パンチの独り言

(2008年9月1日〜9月7日)
(巣林一枝、理非曲直、攻玉、十全、共存共栄、自作自演、愚者乱立)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



9月7日(日)−愚者乱立

 ドタバタぶりに呆れる声が聞こえる。駆け引きに終始し、有利に運ぼうと画策した結果、突然の辞任が起きた時、策士を自認する向きは慌てたに違いない。責任逃れを常とする人種は、屁理屈をこねてでも無関係を装うだけだ。一方で、乱立と思しき後任争いは、論点が定まらず迷走を続けることになりそうだ。
 要するに、現状打破を願う声が高いのに、今の優勢は保ちたいという、明らかな矛盾に打開策が浮かばないわけだが、異常な事態を招いた原因を一掃する為にも、再出発は不可欠だろう。ただ、多数決しか策を持たずに過ごした時間は影を落とし、無策が露骨に批判される状況では、勝ち目は全くない。愚策も良策も、過去の履歴を残さずに、一から始めることが重要だが、過去に引き摺られるばかりで、何も出てきそうもない。そんな中で勝負に挑んでも、勝算はないのは明らかだが、では現状の継続は全ての悪化を招くとすれば、居座ることの弊害をまず考えるべきだろう。内部抗争を装うことで、議論の盛り上がりを目指す姿勢も、冷ややかな視線に訴えるものを持たず、おそらく亀裂を深める結果しか生まれないだろう。組織を保持することが目的なら、負けを覚悟しての決戦に打って出るべきで、明らかな敗戦のあとにこそ、日が射してくるのではないだろうか。政に携わる人々に、これほどの保守性が露わになることは、これまでも殆どなかっただろう。批判に耐えうる政策が、限られた予算内で考えられたとしても、そこに新規性は表れない。収入の確保無しに編み出された支出案に、革新的な姿を期待する声はないだろう。これほど明白な状況にも拘わらず、ただ漫然と守りに徹する国策には、回復の兆しは見えてこない。無駄遣いを無くすことは当然だが、それと同時に、必要なところへ資金を供給する施策がなければ、ただ縮むだけのことであり、馬鹿げた改革を声高に訴えた人のように、本人の姿だけが際立つことになる。要不要の区別無しに物事を考える人々に、改めて何が重要かを訴えてこそ、次の展開が見えてくるというものだ。

* * * * * * * *

9月6日(土)−自作自演

 毎度驚かされる官庁の横柄な態度、こんな書き方をすると、どれのことかと聞き返されそうな程だが、最近度々話題にされるように、人員や予算の削減との繋がりがあるとすれば、何時までも放置できな状況にある。無駄と指摘されても、僅かな変化だけで矛先をかわそうとし、同じことを繰り返す輩たちである。
 過去の杜撰な作業が発覚し、その復元に多額の予算を注ぎ込むことが発表された時、将来の保障の為に、と思った人が多かった。その作業の最中、更なる悪行が表沙汰となり、無能な集団ではなく、犯罪性を孕む極悪人集団と思える程となった。自らの成績を上げる為に、違法行為を指南するのは、一時話題になった自動車販売の人々の仕業と似ているが、大きく違うのは、将来にまで影響を及ぼすことだろう。だからこそ、また再び、自らの間違いを見出す為に、多くの資金と人員を費やす決定がなされた。余りに下らない顛末だが、これで終わるとは思えない。何しろ、何とか便と称する莫大な量の郵便物が配送され、自らの体制の不備をさらけ出すように、対応できない状況が続き、一息ついたと思ったところへ、未返送の知らせが届く。最大の珍事は、返送物の点検をせずに、この知らせを発送したところにあり、ここでも体制の整備をせずに、ただ思いつきを繰り返す愚行が進められた。自らが破壊したものを修復するなどということは、一般的には唾棄すべき行為と思われるが、金を求める人々は窮余の策として飛びついてしまう。公僕などという言葉は既に忘れ去られているが、自分の為でなく、国民全ての為に働く気持ちがなければ、何の効果も得られないだろう。もし、自分たちの頭が悪すぎて、何も良案が浮かばぬのなら、恥をさらしてでも、国民に問いかければよい。何もかも蓋を被すことに躍起となり、金と時間を無駄にすることこそ、最大の犯罪と呼べるのではないだろうか。より良い制度にする為にと宣う大臣にしても、その場での言い訳を含めた対応しかできず、その反復がこのところの騒動となっているとしたら、やはり無能と言わざるを得ない。

