パンチの独り言

(2008年7月21日〜7月27日)
(強欲非道、四面楚歌、規範意識、血脈相承、難易軽重、虚偽報告、鈍根利根)



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7月27日(日)−鈍根利根

 若者どころか、いい大人にまで、何をしたらいいのか分からないという人が増えているという。与えられたものをそのまま素直に受け取る人生を歩めば、そんな人格が形成されるのも無理無しと見る向きもあるが、果たして、外的な要因だけによるものだろうか。好奇心を育むことは重要だが、始めから無いのでは話にならない。
 小さな子供を見ていると、様々なことに興味を持ち、すぐに手を伸ばそうとする子がいる一方で、そういった行動が殆ど見られない子供もいる。好奇心が旺盛かどうかは、こんなところに現れると思うが、何故、これほどに大きな違いが生まれるのだろう。少し成長すると、前者は落ち着きが無く、扱いにくい子供と見なされ、後者は集中力があって、素直なよい子と見なされる。その後の展開を分析すれば、これが一時の判断の誤りであることが徐々に明らかになるが、周囲の大人たちは総じて、こんな感想を漏らすものだ。この傾向は特に近年顕著になっており、よい子かどうかが様々な判断の基準となる。暴れ回るのはどうかと思うが、少なくとも色々なことに興味を持ち、試してみようとする心があれば、種々の対応が可能となり、更にはそういった経験が後々生かされることにも繋がる。おそらく、好奇心が表に出ない子供にとっては、多くのことを学ぶことが無意味であり、勉強を続けるよりも、何か与えられた一つの仕事を継続することの方が、遙かに重要となる。以前は、こんな子供の生きる道が沢山あったのに、進学率の向上と共に、彼らの道が失われてきた。それが当たり前だと信じれば、生きることにも難しさが出てこない筈が、別の道を押し付けられ、却って重荷を背負わされる羽目に陥っている。これを外的要因と見なす人もいるが、この影響は彼らの生き方に響くだけで、彼らの無関心は元々内なるものなのである。それを誤解した挙げ句に、次々に新たな道を与えようとすることが、如何に間違った手法かをそろそろ考える時なのではないか。一方で、好奇心の芽を摘み、もう一方で、安定した心の形成を妨げる。今の社会の抱える問題は、こんなところにも現れているようだ。

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7月26日(土)−虚偽報告

 自分に都合の良いことであれば、嘘をつくことは構わない、と考える若者が増えていると言われる。そんな事件も数多くあるが、その一方で、いい大人が身勝手な嘘を繰り返し、私利私欲に走る事件も多発している。このことは、時代の変化で若い世代だけに異常な考えが蔓延しているわけではないことを示す。
 更に言えば、こんな身勝手さは今に始まったことではなく、昔から一部の人々によって為されてきたのではないだろうか。特に、定年間近の人々の悪行が露呈した時、彼らの行為は長年続けられたものが多く、経済停滞後に急増したわけでもないようだ。少しでも変化があったとすれば、それは悪事が露呈しそうになった時の周囲の対応で、昔なら放置されなかったことまで見て見ぬふりをし、更には荷担する人まで出てくる状況にある。昇進や地位の確保に走る人々にとって、仲間を作ることは重要なことであり、互いの悪事が露見せぬように努力する。それが組織の腐敗を招くが、彼らにとっては都合の良い環境となるわけだ。企業で営業成績を誤魔化したり、上司に取り入って昇進した人のことは、良く話題に出されるが、そんな下心とは無関係な世界にも、嘘の上塗りをする人々がいるようだ。研究者とは、研究のことにしか興味を持たない人と思われがちだが、最近話題になる人たちは、下心丸出しのようである。結果の改竄や様々な裏工作、まるで一般社会の丸写しとも思える嘘偽りの繰り返しにより、昇進を勝ち取った人々が次々に嘘がばれ、社会的な地位を失う。これが話題になるのは、ごく最近のことだから、それこそ時代の変化と思う人もいるだろうが、同じようなことは昔からあったようだ。大きな違いは、嘘だろうが真実だろうが、上げた成果を材料とした競争原理が、そういう人に勝利をもたらすことにある。一般社会で問題とされる歪みも、おそらく人間の変化から来るものではなく、そういう人間を優先する競争原理から来るのではないだろうか。競争は対等に見えるものらしいが、その実、バレなければどんな裏技を使っても良いという状況を作り、嘘偽りの温床となる。競争云々を論じる前に、見る目を育てる必要を感じるべきだろう。

