このところ、海の向こうから押し寄せてくる破綻の情報に、国の経済どころか、世界の経済が崩壊するのではないかと、心配している人がいるのではないか。杞憂に終わるかどうかは誰にも分からないが、果たしてこのところの動きとそれへの対処が的確かどうかについては、不安を抱く人が多いだろう。
グローバルという言葉が、何を指すのかについて誤解があるのかもしれない。本来の意味からすれば、世界を相手にした話の筈だが、現実を見る限りそう思えないところが多々ある。ある特定の国を基準としたものであり、一部の人々にだけ利益になるような仕組みが構築され、それに組み込まれることによって、利益のおこぼれに与るという形がとられ、それがごく当たり前のように扱われて来た。ここへ来て、先を行く国の迷走は、他の国を巻き込み、次々に明らかになる綻びに対して、なす術を持たないことが大きな問題となっている。模倣が唯一の方法であり、追随さえしていれば安心と見る向きも会ったが、最近はそうでもないらしい。この仕組みの種が暴かれ、その意味を理解した時、加担することの利益と損失の均衡が微妙なところに至っていることが明らかになる。そのまま突き進むのも一つの方法だが、これほどの不安定が訪れてくると、単なる真似事の危険性は高まるばかりとなる。経済の話だけでもこんな状態にあるが、社会秩序や倫理観など、人間が本来持ちうる重要な事柄についても、真似事が横行し、それが唯一の解の如く扱われる。一部の良識ある人々は、その危うさに気づき、警鐘を鳴らし続けたようだが、殆どの人々はそれによる利益のみに目を向け、その後にやってくる恐慌に気づくことはない。さて、どうすべきか。現代社会の考え方からすれば、個人の自由の上に成り立つ話であるわけだから、ここでも選択は各自に委ねられる。そんな中で、適切な対応を貫き通し、的確な判断を下すことは、非常に重要となる。しかし、情報が制限され、良識が顧みられない状況では、この難しさは増すばかりとなる。どうするか、自分で考えるしかないのだろうか。
犯罪を未然に防ぐ手立てはないものか。最も安全な国という称号を失ってから、随分時間が経ったものだが、そんな話題が取沙汰されることが多くなった。学ぶべき対象として、長く憧れの的だった国は、犯罪大国と呼ばれ、もがき苦しんでいる。まさか、それを範とするわけでもないだろうが、厳罰を望む声が大きい。
海の向こうでは、様々な違法行為を取り締まるために、厳しい罰が科せられている。だからといって数が減少しないのは何故か、理解に苦しむところがある。日常的に車を運転すると、スクールバスへの対応やスクールゾーンのようなもので、遵法行為が当然のように見えるから、おそらく多くの国民は罰金の多少によって、態度を変えるに違いない。しかし、金融界での法をすり抜ける行為や殺人を繰り返す犯罪者にとっては、それによる抑止効果のほどは芳しくない。承知の上での違法行為では欲望が勝るわけで、厳罰がブレーキとはなり得ないのだろう。特に、悪質な事件や凶悪な事件を起こす人々には、その重大さを意識する心が存在せず、金銭との交換も成立しない。それに比べると、些か倫理観に劣るとしても、小市民には罰金の効果が大きくなる。犯罪率の上昇はそれほどではないにしても、大国を追い続ける国ではこの部分でも同様の経過を辿っており、厳罰化を望む声が高まるばかりだ。しかし、現実にはそれによる抑止効果は望めず、限界を迎えることが指摘されており、その先への展望は殆どない。そんな状態で、続発する凶悪犯罪や公務員による犯罪的行為について、早急な対応が要望されているにも拘らず、妙案は出されていない。ある見方から、厳罰は不安を煽る手立ての一つだと思うが、その効果が上がらないのは何故か。おそらく、不安自体は誰でも持ちうるもので、それを打ち消すための方策として、何らかの交換を望むのだろう。その中で、非常識とも思える行為の頻発があるのは、不安で不安を解消できないからではないか。安定を招く状況を整備することこそが重要であるのに、現状は不安の煽りだけだから無理なのだろう。倫理を再認識させるためにも、様々な意味での安定を整えることが急務なのである。
