パンチの独り言

(2008年7月7日〜7月13日)
(不変不滅、比較対照、慈悲喜捨、両輪直走、大言壮語、無知蒙昧、周知徹底)



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パンチの独り言--7月7日〜7月13日

7月13日(日)−周知徹底

 人真似をするのは、子供のうちだけだと思っているが、実際には幾つになっても、何かしらの真似事をしているようだ。必ずしも悪いことではないが、子供時代と違い、良いことか悪いことかを区別した上で、真似るのが当たり前だろう。道端のゴミや落書きなどは、子供とて許されることでなく、大人は言うまでもない。
 しかし、現実は正反対であり、他人もやっているからとか、誰からも注意されなかったとか、如何にも精神の未熟さを表すような言動と共に、人真似を繰り返す。この延長線上にあるかどうかは分からないが、犯罪と規定されることにまで、真似事は及び始め、心の貧しさがここまで及んだのかと、呆れ果てる話が続出している。ゴミ捨てや落書きのように、その現場に居合わせないと真似ることが難しいはずで、同じような犯罪がこう何度も繰り返されるのは不思議な話だが、現代的な情報社会がそれを招いているとしたら、理解できるのではないだろうか。既に何度か書いたことだが、何事も原因究明を務めと考える人々は、あらゆる事柄に首を突っ込み、自己満足だけでは飽きたらず、それを人々に触れ回る。善悪の区別が可能な人々ばかりの世の中なら、そんな連中の下らない話に耳を貸すはずもないが、無分別な人が増えた社会では、下らないことにこそ興味を抱く人々が出てくる。目立つことが最優先で、善悪は無関係と考える人々は、下劣な考えを満たす行為のヒントを与えられ、嬉々として同じことを実行に移す。明らかな犯罪であることは、何処かで触れられる筈だが、狭量な人間にはある事柄しか耳に入らない。これをすれば注目されるという思いは、ある人間たちにとっては抗しがたい魅力に満ちたものらしく、それも簡単にできるとなれば、飛びつきたくなるのだろう。今更制限をかけても無駄という意見もあるが、この状態を放置することは有り得ず、その一方で、判断力のない人々に肝心なことを教える手立てを講じなければならない。ここでも知る権利の使い方に問題があることが、表面化しているのだろう。

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7月12日(土)−無知蒙昧

 やる気のない人が増えていると言われて、何年くらい経過したのだろうか。意欲の減退、興味の喪失、様々な表現が使われ、大問題かの如く扱われる。でも、と思うのは、人間の意欲なんて、元々大きさが決まっていて、ただ単に、毎日平々凡々と暮らすのが当然という人は、昔も沢山いたのでは、ということ。
 それぞれ、違った気質を持った人間が、それぞれ、自分に合った場所を見つけ、自分なりの生活を送ることは、時代がどう変わろうと変わらぬことだろう。にも拘わらず、全く正反対のことが問題視されるのは、世間の目が曇ってきたせいなのかも知れない。そう考えると、やる気の無さも大した問題でなく、そういう人間が動ける場所は今でも沢山あるに違いない。それがうまく動いていないのは、それまで無駄と思える努力を積み重ね、曲がりなりにも高等教育を受けたと称する人間が、自己評価に見合う場所を求めること自体に問題があるのだろう。歪曲されているのは社会の構造ではなく、一人一人の心の構造なのだ。もう一つ、やる気の話で問題となるのは、彼らの興味の対象である。対象が皆無という人は稀で、多くは所謂下らないことに興味を抱く。つまり、好奇心が存在しないのではなく、それ自体は却って他人より大きなものを抱えているのだ。その証となるのは、たとえば、世をはかなんで自らの命を絶つ人や他人を巻き込む事件を起こす人々が、事件が報じられる度に類似のものを起こすことにある。本当に興味がなければ、情報の流入は有り得ず、模倣事件は起こりえない。逆に、それが繰り返されるのは、彼らの歪んだ興味が異常なほど大きく、そこに材料を与える情報社会の野放図な状態に原因がある。事故の原因究明に躍起になることくらいなら許されるが、凶悪事件や自殺などの分析を事細かに報じる連中には、自らの役割の大きさを実感できるほどの頭脳はないらしい。知る権利を声高に主張する人間に限って、その波及効果の推測には無関心で、単なる垂れ流しを無反省に続けるだけである。責任の伴わない行為には、権利は存在せず、汚染源は規制する必要があることを、そろそろ社会全体が認識すべきではないか。

