パンチの独り言

(2008年7月28日〜8月3日)
(街談巷説、人心籠絡、切磋琢磨、教育振興、無償無精、自他不二、温故知新)



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8月3日(日)−温故知新

 あの頃はよかった、とは年寄り達の言葉だけとは言えまい。生活が安定し、将来が見えてくると、名状しがたい不安が過ぎり、よき時代のことを思い出す。社会に船出し、様々な障害に立ち竦み、先々の不安から、責任を問われることの無かった時代を思い出す。現実逃避と思える行動だが、誰にでも起こることだ。
 個人的な懐古は、自己満足も含め、一時の落ち込みから回復する為に必要な行為だが、それに他人が手を回し、大々的に展開するとなると、話が大きく違ってくる。戦後の人口増加の時代に生まれた人々にとって、何かを目標に生きる時期は過ぎ、安定な日々の中で、思い出に浸る時間が増えている。彼らを対象に、昔懐かしい町並みを再生し、勧誘に力を入れる地域が急増した。それ以前に注目されていた、維新後の発展を扱った施設やロマンと呼ばれた時代の町並みなどは、それを目の当たりにした人々が既にいなくなった時代に作られたが、最近のものは、暇を持て余しそうな人々を対象とし、ただ懐かしく眺めるだけのものとなっている。多数を占める人々が常に優先されることは、それ以外の人々には何とも面白くないことだが、商売とはそんなものなのだろう。その中で、喜び勇んで出かける人々は、偽物を前に何を思い描くのだろう。懐かしいという思いだけで満足する人々には、偽物だろうが何だろうが、自分たちの思い出の中にさえあれば十分であり、その時代の意義や意味などは何の関連もない。儲け話に乗る人々にとっても、上辺だけのことで満足する人たちは扱いやすく、そこに歴史的意味や時代背景を含めるなどというのは、ただ余計なことに過ぎないのだろう。古いものを懐かしむことには、その良さを再認識することも含まれると思えるが、どうにもそんな風情はない。下らない偶像を求める心と同様に、自分の気持ちが満足すれば良いだけで、それ以上も何もあったものではないのだろう。

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8月2日(土)−自他不二

 屁理屈をこね回す人間は嫌われるようだ。話し合いでも、持論を展開することに躍起となり、結果として何の進展も見られないことがある。議論に要した時間は無駄となり、一切の調整が拒否されれば、次の機会にも期待できない。時に、的を射る意見を出すものの、総じて評価が低いのは、見通しが立たなくなることからくる。
 こういう参加者が歓迎されないのは当然だが、その状況を本人が理解できないことに、より大きな問題がある。論理的な思考を実施すると信じて疑わない人間にとって、周囲との軋轢はすべて相手の問題であり、自らは何の落ち度もないこととなるからだ。確かに、一面では論理の通った意見には誤りはない。しかし、様々な意見を集約し、全体として均衡のとれたものを目指すことを目的とした場合、たった一つの答えに執着することは、得策とは呼べないだろう。この手の人の多くは、依怙地になることも多く、他人の意見を拝聴することは少ない。自らの論理からすれば、その他の意見はすべて何処かに欠陥を持ち、役に立たないものに映るからだ。こういう人間と長く接してくると、時々面白いことに出遭う。全てとは言わないが、論理の破綻が垣間見えることがあるのである。つまり、自分の口から出る意見は常に正しいものの、よく似たものが他人の口から出た途端に、攻撃対象となる現象である。論理には絶対的なものは殆どなく、それぞれにある仮定の下でしか成立しない。自分の意見であれば、その中に必要な仮定も含まれ、何処にも疵がないように見えるのに、他人のものには異なる仮定が持ち込まれ、その結果、破綻を招くことになる。周囲から見れば、明らかに誤りに思えることでも、こういった人々は全く違った立場を築き、ごく自然な成り行きとして、正反対の結論を導く。一つの論理に執着する人を動かすのは容易ではないが、その一方で、こういう場当たり的な論理の展開を好む人は扱いに窮する。結局は、そういう人が入り込まないような工夫をすることが必要で、準備の成否がその後の展開を決めると言っても過言ではないだろう。

