どんな世界でもリーダーが必要と言われる。これは指導者と言うより、先導者と言った方が当てはまっているようだが、日頃から何かと指導に当たる人間のことではなく、その場その場で臨機応変に対応するために、人々を先導する立場の人のことを言う。困った時に自己解決ができなければ、彼らを引っ張る必要があるのだ。
おそらく世界で一番小さな組織は家族だろう。家族という組織でも、先導者が必要となる。様々な年齢層が集まった家族を束ねて、数多の問題を解決するためには、彼らの先に立って模範を示したり、問題を見つけ出し解決する能力が必要となる。多くの場合、この役目は年長者に委ねられ、大家族では家長たる人間がその役を果たした。しかし、核家族化が進み、二代しかいない家族が殆どとなると、経験の有無にかかわらず、常に親がその役を負わねばならない。そんな中で、男尊女卑をここで引き合いに出すわけではないが、様々な場面で、男親の活躍が重要となる。しかし、周囲を見渡してみると、そうなっていない家族を見かけることが多い。女親がその役を担うこともあるが、男親が前に立たないために、誰も先を行く人間がいない状態となり、結果的に、皆で戸惑うだけという事態に陥る。何とも情けないように見えるが、まさにそれが組織の問題であり、日頃からそういう体制を築かなかったことが、唯一の原因となる。決断力のない人間の問題も大きいが、全体として役割分担も含め、どうすべきかを始終考えていないと、こんな状況に陥った後も、何ら改善が見られないから、どうしようもない。言葉が通じない環境、内容を知らない話題、そんなことに接したときこそ、対応力が問われる筈だが、ただ距離を置いて、知らぬ存ぜぬを決めるというのでは、どうにもならない。家族としての一体感は芽生えず、最悪の場合は目的を果たせなくなるわけだ。まあ、それぞれの問題とはいえ、こういうところにも歪みがたまっているのは、全体として何か大きな問題を抱えていることに繋がらないだろうか。
信じた奴が悪い、とでも言いたげに事件が報告されている。でも、おそらく殆どの人々はそんな風に考えないだろう。何故、これほど悪質な行為が見逃されていたのか、何故、こんな危険なものの流通が放置されていたのか、そんな疑問が次々に湧き、何処かに根本的な欠陥があると思っているのではないだろうか。
悪事を働くのは自分を不利にするだけと信じるに足る、社会秩序が保たれた時代はいつの間にか過ぎ去り、私腹を肥やしても見つからねばよいと思う風潮が増して来た。そんな時代の流れの中で起きた様々な事件は、現実にはそれが起きるのが当然と思えるところもある。悪いことを悪いことと注意せず、私利私欲に走る人間を羨ましく眺めるようでは、この程度のことは当たり前と思う人が出ても不思議はない。制度上の欠陥は確かにあるものの、それがあっても自制心さえあれば、何も起こらずに済むものだ。しかし、病んだ心に巣食う欲望の塊は、社会道徳も倫理も意に介さず、次々と悪事に手を染める。そんな人間の一部は、悪事が発覚する前には、時代の寵児と呼ばれることもあり、マスコミで持て囃されることもある。どの事件でも共通するのは、発覚後の取り上げ方が爆発的であり、狂ったような騒ぎに繋がることである。恰も鬼の首を取ったごとくの騒ぎでは、そこに明白な犯罪行為が存在するように扱うが、発覚以前にそれを取り上げたところはない。そればかりか、制度の欠陥を声高に訴える人々の殆どは、ついこの間までそんなことに興味を持ったこともないわけだ。この辺りの矛盾を指摘する声もなく、ただ騒ぎ立てているのでは、次の騒ぎがやってくれば、このことさえ忘れてしまうこととなる。如何にもと思える連中は、したり顔を画面にさらし、恰も自分が悪事を暴いたかのような態度を示す。次々に起きる事件の間を飛び回る人々には、問題の本質を探ろうとする姿勢は見えず、ただ、獲物に食らいつく獣のような雰囲気が漂う。これが本性だと言ってしまえばそれまでだが、その相手をする人々がいることに本当の問題があるのだろう。
今の世の中は、どんなに騙されないように努力したとしても、限界があるように感じられる。何もかもが目の前で展開されれば、そんなことは起きないだろうが、どう考えても無理なのだ。社会の仕組みが複雑になるにつれ、他人を頼みにしなければならなくなる。その中に信頼できない人がいたとしても仕方ない。
