パンチの独り言

(2008年8月18日〜8月24日)
(南蛮北狄、主客転倒、流言蜚語、大器小用、九牛一毛、空理空論、自主自立)



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8月24日(日)−自主自立

 誰の世話にもならぬ、と強気の弁を繰り返す人がいるが、一方で、人は互いに支え合いながら生きていくものという意見もある。社会が形成され、その中で人々が暮らしている以上、他との関係を全て断ち切ることは不可能であり、何らかの関わりは必ず残る。しかし、それは依存とは違うものに違いない。
 支えるという言葉は、自ら行う行為を示しているが、逆の立場に自分をおいた時、それを寄りかかるといった感覚で捉える人がいる。確かに、誰かが傾きかけた自分を支えてくれているのだと思わざるを得ない時もあるだろうが、常にそうなっているわけでもないし、それと同時に他の人を支えることだってある。社会の荷物と呼ばれようとも、自分自身を頼りに生きている人がいるわけで、互いの関係は複雑に入り組んでいるものではないか。絡み合っているものを解いて、一面的な表現で語ってしまえば、どちらか一方に与することになってしまうが、現実にはそんな状況はあり得ない。また、そんな単純化が何かの役に立つはずもないのだが、どうも複雑なことを考えるのに慣れていない人々には、そちらの方が遙かに的確な表現に見えるようだ。まさか、そんなことが悪影響を及ぼすとは思えなかったが、最近の世情はまさにその現れのようにも見えてきた。自分を自分で支えられない人間は失格だとか、買ったの負けたのと煩く言う人々が増え、お互い様といった感覚は消し飛んでしまった。そんな中で、次々に起きる事件の異様さは極まるばかりで、自らの命を絶つことより、重大事件を起こして裁いてもらおうとする心情には、尋常ではない依存気質が垣間見える。互いに支え合う状況にしても、それを当然として、支えられる側に居座ることに違和感を覚えない人間には、精神構造の歪さが表に出ている感じがある。孤立することは好ましくないが、他との交わりは御免と思う心には、どんな迷いが渦巻いているのか。平穏無事な時代の典型とも思えるが、平坦な時代にこそ、自ら困難に立ち向かい、励む心が重要となるのではないだろうか。

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8月23日(土)−空理空論

 週末の早朝、テレビの画面に神妙な顔が並んでいる。民放の幾つかが自らの番組制作に関して、局外の有識者に意見を求める番組で、様々な反省を含め、神妙にならざるを得ない状況なのだろう。しかし、誤報の後の訂正なども含め、こんな時間に流すこと自体、これらの問題への取り組み姿勢を示すのではないか。
 最近は、報道姿勢の問題が取り上げられることもなく、杜撰極まる内容が垂れ流しにされることが多い。偏見に満ちた意見のみが流れたり、不確定な情報を流すことは日常茶飯であり、中立性はとうの昔に失われ、井戸端の噂話さながらの状況である。剽窃などにも、彼らの倫理観の喪失が現れ、何処まで落ち込むのか、限りなく思えてくる。特に目立つのは、攻撃性の高まりで、最大の防禦という思惑からか、他への攻撃に精を出す。同業に対しても同様であり、まるで他人事のような振る舞いに、明日は我が身と思わぬ傲慢さが見え隠れする。こんな状況では、流される情報への信憑性は薄まるばかりで、鵜呑みにすることの危うさばかりが気になる。登場する人物にも常識の無さが露骨に現れ、それが政に関わる人間となれば、この国の行く末に不安を抱く人がいるのも無理はない。たとえば、数字の扱い一つとっても、余りの浅慮に驚かされる。官庁勤めの人間がどれ程の無駄遣いをするかを示す為に、様々な数字を使うが、その意味を理解する人間は画面の向こうにいない。更には、月に使った経費と年間のものが90倍以上も違うことに、口を挟む人間がいないとなれば、愚者の集まりとしか見えてこない。はては、政治家たちが自らの役割を果たさず、全ての責任を転嫁する言い訳に繋がるとなれば、開いた口がふさがらぬというものだ。数字を巧みに使って都合の良い主張をする連中は多いが、これほど穴だらけの論理では、無事では済まないだろう。といっても、何も理解できぬ人間が画面の前にいるからこそ、こんな状況が続いているのだが。

