人間は自分たちだけを特別な存在と思いたがる。ギリシャの哲学者たちの解釈は頭の中だけのもので仕方ないとはいえ、それから何千年も経過し、数多の情報が寄せられたにも拘わらず、未だにその勢いは衰えない。その証しの一つが、擬人化という考え方に表れている。全てを自分たちに当てはめようとするのだ。
鳥の親子関係を考える時に、人間との比較が入ることは良くある。更に、夫婦関係に至っては、鴛鴦を例にとれば解るように、確かな絆で結ばれていると思われてきた。ここに来て、子孫との血縁関係を探る研究が進み、鳥類でも固定された夫婦関係ばかりでないことが判り、見た目で騙されていたことが明らかとなった。人間による解釈はその程度のものだが、一方で、新たな発見があった場合にも、そこには擬人的な表現が鏤められる。この辺りがやり過ぎと思える点で、生き物が起こす行動に、類似点を求める必要があるかどうかは、定かではない。ただ、その一方で、こんな遣り取りの末に、人間のみの特異点を殊更に主張する人々がいることにも、かなりの抵抗を覚える。確かに、知能の点だけでなく、文字や言葉といった特殊な媒体を介して、意思疎通を行う生き物は人間だけだろう。しかし、意思疎通そのものは、殆ど全ての生き物に存在し、極端なことを言えば、細菌にだってあるかもしれないのだ。意志とか、考えと言えば、人間の専売特許のように思われるが、原始的な形態をも含めれば、そういう解釈ができなくもない。共通点と相違点を並べ、そこから人間の特殊性を際立たせる作業は、自分の考えを表明することが行われ始めた時代から、綿綿と続けられてきたに違いない。その中で、理解や説明が不能な事柄が出てくると、神秘という言葉で片付け、本能の成せる業という表現が使われた。確かに、身近にもそんな例が溢れており、朝夕に鳴くヒグラシにも不思議がある。日の出前、日の入り直後に声が聞こえてくるが、天候に関わりなく続く声には、どうやってその時刻を知り得たのか、という疑問が出てくる。時計をもつと言われるが、このところの日の出没時刻は毎日ずれているから、時刻合わせが必要に思える。不思議と片付ければ良いだけのことだが、こんなところにも生命の神秘が潜んでいるのかもしれない。
銭転がしは悪いことか。流石に表現が悪いから、そんな印象を与えるので、資産運用と呼ぶことにしよう、となったかどうかは定かではないが、基本は同じことだろう。ただ、日銭を稼ぐ為に、違法行為すれすれのことを繰り返すか、はたまた、普通の分散投資に励むか、といった違いがあるだけではないか。
投資家自身から見れば、この程度の違いしかないが、彼らを客として扱う人々にとっては、如何に多くの魅力的な商品を作り出すか、更には新商品の特長を如何に際立たせるかが重要となる。金が絡むものでは、当然のことながら、どれだけの利ざやが稼げるかが最優先となる。そのために、あれこれ工夫をし、成長率の良いものを売り出すことが必要である。しかし、全体として一つの器の中にあるものの中で、突出した成長を遂げるものがあれば、その分、衰退するものが出てこなければならない。ごく自然な論理であるが、器が十分に大きければ、問題を生じるまでの時間が十分に長くなり、商品開発の観点からは問題なしと扱われるようだ。自由に動かせる金が大した量に満たなかった時代には、まさにその通りの状況が展開していたが、様々なところで金余りが目立ち始め、その行き先を血眼になって探し回るようになると、新商品の寿命は極端に短くなり始めた。その一方で競争は激化し、次々に登場する商品は、その成長率の高さで競うようになる。同時に、安全性を論じる声も上がるが、そちらでは如何にも怪しげな論理が展開され、何十年も前の状況を引き合いに出すことで、限界を見せない工夫がされた。旧来の商品についても、同じような現象が起き、以前ならば、異常な金の流入がなかったところへ、次々に押し寄せる流れに戸惑う場面が急増している。経済原理を説く人々の頭の中に、ある重要な要因が欠落していることに、一般の人々も気づき始めたと思うが、依然として、金の海の中で漂う関係者たちは、夢を追い求めている。悪質化する手口もさることながら、商品自体に落とし穴が隠されていることは、これらの考え方が根本的な誤りを抱えていることを意味するのではないだろうか。
差別を嫌う人が多い為、最近は区別という表現を目にするようになった。根本は同じだが、違いによって分けるだけか、そこから何らかの待遇の違いが生まれるか、が違うのだろう。しかし、言葉を換えたからと言って、すぐに理解されるわけでもなく、また違う扱いをする人が減るわけでないのではないか。
