パンチの独り言

(2008年9月22日〜9月28日)
(人でなし、謝意、背信棄義、肝胆相照、餓鬼偏執、暖衣飽食、職権濫用)



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9月28日(日)−職権濫用

 人間の意欲というものは不思議なものだ。興味を示すものが無く、ただ漫然と過ごしていた人間が、誰かに注目された途端に意欲を示す。社会性の動物と言われる所以とするのは、少々行き過ぎの感があるが、他人との関わりの重要性を示す話ではある。但し、これも過ぎたるは及ばざるが如しということもあるのだが。
 有名になりたいとか、注目されたいとか、一部の若者はそれだけを願っている、というのはいつの時代にもあることだ。何か自分なりのものを築き上げ、それを人々に売り込むという姿勢があればまだしも、何も持たないことを自覚しつつ、こんな願望だけに走れば、何処かに矛盾が生じても致し方ない。それが重大犯罪に結びつくこともあるが、そんな話は僅かなものに過ぎないだろう。そんな人間がある日突然、人の注目を浴びるようになったとしたら、どんなことが起きるだろうか。人それぞれに全く違ったことが起きるのは当たり前だが、その違いは何処から出てくるのか、人格の違いと言ってしまえば簡単ではあるが、そうとも言えないところがある。ちょっとした時期の違いで、同じ人間でも大きく違った反応を示すこともあるし、逆に、その時までは身勝手な行動ばかり示した人間が、傲慢さの欠片もない態度を示すこともある。人間の心理とは全く不可思議なものであり、それがその人間の本性と言ってしまうのは難しい。これは若者に限ったことではないし、地位の上下によるものでもないのだろう。その人の人となりと言えなくもないのだろうが、兎に角注目を浴びた途端に、それまで暖めてきた持論を大いに展開する人がいる。時と場所を弁えないばかりか、注目を浴びる理由と無関係の話題にまで及ぶ話しぶりには、何処かその人の貧しい心が見え隠れする。ちやほやする人々に責任がないわけではないが、それにしても、一夜のうちに何かしらの権力を身に付けたとも思える行動には、反発が起こるのも無理はない。地位が人を作ると言われるが、一部には権力を笠に着て、という人もいる。そういう人に権力を与えることの危険性は、その責任を果たす人間が考えねばならないことだが、そこにも同じことが適用されると思うと、まあ難しいものだと考えるしかないようだ。

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9月27日(土)−暖衣飽食

 ガリガリに痩せた女性を見る度に、病気じゃないかと思う。標準とか基準が根拠無いものであることは確かだが、それにしてもこんなことに走る心理は理解に苦しむ。体を見せる業界でも大きな問題となり、これまた根拠無きままにある体重に達していない人間を排除する動きがあった。社会全体が患っているということか。
 健康の為に体重の維持を心掛ける。そんな提言が急激に増え、デブは恰も犯罪かの如く扱われる。現実に、海の向こうでは公然と行われていることだが、それ程深刻な問題となっているのだろう。こちら側は、昔と比べ、遙かに多くの肥満児が目立つことから、徐々に問題が深刻化していることが窺われるが、それでもあちら程ではない。ファーストフードの記録映画が作られる程、一般人の生活の深部にまで浸透する社会では、そこから生じる副作用は深刻となる。脂肪摂取の過多は様々な副産物を産み出し、子供から大人まで過剰な肉付きが目立つ。特に驚異と思えるのは腰回りの体型であり、そこに悪弊の吹き溜まりがあるようにさえ見える。あの独特の体型は人種による違いはなく、ほぼ食習慣から来るものと思えるのは、人種の坩堝と称されるあちらの状況を眺めれば容易に理解できる。これは逆に言えば、こちら側でも十分に起き得る事という意味であり、それが今起きつつあることも確かである。始めに書いたことが気になる一方で、正反対の現象が目立ち始めている。どちらもある種の心の病であり、歪みが溜まりつつある社会の抱える問題であろう。ただ、そこには全く違った事情があることに気づくべきではないか。前者は情報操作などを起因とする、心理的な誘導によるものであるのに対して、後者は食物そのものの問題であり、殆どが自らの中から生まれる欲望に因るものである。同じような形で社会の歪みが表に現れたものであるにも拘わらず、その経路は大きく違っている。だから、もし、是正する必要があると考えるならば、全く違った方策が必要ということに気づかねばならない。