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7月11日(金)−大言壮語

 物々交換や自給自足は、現代社会では通用しない仕組みとなってしまったが、三つに区分される産業のうち、一つ目だけが存在した時代には他に選択肢はなかっただろう。そこに二つ目が加わった時代でも、大した変化はなく、基本的には現物取引だけが通用していたのではないか。では、三つ目はどうして必要となったのか。
 今更、そんな歴史の流れを分析してみても、現状を改善する手立ては見つかりそうにもない。遅れてやってきた産業が幅をきかすようになり、取引に使われる紙切れが絶対的な権利を主張し、果ては架空取引までもが成立し始めた。帳簿上での数字の動きが、現物の流れよりも重視されるようになったことは、大昔の物々交換と比べると、余りの違いに愕然とせざるを得ないが、それこそが市場原理と言うことなのだろう。あらゆるものに優先する形で、その間を跨ぐ形で通用する貨幣が、実際にはその姿さえ見せずに、取引を左右するようにしたのは、様々な思惑によることだろうが、常に正常な動きに繋がるとは思えない。こんな流れによって現代社会が構築されたのかも知れないが、そろそろ別の形での悪影響が表面化し、各所で対策を講じる必要性が高まっている。それでも、市場原理に縛られる状況は変わらず、たとえば、食料の調達費の上昇への対応も、それを如実に表すはずの地産地消より、自給率の問題を引き合いに出すところは、関係者の思惑によることに思われ、間違った方向へ導かれる恐れを感じさせる。更には、温暖化との関連に触れるとなれば、逆効果を意識してしまい、相変わらずの玉虫色に嫌気が差し始める。高尚な目的設定より、身近で実現可能な目標の設定の方が、遙かに重要であるにも拘わらず、自らの力不足を露呈しないための防衛本能が、そんな馬鹿げた行為に走らせるのだろう。それを有り難く戴くほど、思考力が減退した人々は、またぞろ狂騒曲を演じることになるのではないか。あるメディアの普及が白痴化を招くと警告した評論家の判断は正しく、更にそれを上回る影響を及ぼすメディアの出現で、判断力の欠如が現実化している。いずれにしても、身近な問題とできるかどうかが重要なのだろう。

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7月10日(木)−両輪直走

 蟻や蜂などは社会性の昆虫として知られている。それぞれに役割分担が決められ、集団生活が行われているからだが、同じことが人間にも当てはまると言われている。それが当たり前のことと思われていたのが、何時の頃からか当てはまらない話が増え始め、集団に属さない人が目立ち始めてきたからだろう。
 集団生活では、他人との関係を如何に築くかが重要と言われる。しかし、混乱状態が続く中で、違う見方が現れ始めているようだ。他人との関係成立に腐心し、努力を積み重ねていく過程で、集団の中での自らの存在意義を再考することとなり、大きな矛盾に気づく人がいる。つまり、自分の役割を明確にしないまま、他人との関係を築くことはかなり困難であり、場合によっては、相手にされないままに放置される結果となるわけだ。こうなってから、自らの能力を高めるとか、新たな技術を身に付けるとか、そんなことを慌てて始めたとしても、すぐには効果を現さないから、次々に降りかかる矛盾の嵐に厳しく批判されることとなる。元々、周囲がすることを真似るだけだから、それ程強い意志を持って行ってきたわけではないから、ここで潰されてしまう人が多いのではないか。その結果、社会から隔絶された自分だけの世界を築き、その中に閉じ籠もることを選択し、人間関係も最小限に留めることとなる。本来、社会性を成立させることで存在を確保させる動物だけに、この状態に追い込まれた時点で、様々な障害を抱えることとなってしまう。何処で進路を誤ったのかと考える人もいるが、実際には本来並行して進むべきことがそうならず、関係成立にばかり力を入れたことが、矛盾を産み出したわけではないだろうか。自分自身の成長と共にそれが起きることが健全な形であり、それでこそ均衡のとれた人格が形成される筈である。いつの間にか、人間関係のみが重視され、それこそが社会を保つとする意見が強まり、こんな状況を招いたような気がしてならない。多分、虐待や無視などという行為が起きたのに対して、講じられたものの選択が間違っていたのだろう。

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7月9日(水)−慈悲喜捨

 弱者をいたわる心の大切さが訴えられている。強弱の区別が何処から来るのかを知らせること無く、ただいたわりの心の存在だけが強調されているのは、何とも不思議な感じがするが、現状の歪みがそれを急がせているのかも知れない。ただ、この声が大きくなるほど、現実の社会の矛盾が大きくなるのが気になる。
 応急措置というと語弊があるだろうが、そうとしか思えないほどの対応が続き、兎に角弱者救済の重要性が説かれる。その一方で、強者と弱者の区別を際立たせるような表現が巷に溢れ、勝敗を分けるものとして扱われかねない状況にある。勝ち組と呼ばれる人々には、負け組に対して何らかの施しの必要があると言いたいのか、人の心の陰の部分を垣間見た気がしてくる。現実にはいたわりの心の源は、そういう区別にあるのではなく、有無も言わさぬ感覚から来るのであり、わざわざ状況を理解させる必要など無いはずである。核家族なるものが大流行した後、親子関係しか存在しない小さな集団では、いたわりの感覚を培うことは難しくなった。親の親、つまり自分にとっての祖父母と暮らしていた時代には、年寄りが身近にいて、少し違った感覚で接することができた。必ずしもいたわりには結びつかなかっただろうが、兎に角異質の感覚を身に付けることはできたはずで、それが後々のいたわりに繋がったのではないだろうか。それがいつの間にか、そういう機会が奪われ、他者に対する心の動きに多様性が無くなった時、取り立てて「いたわり」を話題にする必要が生じたのではないだろうか。ある意味の強制が通用する幼児期でなく、個性が育まれる年代になってから、こんな無理強いがなされたとしても、全てに浸透させることは難しい。その結果、他者を排除するだけの心の動きしか持たず、仲間を渇望する心理が強まるばかりの社会の構成員が急増することとなった。何の効果も得られないから、新たな手法が次々に導入されるが、時既に遅しの状況には変化がない。そろそろ根本から考え直す必要があるのだろう。