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7月25日(金)−難易軽重

 省エネ、節電、様々な言葉が飛び交い、厳しく規制されている所もあると聞く。環境云々ではなく、出費を抑えるためとなれば、力の入り方も違い、労働条件として問題となりそうな雰囲気さえ漂う。そうなれば、考え方や景気の違いがより際立つことになり、組織の性質の違いが歴然としてくるわけだ。
 収支の均衡は経営の観点からすれば最重要な事柄だから、猛暑が続く中での室温の設定は大きな問題となる。企業では収支双方の増減が関係するから、人を集める場所などでは、単に高く設定することが良い結果を産むわけでもない。だから、ショッピングセンターなどはただ涼みに来る人でも、ついでに買い物をしてくれるのではないか、という思惑の下に、そういう人を誘う温度設定が必要となる。事務所などでは、全く違った考え方が適用され、働き手の問題だけが表に出る。ただ、ここでも営業職がいて、依然として背広を着て得意先回りをするとなれば、たまに戻った時の快適さを求め、一日中居続ける人々にとっては低すぎるところに設定することも多い。一方、公の場所では、収支の問題ではなく、まずは支出の問題であり、環境も含まれる。昼休みに照明を落としたり、室温が高く設定されるなど、様々な配慮が見える。しかし、中には首を傾げたくなるところもある。広い館内で、そこで働く人が集まる場所の設定は低めなのに、殆ど人が居ないところは冷房を入れてない。当たり前のように思えるかも知れないが、外から来た人間には、まるで自分たちの職場環境のみを快適にしているように映るから、中々難しいものである。本人たちは利用者のためと称するかも知れないが、人が居ないところを利用する人もたまには居て、その違いを不思議に思うわけだ。元々、建物の設計に問題があるとする向きもあるが、それにしても、何とかできないものだろうか。公だからこそしっかりすべきであると同時に、無駄な人間を省いたり、節電したりするだけでなく、仕事がきちんと進められなければならない。市民の厳しい目が光る中で、丁度良いところを目指すのは難しいことだから、こんな時代、いろんな見方が必要なのだろう。

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7月24日(木)−血脈継承

 人間関係は複雑なものである。付いたり離れたり、それぞれに様々な変遷を辿るが、血の繋がりの有無は大きな違いを産む。親子、兄弟の関係は、何があっても消えて無くならないし、だからこそ、強い絆で結ばれるというのだろう。社会がどんなに荒廃しても、それとは全く別の次元にあるということだろう。
 無償の愛と呼んだ人もいるが、従来、親にとっての子供はその対象となり、幾つになってもその絆を断ち切ることはできないと思われていた。しかし、最近の状況はどんなものだろう。自分より大事なものはない、という本心はさておき、自分中心の考え方が突出したようで、血を分けた人間さえも、他人と見なす風潮が強まっていると言われる。その一方で、無償の愛とは異質の溺愛が表面化する話も急増し、他人との関係だけでなく、血族との関係さえ危ういものとなりつつある。こんな社会問題が取り上げられると、まるで社会全体が同じ問題を抱えているように受け取られるが、実際にはほんの一部の異常に過ぎない。それがこれほど注目されるのは、事件の多くがこの問題を発端とし、問題を抱える人々が解決手段を全く持っていないことにある。正常な人間関係を築けない人々は、家族同士でも同じようにぎくしゃくした関係しか築けず、何が問題なのかさえ理解できない。凶悪な事件に発展するためにも、それなりの過程が必要であり、身近な人間に感じられる変化があるに違いない。それにさえ気づけぬ人々は、そこまで極端でなくとも、日頃の親子関係に異変を生じても、意に介さないように見える。小さな頃は誰しも、興味に走ることが多い。それが間違ったことでも、判断力の欠如が当然の年代だから、分別のある大人が注意しなければならない。にも拘わらず、身近にいる親たちは、子供たちの傍若無人ぶりを見て見ぬふりをし、社会性の欠如に無頓着となる。何かに熱心な大人ほど、他人の行為に無関心で、それが自分の分身でも同じとなる。親子関係が人生最初の人間関係とすれば、そこでの親の役割は、社会の役割とは比べようもないほど大きなものに違いない。

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7月23日(水)−規範意識

 眺めたことはないけれども、教室の乱れようは凄まじいらしい。突然立って歩き回る子供や何時までも喋り続ける子供、その有様に驚く人もいるだろうが、この問題の深刻さは、そんな状況に陥ってもなお、注意する素振りを見せない先生の態度に表れているようだ。大人と子供の関係の崩壊を如実に示している。
 学校の存在は、社会的な自立を目指す子供たちにとって、その準備期間を過ごす場所となる。それにより、家庭と社会という全く違った組織の間を繋ぐための橋渡しをするわけで、ここでの変貌が重要であることは、大人たちは皆知っている筈である。にも拘わらず、この状況が放置されているように見えるのは、何かが狂ったためとしか思えないが、現場の人々は目の前の問題を無難に纏めることに躍起となり、本質的な問題には触れずに済ませているらしい。実は、この問題の病巣の深さを感じさせる話があり、親や先生自身が人の話を落ち着いて聴けないということがある。大人が範を示す筈が、そうできないことに問題があり、真似事が好きな子供たちは、親たちと同じように勝手な行動をする。何故、このような循環が始まったのか、詳しいことは分からないが、現状については、こんな分析もあるらしい。これ以上に悪くなる可能性は低いと思うが、この問題を改善する手段は見当たらない。自らの行動を正すという、自己改革以外には思い当たらないが、当人たちが一時的な関わりとして、真剣に取り組まない態度が、改善を阻んでいると思える。他人と同じ行動をとることが第一となり、自らの行動を律する姿勢を失ったことが、こんな状況を産んだと言えるのだろうが、外からの作用でそれを矯正することは難しい。自分のことは自分で決めるという基本姿勢さえ失われた今、どんな手立てが自覚を促すことができるのか、難しさだけが目立っているようだ。それでも、自分が変わればいいとなれば、意識さえすれば容易なことだけに、まず、隗より始めるということなのではないか。鏡が無くても、自らの姿が見える筈である。