元々、理解を進める為に、区別を使うことは多かった。しかし、それが偏見を産み、続いて歴然とした差が生まれるに至ると、差別と表現される状態になる。そこで、差別解消の為の方策が講じられるわけだが、根底に区別があるわけだから、差を全て無くすことは難しい。ある違いを解消しようとすれば、別の違いを生じ、それが差となるわけだから、複雑なこととなる。女性の社会進出が取り沙汰された頃から、継続的に取り上げられている話題も、同じような問題を扱ったものだが、これまで実施された対策の殆どは、大した効果を上げられなかった。この問題の難しさは、性差別を扱うとはいえ、そこにある性の区別は歴然としたものであり、先ほど取り上げた根底の区別が明確にあるからだ。役割分担の声も一部では聞こえ、この国よりも昔にこの問題が表面化した国では、一部で正反対に向かう動きも目立ち始めた。社会の事情によるところも大きいとはいえ、これらの問題の多くは、本質を取り上げることなく、上辺の問題とその解決のみに話題が集中することから生じている。また、差別解消が逆差別を産み出す問題も拡大しており、まるで振り子の振れが徐々に大きくなっているように見える。既に、何年もの間、問題が議論されているにも拘わらず、こんな状況に陥っているのは、時宜にかなう対策ばかりを追い続けているからであり、表面的な問題のみを取り上げようとする、一種の人気取り的精神に問題があるのだろう。これだけでなく、社会問題全般に言えることだが、付け焼き刃しか持たない人々が、重要な役割を果たしている現状では、致し方ないと言うしかなさそうだ。
恵みに感謝するとは、信心の基本とされるものだろう。信じる対象を持つことは、多くの苦難を乗り越える為の原動力となると言われる。日々の暮らしに必要なものが足りない環境では、恵みという施しも十分に意味を持ち、それが対象を想起させる力となる。しかし、飽食の時代となり、そんな感覚は消し飛んでしまった。
純粋な精神から生まれる感謝の気持ちと違い、ものが溢れる中で欲望を満たそうとする心は、明らかに汚れたものとなる。物質的な満足と精神的な満足の違いを説く人々は、そこから生まれる渇望を純粋なものと扱うようだが、一部の宗教の動きからはそんな気配は見えない。与えられることが当然となれば、恵みへの感謝は薄れ、求める気持ちさえ萎えてくるらしい。信心とは別のものだが、成長過程で多くのものを吸収しようとする時、同じようなことが現れているのは、心と欲望という共通項によるものだろうか。物足りなさを感じながら育った世代は、自らの欲望を満たす為に、様々な努力を重ねた。技術を盗むといった行動も、そんなところから生まれたものに違いないが、多くを与えられて育った世代は、全く違った態度をとる。全てが何処かから降ってくるのが当然で、自ら選ぶ必要もなく、目の前に整備された道が続くように考えている。欲望という生存の為に必要不可欠な感覚を持たずとも、いつの間にか心を満たすものが与えられるのでは、そこに自主性など生まれるはずもない。ただ、そんな世の中にあっても、様々なことに興味を示し、その心を満たす為の独自の努力を重ねる人々がいる。本当の意味での勤勉さは、こんなところに生まれるものであり、貴賤や貧富の違いによるものではないのだろう。環境に左右される心の動きは、実際には不安定なものであり、障害に直面した時に弱さをさらす。そんな人々に溢れんばかりの奉仕を施すのは、おそらく無駄なことなのだろう。
早朝に、近くの川からサイレンの音が聞こえてくる。続いて音声が流れ、増水を知らせるものであることが分かる。上流のダムの放水なのか、それとも流域の豪雨によるものなのか、知る術もないが、自動的に危険を知らせる仕組みがあるのだろう。まさか、日の出前に川原に下りている人も居ないだろうに。
危険察知は生き延びる為に必要な能力の一つであり、進化の過程で選ばれたものという話がある。様々な危険がある中で、向こう見ずな行動を繰り返す個体は、命を失う可能性がそうでない個体に比べて高く、長年の淘汰によって、前者の性質を持つものは減り、後者が増える傾向にあるという解釈だ。心配性を悪い性格のように扱う人々には、こんな性質が淘汰の対象となるという話は、信じがたいものかも知れないが、過度な心配性が精神を蝕むのと違い、ある程度の危険察知は危機回避に必要なものに違いない。その点からすると最近の人間の行動は、この能力の減退を想像させる。大地震の後の津波に関する情報が流れるまで待機するとか、避難に関する情報を無視するとか、指示待ち体質と楽観派が急増し、そこには個体が持つべき危険察知能力が消失したかのような状況がある。昔、山歩きをしていた時に大きな丸い岩のところへ出た。頂点の辺りには沢山の人が居たが、そこから下に向かうと人が殆ど居なくなり、傾斜が険しくなってきた。何処にも柵はなく、危険を示す線も引かれていなかったが、何となく気になって引き返すことにした。どうなっていたのかは調べもしなかったから、ひょっとするとすぐ下にコースがあったのかも知れない。しかし、そこで危険を冒す必要はなかったわけだから、この選択に間違いはなかったのだと思う。特に、こんな例を引くまでもなく、人それぞれに後で考えればということはあると思う。もし、それがないとしたら、事故に巻き込まれることは他人事ではなく、明日にも起きうることなのかも知れない。
