最近、地域の取り組みが目立つようになってきた。その規模や範囲も様々だが、自分たちの住むところを中心とすることには変わりない。寝に帰るところ、と呼ばれた時代には、誰も地元に愛着を持たず、そんな中で育った子供たちには、何処か歪みが現れていた。今更遅いと言わざるを得ないが、反省のつもりか。
過去の過ちを認めた上で、何かを改めようとする動き、と捉えたくもなるが、現実には、まだまだ認識不足であることは否めない。一つには、地域で次の世代を育もうとする話など、如何にもいい話に見えるものの、内容は何とも杜撰なものだからだ。以前は、近所の人々が子供たちを見守っていた、という話を引き合いに出し、そのことの大切さを説く人々がいる。それを否定するつもりもないし、実際に効果を上げていたと思うけれども、それは自分たちがある程度のことをした上でのことであり、何もかも他人任せにしようとする話ではないのである。子供の育て方の問題で、他人の手を借りねばならないことは、時に起こるだろうが、現状は、自分の手は動かさず、他人に頼ろうとする形であり、そんな連中の考えることは如何にも自分中心なのである。子供が注意された時に、怒りを露わにする親は減ったのかも知れないが、それでも子供を叱ることはしない。何ともふざけたものと思うけれども、褒めて育てることを推奨する本が巷に溢れているように、善悪の区別もなく、叱ろうともしない。そんな態度で子供に接する人々が、他人に叱らせて、何を思うのだろうか。これが歪みを解消するとはとても思えず、これから先も、暫くは劣悪な状況が続きそうに思える。どうせ他人事だから、と言ってしまえばそれまでだが、近所で起こる凶悪事件の話を聞くと、心穏やかにはいられない。まあ、どのみち、そんなことが起きるのは稀だから、とするしかないわけだが、この流れ、何処に辿り着くのだろうか。
渇望という言葉はもう使えないのだろうか。何もかも満たされ、欲しいものは訴えさえすれば手に入る。そんな時代に育った子供たちは、手に入れる為の努力やそれまでの心の葛藤などというものに無縁なのだろうか。実際には、環境に左右される大多数と、それと無関係なほんの一握り、そんなところだろうか。
世間の状況を把握する為には、どんな割合の人間がどんな風に分類されるかを知る必要がある。ごく当たり前のことだが、よくよく考えてみれば、多数が兎に角全てであるということに繋がる。しかし、現実に世の中がどう変わるのかを見れば、ほんの一握りの人々がその趨勢を決めていることが判る。そうならば、世論調査は単に受け身の人々の動向を見るだけのことであり、今後の流れを見る為には、殆ど役に立たないのではないか。にも拘わらず、何処を見ても多数意見を重視し、下らない流行を追い掛けることとなる。子供たちの動きにしても、全体としては物質的満足ばかりが強調され、精神的な不満や未熟さが歪んだ形で表面化していることを問題視する。しかし、将来重要な役割を果たすだろう人々は、そんな馬鹿げた状況には大した反応もせず、我が道を行くを実践しているのだろう。適材適所を考えれば、下らないことに執心し、即物的な欲望を追い求めるだけで、満足してしまう子供たちは、将来、特に目立つわけでもなく、日々平凡に暮らせればいいわけで、取り立てて心配する必要もない。却って、こういう連中に注意を奪われ、肝心な少数に力を入れない現状に、憂慮を抱く人々がいるだろう。確かに、扱いにくい子供たちであり、様々な点で心配が募るのだろうが、温かく見守ってやることが必要なだけで、余計な手出しや軌道修正に精を出すべきではない。その辺りが、最近の歪みの源となっているように思えるし、少し視点をずらすだけで見えてくるものが多いのに、何故、それができないのか。人の心の状態が非常に不安定になり、それが過剰反応を産んでいるということなのかも知れないが。
産湯の盥の縁が見えた、とはある文豪の言葉だそうな。その真偽のほどは定かではないが、ことほど人の記憶とは不思議なものである。まずは、人それぞれに覚えていることが大きく異なり、たとえ、同じ現場に居合わせたとしても、見えたものが全く違うようになる。その上、脚色されるとなれば、さて何を信じれば。