海を挟んで、どちらも指導者の選択に力が入って来ている。平穏無事な時代なら兎も角、このところの災難続きでは、頼りになる人を選びたくなるものだろう。しかし、こっちもあっちも、どうにもあやふやな態度ばかりが目立ち、競争相手をこき落とすことだけに夢中になっているように見え、期待するだけ無駄かもしれぬ。
自らの力で財を築いた人ならまだしも、ごく平凡に日々の生活を送る人々にとって、平穏無事な生活を手に入れることが第一であり、それを自分の力でなく、他人、特に政府に期待するのは無理からぬことだろう。政治の安定を望む声が聞こえるのも、そんな事情からなのだろうが、期待に反して不安要素は増え、先行き不安を募る声が大きくなるばかりだ。自らの手で決められるのであれば、少々の障害も想定内となるが、他人が決めることではどんな障害も大きく見えてくる。そんな心理状態のところへ、頼りになる人格者が登場すれば、いとも簡単に物事が決まるのだが、現状は正反対に向かっているようだ。それに輪をかけているのは、国民それぞれの身勝手な希望の乱立で、全てを叶える手段はありそうにもない。にも拘らず、人気を得る候補が出てくるとき、そこには危うい仕組みが隠されており、甘言に釣られるだけのことになる。どちらの国もそんな状態が見え隠れし、このまま進めば安定は遠ざかるばかりとなる。ここは表面上魅力的に見えるものを追わずに、一時的でも大きな変化を生じさせ、その反発力を利用して、現状の弛み、歪みを一気に解消する必要があるのではないか。ここでの変化は、魅力的に見えるものではなく、急激すぎて実現不可能に思えるほどのものがよく、見せかけの素晴らしさに惑わされてはいけない。つまり、変革を標榜するのではなく、地殻変動に似た大きな変化を目指すか、あるいは意識の有る無しに関わらず、結果的にそちらに向かってしまうような事態を招く,そんな人物を選び出す必要があるだろう。だから、失敗は成功のもとと思うかどうかにかかっているような気もする。
主義主張は変わらないものかと思っていたが、最近はそれに拘ることの方が嫌われているようだ。何事にも臨機応変に対応し、常に最善の策を講じることが何よりも優先され、それによって最適化を図ることが必要とされる。突然の企業破綻や自然災害への対処には、当然必要なことだが、さて主義主張はどうだろう。
組織を率いるときに重要となる筈の主義や意見には、これという一本の筋を通す必要がある。それをせずに、方針がたびたび変更されるようでは、多数の人間を一つの方向に向けることは難しい。その一方で、固定化された方針は状況の変化に対応できず、様々な障害に苦しめられることもある。どちらが良いのかを一概に決めることはできないので、その部分に対してある程度の対応力が必要となる筈だが、それ自体が難しいこともあって、その部分の選択はせず、その代わりにたびたびの変更に甘んじる方を選ぶことが多いようだ。一見、よりよい答えを導くための方策と思えるものだが、さてどうだろうか。細かな点では、色々な対処が必要なのだろうが、大筋として次々と方針が変わると、却って逆効果になることもある。基本となる計画が編み出されたとき、それに見合うような実行手順が整えられ、それらが全て上手く組み合わさることによって、目標が達成されることとなる筈である。しかし、その過程で次々と方針が変更された場合、何が本来の目標であったかが見えなくなり、結果的に成功に見えても、計画段階で皆の了解を得たものとは違ったものにしかならない。一人の独裁者が牛耳る組織であれば、こんなことから何の問題も生まれないが、選ばれた人間が率いる組織では、その過程で打ち出された計画が選考自体に影響を及ぼすので、その変更は大きな意味を持つこととなる。そんなことは当然と思われるのに、最近こういった方針変更が頻繁に見られることは、何か重要なことが蔑ろにされているように思えるがどうだろう。よりよいものを追い求めるために、基盤となるもの自体が揺らいでは、どうにもならない。