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7月8日(火)−比較対照

 子供の頃、何かと比較されることに辟易としたことがあるだろう。自分は自分という気持ちがそれ程強くなくとも、誰かと比べられることに抵抗を覚えることは多かった。何故、大人はそんなことをするのかと思った人もいるだろうが、今自分のしていることを眺めて欲しい。比べることで理解しようとしているのでは。
 比べることは違いを際立たせる為に重要な手法である。それに気づかないほど、ごく当たり前のことだから、やっている方は全く何も感じない。しかし、やられる方はそうも行かない。比較が単に並べる為だけならどうということもないが、その後に優劣関係が出てくるから面倒なわけだ。それを使って叱咤激励となれば、自分なりの頑張りを主張したくなる。人それぞれに違うものだと、比較される度に思うようだが、他のものを比較する時に、その違いを意識することは少ない。この辺りにも、人間の身勝手が現れていると言えるのかも知れない。最近話題になっている環境問題でも、比較が大いに使われている。これからどれだけ減らすかが、温暖化に影響を与えるものの目標とされているようだが、それをどのように割り当てるかが大きな課題となっている。これが相対値ではなく、絶対値を指標とすることとなれば、全く違った様相になることに気づいた人はどれ位いるのだろう。つまり、何の対策も講じず、垂れ流しの状態にある国にとって、これから新たな技術を導入すれば、相対値としてかなりの効果を上げることができる。しかし、絶対値で評価されると、それは既に対策を講じている国にやっとのことで追いつくだけのこととなる。努力目標を設置することが重要であるという観点から、こんな手法が用いられるのだろうが、それにしても不思議な論理に思えないだろうか。更に、この相対的な数値目標が全てに当てはめられることから、削減の数値が重視されるようになる。本来から言えば、絶対的な濃度が影響を及ぼしているわけで、それこそが最重要な事柄であるはずなのに、減ればいいといった感覚にすり替えられるわけだ。比較でしか理解できないだけに仕方ないとするのも重要だろうが、だからといって絶対的な数値が不要というわけではないはずなのに。

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7月7日(月)−不変不滅

 自分のしたいことは何か、という疑問に答える術を持ち合わせていない人が多いという。沢山ありすぎて答えられないというのは別にして、兎に角自分が何をしたいのかが分からないというのが問題らしい。自分探しなどというふざけた話も、この辺りから出てきたことだろうが、難しい問題とされている。
 しかし、現実には、誰しも自分のことが分かっているわけではなく、徐々に自らの道を切り開いているだけのことである。それを探すという表現にすること自体に、首を傾げたくなるのは、そろそろ時代遅れになっているせいだろうか。明確な像が結ばれていないところで、それを探し回るのは当たり前のことであり、わざわざ言葉を当てて取り上げるほどのこともない。沢山ありすぎるのも困ったものだろうが、何もないのもまた困ったものであり、どちらにしても立ち止まることなく、探し回るだけのことなのだ。大層な捉え方と思うのは、そんなことを微塵も考えたことなく、ごく自然に動き回った人間であり、自らを大きく見せたがる人ほど、大袈裟な表現を好むものらしい。ある程度の判断力を備えた人間ならば、無駄に大きく見せようとする人間の思惑くらい見破れるはずだが、鵜呑みを得意とする現代人には、その力は無さそうである。無闇矢鱈に手を出したり、所謂教則本のようなものに手を伸ばしたり、無駄な努力が積み重なり、それを自慢するしか残せるものがない人間には、続く世代に悩むことの大切さを伝えることが責務に思えてくる。何とも情けない姿だが、それを戒める声もなく、何処へ向かうとも知れない人々が巷に溢れることとなるわけだ。立ち止まることは無駄に違いないが、こういう人々に限って、立ち尽くすに似た行動を取り、動けなくなると言う。それを心の病と捉え、救いの手を差し延べるのも、また無意味なことではないか。こんな巡り方が始まると、中々まともな考えが通用しなくなる。とはいえ、自分を信じて歩み続けるしか、方法はないわけで、これは古今東西変わらぬことなのだろう。

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