平和な世の中で命の危険を感じるのは、おそらく健康上のことだけではないか。事故や事件に巻き込まれることもあるが、人間の殆ど全てが病気で死亡するわけだから、偶発的な事柄を心配することは稀である。こんな時代には、健康を第一と考え、それを求めて奔走する人が出てくる。ここにも一騒動が起きるわけだ。
真の健康を手に入れることは難しい。体の不調を全く抱えておらず、何の心配もなく暮らす人はまずいないだろう。他人から見れば、いたって健康な人でも、あれやこれや、兎に角何処かに変調を探し出そうとする。こんな心理の下では、この宝を手に入れるための方法や道具に、気持ちが奪われることも多く、それが一つの大きな商売となっている。興味深いのは、健康に絶対的な指標がないのに、それに到達するための手立てがあるかの如く、売り文句が繰り返されているところで、詐欺行為の一種と思えることが数多ある。方法や道具だけでなく、普段口にするものへの執着も著しく、栄養価の高さだけでなく、得体の知れないものの効果を取り上げる場合も多い。平和ボケと呼ばれる現象が如実に表れたものと思えるが、ある意味、健康に暮らしているからこそ、そんなものに執着するのではないか。手持ちの金の使いようが思い浮かばず、自分のためと称して浪費するわけだから、誰も文句が言える筋合いにはないが、それにしても、こんな馬鹿げたことに入れ上げる人の心理というのは不思議である。これと似た線上にあるボケ行為に、食品のブランド化があり、これもまた絶えることのない騒動を演出している。女性の服飾品の偽物騒ぎと酷似する事件の、それとの大きな違いは、詐欺と認められるかどうかにある。高級品に対する行為は刑事事件として扱われるのに、日用品的な食品では多くの場合指導に留められる。悪意に基づく行為であることはどちらも明確なのに、この違いは理解できない。まあ、消費者自身も一種の歪んだ心理から巻き込まれたことだから、文句が言えたものかどうか怪しいものだが。
自らの責任を逃れる為に、様々な言い訳を考え出すのは、誰でもやりそうなことである。他人の責任にするのだが、特定個人にするのが憚られる時、公の組織のせいにする。この国は、特にお上云々が全てを決していたからか、その傾向が強い。個人の可能性より、公の強制力を優先するからだろうか。
次代を担う人々の育成は、どの国にとっても将来の為に重要な事柄である。当然、成果が求められることになるが、何を指標とすべきかは、時と場合によって使い分けられる。中でも、学力なるものが重視され、その上げ下げに一喜一憂する人もいる。しかし、そこには絶対指標があるわけではなく、比較に終始する場合が多い。更には、これほど重視されているにも拘わらず、彼らのその後の人生において、どの部分が最も大きな影響を及ぼすことになるのか、という分析は殆どない。何ともいい加減な状態だが、それでも上下に対応しようとするのだから、何ともおかしな話ではないか。昔、大臣をやっていた人がある講演でこの話に触れ、学力低下は幻想とか錯覚とか、そんな表現で批判していた。数値に表れるもので見る限り、低下どころか上昇しているという指摘は、その部分だけを見ればその通りに違いない。しかし、自分のことを考えても、試験の点数で判断される学力に、どれ程の意味があるのか、疑いを持つ人の方が多いだろう。特に、最近問題視されている若者の能力では、ただ闇雲に覚えさせられた項目では何とか及第点が与えられても、そこから類推したり、それらの知識の関連を導く能力の欠如が目立つ傾向にある。これさえ覚えておけば、という手法が横行することで、余計な考えを挟ませない環境を産み出し、それによって成果を上げてきた学校教育には、脇目を必要とする関連づけは害有って益無しとなる。当然、それを絶対と信じたものが成功し、疑ったものは脱落する。結果として、落ちこぼれた人間にこそ、そういう能力を備えた人がいるとなる。何とも皮肉な結果だが、失敗を忌み嫌う時代には、人材育成が難しいのは当然だろう。
誰が見ても正しいと言えることはあるのか。大層なことと思われるかも知れないが、宇宙の真理などの話をしようというわけではない。身の回りの小さな出来事を含め、あらゆる事柄はそれに接する人によって解釈が異なるのでは、という話だ。異なる解釈に基づき、その後の展開を推測するとなると、自ずと道筋が違ってくる。