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9月26日(金)−餓鬼偏執

 子供の頃、積み木遊びに興じた後、片付けをせずに親に叱られた経験を持つ人は多いだろう。月並みな形を作るのではなく、何か新しい、でも不安定な形を積み上げ、途中で崩れてしまい、癇癪を起こす子供だった人もいるのではないか。政治の世界でそんな子供がそのまま大人になり、活躍する姿が目撃された。
 友達が積み上げた木組みをぶち壊し、全く違ったものを積む遊びに興じる、そんな子が時々いたが、嫌われ者と見られていた。こんな子供でも、何処かの大人が評価すれば、鼻高々の傲慢な顔でこちらを睨む。子供の世界で見られた社会性の欠片もない遣り取りが、身勝手な人間の集まりである政治の世界で展開された時、深く物事を捉えられない人々の人気を勝ち取った。その後の展開は、積み木の世界と大きく違って、崩れたところから広がる歪みに、社会全体が押し潰されるように見えた。その時期が近付いた時、潔さを身上とする身勝手な人間は、敵前逃亡をそれと知られずに果たした。その後も、愚かな取り巻きに持ち上げられることを、拒否するように装ってきたが、ここに来て、歪みの原因が表沙汰になることに危機感を覚えたのではないだろうか、一線を退くことを得意満面の顔で放言したらしい。子供が大人の仮面を被っていると評する人もいるが、今回の顛末はまさにその典型であり、更に子供の自分中心的な考え方を如実に表したのは、跡継ぎ問題では無かろうか。人の親だったと、感心する人の理解力は想像を絶するものだが、これだけの悪影響をあらゆる方面に及ぼした人間が、何かある度ごとに注目を浴びる社会は、余りにも未成熟なものに思える。別の病気が蔓延していると分析する向きもあるが、現実には精神の未発達のみが大きな問題であり、こんな国にしたのは誰かと責任追及しても無駄だろう。無軌道な行動を戒め、非常識を諫めることこそが、この国が美徳としてきた行動規範だろうが、ここまで腐りきった社会では期待はできない。他人に期待するより、自分の周囲だけでも綺麗にすることが肝心と、ここはそれに専念すれば良いだけのことではないか。

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9月25日(木)−肝胆相照

 隣の大国への進出は、大企業だけでなく、中小にとっても魅力的なものと言われた。その時代の動向を知る人々は、既に一線を退き、悠々自適の生活を送っているだろう。新規開拓とも言える社会制度の異なる国への進出は、様々な軋轢を産み出し、数々の障害を乗り越えたことを良い思い出として抱いているのではないか。
 最近、そういう人の話を聞く機会を得た。性格によるものだろうが、自信に満ち溢れた話の内容は、ある見方からすれば魅力的なものと映っただろう。しかし、それぞれの要素を見ると、その魅力は激減する。個々の例の羅列に過ぎないものでは、成功を前面に出すことは難しくないが、現実にはその影に様々な失敗が見え隠れする。社会制度の違いによる問題の捉え方も、概ね通用するものに思えるが、このところの様々な出来事から推測すると、明らかな限界が見え始めているようだ。信頼を第一としなければ、共同作業は不可能だという考え方も、当たり前のことであるに違いないが、その一方で、このところの全ての信頼を破り捨てるような暴挙からは、その対象の存在さえ危ぶまれるのではないかと、疑いたくもなる。様々な経験に基づき、積み上げてきた論理は、強固なものとして築かれたのだろうが、それが次々と瓦解する様子を見て、どんな感想を抱くのか、聞き質したくなる気持ちをやっと抑えていた。国民性の違いと言ってしまえばそれまでだが、他国との関わりを第一とするグローバル化においては、このような相違はただ心理的なものに留まるものではない。現実に生産されたものが全て無に帰するような状況に陥り、それまでに築いてきたはずの信頼も、将来への希望も、全て失われるような結果となった。確かに、より良い製品をより安くという市場原理は、最優先されるべきものとの認識が強かったのだが、最近の動向から学べたことは、この原理によって失われたものの重要性なのではないだろうか。未だに、執着する動きもあるが、崩壊へと向かう道に危惧を抱く向きも増えつつある。ものの価値には色々な側面があることをそろそろ再認識すべき時が来ているということだろう。

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9月24日(水)−背信棄義

 お人好し、誰でも何でも信じてしまう人のことを言う。英語のnaiveも、海のこちら側で使われる意味と異なり、本来は世間知らずのお人好しのことを指す。世間の荒波を生き抜くのは難しく、あらゆる障害にぶつかり、辛酸を舐めることで、疑い深さを増し、生きる術を身に付ける。それが世の常と言うことか。
 一人一人の人生を見れば、まさにそんな変遷を辿る。しかし、その一方で、現代社会が抱える問題は、お人好しを地でいくような様相を呈している。集団生活を営む為に、重大な嘘や欺瞞は許されないという仮定が、まさにそこにあるかの如く、世の中の仕組みが組み立てられ、それが音を立てて瓦解する姿を目の当たりにする。そんな表現がすんなりと当てはまるような事件が続発し、厳罰化や細かな規則の適用が検討されつつある。食用にならないと決められたものを食品会社が扱うことの不思議は、まさに性善説の上に立つものだろうし、一人一人の人間が責任を果たすべく働く社会でしか通用しないことだろう。工業用と選別された時から、扱うべき組織が変わり、流通も全く違った経路を辿る。誰の目にも明らかなことが行われてこなかったのは何故か、それを考える人は少ない。悪を悪として糾弾し、徹底的に処罰することは、一時的には意味を成すだろうが、将来的には何の効果も産まない。当たり前のことが当たり前に行われない時、常識が崩れ去ったことを認めることは、とても難しい。少しでも期待を残し、人を信じることが重要という考えにしがみつくのだが、現実はそれ程甘くはない。何度も繰り返してきたように、倫理、道徳の失われた社会では、これらの仮定に基づく仕組みは成立しない。だから、野放図な世界でも成立する事細かな点にまで及ぶ規則で縛り付ければいいというのは、本当に正しいのだろうか。海の向こうの現状は、この考え方の危うさを如実に表している。そんな中で、島国根性に基づく、衆人環視の感覚が何に繋がるのか、人とはどうあるべきか、今一度考えるべき時が来ている。