そんな中でも仕組みを保つ為には、責任を果たす組織が作られ、違反行為を取り締まる。ところが、性善説に基づくと思える考え方では、粗探しが行われることはない。それで悪が蔓延り、結果として庶民が騙されることとなる。それどころか、公的な組織までがその片棒を担ぐ始末で、不信感を募らせることもある。放送業界の技術発達は目覚ましく、長年続いた方式では賄えない状況になりつつある。付加価値を高める為に新方式の導入が決定され、受信者は何らかの措置を迫られている。このこと自体は、時代の流れとして受け容れざるを得ないものだろうが、その為の広告に詐欺とも思える言葉が並んでいるのは、まるで今の世相を反映するようで、業界に対する不信感は高まるばかりだ。時間をかけて変更を進めるから、その途上では新方式への切り替えを進める人々が増えるのは当たり前だ。最終的には有無も言わさずとなるにも拘わらず、途中での参加者の増加を訴えるタレントの言葉には、欺瞞の空気が充ち満ちている。現状では強制していないからとするのだろうが、早晩そうなるとすれば、余りに下らない話だろう。社会全体に、こんな風潮が満ち溢れ、誰もが嫌々ながら同調せざるを得ない。そこには理由の説明も、必要の解説も、殆ど聞こえてくることがない。急速に進む技術を理解する能力は一般市民にはなく、それを分かり易く説明できる能力を持つ人もいない。この状況が極まれば、全てが全体利益の名の下に、強行されることに繋がり、個人が犠牲となる。難しいことは判らないではいけないと言われても、どうにもならないとなれば、説明者の存在が必要となるだろう。今の状況では養成は期待できないが、そろそろそんな役割を負う学校が出てきても良さそうだ。社会的要請は高まっていると思うのだけれども。
乗り込む前から続いていた話は、偶然とは言え、後ろの席から聞こえ続けていた。学生たちの現状に悩む先生の会話のようだ。時に紙面を賑わす話題は、こんなところで日常的に交わされていたのかと、驚きを禁じ得ないが、一部の特殊なことでなく、ごく当たり前に全国津々浦々に満ち溢れる光景のようである。
とはいえ、悩みは人それぞれであり、同世代の学生でも大人たちにとって気になる部分は違っている。この時の話題は、学生の生活態度に関わるものと意欲に関するものだったが、本分を忘れた人間の情けない姿が目に余るようであった。学ぶ立場であるはずの人間が、ただ漫然と通い続け、それによって殆ど自動的に社会に放り出される状況は、現場の人々にとっては苦々しいことのようだ。日常生活を気儘に送る姿からは、労働への意欲は感じられず、何かの役に立つという気配は微塵もない。そんな状況を少しでも改善しようとする働きかけも、それらの殆どが徒労に終わり、何の変化も生じなかった若者が大海原に船出する。どう考えても上手く事が運ぶと思われない状態で、手を放さねばならない気分は余程苦しいものらしい。ただ、どんな人間でも大学を出たとなれば、一人前の大人として扱われる。そのことからすれば、彼らの悩みの本当の原因は、何処か別の所にあるようにも見える。社会性を持たない若者たちに接し、矯正を施そうと努力するのも、何かお門違いに思え、人格形成が遅れた人間の収容施設と、自らが認めているような感じさえする。所詮は、大人とか社会人になる過程の最終段階に過ぎず、そこでの自我の目覚めを見守るだけの役割しか持たないわけで、手取り足取り、幼児期の親の如くの振る舞いとそれに対する責任感は、かなり的外れに見えてしまう。教育の万能性を謳った時代の歪みの残骸が、こんな無理難題を現場に強いているのだとすれば、余りにも情けない状況である。自覚のない人間に理解を促すことは、土台無茶なことに違いないのだから。
修身という言葉がどんなことを指すのか、知る人は減るばかりである。そんな中で、道徳や倫理の意味も、忘れ去られようとしている。反論をするのは簡単だが、今の世情を眺めて、そこにこれらの存在を認めることは難しい。心の片隅に在るのかも知れないが、何かで覆い被されているとしか思えない状況だ。
拝金主義が蔓延り、欲望に走る人が闊歩する状態では、こんな事態も致し方ないのかも知れない。それにしても、何がこれほど間違った方に向かわせたのか、見出すのは困難だろう。たとえ、それができたとしても、これほどの疵を修復することは容易ではない。犯罪に結びつけ、厳罰に処しても、同一人物が手を替え品を替え、同じようなことを繰り返す。欲望を抑えることは、誰にとっても難しく、何かに置き換えることで、漸く成し遂げているに過ぎない。その為に厳罰化をという声もあるが、一方で正反対の意見も聞こえる。表に現れたものにしか適用できない方策では、抑止効果が低く、本質的な解決には結びつかないというのがその理由の一つだろう。心の中での抑止策として、倫理とか道徳といったものの効果を期待し、その復権を望むのはそんな背景からだろうか。ただ、こういった考え方は常に周囲との関わりに依存し、抜け駆けが優先されるような社会では、成立しにくいものである。現状はまさにこんなところを彷徨っており、表面的な措置のみでは不十分という批判もある。更に、常に効果の有無を問題とする風潮は逆風となり、動き出せないように見える。八方塞がりに見えるけれども、実際には、これまで繰り返されてきたように、始めなければ始まらないのであり、今一度、社会の秩序を保つ為に不可欠な考え方を、若い世代に広めることが必要である。犯罪を看過する風潮を改める為に、厳罰を科すことは必要であり、それをしてこそ、全体の改善が可能となるのは当然のことだろう。
