうが、現実に反対の状況になった時、此処彼処に後悔の念が溢れてくる。あの時、その場での対応を誤らなければ、こんな窮地に追い込まれずに済んだ、と思ってもあとの祭り、準備とはそんなものを言う筈だったが、そんなことはとうの昔に忘れ去られた。上昇気流に乗り、飛ぶ鳥を落とす勢いで、あらゆることに成功を確信していた時代から、先の見えぬ時代に突入した時、その場での対応は先読みとは正反対の愚行と見なされ、選択表から消去されたらしい。場当たり的な行動を戒めることは必要だったが、次の反転に向けての準備には、その場で対応しなければならないことが多いのも事実。これを排除した時点で、遠くを見つめているようで、その実何も見ていない人が増えることとなった。実際に厳しい状況が目の前にやってきて、さて何をするかと考えた時に、悔やむばかりでは何の役にも立たないのだ。