熱に浮かされると、他人の忠告など耳に入らない。そういう状態を表現する言葉で、元々は余り良い意味に使われなかったのではないかと思うが、最近はそうでもないらしい。あることに熱中すると、それについての知識の高さが評価され、一目置かれることになる。何もする気にならない、よりはましということか。
しかし、熱中する余り、他人に迷惑をかけるようになったり、事件を起こすとなると話が違ってくる。同じような欲望の表れの筈が、前者はある部分で評価されるのに、後者は全く役に立たないものとして切り捨てられる。何についてもそんなものには違いないが、子供の頃の収拾癖がそのまま居残った人々については、この両極端の扱いに戸惑うのではないだろうか。しかし、個人の趣味の域で留まるならば良いものの、これがある程度の数を伴う行動となると、心配になる部分も出てくる。彼らの全てが狂気に走るわけではないが、そんな方向の異常さの表面化は過剰反応を引き起こすし、熱病に冒された人々の異常行動と比較するわけではないが、一部のマニアの行動には理解しがたい部分がある。これが集団となれば、群集心理に躁病的な要素が加わり、極端な行動が引き起こされる場合がある。そうでなくとも、群衆行動には予想しがたい部分があり、多数の死者が出た話がしばしば聞かれるわけだから、問題が起きる可能性は常に存在するのだろう。一部の報道では、管理者の問題を指摘する声も聞こえるが、人の群れを相手にした時、どの程度の規制が可能だったのか、考えてみた方が良いと思う。今の風潮は、一般市民は全て何も知らない集団であり、彼らを管理誘導する必要があると考えるようだが、この考え方に疑問を持つ人は居ないのだろうか。自己管理が強調される一方で、こんな考え方が当然のように取り沙汰されるのは、大きな矛盾に思えるが、そんな食い違いは御都合主義の現代社会にはごく当たり前のものなのかも知れない。
出版物の売れ行きが頭打ちになり、下降線を辿るようになると、業界の動きが慌ただしくなった。企画の面白さで人気のあった出版社が負債を出して潰れたり、大手の取次店が消えたのもその頃のことだ。そんな状況にも拘わらず、実は出版物の数は増えているという。何とも不思議な現象だが、この業界特有の事情によるのか。
独自の道を進んでいた出版社が斜陽になる頃、その兆候が現れていたように思う。企画力の低下が目立ち始め、面白さを追う余り、奇を衒ったものが目立ち始めた。そうなると、題材の極端さよりも、内容の偏重が極まり、井戸端会議や根も葉もない噂に似た話が増えてくる。この出版社に限らず、数を増やす方針への転換は、内容の質の低下を招き、議論の質だけでなく、言葉そのものの質さえも落とす結果となった。本来、出版される為には多くの人の目を通す必要があり、それによって、誤解を招く表現や誤りが訂正された上で、万人の目に触れる場所に引き出されていた。ところが、数を増す為には一つ一つにかける時間を短くする必要があり、人の目が少なくなるだけでなく、注意散漫な状況での点検となってしまった。編集者の能力の低下も大きな要因の一つだろうが、手間を減らしたことが最大の要因なのではないか。となれば、内容の吟味に及ぶことは殆どなく、言葉遣いに対する配慮も無くなる。まるで、ネット上にばらまかれた悪質な主張と見紛うほどの偏見に満ちた内容が、拙い文章で綴られることとなる。そういえば、その頃からネットを起源とする出版が盛んになったのも、そんな背景によるものかも知れない。文章力を向上させる為には、まず本を読むことと助言する人は多いが、この体たらくにその程度の言葉では舌足らずとなりそうだ。よく吟味した上で、優れた表現と内容を併せ持つものを推薦しないと、逆効果となりうるからだ。しかし、今の本読みの質の低下は、こんな副産物の期待を失わせるかも知れない。漫然と文字を追い、内容を掴む能力も、表現を吟味する能力も持たない。客の質が招いた結果だが、それに乗じる商売をするようでは、業界の衰退は食い止められるはずもない。