人の心は弱いものかも知れない。我が道を行くとばかりに、万難を排して自分の信じるところを突き進み、目標に到達した途端に、ふと心の隙間が空く。この道は間違っていなかったのか、排除したことは正しかったのか、そんなことに注意が向かうと、それまで強く固まっていたものが、脆くも崩れることがある。
目的を果たす為には、相応の努力が必要となり、その為に決断を要することもある。多数の選択肢の中から一つを選ぶとなれば、優柔不断では成り立たず、意を決する必要があるわけだ。後悔は先に立たないが、兎に角悩んだ挙げ句に、何かを選び出せば、そこには常に判断の誤りが起こりうる。そんなことに気を奪われていては、何も進められないから、委細構わず突き進むわけだが、後になってふと振り返る機会が訪れるものだ。ああすれば、こうすれば、と思ってみても、何が変わるわけでもない。しかし、その落ち込みにつけ込むように、忠告を施す人物が現れる。誰しも、結果が出てから状況を把握することはできる。それが分かるからこそ、当事者も自分なりの反省や後悔をするわけだが、そこに他人が入り込むのは如何なものだろう。ここで人は二つに大分されるように思える。つまり、一つにはここで書いたような人物であり、もう一つは本人の悩みに応えるような人物である。前者は恰も全てを見通しているように振る舞うが、その実、ある思惑で動いているわけで、心弱き人々の敵となる。後者は何も解決する能力がないようにも見えるが、実際には強き味方となるわけだ。このような遣り取りの中で悩みに沈む人々は、精神力の不足が問題なのだろうが、それは個人の問題に過ぎない。組織の中で、これらの人々を含め、全体を円滑に動かし、効率を上げる為には、余計な軋轢を産み出したり、過度な負担を強いるような言動は慎むべきだし、もしそれが必要となるのならば、事後でなく、事前に与えるべきなのである。先を見通せない人に多いこの性向は、個人で動く場合には妨げにもならないが、組織を考えた時、障害となることがある。更に、本人が無意識に行っていると、被害は甚大となりそうだ。
こうも不祥事が続くと理由を知りたくなるものだ。人の心が荒び、荒稼ぎに走るようになると、違法性を知りながらの悪事が繰り返される。何事も天秤にかけ、欲に目が眩んだ人々は、捕まる確率の低さに期待する。これほど目立つから、率は上がったはずなのに、依然として同じ事が起きるのは何故だろう。
一つ考えられるのは、罪の重大さに対して、処罰が余りに軽微であることである。自動車運転に必要な資格は免許と呼ばれ、許された者だけが行えるから、最大の罰は不許可となる。一部の人間の特権と考えられた時代には、それを失うことの重大さが効果をもっていたが、ほぼ全ての国民がその権利を得る時代となると、無いこと自体に深い意味が無くなった。罪の重さから、社会的な制裁を望む声が強まり、刑事罰に似た処罰が下されてきたが、それでも不十分という風潮が強まるばかりだ。同じように許認可の対象となり、管轄する官庁が睨みをきかす業界についても、お上の力が強大な時代には、目をつけられるだけで縮み上がっていた。それが単なる書類上のこととなり、一時的な処分で済むようになると、天秤の傾きは一気に不正な荒稼ぎに向いてしまった。厳重注意とは、その後の監視も含まれるはずが、言葉だけで終わり、何も起きない事が明らかになると、一部の業者は法のすり抜けを謀ってきた。社会通念上は犯罪性が明らかであっても、業界の慣習で注意などで済まされるのでは、どう見ても受け容れがたい。官庁が自らの力を誇示する為に、これらの許認可の仕組みが存続してきたのだろうが、そろそろ潮時なのではないだろうか。刑事罰として取り扱われても、今後犯罪の減少を期待できないのは、運転免許の経過から容易に推測できるが、それでもある程度の抑止力になるだろう。本来は、社会通念や倫理といったものから、欲望を抑える力を育むべきところだが、既に一人前と扱われる人々がこの為体では、罰に頼るのもやむなしといったところかも知れぬ。