現金は物と交換するために作り出されたものだろう。始めはそれ自体に価値があり、その価値と見合う物との交換に使われたのだろうが、いつの間にか保証さえあれば、見かけの価値だけで十分となった。そうなると、紙切れを産み出すだけで財産を築いたり、紙切れ同士の交換で商売が成り立つようになる。
そんな馬鹿なことはない、と思われた考え方も、いつの間にか社会が受け入れざるを得ない状況となり、逆にそれが幸いするような商売の方法さえ編み出されるようになる。資産運用は、本来泡銭を生じるものではなく、必要最小限の費用を捻出する手段だった筈だが、いつの間にか、多ければ多いほど良いという考え方が浸透し、その能力の高低が指標となるようになった。物流のようにモノ自体が流れる世界では、そこに確かな存在があるが、金銭取引のみとなると、確かな保証さえ必要とされず、巨万の富を産み出す魔法の杖のような存在が、待ち焦がれることとなる。理論上の仕組みは、全体が順調に回っているときには、何の問題も生じず、次々に儲けを産み出していくが、ある時、何かの拍子で回転が止まると、急激に不具合が表面化し、損失や負債が溢れてくる。多くの経済理論では、全てのことが上手く運ぶように、様々な要素が適切に選び出されているが、現実はそれとは異なり、不適切な因子が飛び込んでくることとなる。多くの場合、小さな綻びが大きくならないように、様々な工夫が重ねられているが、一攫千金を現実化する仕組みほど、綻びの拡大も急速となり、工夫が講じられていても、食い止めることが難しくなる場合が多い。そんな中で、危険の度合いを小さくするためには、注ぎ込む資金の大きさが重要な要素となるわけだが、魅力的なものほどそんな思慮が入り込みにくくなる。欲望の産物である以上、仕方のないところだろうが、いざ破綻する段になると、その考えが余りに楽観的であることに気づくことから、やはり見かけから見かけを産む仕組みには、本質的に問題があるということになるのではないか。路頭に迷う人々が出て、社会が不安定な状態になって、初めてそんなことに気づくのは、毎度のこととはいえ、不思議なものである。
演説が上手いと褒められていた候補も、その後、自らの欠点を埋める補佐役を選んだ辺りから、情勢が怪しくなり始めた。徐々に具体的な施策を要求され始め、変えるというお題目だけでは受け入れられなくなったことも背景にあるようだ。言葉の魔力を使いこなせる人物は、実際の能力を超えたところに期待値を置かれ、それが上昇力に繋がるが、現実に引き戻された途端に、魔法が解けてしまうのは仕方ない。
言葉が持つ意味は、それを発した人が決めることではなく、受け手が全てを決める。殆どの言葉は、確実に意味が伝わるように選ばれ、誤解を招かないことが重要となるが、魅力的な演説者は確実性を追求しないことが多い。それによって、期待を込めた聴衆たちはそれらの言葉に酔い、冷静な人々は冷たい反応を示す。どんなに魅力的な言葉を並べ立てても、聴衆が期待を持たなければ、つまらない話にしか聞こえず、惹き付けることはできない。魅力の有無が全てを決めると言ってもよいのだろうが、では、その魅力は何からくるのかとなると、中々難しい問題となる。いずれにしても、同じ言葉が違う意味で受け取られることは、本来話し手にとって避けなければならない問題であるはずが、全く違った方向に動くことは面白い。どんな形でも、人気を獲得できれば良いという立場からすれば、これはこれで良いのかもしれない。しかし、本来の主義主張からすれば、それでは危険が大きすぎるし、誤解が生まれる度に、修正を繰り返さなければならないのは、如何にも面倒である。最近特に、この傾向が強くなりつつあるように見えるのは、気をつけねばならないことだろうし、そこにある問題を見極める力を各自が持つということに繋がる。これさえ確実になっていれば、今ほど問題が大きくならなかったのだろうが、既に手遅れのような状況になっていることは、まだまだ、難しいことが山積みであることを意味するのだろう。