精神に支障を来した人や、犯罪者に対して、その深層心理を探る為に、昔の記憶を辿ろうとすることがある。それによって、家族から性的虐待を受けたとか、昔の心の傷を暴き出すわけだが、一時話題になったほど、最近は取り上げられなくなったのではないか。余りにも多くの事例が噴出したことが、その日常性を際立たせる結果とはならず、逆に、手法の脆弱性を明確にする結果となった。誘導尋問とまでは行かないまでも、何かしらの誘導が存在し、そこにある意味の脚色が施されることは、完全には否定できない。次々の暴露される話には、ついつい尾鰭がつけられ、その異常さは高まるばかりとなる。こうなれば、話題性の獲得という目的も手伝って、衝撃的な内容を抉り出そうとする努力ばかりが報われることとなり、結果、空想や捏造といったことに基づく内容が流されることとなる。子供の頃の記憶は鮮明な部分があれば、それはかなり信用性が高いと言われるが、その源が本人の観察や経験だけによるものか、はたまた、周囲からの情報提供に基づくものか、という区別は容易ではない。始めに取り上げたものも、異常なほどの記憶力を示す人間の言動だけに、信用する向きもあるのだろうが、これだけは肯定も否定も簡単にはできない。それでも、本人にとっては、その記憶は確かなものであり、場合によっては拠り所となる部分も大きいから、それを下地にして、その上に様々なものを築き上げる作業が行われる。それがその人の人となりを決めるとなれば、たとえ創作に基づくものでも、重要な要素となるわけだ。事実かどうかを問題にする向きもあるが、現実にはそんなこととは無関係に、肝心なことが動くわけである。
珍しいものを見た時の反応は人それぞれである。すぐにそれと気づく人がいる一方で、全く気にも留めず、興味を示すこともない人がいる。この違いが何処にあるのか分からないが、知識とは別の何かによる違いなのだろう。これだけとは言えぬまでも、詰め込み教育を終えた後、役立つのはこの能力なのかも知れない。
興味を示すことの大切さが取り沙汰され始めたのは、教育の現場で傾向と対策の整備が十分に為された後だった。これと決められた道筋を歩めば、成功に繋がるという方式は、誰もがある程度の成果を得られるものとして、現場では重宝されたのだろう。しかし、金太郎飴の如く、個人差を無くし、右に倣えの方式が際立ってくると、そこに様々な弊害も現れてくる。違いを楽しみにする人だけでなく、様々な責任にさらされる場所では、この類の人々に活躍の場はない。同じことを無難にこなす仕事であれば、彼らの能力は存分に発揮されるが、少しでも変化が生じると、途端に破綻を来すからだ。如何にも矛盾に満ちたことには、こんな中で独自性を追求する教育が導入され、二律背反の典型とも言える状況が築かれた。元々、独自性を教育することは不可能であるとする立場の人々からは、痛烈な批判が浴びせられたが、それでも信念に基づく動きは止まらなかった。結果は、予想通りの破綻となり、その他の要素を交えて、現場は混乱の極みに陥った。そこで、難しいことを回避する手段が講じられ、一種確実な手法のみが生き残ることになったのは、何とも情けないとしか言えない。問題を生じた根源を残し、それを解決する為の手段を葬り去ったことは、結果として、教育の無力さを露呈することとなり、模倣の乱立が顕わとなった。皆と違う行動は忌み嫌われ、素直と呼ばれる模倣者のみが優先される仕組みでは、種々雑多なことが起きうる社会に適応不能な人々が、大量生産されるだけのことだ。そんな無理難題が山積した中で、たまたま生き延びた異端者たちが、その能力を発揮するに至り、何かに気づいたとしても、また同じ失敗を繰り返すのみである。問題の本質を捉えられない人々には、永遠の課題が目の前に立ちはだかる状況に変化はない。
ちょっとずれてしまったが、「幾つかの水たまりを残して」と始まる歌を思い出した。ある年代だけに思い出として残る歌だが、朝老人二人が庭先で一緒にいるのを見て、ふと思い出したのである。一人の手には、橙色の実をつけた枝が握られていた、鬼灯である。ほおずき市は7月に開かれるから、少し遅いか。
あの大きな袋に入ったテカテカと輝く実を取り出し、更に中身を取り出して口の中で鳴らす、そんな遊びが流行ったのはいつ頃か。最近もたまに話題になることはあっても、そんな光景を目にすることはない。鳴らすのは海ほおずきの方だとの意見もあるが、難易度の差はあれ、どちらも鳴らせるそうな。語源には諸説あるようだが、それにしても植物の名は難しいものである。子供の頃の理科教室で、ある著名な植物学者の弟子という人の説明を聴きながら採集をしたことを、今でも覚えているが、淀みなく次々出てくる草木の名に、驚いたものだった。図鑑を見ると、名前を探す為の手順が紹介されているが、不明なものを探す時にはそうするのだろう。しかし、専門家たちはそんな手順を追っていないように見える。次々と名が自然に出てくるのであり、分類の過程はその後の説明で紹介されるだけのことだ。野山を歩く時に、そんな人と道連れだと、楽しい時間を過ごすことができる。しかし、何度そんなことを経験しても、名前を覚えられない人は沢山いる。おそらくそちらの方が大多数であり、そんな状況だからこそ、草木の名前をよく知る人は尊敬されるのではないだろうか。興味があれば、記憶することは難しくない、と言われるが、興味の具合にもよるだろうし、事典のように整理された形で記憶する為には、やはり何かしらの要領がありそうだ。花が咲く季節ならば、要素が一つ増えるけれども、そうでない時には更に難易度は増す。まして、樹木となると軽い眩暈を覚えてしまいそうだ。少しは努力する気にはなるものの、すぐに諦めの境地に陥るのは、何かが足りないからだろうか。