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8月22日(金)−九牛一毛

 改革流行りだった頃と違い、今は確実な道の模索が続く。変化であれば何でも歓迎、などという話は、元から馬鹿げたものであり、その結果を見ずに次の判断を下すことの無謀さを、そろそろ噛み締める時期なのではないか。それにしても、勝手好き放題の振る舞いの後の逃げ足の速さは、詐欺師顔負けと言うべきか。
 次々に新機軸を開拓する人のことがたまに取り上げられる。如何にも時代の寵児の如く扱われ、その能力の高さを絶賛する声が集まる。しかし、その時代にしか通用しない手法を振り翳すことでの評価は、その後の時の流れに覆い被され、人々の記憶から消え去ることとなる。政策においても同様のことが起き、これまでも多くの奇妙奇天烈なものが浮かんでは沈んでいった。つい先頃の交代人事でも、結局、その前任者から続く、奇を衒う手法の限界が見え、自滅した結果が現れたのだろう。あれだけ大鉈を振るったと自我自慢した改革も、二重底、過剰包装などで表現されるように、本人の頭の中と同様のからっぽさが露呈し、その処理に更なる手間をかけることとなった。掛け声ばかりであったことは明白だが、それにしても先見の明を強調した政策は、その実何も産み出せず、却って混乱の極みを招いただけだったのではないか。つい先日も話題とされたタクシー問題も、実態が露わになるたびに驚かされる。自主規制を促した途端に十分の一に減った経費も、未だに一日30万もの出費であり、昨年はその十倍だとすれば、一体全体どんなことをしていたのか、庶民の感覚では理解不能である。その一方で、これを梃子に、税金の無駄遣いを追究する声は更に高まるだろうが、使い道それぞれに違った観点が必要であることに気づかぬ人ばかりでは何ともならない。一月に一億のタクシー代を支払う感覚が如何に凄まじいとは言っても、教育や公共事業の中には必要不可欠なものがあり、それに要する金額はこの額を遙かに上回る。金銭感覚の欠如が、バブル期から問題視され続けているが、ここでも、問題の本質を見抜けぬ愚者たちが叫ぶ姿に、目を覆いたくなる気分である。

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8月21日(木)−大器小用

 皆が好き勝手に動き回っていたのでは、組織は成り立たない。各人に適した役割と立場を与える必要があり、それを決めることが最重要と考えられている。その為か、人事配置を担う部署は、どの組織でも力を持ち、会計を預かる部署と共に、組織全体を動かす自覚を持った人々が、働いていると言われる。
 適材適所と文字にしてしまえば、大したものに見えないかも知れないが、熟慮に基づく配置が要求される現場では、常に全体の均衡を保つ配慮が必要となる。しかし、人を動かす自覚のみとなり、それが産み出す結果にまで考えが及ばない状況に陥ると、複数の歯車に狂いが生じ、組織全体に歪みが蓄積することとなる。それまでの流れに沿った運営が続いているように見えて、実際には、無軌道な展開が垣間見えるようになり、気がつく頃には取り返しのつかない状況となる。確かに、各構成員の問題なのだろうが、それが起きた最も大きな原因は、人員配置の誤りである。人の組み合わせも重要で、切磋琢磨に結びつくなら良いのだが、互いに摩擦が増えるばかりで、金属疲労に似た状態になったり、磨り減って使い物にならなくなる。配置には問題が無く、個人の問題であると見なす人々もいるようだが、現実には、人と人の相性は個人の力ではどうにもならない。嫌悪感が丸出しになる組み合わせがある一方で、安心感が漂うものもある。何が違うのかと言えば、単に相性の問題だけであり、部品の組み合わせのようなものだ。素材が違うことで、片方だけが摩耗する場合もあるし、軋み音が絶えないこともある。そんな障害を成る可く減らす為に、組み合わせを考えるのが人を動かす立場の人間の役割なのだろう。ただ、最近の動向を眺めていると、個人の趣向が先に立ち、組織の一員であるという自覚に欠ける人が増えていることから、単なる組み合わせだけでは解決しない問題も山積しているようだ。また、精神の不安定が潜在的に存在することが重なることで、問題を複雑化していることは、人を動かす役割の重要性を更に高めているのではないか。

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8月20日(水)−流言蜚語

 情報収集力が差をつけると言われる。しかし、周囲を眺めてみると、全く正反対の現象ばかりが目立つようになっている。玉石混淆のものを相手に、悪戦苦闘する姿は滑稽なもので、それが悲惨の極みに近付く。要不要に関係なく、ただ闇雲に集め歩く人々の姿が巷に溢れているが、役に立っているようには見えない。
 必要不可欠な事柄は、躍起にならずとも入ってくるものだが、根も葉もない噂に惑わされる人々は、待つことができず、ゴミ集めに精を出す。そんな表現が当てはまりそうな世情だが、本人たちは終着点の見えない道程を彷徨い歩いていて、取捨選択をせぬままに、種々雑多なデータの山を築き上げる。情報の価値を決めるのは何か、誰にも判らないことだが、ただ集めることだけに集中する人々にとっては、価値は二の次となるのではないか。兎も角、何かを握っていないと不安になる心を紛らわす為の手段に過ぎないのだろう。それにしても、嘘偽りが大部分であり、民衆操作を意図としたものばかりでは、その対応に追われたとしても、ほぼ全てが徒労に終わる。そればかりでなく、精神の不安定を招くばかりで、別の見方をすれば、変調を来すのも自業自得といったところか。こんな状況に乗じた悪質な事件が多発しているが、これとても、そういう流れに載せることが図に乗らせることとなり、狂気の沙汰を招いているように見える。これまでも、デマが急速に伝搬し、大騒動に繋がった例が数多ある。そんな経験から、一時は情報管理の重要性が取り沙汰されたものの、自由の名の下に、全てが打ち砕かれてきた。今また、そんなことがしばしば取り上げられるようになったのは、稀に見る流量の大きさに加えて、その管理体制の不在が大きな要因だからだろう。国を挙げて管理に力を入れているところもあるが、それでも抜け道は無数にある。そんな中で、もし、不安定を解消させる方策があるとすれば、デマを受け取る人間の良識に行き着くしかない。そう思って、周囲を見渡すと、無駄な抵抗に思えてくるのは、何とも情けないことだが。

