パンチの独り言

(2008年8月25日〜8月31日)
(自決、鵜の目、陳腐化、手蔓、私利私略、無為徒食、常日頃)



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8月31日(日)−常日頃

 奇妙奇天烈な見出しで話題を集める新聞がある。瓦版の時代から、注目を集める為の工夫がなされ、嘘偽りとならぬ程度の強烈な表現を並べるところはあったようだ。しかし、大袈裟にすればするほど、中身は薄くなるばかりで、結局のところ、逆効果となる。ただ、それでも次こそと思う人もいるらしい。
 平凡な内容を恰も大事件のように報じるのは、明らかに虚飾であり、真実を伝えるべき立場にあるものが行うことではない。しかし、その一方で読み手である大衆は、そういう馬鹿騒ぎを好む傾向にあり、彼らを味方につけることで、詐欺紛いの行為が生き続けることとなる。最近は、それに乗じる輩が登場し、情報操作の一環として利用する向きがある。報道機関は公的な側面が強く、時には活字になっただけで信じる人がいるわけで、このような環境で利用するのは、何らかの意図があることは確実である。それにしても、報道する側の杜撰さは増すばかりのようで、常識と思われた裏取りや広い視野からの批判が消え、偽情報の垂れ流しの感さえ出てきた。特に、警察などの公的機関からの情報に対する吟味は甘く、野次馬を形成する大衆と何ら変わらないように見える。批判ばかりの報道にも辟易とするが、その一方で鮎を丸呑みする鵜のような盲信からは、不安が深刻化しているように思える。学習の進捗状況を調査する為の全国規模の試験は、導入前にはかなりの批判があったようだが、最近はその結果を各紙が挙って取り上げる。試験内容への意見はなく、結果の意味するところばかりに目が集まっているようだ。子供たちの成長を確認することは大切であり、それに文句をつける必要はない。しかし、その目安となる尺度については、もう少し慎重に見てかかる必要があるのではないだろうか。感覚として重要な要素の有無を計るとされた面積の問題も、日常的に接するものと大人が解釈した例が適切かどうか、検討されたのだろうか。常識とは大人の目で見たものであり、それを身に付ける過程にある子供たちにとって、同じとは限らない。そこに問題はないのだろうか。

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8月30日(土)−無為徒食

 いつの間にか景気が悪くなったのだそうだ。原油をきっかけに、原材料の高騰が続き、企業の経営も家計も圧迫される結果となった。でも、と思う人は少ないだろうが、何故、これが景気悪化に繋がるのだろう。回転する現金の額は変わらないか少しくらい増えるのだが、ここでは心理的な要因が優先されるのだろうか。
 こうなると急に話題に上るものがある。政治家たちは、景気の悪化は購買力の低下によるものであり、利用可能な資金の見かけの減少によるものと考えるらしい。ということで、手持ちの資金を、見かけにしろ実質にしろ増やす必要があることから、政策が関われる部分として、税金への手当てということになる。相変わらずの短絡的な思考には辟易とするし、景気の動向を無視したこれまでの施策を総括することなく、毎度の応急措置では根本解決は望めない。その上、政治に対する無関心や自らの立場の不安定を意識して、票集めに躍起になる時期となれば、人気取りの愚策に走ることとなるわけだ。愚弄されている市民にも、本質を見抜く力はなく、目の前の御馳走に飛びつく姿勢が明らかで、白痴化は更なる進行を見せている。出すべきものを渋り、権利ばかりを主張すれば、そこに矛盾が生じるのは当然であることは、火を見るよりも明らかであるが、本人たちはその場の欲望を抑えることができない。昔よりこの傾向が極まっているように感じるのは、自分の家族全体の利益を考えていたものが、最近は個人の利益しか見えなくなっていることで、視野狭窄もここまで進めば病的と言える。個人のことしか見えない人々に、社会の利益を考えることは不可能で、彼らの関与を期待するのは無理だろう。そうなれば、民主主義も多数決ばかりに頼るのではなく、ここ一番では根本的な解決に繋がる施策を編み出す必要がある。公共サービスは施されるものと考える人々に、その資金源の存在を知らしめることこそ、最重要課題なのではないか。働かざる者食うべからずと言われた時代が、遠い昔になりつつあることは、現代社会の病的意識の現れと思えてくる。