タダ、と聞いた途端に飛びつく。そんな人が周囲に一人は必ずいるだろう。何も支払わなくとも、何かを手に入れることができる。手に入れたければ対価を支払わねばならないという時代には、嬉しいものに違いない。しかし、無料奉仕にはそれなりの仕掛けがあるとも言う。ただより高いものはないということか。
独り言を残しているサイトも無料である。広告が入るから、という理由が書いてあるが、それが何かの役に立っているとも思えない。一方、最近流行のブログはそういったものも見られず、一体全体どんな仕組みになっているのかと思う。何か大きな商売が行われる序でに、そんな奉仕があるというのだろうが、不思議なものである。しかし、無料に惹かれる人々は急増しており、それが当たり前のことのように思いこんでいる節がある。最近、独り言の更新が滑らかに進まなくなった。ここ数週間続いていたが、やっと管理側が気づいたらしく、言い訳のような言葉が貼り付けられている。タダだから仕方ないと考えるのではなく、タダでも最低限の管理が必要と考えれば、これもまた当然のことに違いないが、無料が当然と考える人々の中には、更なる奉仕を求める人もいるようだ。対価の感覚が失われつつある状況では、あらゆるものに二極化が見られるようになる。つまり、支払いの必要性の有無が問題とならず、特に公共的な奉仕に対して、不払いが目立ち始めているのだ。交換条件として、当然の如く費用の支払いをする人々がいる一方で、罰せられないことを良いことに、知らぬふりを押し通す人々がいる。彼らの頭の中に何があるかを知る由もないし、そんな異常な考え方を理解する術もない。しかし、こんな連中が世に蔓延る状況には、何処か根本的な歪みがあるとしか思えない。自由と責任とか、権利と責任とか、そんな言葉が並べられる一方で、こういう暴挙が看過される社会には、一方的な責任の転嫁と回避が罷り通っているのだろう。これは、社会的な制裁が、奉仕と同様に目に見える形になるべき時が来ていることを意味しているに違いない。
お上の言いなりになっていた時代は遠く過ぎ去り、自主独立の時代と言われる。自らの好むところに従い、自らの道を切り開くというわけだが、それに伴って、責任の所在も移ることとなった。自己責任とは、ある業界で頻繁に聞かれる言葉だが、本来の意味とは異なる場面で使われることの方が多いのではないか。
保険とは、急な病に倒れたり、大黒柱を失った時の備えとして、一般大衆にも普及する制度だが、元々は商売上の備えとして考え出されたものである。それが販路拡大の結果、一部の限られた人々だけでなく、その他大勢に対しても当てはまる形のものとして、命を対象とした商品が編み出された。傷害保険など、様々な付随商品が並ぶ中、顧客は混乱の極みとなり、外交員の言いなりとなる。お上のように上下関係が明らかならば問題はないのだろうが、商売の関係では責任の所在は明確とならない。そんな折、不払い騒ぎが大きくなり、その額に驚かされたが、業界自体は大した反省もなく、相変わらずの姿勢を貫いているようだ。旧態然と思えるのは、口先だけの姿勢に変化がない部分であり、説明姿勢を表明したとはいえ、本質的なところの変化は見えてこない。不払いの問題は、商品の説明を怠ったことが主原因とされており、客の自己責任を問える状況にないと言われる。しかし、保険金の支払いの過程を見れば、そこでの担当者の責任は大きく、たとえ、無知な客を相手にしても、何らかの手立てを施すべきである。申請を開始する責任は客側にあるとはいえ、商品の詳細を知らない人々にとっては、何をどこまで請求すべきか、理解できる筈もない。そこで、助言が必要な場面となるのに、自己責任を盾にして、余計なことを言わぬようにする。この状況にこそ問題があるにも拘わらず、依然として、事前の説明を重視する姿勢ばかりが目立つ。こういう事例に、最近しばしば触れるわけだが、全体の風潮として関係の悪化が急速に増しているように見える。問題の本質は、別の所にあるわけだが、それが明らかになることは無いのかも知れない。