パンチの独り言

(2008年9月29日〜10月5日)
(滞留、克己復礼、連環、風評被害、着眼大局、複利節約、香味一体)



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10月5日(日)−香味一体

 ふと気がつくと、ほのかな香りが流れてくる。嗅覚は変化に対して敏感に働き、そこから何かを思い起こさせる。五感の中でも原始的な感覚と呼ばれるが、その一方で、凶悪犯罪を起こす異常者が犯行時にある特定の臭いを感じると言われることから、脳活動の奥底の闇に紛れてしまう何か不可思議なものを感じさせる。
 空中に漂う匂い分子を嗅細胞が感じ取ることによって成立する嗅覚は、千差万別の状況を掴み取る重要な感覚だが、その全貌は明らかになっていない。特に、心理との関わりには複雑怪奇な部分があり、快不快との繋がりも一筋縄では解けないようだ。その仕組みや意義などを論じるのは専門家に任せるとして、日常生活での匂いとの関わりは微妙なものなのではないか。体臭を彩る香水などは人それぞれに微妙な感覚の違いを産むし、食事での香りの扱いを重視する国もある。味覚が失われた人の食事の感覚の悲惨さは度々取り上げられるが、嗅覚の方は香りを重視する割に、その喪失との繋がりは余り論じられない。しかし、隣の席から流れてくる香水の強烈な匂いで、自分たちの食事が台無しにされた経験は多くの人々が持つだろうし、強い臭いを放つ食物に食欲減退を経験して人もいるだろう。味と臭いが結びつかない時に、結局味が勝利を収めた食べ物は世界中にあるが、それとて万人に好まれるものにはならない。その優劣はおそらく人々の感覚の違いに由来し、越えられない壁の存在もそんなところから現れる。レストランチェーンで焼きたてパンの食べ放題を売りとし、全国展開する店では、紙製のランチョンマットが使われる。意外に思われる人もいるだろうが、何の処理もされていない紙ではなく、印刷が施されているものでは、時に不快感を催させるものがあり、この店で使われているものもその範疇に入る。楽しみにした晩餐が、そんな取るに足らないようなことで台無しになるとは、と思う人もいるだろうが、何度も経験した人間には、それ以外の説明ができない。久しく訪れていないけれども、おそらく幾度となく出した意見は未だに反映されていないのだと思う。

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10月4日(土)−複利節約

 車の販売は嫌われる職業の一つだった。最近はどうか判らないが、営業職を好む人は少ないと言われていた。一つには、営業所に掲げられている成績表やノルマと呼ばれる目標値の問題がある。自分なりの目標といくら言われても、そこに向かって遮二無二走らねばならない印象があり、それが煩わしいのだろう。
 一般企業で製品販売をする場合、営業の役割は大きい。そのせいか、大企業の役員の多くはそちらの畑の出身であり、技術畑からの登用は極端に少ない。これは企業の成績において、技術開発は必要ではあるが、数字として歴然と表れるのは売り上げということと関係するのだろう。ノルマに苦しめられながらも、それを達成し続けることが企業の成長に繋がるわけだから、やり甲斐という意味では重要なものとなる。一方、達成目標という考え方は何も私企業に限られたものではなく、公的機関においても適用されることが多い。このところ、ほぼ悪者と見なされている機関にも当てはまり、制度成立の為と称して厳しい目標が定められていた。その結果として生じた問題は、企業での歪みの結果と酷似しており、様々な違法行為の繰り返しとなった。販売との大きな違いは、関係する制度が長期間にわたり影響を及ぼすことであり、一時の無理が後々に祟るという結果を産んだことだろう。相談と呼ばれた関わりの中で、違法行為の教授が行われ、数字の繕いが施された。結果が次々に明らかになるにつれ、驚くべき所行に呆れかえるばかりだが、その実情にはまだ裏があるような気がしてならない。給与を帳簿上で下げることで、それを基に計算される保険料の支払いを削減するという裏技は、年金給付の段階になって初めて悪事が発覚する。それ自体に驚かされるばかりか、ひょっとするとその中には更なる悪事が潜んでいるかも、という思いが沸き立つ。つまり、保険料の削減が給与支払額に反映された場合、意味不明な手取額の増加として現れる。これが当てはまるか定かではないが、それを隠蔽する為の手法は、給与上は同じ保険料を維持することで、それを実施すれば雇用者は更なる納付減を手にすることとなる。これが魅力と映った人間は、地獄に落ちても仕方ないか。