同じ事柄を眺めても、人それぞれに思うところが違ってくる。感動などと言っても、同じことを思い描くのではなく、全く違ったところに思いを馳せ、全く違ったことで心が動かされるわけだ。反論は幾らでも出てくるだろうが、そういう人々に限って、何処が一緒で何処が違うのか、という話をしたことなど一度もない。そんな面倒なことをやるよりも、同じ言葉で表現することで、同一の感覚を共有した気になっているだけのことだ。皆が同じようにすることが重要と思う人にとって、こんな意見は邪魔なだけで、何の役にも立たないから、端から無視することが多い。しかし、事柄によっては議論の必要性が出てきて、少しずつ互いの思いを披露することになると、状況が一変する。言葉の微妙な違いにもよるだろうが、何処かしら違和感を覚えざるを得ず、共有という重要な条件を失うことに不安を感じることとなる。元々、それぞれの違いが歴然とあると認めれば、こんなことになるはずもないわけだが、よって立つところが違うだけに、安易に変えることもできないだろう。個性の重要性に注目が集まった時に、この辺りの矛盾が顔を出し、それぞれに落ち着かない感覚に陥ったのは、基本となる考えが正反対のところにあったからではないか。ある程度類似したところにいることが、そういう人々にとって最重要な事柄であり、そこから外れることは目立つだろうが、不安定な気分になる。しかし、個人というものが存在し、それが集団を形成している以上、そこに共通項があったとしても、歴然とした差異も存在する。そう解釈しないと、全てが停滞することになるのではないだろうか。差異を認め合った上で、何を共有するかと問えば、少しは安心が増えそうに思えるのだが。
最近、報道の内容を聞いて、首を傾げることが多くなった。奇怪な事件が増えたというのではなく、何処が事件なのかと思えるものが増えたのだ。自分の常識が世間の非常識になったのかも知れないが、余りに的外れな批判や下らない追究ばかりで、市民が共有すべきものとも思えない情報が散乱している感じだ。
それに輪をかけた酷さを露呈するのは、取り締まる側の杜撰さで、正当性の吟味などする気がなく、ただ防禦無しで打たれるままに見える。特に、監督官庁たるもの大枠となる方針の下に、それぞれの事件に対応すべきものが、謝罪に終始することが多すぎる。何処が悪いか理解せぬままに謝らせるのは、子育てで最悪の仕業と言われるが、それを繰り返す人間に反省する気など微塵もないだろう。本質的な部分に考えを及ぼさず、上辺だけの従順さを示す行動は、善悪の見境のない悪ガキのすることだろう。金銭の授受に関しては大きな問題であり、厳しく罰する必要があるのは当然だが、その一方で、人材の確保という面で問題とされた点について、何処が悪いのかまるで伝わってこない。点数で判断したからという理由はここで問題にするところではないのは、最近の質の低下の問題が、実はその辺りに端を発しているのではないかと思えるからだ。子供たちを前に何もできない人がいて、彼が採用試験では非常に優秀だったという話を聞いた時、今問題視されている人の中に、こんな例がどれ程あるのか興味を抱いた。誰も調べる気がないだろうが、選別の正当性を論じないままに、同じことを繰り返すことこそが最大の原因なのではないか。臨時採用での実績を基に推薦を受けた人が、現場では何の役にも立たない知識を問うた試験では、結果が芳しくなかった時に、実績はなくとも成績だけ高い人に押し退けられるのは、本当に正しい判断と言えるのだろうか。問題の本質を掘り下げることなく、一部の狂気に惑わされて、振り回されるだけでは、何の解決にも結びつかないことを、そろそろ気がつくべきだろう。また、これが氷山の一角に過ぎず、あらゆる所で同様の事例があることにも。
相手に分かるように話すというのは、そう簡単なことではない。一つには、意味の分かる言葉を使う必要があるし、もう一つには、話題についてこさせることも必要だ。これを当然のことと思う人でも、業界用語を多用したり、自らの言葉に酔ってしまう人がいて、目の前にいる人は全てジャガイモとなってしまう。
あがり症の人にとって、聴衆の顔を見ながら話すことは、一つの大きな壁となる。落ち着いて反応を計りながら、話を進めていけるようになれば、こちらのものだが、ふとしたきっかけで、奈落の底に落とされることもある。それでも、人の話を聞きに来る場ならば、大した心配はいらない。聞きたくもない話を聞くように強いられ、その場に無理矢理座らされている人の興味を惹くことは簡単ではない。特に、最近の傾向だと思うが、興味のあること以外に興味がない、というごく当たり前の反応をする人が増えてくると、相手に合わせる努力がかなり必要となる。自分の世界に閉じ籠もらないまでも、新たな興味が引き起こされることはなく、ただ漫然と流れゆく時の中に身を委ねているとでも表現される人々は、兎に角能面のような顔をこちらに向けるだけだ。無反応な人々を眺めながら、相手の心を掴む手立ては殆どなく、立ち往生してしまうことさえ起こりかねない。興味の広がりが見られなくなったのはいつ頃からか、正確なことは分からないが、節目節目を眺めていても、転換が起こらなくなり、自分の道を頑なに歩もうとする。それぞれの節目では、自分のいる場所が変わり、周囲との関係も変わるから、様々な変化を容易に招くことができるはずだが、この頑なさの為か、何の変化もなく、平凡な毎日を過ごすらしい。強い意志による頑固さならばまだしも、ただ単に冒険することへの恐怖感から来るものの場合、変化を促すことは難しい。なぜならば、恐怖という感覚は最も強いものであり、それを取り除くことが大変困難だからである。全く別の形で、違う展開を図るしか方法はないのだろうが、何故そこまで周囲が働きかけねばならないのか、そんな疑問さえ浮かんでくる。