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7月22日(火)−四面楚歌

 少年少女が事件を起こす度に、親の責任を問う声が上がる。しかし、昔と違って、糾弾する声だけでなく、同情が含まれた意見が寄せられるのは興味深い。親子間の問題を複雑と考え、ただ批判するだけでは何の解決にもならないと、全般的な状況把握を目指すようだ。でも、何処か怪しげなところがあるように思える。
 凶悪な事件を起こす人間は、その精神が病んでいて、責任能力がないとする判断がある。鑑定による分析は、如何にも科学的なものに見えるが、専門家の間で議論が戦わされることは、全く違った様相を垣間見せる。その人間の育った環境の影響もあるが、先天的な要素が無関係とも言えず、どちらも親の影響下にあるわけだから、その責任を問うことは当然のように思える。ところが、最近の傾向はどうにも別の方を向いているらしく、分析はあらゆる面に向けられる。おそらく、社会的な制裁を恐れる余り、こんな的外れな議論が始められたのだろうが、批判は批判として受け止めることが必要なのではないか。その一方で、事件の背景を知りたがる人が世の中に溢れているように見えるのは、他人事としか思わない身勝手な人間性の表れであり、核心を突く議論より、的外れな出歯亀的論理が好まれる傾向にある。下らない論点を恰も高尚な学説のように垂れ流し、世論を誤った方に導く操作が繰り返されるのは、本質的なものを見抜く目がないだけでなく、あくまでも他人事として片付けたい気持ちが表面化しているからに違いない。興味本位であることは、事件が続出した時の、変わり身の速さから容易に知れ、一つ一つの背景の不十分な分析で満足し、新たな背景に興味を持つ。原因が何であろうとも、そこに一つの人格があり、それを形成する段階で関わった人々がいる時、そこには幾らかの責任が生じる。それを問う声が上がりにくくなったのは、同じ親という身で考えさせられる可能性があるからなのか、はたまた他人を労る心の表れか。いずれにしても、このところの馬鹿騒ぎには大いに辟易させられる。

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7月21日(月)−強欲非道

 ものを欲しがる心を欲望という言葉で表現することがある。友達が持っている玩具が欲しかったり、友人が使っているバッグが欲しかったり、幾つになっても、そんな心の動きに振り回されることがある。小さな頃には、他人の持ち物という感覚が無く、つい持ち去ろうとすることもあったが、流石に大人には通用しない。
 自分で自由に使える金を手にした頃からは、欲しいと思えば、額の多少によって迷うことはあっても、抑えきれない時には手に入れる。後悔することはあるが、それは手に入れなくても同じだから、余り大きな区別はない。兎に角、気が収まるかどうかが重要だから、何かの形で納得するわけだ。多額のものなら迷うことはあるが、それ程でもなければ、行動に出る。高級服飾品なら別だろうが、普段口にする食品となれば、大した額にもならず、ついフラフラと、ということもあるだろう。雑誌で絶賛されていたとか、番組で取り上げられていたとか、そんな程度のことで、長蛇の列に並ぶ気持ちは、短気な人間には理解できないが、総じて満足した顔で帰るところを見ると、それなりに意味のあることらしい。でも、と考えるのは、素直でないかも知れないが、果たしてそれ程のものなのか、更には、本当に味の違いが分かるのか、と疑いを挟みたくなる。一流店の紹介を続けている組織も、どれ程のものか、批判がある。人間は、先入観で動く生き物といわれるが、ここでもそんな感じが現れているように思える。評論家が高い評価を与えたとか、神業と言われる職人とか、枚挙に暇がないほどだが、味わうのは食べる本人の問題である。食品のブランド化は近年驚異的に進んでいるが、その理由の一つは、大衆が自らの判断の権利を捨てたことにあるのではないか。他人の話を鵜呑みにし、多数派に属そうとし、一切の評価が受け売りとなる。自我の喪失と言えるかどうかは分からないが、一つだけ、欲望という主張だけが残っている。これが様々な歪みを産み出したとするのは考え過ぎかも知れないが、大衆が自ら考えることを止めた時、どんな道を歩むのか、あの頃を思い出す人も多いだろう。

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