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8月19日(火)−主客転倒

 筋の通らないことが増えているのではないだろうか。筋と言っても、その時代により変化するものだから、今はそれこそ変革期であり、新たな体制が作られつつあるのかも知れないが、表面的にはとてもそんな状況にあるとは思えない。自己中心の考え方が台頭し、そればかりが目立つようになっただけのことなのでは。
 気になることは幾つもあるが、たとえば上下関係の消失がある。タメ口などと呼ばれる、仲間内での言葉遣いをあらゆる場面で使おうとする若者が増え、示しがつかない状況が強まっている。元凶は家族関係にあると思われるが、本人たちはそれが信頼関係に繋がるものと信じているから、始末におけない。家族は社会の一部に過ぎず、それを他の場所にまで拡張する考え方は幼稚としか言えない。別のこととして、立場の違いの意識である。特に、客の傲慢さが問題視されるようになり、金銭取引が全てという考え方が蔓延るようになってから、何ともぎくしゃくした関係が目立つ。客を神のように扱えという歌があったが、あれは商売の極意であって、客が自分自身を全能の神と思いこむのは愚の骨頂である。互いの立場を弁えた上で、互いの役割を認め合えば、もっと滑らかな関係が築けるのに、それを自ら妨げた上に、不平不満を並べ立てる。人間の格があるとすれば、最低の部類に属するものだろう。その一方で、こういう輩が商いをしようとすると、更に理解しがたい行動を見せる。タメ口は当然として、客に売ってやるという態度をとる場合があるからだ。これを見る限り、自己中心的な思考に基づく行動であり、社会通念など、そこには存在しそうにもない。時間を守らない、自らの非を認めない、場の雰囲気が読めない、等々、上げればきりの無いほどだが、彼らにとって、全てが当然のことであり、何の間違いもないこととなっている。元々、お互い様という考えがあってこそ、小さな社会を保てたものが、いつの間にか、それを捨て去り、自らの孤立を嘆く。何ともおかしな考え方であり、自分中心では、悪いのは全て社会なのだから、更に困ることとなる。無視できぬほどの増加は、恐ろしい未来を予感させる。

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8月18日(月)−南蛮北狄

 自分中心にものを考える人が増えているという。昔は他の国々の動向を学ばされ、各人それぞれに記憶の隅に仕舞い込んでいたものだが、最近は、自分の事以外に興味が無く、教えても無駄となったからか、その機会さえ無くなったらしい。それでも全国紙が幅をきかせているのは、まだましと言うべきだろうか。
 海の向こうの先進国と受け取られているところでは、全国紙は存在せず、各都市に地方紙がある状況が長く続いた。いつ頃からか、全国紙と見なされるものが出回るようになったが、今でも地方紙の力の方が強い。更に驚くべきことには、その地方紙の代表たる新聞が、他の地方でも売られていることで、何か大きな考え方の相違があるように見える。いずれにしても、身の回りにしか興味を持たないことが当然の国と、それをより広げようと努力を積み重ねようとする国では、自ずとその後の動きに変化が出た。他国への進出を心掛け、戦争ではなく、商売を道具として、関係を深めていくことは、この国の発展に大きな影響を及ぼした。しかし、いつの間にかそんな心意気は影を潜め、自分のことだけが重要となり、他には興味を示さない人が増えた。場合によっては、自分以外は嫌悪の対象となり、その排除に躍起となる人々まで出る始末で、一体全体、何を考えているのか理解しがたい。その一方で、報道する側には異様な動きが目立ち始め、それに対する批判も強まっている。これが他を区別する動きと連動しているのかは定かではないが、隣国に対する露骨な嫌悪などに、それが現れているように感じられる。ところが、批判が強まれば強まるほど、報道は極端に走るようになり、その間にある溝は深まるばかりに見える。たとえば、隣国で行われている祭典に対して、本来ならば時刻の話題に終始するはずが、あるネットニュースは頻繁に別の隣国の話題を取り上げる。その意図を汲み取ることは不可能で、目的は見えてこないが、兎に角この機会に何かを企てているように見えるのだ。今更なのか、今こそなのか、よく分からないのだが。

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