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10月3日(金)−着眼大局

 この頁を読みに来てくれる人の数は少ない。最近は反響も少なく、さてどうしたものかと思うこともある。ブログと呼ばれる場所が、一部かなりの反響を得ているのと比べると、大きな違いと言える。独立の仕組みでは何ともし難いところだが、それでも書き続ければと思うことも多い。戯言かも知れないが。
 情報社会が声高に訴えられるにつれ、情報発信の機会を得る人が急増している。それぞれに、独自の考えを披瀝し、我こそはという思いで綴られている。しかし、独自とは名ばかりで、他人の考えを剽窃する人も多いし、全体の均衡を顧みないものも多い。画面を前に考えを纏める作業は、苦しさを増すばかりとなることも多いし、視野を極端に狭めることもある。そんな中で、大局的な見地から考えを纏めることは困難を伴うが、その努力の姿勢を捨ててしまっては全てが水の泡となる。世の中全体に、情報発信が盛んとなる一方で、以前からその務めを果たしていた人々の動向にも、大きな変化が起きているようだ。剽窃などは論外とはいえ、続発するところからは水準低下は否めないし、独自の情報源に頼った発信にしても、情報操作の片棒を担がされているようにさえ見える。独自の考えを展開するだけで十分なブロガーとは違い、あくまでも公的な役目を果たすべき人々が、思惑を看破することなく、ただ無闇に垂れ流しに終始する姿は、情けなくもある。倫理道徳の問題とも言えるが、それ以前に適性の問題とも思え、業界全体が抱える病のようなものと言うべきかも知れない。情報の重要性を高める動きとまるで逆行するかの如くの流れが、どんな背景から生まれたものなのか、そんな面に注目して考えるべき時は既に過ぎ、ここまで蓄積した歪みを解消する手立てを早急に講じなければならない段階に来ている。情報の流通が、ある意味勝手気儘に行える環境が整っている限り、それを制御することは不可能である。それが明らかであれば、その両端にある人間自身が、何らかの措置を講じなければならないのではなかろうか。

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10月2日(木)−風評被害

 既に何度も書いていることだが、情報社会とは何だろう。謳い文句は脇に置き、現実を正面から捉えた時、そこにある欺瞞の渦が垣間見えてくる。情報を手に入れたものが勝利を手にするとか、立ち後れた者には敗北しかないとか、そんな言葉はがせネタの提供者の叫びに過ぎず、戯言に振り回されるだけである。
 これまでにも様々な事件の度に、根も葉もない噂が飛び交ってきた。平和な時ならば信じる価値もない話に、事件によって不安の極みに陥れられた人々は、一縷の望みを託すように耳を貸し、そして更なる悲劇が訪れた。情報の有用性を説く人々には、この状況の理解はなく、常に冷静なる判断の下で吟味が繰り返されることを大前提とする。彼らの多くが、世情に惑わされて右往左往する姿を見る限り、そんな前提を成立させることの難しさは明らかであり、殆ど全てのものが事後の繕いによるものであることが見えてくる。分析はあくまでも後に行うものであり、その場での興奮や混乱の影響を加味しないことが多い。タラレバの話を聞きたい人ならば兎も角、窮地に追い込まれた人間の判断がどの程度確かなものかは、常に確かめておく必要があるだろう。その上で、情報の流通に関して議論を重ね、現状のような玉石混淆が意味を持つかどうかを判断せねばならない。ここで言いたいのは、情報の重要性を論じる前に、その真偽を判断する力の養成を考えるべきということであり、それが難しいのならば、敢えて目の前を流れる情報をやり過ごす勇気を奮い起こす意味を説くべきではないか、ということである。これまでの種々雑多な情報の氾濫は、百害あって一利なしの状態であり、その原因は送り手受け手の双方にあるわけだ。送り手に対する方策は最重要課題であるが、それだけに依存する仕組みは、抜け駆けに端を発する綻びによって、簡単に切り崩されてしまう。もう一方の受け手の対応にも力を注ぐ必要を強調すべきだろう。今の世間の様子を見る限り、腐った卵を手に入れることに躍起になる人々が目立ち、馬鹿げた話に騙される人が増え続けている。そろそろ情報の本当の意味に気づく時なのではないだろうか。