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8月29日(金)−私利私略

 「末は博士か、大臣か」などと言われたのは、ずっと昔のこと。最近は人気もなく、才能ある人材の将来像と見ることはなくなった。拝金主義が蔓延り、名を売るだけでは駄目で、まして世の為になどという戯言を宣う人もいない。その一方で、これらの人々でさえ、売名や金稼ぎに走る世なのだから、どうにもならぬ。
 そんな中で政治に興味を示さぬ人は増えるばかりで、政治家の身勝手さばかりが取り上げられるとなれば、跡を継ぐものはまさに世継ぎしかない状況となる。餅は餅屋とばかりに、幼少時から経験を積むのならば判るが、何も分からぬままに担ぎ出されるのでは、ずぶの素人との違いは無かろう。天職でもなく、努力もないとなれば、ただ無駄飯を食うだけの存在だが、彼らとても、耳目を集めたい欲望は持ち合わせる。地元の人間にそっぽを向かれても選ばれる選挙制度が導入されてから、時に身勝手極まる行動が目につくようだが、今度もそんな輩が画面や紙面に躍り出たようだ。自らの集めた票の持つ意味を考えれば、選挙区で選ばれた人々の行動は、ある程度の評価を得ることができるかも知れないが、誰への票だか分からぬままに権利主張が通って、議員バッヂをつけることができた人には、この方針転換の責任は重大となる。寄らば大樹の陰と、好都合な行動をした挙げ句に、組織を裏切る行為をすることには、抵抗を覚える人もいるだろう。所詮は私利私欲の末のこと、と言ってしまえばそれまでだが、こういう人々に共感を覚えて行動を共にするなど、理解しがたい論理ではないだろうか。どの道、ここまで堕ちてしまった政治倫理を回復する手立てなど無い、という意見もあるだろうが、そんな連中に期待する人も世の中にはいるのである。何度裏切られても、次こそはと期待することに、何の間違いがあるだろうか。このことは、期待を込める一方で、理念のない行動を示す人々への鉄槌を下ろす必要を示しているように思える。

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8月28日(木)−手蔓

 個人の力が強まることは総じて嫌われるようだ。組織を勝手気儘に動かしたり、私利私欲に走ることが、その原因と考えられるが、創業者として牽引してきた人などは、その典型と見なされる。現在の経営形態は、それを回避する為に編み出されたものが多く、少数とは言え複数の人が常に関わるようになっている。
 企業を率いる中での個人主義は利害が入り混じるものだが、組織の構成員それぞれが持つ力については、扱い方が色々とあるように思える。企業全体とは違うが、ある程度の人数を率いる人々には、それなりの権限が与えられており、勝手にとは行かないまでも、一定の範囲での裁量がある。いくら民主主義が大切と言われても、決断を迫られる場面で、全員一致を目指していたのでは、様々な弊害が生じるから、ここ一番では個人の判断に委ねる必要が出てくる。この辺りまではどんな組織でも通用する方式と考えられるが、全てのことにこれが通用するかと言えば、そうではないところが多いようだ。教員採用で色々な横槍が話題になったが、どの企業でもそんな話が聞かれる。縁故採用の是非が問題となり、特に就職氷河期には、その弊害が厳しく追及された。そんな経緯もあって、最近は全てを平等に公開して、という形式が主となっているけれども、これが必ずしも最適解とはなっていないことも明らかなようだ。景気が回復する過程でも、一時のような人狩り的な求人活動はなりを潜め、人となりを評価するやり方が続いていた。そんな中で、そろそろ景気の後退が伝えられ、各企業の新規採用は減少するものと考えられている。ただ、多くの退職者を見込む時代だけに、その穴埋めを考える必要もあるわけで、ここでも不況時代の反省があるようだ。つまり、新規採用ゼロの時期を設けたことがその後の景気回復期での人事配置における問題に繋がったことから、悪くてもそれなりの数を確保する姿勢がみられるのだ。こんな中で、縁故とは異なるが、人脈を利用することは重要となるはずだが、そのことに対する過剰反応から、別の問題が生じ始めているように思える。臨機応変とは言わないが、どちらの極端も悪影響を及ぼすことに気づくべきではないか。

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8月27日(水)−陳腐化

 経済の停滞が明らかになると、政治にその解決を求める声が高まる。税率の上げ下げや公共投資など、様々な手法が試みられるが、良い結果を産むことはまず無い。結局、景気云々の要素として、政策が含まれることが元々無いからだろう。そんな中で、闇雲に金が流され、何処か行方知れずとなる。どうしたものやら。
 海の向こうでは、政権交代の時期がやってきたから、皆挙って盛り上がる気配を見せていた。しかし、現実には景気の下落はかなり大きく、ちょっとやそっとの施策で好転するとも思えない状況にある。そんな中で、現在の野党となる政党の候補者は、最終的に変革を第一と置く新人議員になった。それ自体をとやかく言うつもりはないが、この戦略には多くの疑問が残り、更に今後次々と新たな問題が生じるように見える。自らの手で改革を進めるという掛け声は功を奏し、特に若い層に機会を与えるものと映った。それが勢いを増すことで、対立候補を退ける結果となったのだが、その時点でも問題視された経験不足は、更にその度合いを増しつつある。そこで補佐的な役割を担う人物に、経験豊富な人間を充てる戦略がとられたわけだが、実際にはそれまで成功を収めていたやり方と正反対であり、最大の特長を全て捨て去ることになりかねない、諸刃の剣と言うべき手段である。一部予想通りとする向きもあるが、これにより熱情は冷めるだろうし、どっちつかずの感は否めない。最近、こういう形の運び方が各方面で見られると思うのは、気のせいだろうか。思い切り極端なことをぶち上げ、それで人気を集めておいて、後は無難に運ぼうと画策する。当然、極端な話は結果も両極端となり、失敗の確率も高い。しかし、人気を高める為には最善の手法であり、白黒はっきりする話は誰にも分かり易くなる。そんなことからこういった戦略が選択されるようになったのだろうが、これだけ同じような経過を辿り、陳腐な結末を迎えるのを見せられると、いつまで騙され続けるのかと思えてくる。結局、受け手の判断力が試されているだけのことなのだ。