面と向かって話す人が少なくなったが、年長者が若い者に向かって注意するのは、いつの時代にも見られた光景だった。時代ごとに話題は少しずつ違うものの、年の功を重ねた人から見れば、若者たちの傍若無人ぶりや非常識は目に余るものがあるのだろう。自分たちは違っていたとする考えを基にして。
しかし、繰り返されてきたことは状況が殆ど変化していないことを指す。どんなに時代が変わっても、自分たちの時とは違う若者を見て、苦言を呈したくなるものらしい。明治期に書かれた小説を読むと、今の時代とよく似た現象が紹介されていることに驚く。多分、経済成長末期の状況と似た風潮が流れ、若者たちが好き放題に振る舞う一方で、表現しがたい陰鬱な気分に苛まれる人々がいる。その後、様々な変遷を重ね、周辺諸国を巻き込んだ戦いに突き進んだ歴史は、今の沈んだ国情と対比しながら紹介されるわけだが、同じ道を歩むとも思えない。少なくとも、自らの責任を棚に上げ、享楽に溺れる年長者たちに、若者たちは冷たい視線を送る。その中には羨望の意味も込められているのだろうが、他方、無関係を装う気持ちが含まれているのではないか。厭世的な態度に出るのが、明治期の若者の特徴であるかの如く表現されていた小説は、今の時代にも十分通用するように思われるが、肝心の主人公の顔が見えてこないのは、何処かにずれが感じられるからだろう。いずれにしても、高揚期の後に訪れる停滞期とはこんなものかと思えるほど、よく似た状況には何かを学び取ることが可能なように思える。しかし、渦中の人々はそんなことには目もくれず、自らの生活を守り、窮状を訴えることだけに集中する。そんなことでは何も変えられないとは思わず、好転の兆しが見えるとすぐに駆けつける。その殆どは大した効果をもたず、徒労に終わることばかりだが、駆け回る人々の数は減らない。あの時代と同様に、走り回ることに疲れた人は何処かの日陰に入ったまま出てこないのも、当然のことかも知れない。違いはあっても根本では同じことが繰り返されるのを、何も感じないままに過ごしているのも、いつの時代も変わらぬことなのだろう。
人を信頼するのはどんな理由からだろう。嘘をつく人が信用されないのは当然として、嘘とは言えないまでも、コロコロ主張が変わる人も、嫌われるようだ。では、頑なさが重要かと言えば、そうでもないらしい。こう進めてくると、何が肝心なのか、分からなくなる。確かな基準があるわけでなく、何となくといったところか。
頑固と見られてはいけないものの、ある程度の一貫性がなければ、信じて貰えない。しかし、その一方で「狼が来た」の少年のように、同じ嘘を繰り返せば、誰も信じなくなってしまい、肝心な時に意味が無くなる。おそらく、信頼を得る為には、地道な努力が必要で、その場での正論だけでなく、全体の流れの中での首尾一貫した論理性が重要となるのだろう。正論はどんな場面でも通用するわけではなく、時と場合により微妙に変化する。一見正しくても、状況によってはそのままでは通用せず、ある程度の修正が必要となる。だからといって、修正が過ぎると、正論たる論理性が失われ、信頼を裏切る結果となる。言葉巧みに世論を操作することは、様々な場面で使われる手法だが、場当たり的な対応を繰り返すと、自らを窮地に追い込むこととなる。環境問題は公害という言葉が使われ始めた頃から、人間にとって重要な課題となってきたが、局地的な課題から世界的な観点を持つ話題へと転換し、問題の取り扱い方が大きく変化した。二酸化炭素が対象となり、その削減が課題とされた時、それを固定することのできる植物の存在に注目が集まった。凡庸な頭からは植林などの対策しか浮かばないものだが、有識者たるもの二捻りくらいできないとダメなのだろうか。植物を材料とした燃料は、植物が固定した二酸化炭素を吐き出すだけだから、削減できないとしても増加することにはならないと論理づけた。これも詭弁に過ぎないとする向きもあるが、こういう論理を展開する一方で、植物を紙の原料として使うことが、燃やしてガスを出すよりも良いとする論理が出てくると、首を傾げたくなる。一体全体、何が真実なのか。循環を考慮に入れると、何が起きるのか、もう巧言はいらないのだが。