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9月23日(火)−謝意

 他人との意見交換を避ける人が増えていると言う。理由は様々なのだろうが、その中に、批判を受け止められない、ということがあると聞く。海の向こうから渡ってきた人の育て方の中にある、褒めることに原因があるかどうかは判らないが、褒められることは嬉しいが、叱られるのは嫌というのは余りに思う。
 始めから完璧な人間がいると思う人はいないだろうが、だからといって、欠点を指摘されることを嫌えばどうなるか、判らない人間はどうかしている。批判を無条件で受け容れる必要はなく、そこでの遣り取りも人格形成に繋がると見るべきだろう。だから、まるで人格を否定する如く、徹底的に打ちのめすようなやり方が勧められるわけもない。こちらはこちらで異常な人間であり、それはそれで何らかの措置が必要となる。いずれにしても、こんな形で崩れてしまった均衡が、社会全体に広がった結果、現状が産み出されたとしたら、何処かでそれを修正する動きを始めるべきである。仕方ないと一言で片付けるのは簡単だが、それで被害を被ることがあるとしたら、自業自得と言わざるを得ないのかも知れない。他人との意見交換は、単純に話術に因るものではなく、そこでの心理の綾のようなものが大きく影響する。それに見合った心の成熟度が重要なのであり、そこに至っていなければ、ある意味では謙虚さを強く前面に出す努力が必要だということだろう。御免なさいの一言を使ってはいけないと強く主張していた社会は、余りに凋落した倫理観に危機感を募らせ、結果的に変化が生じ始めていると聞く。その反対に、謝罪の言葉を聞いた途端に強気になり、相手を殺すまでに痛めつける事件が続発する社会は、同じような病を抱えていると言えないだろうか。意思疎通を滑らかにするのに多用された言葉遣いが、下らない上下関係の指標として受け取られるのは、単純に心の愚かさ、貧しさを表しているに過ぎない。そんなことで、社会の中で孤立するのは、それこそ馬鹿げた行状だと言わざるを得ない。

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9月22日(月)−人でなし

 若い人々に向けて、自由と責任の関係を説く人がいる。これらは一体のものであり、自由を手に入れれば、その一方で責任が生じるというわけだ。それを素直に受け取る人がいる一方で、自分のことを棚に上げ、それに当てはまらない人々の例を挙げて、反論に力を入れる人がいる。常識の通じない人々である。
 常識とは社会通念上のものであり、郷にいれば郷に従えと喩えられるように、社会ごとに、時には微妙に、時にはかけ離れた違いを持つ。物理的な距離が移動可能距離の急増により縮まってしまった世界では、国家による違いは少なくなり、特異な文化は継承されにくくなっている。そんな時代に、国民性を前面に出す話は興味をそそる反面、様々な利害を生じるものとして紹介される。自由と責任にしても、その根拠となる部分が大きく違う社会では、自らの自由を追求する勢いは増すばかりであるのに対して、責任の所在はあやふやなままである。特に、近年に導入された社会制度によって、自由が厳しく制限された時代を経験した国にとって、その後に訪れた自由度の高まりは、国民性の本性を露わにしたように見える。制限されることにより、自由が奪われたとしても、責任が生じなければそれで良いという時代には、確かに、沈んだ雰囲気が漂っていたのだろうが、それが望む人々には自由が与えられる時代となり、一見明るい雰囲気に溢れる社会が出来上がった。他国から流入する資本主義的考え方は、このように歪んだ社会で、長い歴史を持つ身勝手な考え方と融合し、良識や倫理観の欠如が大きな歪みを産み出す結果となった。小さな社会の内部での問題であれば、自業自得という言葉で片付けられたものも、他の社会との関係が深まった後となれば、被害の広がりが深刻となる。この事件が発覚した頃、それまでの流れも含め、人口だけでなく、経済的にも俄の大国となった国に対する不信感は深まるばかりとなる。ここで国民性の問題とするのは偏見に基づくものと受け取られかねないが、現実には、歴史上の偉人たちが警告したことが全く反映されていないことからも、何処か本質的な歪みを抱えた人非人たちが存在する社会であることは間違いなさそうに思える。

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