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8月26日(火)−鵜の目

 誰でも一気呵成に攻めたくなる時がある。ある著名な賞の受賞者が二年連続で選ばれた時、追い風と判断したのか、時の施政者は非常識と思える数値目標を設定した。その後の展開は、その他の部分も含め、彼の見通しの悪さを露呈するばかりだが、単なる状況判断の問題として片付けられないものがありそうだ。
 賞の選考には様々な手順があり、それぞれに特長を持つ。専ら選考委員会のみが関わり、構成員の眼力にのみ頼るやり方もあれば、ある意味民主主義的とも思えるやり方もある。上で取り上げた賞は後者の部類で、それぞれの分野の専門家からの推薦を基に、選考が進められていく。多数意見を集めれば、それだけ大きな要因となるわけで、一部で水面下の活動が揶揄されるのも、そんなところからだろう。その点から見てみると、連続で受賞した人たちは、別の人々への推薦の流れに乗ったものであり、彼らが中心の存在ではなかった。三人までの受賞者を選ぶことができる仕組みでは、対象となる研究分野が決められた後で、最後の受賞者の選考が為されることもある。その経緯からすれば、彼らの選考過程で出身国の働きかけが影響を及ぼしたとは考えにくい。特に、一般企業の一員だった人は、殆ど知られておらず、予想外の結果として知られるほどだ。ここまで、様々な展開があったとはいえ、現実にはこの国の人間が中心となって受賞に漕ぎ着けた例は殆ど無い。これはつまりは、推薦する体制が整っていないことを意味するのではないだろうか。足を引っ張ることはあっても、人を褒めることはない、とよく言われる国民には、他人を持ち上げる行為は無理難題なのだろうか。そういえば、一時流行した、業績に基づく給与体系という仕組みも、その後、殆ど話題にならなくなった。つい先日、その解除をある大手企業が表明したとの報道もあり、明らかな失敗を示すものと言えるようだ。人の評価を冷静にできない人間が、自己評価ができるものか考えるまでもないが、他人の目を気にしながら、仕事に励むことが得意な国民は、その姿勢を活かした働き方に今一度立ち戻る必要がありそうである。

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8月25日(月)−自決

 自分で自分のことを決めるという意味の言葉だが、別の意味があることから使われることは少ないようだ。他人に対する依存の話を書いたけれども、そこでの決定について全て独立にすべき、とは思っていない。周囲の意見を採り入れて、妥当な線を進むことも、時には重要なことだと考えられるからだ。
 しかし、他人の意見に左右されたからと言って、決めたことに責任が無いというわけではない。あくまでも、最終決定は自らが下したものであり、どんな過程を経たとしても、そこでの責任は全て自分にある筈なのだ。依存の話が出てくるのはこの点にもあり、あの時あんな意見が出なければとか、無責任な意見に惑わされたとか、そんな言い訳を並べる人がいる。結果は出てみて初めて判るわけで、誰しもそれを的確に当てることはできない。自分も含めて、ある期待を込めた予想をしたに過ぎないのだ。にも拘わらず、結果が明らかになるにつれて、他への責任転嫁の勢いを増し、自らの責任回避に躍起になるのは、如何にも潔くない。他から勧められたことでも、それを受け容れるかどうかを決めるのは自分であり、その時点で責任は自らの上に来る。そのことを了解せずに、あやふやな気持ちのままで返事をしたのでは、相手に対する失礼以外の何物でもない。傲慢さの表れと言うべきだが、本人はあくまでも逃げ腰となる。口車に乗せられたとか、甘言に惑わされたとか、そんなことを並べる人々は、それと共に人の信頼を失う覚悟をすべきだろう。ここまで極端な話を書くと、現実的でなさそうに見えてくるが、実際にはこの手の話が世の中に溢れ、所謂責任の擦り合いが繰り返される。自らの発言に責任を持つことは当然だが、他人に促されて決めたことでも、最終決定権を持つ人間の責任を逃れることは不可能である。組織のことは複雑な構成によって、誰が発端になったのかを知ることは難しいが、決定権を持つ人間は明らかである。個人の問題は、と言えば、当然のことながら、個人に帰結することとなる。ただ、それだけのことなのに、なぜこうも、と思う。

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