* * * * * * * *

9月5日(金)−共存共栄

 局地的な豪雨に襲われた地域がある。堤防が決壊し、溢れた泥水が青々とした水田を覆った光景は、それまでの苦労が報われるのか心配を誘う。あっという間に流れ出した水を川に戻す為には、大型の排水装置を使っても五日掛かるという。何と凄まじい自然の脅威かと思った人も多いのではないだろうか。
 やっと訪れた晴れ間に、車窓からふと道端の田を眺めると、そこには頭を垂れた穂が並んでいた。何時の間に、と稲作に疎い人間は思うけれども、突然の豪雨が降ろうが季節は流れているのである。自然の中の生き物たちは、次々と準備を進め、少々の天候不良などは意に介さない。夏の強い陽射しを浴びて、予定通りに開いた花たちは受粉も済ませて結実の時を迎えたわけだ。身勝手な行動で社会の秩序を乱している人間たちの、騒がしい毎日を他所に、こちらはそれこそ粛々と事を進めているのだろう。それに比べて、私利私欲に走り、思い通りに事が運ばねば、拗ね回した挙げ句に、何もかも放り出して逃げ出すなどとは、何とも情けない姿ではないか。生きることとはただ繰り返すこと、と言われることもあるが、同じことを毎年反復することで種族の存続を図ることが、生き物の最重要課題だが、どうも人間というものはそんなところから一番遠いところにやってきてしまったらしい。環境がどうの、世界がどうのと宣う連中がいるが、彼らの頭の中には人間のことしかない。他の生物たちは、地球上で人間の生存を保障する為に必要なだけで、それ以外に考える必要はない。極端な論理に走る人々は、人間にとって有用なもの以外は、滅ぼせばいいとさえ言っていた。流石にそんな狭量な人間の発言に耳を貸す人は少ないが、心理的に徐々に追い込まれていけば、再び極論が台頭する可能性もある。自然を眺める大切さを育む為の科学教育も、いつの間にか役に立つものだけが重視されるようになり、豊かな心を失わせることになりかねない状況にある。ちょっとした変化に気づく心を大切にすれば、様々なことへの関心や責任も芽生えそうに思うのだが。

* * * * * * * *

9月4日(木)−十全

 子供に健やかに育って欲しいと願わない親はいないだろう。しかし、どんな育て方をするのかは、親それぞれに大きく異なる。最近は目に余る行状に、批判の声が強くなっているが、利己的と言うべきか、自分の子供だけが目立つことを願う人が増えているという。釦の掛け違いは様々な形で表に現れている。
 子育てに関する書籍は、よくもまあこんなに、と思えるほど多種多様な理論を展開している。それぞれに成功例を示し、恰も完全無欠な手法のように紹介されているが、互いの矛盾を考えるだけでも、完璧なものがないことが判る。それでも、自分の考えに自信が持てず、不安に苛まれる人々にとって、藁でも掴みたくなるもので、それぞれに読者を確保できるようだ。国民性にもよるだろうが、得意なものを伸ばすか、不得意なものを補うか、の選択一つとっても、正反対の見方がある。最近は、前者を推薦する人が増えているようだが、一つ間違えれば、不完全な人間性を育てることとなり、危ういばかりのようだ。輸入物を好む傾向の強い現代人には、この考え方は舶来品の輝きを持ち、如何にも突出した才能の育成に繋がるように思えるようだが、実際には多くの欠陥を抱えることにもなりかねない。結果が明らかとなった時、恨み辛みを並べ、責任転嫁を試みるが、あとの祭りである。面白いのは、この手法が常識と紹介される国で、正反対のことが起きていることで、長所を伸ばすより、短所を補うことが重要と見なされる場面があることだ。人間に完全無欠があるはずもなく、どちらにしても程度問題であり、どの辺りで納得するかが重要となる。人材登用に関しても、始めのうちは得意なもの、長所を列挙し、それが如何に有効であるかを説くものの、ある時点に至ると、正反対の戦略をとる必要が出てくる。つまり、その人間を採用したとして、プラスの面は理解できたが、それに付随して生じる負の効果は如何ほどか、が問題となるわけだ。子育ては過程であるから、正の面を強調することでの付加効果が期待できるかも知れないが、今目の前で使う人間には、そんな悠長なことや将来の変化に期待していられない、ということか。

* * * * * * * *

9月3日(水)−攻玉

 既に過去のこととして忘れ去られようとしているが、毎日を汲々と暮らす大人たちが、子供たちにその苦労をさせまいと編み出した教育手法があった。動機が何にしろ、運用次第では効果を上げると期待されたが、一部の懸念のみが表面化し、瓦解してしまった。現場はその後遺症に冒され、回復は困難を極めている。
 動機の問題が取り上げられなかったことから、考え方が問題となることもなかったが、現実には、ある年代の人々が抱く教育に対する嫌悪感が背景にあるように思う。学校で習ったことは下らないし、つまらない、という考えに取り憑かれた人々は、そんな取るに足らないことに時間を浪費するより、少年期にすべきことが他にあるという思いに至る。そうなると、それまでの仕組み、自分たちを育て上げた仕組みそのものであるはずだが、それ自体に問題があるという結論に達し、全てを破壊した挙げ句に、新たな仕組みを立てようと試みるのも無理からぬことだ。弛めた結果は既に歴然としており、一部の学力検査ではそれなりの結果は出せても、周辺への応用力を計ると低下が明白となっている。詰め込みの弊害を前面に押し出し、達成目標を近くに設定したことは、一見負担軽減に繋がり、前途の広がりを導くものと説明されたが、現実には達成すべき項目が増えることとなり、却って負荷を増すことになった。更に、到達目標の設定が禁じられるような雰囲気から、更なる上を目指すことは困難となり、結局、成長を妨げることになってしまった。これらの考え方は、ある年代特有のものであるように思うが、それが正しいかどうかは判らない。ただ、この考え方が否定されないことで、今でも執拗に主張する人が出てくることには抵抗を覚える。剽窃の話題の中でも、読書感想文の雛形を用意し、それを書き写すだけで済むようにした人が紹介されたが、本人は多くの感謝を受け、自らの行動の正当性を実感すると共に、子供たちが他にすべきことをできるようにしたかったという動機を述べていた。この論理の矛盾に気づかぬ人に何を言っても始まらないが、その異常さには呆れ果てるばかりである。