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8月1日(金)−無償無精

 ものが溢れてくると、それを売り込む為には、何らかの付加価値が必要となる。ごく当然に思える表現だが、本当だろうか。突然こんなことを言われても、おかしなところは思い浮かばない、という人が多いだろう。気になっているのは、付加価値とは何かで、当然と見なす割に、余り論じられていないようだ。
 価値と言われれば、金銭に結びつくものと解釈する人が居るだろう。そうなれば、付加価値とは値引きとなるわけだが、客を繋ぎ止める為の方策として、最近は金銭価値をもつ点数獲得が使われている。同じ店で購入すれば、値引きと同等の扱いを受けられるというわけだが、次々に新しい店が参入してくると何が何だか混乱する。値引きによる一発勝負と比べて、こちらは継続する体制だから、利点があるというのだろう。多くの業種がこの方式を採り入れ、人によってはその記録媒体を多数持っているようで、整理がつかなくなっているという。その一方で、交換条件を示さず、まずは客の購買意欲を高める為に、無料提供を行うところもある。お試しとか、返品可能とか、そんな形での勧誘が盛んになり、成立するのかと心配する向きもあるが、生き延びているところを見ると、うま味があるようだ。マメな人間ばかりでなく、請求したものの返送は面倒、という人の割合がある程度あるからなのだろうが、おかしな売り込み方である。ただ、最近の傾向として、兎に角お金がかからないことを第一条件にする人が増え、ただと聞けば走るという話をよく聞く。節約の為という解釈もあるようだが、時間の無駄などを考えれば、必ずしもそうでもない。それに、与えてもらう立場に自分をおくことに気持ちがいくばかりなので、他人に対して何かをすることが極端に少なくなった。交換条件を求める傾向が高まり、incentiveなる言葉も頻繁に聞かれるようになった。他人には無償を求め、自らは報酬を求める。何とも世知辛い世の中になったが、この考え方が大勢を占めるようになると、様々な弊害が生じるのではないだろうか。既に、そんな状況も散見されるが、これといった対策もなく、主張する人間の勝ちだけが目立つようだ。

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7月31日(木)−教育振興

 夏休みになると思い出すことがある。地元の教育委員会の建物の周りに列を作って、沢山の人が並んでいた光景だ。夏休みの休日に開催される理科教室への申し込みには、驚くほど多くの人が殺到していた。最近の狂気に満ちた親たちの行動と、少し違っていたかも知れないが、子の為という気持ちには変わりがなかった。
 楽しいことができるという以外に何も思い付かなかったが、後々話を聞いてみると、こんなことが地方都市で行われていたのにも理由があったようだ。科学技術立国などという言葉がまだ無かった頃、そして、戦後の混乱がやっと落ち着き、隣国での戦争を契機とした経済復興が軌道に乗りかけた時、次世代を担う人々の育成の重要性が強調され、ある法律が制定された。それは、今時流行の経済でもなく、労働経験でもなく、理科を中心とした科学の教育を推進する為のものであった。まだ貧弱だった学校の設備を整え、様々な催しを開催する為の資金は、その重要性から国がある程度負担するというもので、自治体の税収によらず、全国各地に同等の措置が為されたようだ。それをきっかけとして、実験設備が整えられ、小中学校での理科実験に力が入れられたようで、日曜理科教室もその一環として企画されたもののようだ。講師は理科教師が担当し、始めのうちは手弁当で集まっていたのではないだろうか。そんな法律があったからこそ実現した試みは、今でも続いており、二代目三代目の教師が子供の頃の経験に基づき、教える立場に立っていると聞く。こんな話をすると、補助金があったからこそという声が聞こえてきそうだが、その通りの部分とは別に、最近の学校が全く違った方に向かざるを得ない現状は、違う原因から来るものと思える。一つには、その後何度も改正があったとはいえ、依然として同じ法律が存在しているし、その理念は失われていないにも拘わらず、現場ではそちらに向かう力が衰退していることがある。子供の問題だけでなく、親にも、教師にも問題があり、全体として悪化の一途を辿っているようだが、それを憂う声が聞こえてきても、根本対策は未だに見つからない。そんな時代じゃない、とは、制定当時にも発せられた言葉なのだろうが。

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7月30日(水)−切磋琢磨

 生産者は自分の生産品に誇りを持ち、その良さを訴えようと努力する。品質の良さには、色々な側面があり、その特長を際立たせるために、様々な手段を講じる必要がある。一度認められてしまえば、後は簡単なものだが、そこまでの道のりは長く険しい。だからこそ、有名品の模倣がこれほどまでに横行するのだろう。
 品物は自分自身で発言することはないから、それを作った人々が説明することになる。しかし、商品と呼ぶと語弊があるものの、人材となれば話が違ってくる。自らの能力や素質などを自身で訴えることになるわけで、その訓練に携わった人間が関わる必要はない。しかし、自己評価はあくまでも主観的なものであり、必ずしもすべてが信用できるわけではない。選抜をする人の目による判断も重要となるが、ある程度長い時間眺めた人の意見が重視される場合も多い。客観的な意見が重要となるのは、本人の意見との相違から、評価の力や判断力をも見極められるところにあるのだろう。その一方で、人材が輩出される場所の評価も、生産地の評価と同様に重視されることが多い。大学のランク付けはその典型であり、入学時の学力が本人の実力と見なされることから、多くの企業はそれを第一の基準とおくようだ。但し、それだけでは不十分ということで、特にバブル崩壊以降については、更なる吟味を繰り返すようになっている。そのためか、就職状況の好転以降も、一部の学生は苦しい立場のままのようだ。就職のためだけの進学では、何の目標もなく、ただ漫然と学生生活を過ごすわけだから、何の変化も訪れない。問題意識さえ変わらぬままに、自らの宣伝をしたとしても、大した効果は上がらないだろう。本来ならば、生産者たる人々が手塩にかけて育て上げるべきなのだろうが、本人にその気がないのでは難しい。農産物との違いはこんなところにあり、単に環境を整えるだけでは不十分ということになる。気持ちの問題と片付けるのは無理があり、気力の話にするわけにもいかない。野菜や家畜の気持ちと比べても無駄なことは明白だが、不良品として廃棄できないのだから、困ったものだ。