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10月1日(水)−連環

 いつの間にか、あれほどの暑さが消え、冷え込みが感じられるようになった。温暖化と結びつけると色々な問題が生じるが、季節の変化だけは必ずやってくる。一年周期ということも、人に安心感を植え付け、過ぎ去るまでの我慢をしたり、やってくる楽しい季節を心待ちにする。心の安定の大切さを実感できる。
 当然のこととして年周期を話題とするが、始めに気づいたのは誰なのだろう。良く引き合いに出されるのは、エジプト文明なのだが、洪水という明確な天災と文字による記録から、そう解釈される。ただ、言い伝えや伝説といった形で、文字ではない言葉で伝えられてきたものは数多くあるだろうし、文字の発明と自然現象の解明は必ずしも並行しているわけではないだろうから、他の時代、他の場所でも、同じようなことは見出されていたのだろう。注意深く観察することにより、そこに何らかの規則性を見出すことは、古くから行われてきたことだろうし、経験値として現代でも通用する手法である。ただ、年周期のように、毎年必ず訪れることが約束されたものばかりでなく、日常的には、偶々起きたことに遭遇する場合も多い。その中で、規則性を見出したとしても、百発百中とはいかず、経験的にはかなりの確実性があっても、外れることもあるといったものが多い。どの程度の期待値を想定するか、といった形で現代では表現されることもあるが、そんなやり方が存在しなかった時代には、何となくこの程度といった感覚的なもので表現され、中々全体の理解を得ることは難しかった。一方、現代でも期待値という数値が算出されたとしても、その受け取り方、解釈には人それぞれのものがあり、多くの場合誤解に基づくものとなる。降雨確率はその最たるものだし、何かの見込みを数値化したものも、様々な誤解を産む。数字は本来絶対的な指標として使えるはずだが、こんな場合には誤解を生じ、全く別の解釈が現れてしまう。多くの事象が、ある選択をした後には、別の選択に戻ることを許さないことも、この辺りの理解を妨げている原因なのかも知れない。特異な現象ほどその傾向は強く、その後の展開は予測が難しいものだ。

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9月30日(火)−克己復礼

 議会制民主主義、言葉の上では、海の向こうとこちらで同じような制度が成立している。しかし、実態となるとかなり異なると言わざるを得ない。選挙の時以外には、国民に選ばれたという意識を持たない、良識の欠片もない人間が蠢く世界と、良識を振り翳し、社会全体の安定とは違う方へと向かう世界である。
 不安定な時代に突入したと言われるが、そういう中では心理的な影響が安定期とは全く違う形で表面化する。ぶれの幅も大きくなり、不安が次々と頭を出し、拡大していく。見知らぬものに対する不安感は、生存の為に不可欠な要素と考えられているが、このところの騒動については、全く別の側面だけが露出しているようだ。為政者として対処を迫られ、苦肉の策を講じた時に、民主主義というものの姿が露わになった。かつての急激な下降期に施された対策に関して、こちら側の議会は国民の反対を押し切って、政府の提案をあっさりと受け容れた。そこには選ばれし者達、一人一人の良識は姿を潜め、組織の論理だけが罷り通っていた。一時的な救済の為に投じられる巨額の税金に、猛反対が起きたにも拘わらず、それらを無視する形で断行され、結果的には回復したわけだが、その主たる原因は定かではない。これ自身の効果なのか、はたまた時間経過によるものか、学者でさえ意味不明な解釈を繰り返すのみである。一つの方策として既知のものとなったからには、同じような状況に追い込まれた政府が、同じような手立てを講じることは容易に想像できる。まさに、その繰り返しが行われようとした矢先、大きな見込み違いが起きた。良識の名の下に、安易で軽率な行動を戒めようとする動きが起き、議会の面目を保ったとする向きもある。しかし、その裏では選ばれる為の人気取りの論理が働いていただけであり、振り上げられた良識の鎚は幻と化していたのではないか。所詮、様々な不安に対する反応が積み重なっただけであり、どちらの側も大局を見誤るという点では変わらないだろう。結果的に被害を受けるのは、国民であることも変わらない。

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9月29日(月)−滞留

 新しいことを始めようとする時に障害となるのは、何だろう。その殆どは旧来のものが抱えていた問題を解決する為だが、それだけで済む話ではない。それによって、目的である問題解決が成されたとしても、別の問題を生じることが多い。重要度の差から優先順位を決めるとは言え、両立は常に難しいものだ。
 このように並べ立てた問題について、様々な想定を当てはめてみることは必要であろう。ただ、その段階では様々な場合が考えられ、一つの解答を得ることは不可能である。これ自体は必要不可欠とはいえ、完璧なものを導くことはできないから、ある程度の範囲で留まることとなる。結果は出てみなければ判らないわけで、その議論を進めるとしても、ある線から先には進めないこととなる。そんな状況で一番の障害となるのは、山積する問題そのものではなく、関わる人間の方ではないだろうか。旧弊を改める為に様々な策を講じるとしても、その仕組みの方が適する面もあり、そちらへの執着に終始する人もいる。目の前の問題を解決する為の手段としても、そこから生まれる弊害は皆無とはならないから、こういう時に変えることへの反対はどんな変革であっても起き得るわけだ。提案に対する修正で済むようなものであれば、反対と呼ぶことはできないし、より良いものを得る為の必要不可欠な要素と言える。それに対して、新規のものに対する絶対的な反対は、そこに留まることが第一であり、あらゆる変化を拒絶するものとなる。この形ではそれ以上は一歩も動けないこととなり、停滞が続くことにしかならない。積極的な動きと消極的な動きとの違いはこんなところにあり、新たなことへの移行の難しさは、後者の扱いにあると言っても過言ではないだろう。「できない」という一言はいとも簡単に吐けるが、それでは何も起きないことも簡単に想像できる。難しい問題であることは確かであり、動き出してからでは遅すぎることとなりそうである。

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