* * * * * * * *

9月2日(火)−理非曲直

 論点が明確でない議論は疲れる。主題が示されているにも拘わらず、何を議論したいのか、まるで迷走台風のようなものは、時間の無駄になるだけだ。論理性を鍛えることが重要と言われるが、その手法は定まっていない。最近とみにその傾向が強くなり、重要な場面でもそんな姿が窺われるのだが、どうしたものか。
 このことと深く関わると思えるのが、剽窃の日常化である。書き物を生業とする人々をも、この病は冒し続け、公の文書にまで及ぶようになった。罪の意識の低下を指摘する声もあるが、実際には自らの主張を文章化する能力の低下にこそ問題がありそうだ。形が不完全な思いを明確な主張として具現化する為には、それなりの表現力が要求される。その部分の欠落が、諸悪の根源と思われるが、補う為の画期的な手立ては見当たらない。おそらく、幼少時からの日常的な訓練が必要と思われるが、その場も機会も設けられておらず、偶々それに接する機会を得た者だけが、習得できると考えられる。しかし、その一方で、訓練の機会はなくとも、罪であることを知らせることは可能だから、そちらでの一工夫は必要だろう。あやふやな論点を実感させられた話題も、まさに剽窃に関することで、他人の文章をそのまま借用することが、初等から高等までの教育現場だけでなく、一般社会でも行われているとのことだ。それを防ぐ手段を考え出そうとする人がいる一方で、的外れな論理から犯罪の片棒を担ぐ人が紹介され、現代社会の病状の深刻さを示すことに思えた。ただ、そこから展開されるはずの議論が、いつの間にか脇道に逸れ、データの借用の仕方に及んだのは、まさに論理のすり替えであり、正しい方法を見せることで正しい生き方を教えるという、教育の原理を示すものであった。ここでの問題は、手法の問題ではなく、自らの考えを引き出すことなく、他人の考えを拝借することの罪深さであり、そこでの論理の誤りを指摘することである。折角の話題提供だったが、後味の悪いものとなってしまった。

* * * * * * * *

9月1日(月)−巣林一枝

 夢を持てと言われる。その一方で、目の前の現実は深刻である。この対比に、どう対処したらいいのか判らずに、戸惑う人々がいる。そんな時、何処からか様々な誘惑の声が聞こえてくる。身分不相応なことへの誘いである。あれもこれもと誘い、対価は後で構わぬと来る。欲望を抑えられぬ人々には甘すぎる誘惑である。
 こんな書き方をすると、これらのことが全て犯罪に結びつくと思うかも知れない。しかし、社会全体がこれを推し進めようとしているとしたら、どうだろうか。海の向こうの借金の問題は、富裕層だけを顧客としては、限界が見えた為に、それを広げる方策として編み出された。見かけは上手くいくはずだったものも、綻びが見えた途端に坂を転げ落ちるように破綻していった。社会経済の上昇に繋がるはずの会心の一打の筈が、一気に地獄に落とされることになる。一攫千金を夢見た人も、健全な経理を保障した企業も、全てが奈落の底に落とされて、冷水を浴びることになった。しかし、最大の被害者は返済不可能な借金をさせられた人々ではないだろうか。そんな指摘もあるが、反論も多数ある。甘言に乗せられ、夢の実現を叶えようとした人々にも、見通しの甘さや現実把握の不足があっただろう。それを棚に上げて、被害者を演じることに違和感を覚える人も多い。そんなことがごく最近起きたにも拘わらず、景気浮揚策として編み出されたものの中に、住宅購入への優遇策があることに、開いた口がふさがらない。持ち家と賃貸住宅との差は、計り方により様々に変化するが、将来の動向に左右される多額の借金に、年金生活の不安を訴える人々が何も感じないのは信じがたいことである。勢い込んで建てまくった家々を売り払う為の策として、考え出されたものだとしたら、それは消費者ではなく、業者の救済策に他ならない。元々、そういう業界との癒着が問題視される政治家が数多いる中で、こんな策が弄されているとしたら、馬鹿げたことに違いない。夢を実現する為に努力することを否定するつもりは毛頭無いが、努力を軽くする手立てに簡単に飛びつくのは、危うさがあると言わざるを得ない。

(since 2002/4/3)