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7月29日(火)−人心籠絡

 本当の意味は知らなくても、物価の高騰の意味で使われることだけは、誰でも知っているだろう。そんな言葉を様々な場面で使い、経済状況を悪化させないように、あらゆる手段を講じるのが、経済の動静を探り、管理しようとする機関の役割だろう。今では、国単位だけでなく、世界規模での調整が重視される。
 その影響力に陰りが見え始め、誰の目にも物価の上昇が明らかになった時、小手先の調整の限界が見えてきた。かといって、別の方法があるわけではなく、これまで同様の梃入れを続けるしかないわけだが、この苦境の打破にはしばらく時間がかかりそうだ。一般市民はその間も生活を続けなければならず、政府や様々な機関に対して、緊急的な措置を含む、画期的な策を期待するしかない。ただ、このところの流れからは、新たな方策が出てくる気配はなく、更なる苦難が待ち受けるような情報ばかりが出されている。こんな中で、将来に明るさを取り戻すきっかけが与えられる筈もなく、先行き不安が様々な形で表れているところもある。ここまで、物価上昇を抑えるために繰り出された手法は、ここに来て限界を迎え、これまでに蓄積していたものも含めて、大きな力となり膨張している。収支の均衡を保つ方法もあり、それについての検討を急ぐべきだろうが、その一方で、年金生活者のような収入が変化しない人々への対策も怠るべきではない。これまで、漫然と進めてきた政策が、ここに来て、これほどの破綻を見せるとは、誰も予想しなかったのだろうが、何時か何処かで、こんな事が起きるのは分かっていただろう。このような状況下で、農産物の輸出入規制に関する話し合いが行われているが、ここまで維持してきたやり方を頑なに守ろうとするだけでは、農産物だけに限られない、経済全体の問題を解決することには繋がらないように思える。この際、今一度問題を整理した上で、交渉に臨む必要があるのではないだろうか。

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7月28日(月)−街談巷説

 猛暑に慣れるということはないが、気温の数字自体には既に麻痺が始まっているようだ。観測地点が増えたことにより、昔とは状況が変わっていることもあるが、それにしてもこの暑さはどうしたものか。温暖化の主張のためには有利なデータで、関連づけられるものの、仕組みとの関係はまだまだ分からぬままだ。
 慣れには体だけが関わるものと、そこに頭の作用が被さるものがある。風呂の温度や気温などは前者の例だが、社会状況の変化などは後者に当たる。噂話に振り回されるのは、それに対する理解や怒りなどの感情の変化によるものだが、体と同様に頭も徐々に麻痺してくる。同じような話や事件が多発すれば、最新のものだけに注目が集まり、古いものから忘れ去られていくのは、おそらくそんなところから来るのではないか。このところの類似事件の頻発についても、これに類似した変遷を辿り、下らないことを大袈裟に捉えるのみならず、恰も社会全体がそれに犯されているかの如くの捉え方が為される。異常を強調したがる人々は、自らへの注目を集めたがり、それが流行病のような説明を為す。言い訳を欲しがる人々には、病気は最大の材料であり、それが切り札となるから、根拠のない話でも急速に伝搬する。自分たちがまともであることの確認とするのだろうが、それにしても、あまりに杜撰な話が多すぎないか。移り気は嘘偽りが発覚する前に逃げようとする人々には好都合で、今の世の中がまさにその典型となっているようだ。議論に加わる気もなく、ただ単に噂話を流し続ける人たちには、責任感は欠片もなく、騒ぎの渦中にいることに意義を感じる。平和とは、そんな輩を放し飼いにするためのものかと思えるが、果たしていつ頃までこんなことが続くのか。異常な人間が続出するのも、おそらく平安な時代の特徴の一つであり、それを殊更に重要視するのも、そんなところから来るのだろう。こんな時代の問題を見極めながら生きるために、冷静な分析を伴う視点があれば十分であることに気づくべきだ。

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