パンチの独り言

(2008年10月6日〜10月12日)
(公平無私、差別化、歳差運動、不朽、硬直化、自縄自縛、主従)



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10月12日(日)−主従

 政治の世界は何も永田町に限ったことではない。あらゆる組織の運営において、政治が関わらないところはなく、誰もが巻き込まれる世界がある。意外な人物の関与が取り沙汰されたり、人と人の結びつきが噂される。どうにも人間関係ばかりに注目が集まるが、肝心なことは何をどうするかなのではないだろうか。
 組織内の人々は、そんなことは百も承知だが、現実には誰がどんな札を掲げようが、大差ないとの判断が働き、それより人間関係や人柄に話題が集中する。しかし、最近の状況はかなり変化しているように思える。旧態然とした組織を運営するのであれば、何も変わらないばかりか、変えないことが重要なわけで、継続性を前面に出し、あとはそれを無難にこなす人の存在が重視される。過渡期において、この状況の変化は容易には受け容れられず、人々は手近で理解しやすい話題へと流れた。結果の多くは悲惨なものであり、変化が標榜されているにも拘わらず、何も起こらず、先祖返りの如くの振る舞いが目立つ。これは、恰も、組織の長の責任のように扱われる事柄だが、現実にはその選出に関わる人々全員の責任である。その意識がないままに、体制のみが継続した結果、変化が表面に現れることもなく、目の前の問題解決に終始することとなる。必要と認識されたはずのものを無視することは、芳しい結果を産むこともなく、意識と現実の乖離が広がれば、矛盾や歪曲ばかりが目立つこととなる。これはこれで悲劇的な結末を迎えるわけだが、それとは別に、政治活動が泥仕合の様相を呈することも、組織の分裂を招き、舵を失った船の如くの動きに向かうこととなる。長の選出は一大事には違いないが、組織の本来の活動とは直接には関係なく、それに注ぎ込む力が大きいほど、あとに残る体力は減退する。結果として、絵に描いた餅を現実化することは叶わず、行動を伴わない政権は急速に力を失う。本質的な部分を如何に描き出すかが肝心なのに、別のことにうつつを抜かした結果、こんなことになるのは何故なのか。欲望の現れ方の問題とも思えるが、本当のところは中々見えてこない。

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10月11日(土)−自縄自縛

 国外の事件が多発しているが、国内も落ち着かない。凶悪事件などは、人間の心の問題が背景となると考えられるが、企業の絡んだ事件の多くも、そんな様相を呈している。企業倫理などという言葉が多用されること自体、その感覚が風化したことを示しており、自己愛が目立つ風潮は高まるばかりのようだ。
 倫理も心の活動の一種であり、そう考えると、殺人や強盗などの悪質な事件を引き起こす犯人の抱える問題と大差ない状況にあると言える。これを、禁断の林檎に始まる人間の性と片付けるのは簡単だが、問題の解決には一切結びつかない。その前提条件は、全ての人々にとっての了解事項であり、その上でどんな所作を起こすかが問題なのではないか。ここでは、外的要因も大きく影響するわけで、社会環境に責任を転嫁する人々の行動は、まさにその現れと言える。そんなことに思いを馳せると、このところの腐敗ぶりのきっかけについて、思い当たることが次々に出てくる。確かに、始まりはバブルの狂乱にあると言えるが、その後の展開は全く別の原因を考えねばならない。腐りきった土壌に何を植えても稔るはずがないからと、自由気儘な体制を作り上げた結果が、現状の腐敗ぶりにあると結論づけるのは、果たして軽挙だろうか。規制緩和という名の下に断行された施策の、その後の展開を総括した話は聞こえてこない。庶民にとって、身の回りで起きている信じがたい事件の多くは、まさにそこから生まれ出たものと言えないだろうか。外圧を和らげる為に行われた変更は、言われるがままの先見性のないものばかりだが、その圧力の源が大混乱状態に陥るより前に、綻びが露見し始めていた。思い通りの断行の結果、人気取りに成功した人間は、その後始末に追われることもなく、責任回避に成功した。その人間にとってはこれで済む話が、歪みを押し付けられた社会はそれを解消する手立ても見つからず、迷走状態に陥っている。自制心を持てない人間を野放しにし、そこに規制を撤廃すれば何が起こるか、容易に想像できるはずだが、変えることにしか目が向けられなかった人には、そんな想像力は欠落していたに違いない。いやはや、ここから何処に向かうのか。

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10月10日(金)−硬直化

 経済活動は何故これほどに大きく取り上げられるのだろう。まるで、人々の生活を支えているのはこれだとばかりに、種々雑多な情報が流れ続けている。しかし、株式市場に資金を投資している庶民の数は、依然として低く留まっており、海外旅行をしない人にとって、為替の動向などは興味の対象とならない。
 社会全体の動きとして、様々な側面から観察を続けることは、ある意味重要かも知れないが、ここ数十年の経済面の取り扱いは、行き過ぎたものと言えないだろうか。調査をすれば、生き続ける為に必要なものはまず第一に金であると答える人は多いだろう。しかし、そのこと自体が大きな誤解であり、社会を形成する為に価値ではなく、現金そのものに注目する姿勢には、別の思惑があるように思える。このところの変動や危機についても、様々な取り上げ方がなされているが、この国でもその際に騒ぎが起きたように、庶民から集めた税金の投入については、根強い反対があることは、世界経済の安定が、現実には庶民にとって、大した意味を持たないことを示しているのではないだろうか。それより、市場の開放など、これまでに施された措置の殆どが、一部の人間たちだけに恩恵を与え、社会全体としてみれば、何ら変化がないばかりか、その極みに達した時に、あらゆる問題が降りかかるという、何とも理不尽な仕組みを立ち上げるのに、一役買っただけに過ぎない。これほどの不均衡が露呈し、その上、身勝手な要求が市場から出されるだけであれば、その存在は諸悪の根源となるばかりであり、これまでに構築された制度が偏りを産み出す元凶となっていたと結論づけられることとなる。絶対的な正しさは、人間生活において存在することはなく、互いの関係や時代背景によって、色々と変化することは当然である。にも拘わらず、現行の仕組みは恰もそれが絶対的なものの如く扱われ、これまでその運用を間違いなく進めることが重要と考えられてきた。しかし、ここに来て、このような崩壊が訪れた背景には、仕組み自体の障害が露わになっただけでなく、これまでに蓄積した歪みを解消する手立てが見出せない状況に陥ったことがある。これはつまり、根本から見直す必要を意味することになるのではないだろうか。

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10月9日(木)−不朽

 情報氾濫については、何度も取り上げてきた。情報化社会はごく最近の話題であり、この問題は現代的なものと受け取る向きもあるが、現実には情報を操作し、悪用する人々の存在は、遙か昔から取り沙汰されていたことで、何も今に始まったことではない。事程左様に、人間の性質とは変わらぬもののようだ。
 漱石の小説を読んでみると、明治という時代にあって、今と変わらぬ若者の悩みがあることに気づかされる。時代背景が大きく違うように見えて、その実根底では酷似していると思えてくる。活躍した分野が違うから、漱石門下とは言えないかも知れないが、寺田寅彦は彼の薫陶を受けて育った世代である。科学随筆と呼ばれる分野を切り開き、科学が縁遠い存在ではなく、身近なところにもあることを気づかせてくれた。寅彦の弟子にもその流れを受け継いだ人がおり、中谷宇吉郎はその代表格だろう。寅彦の活躍は主に、大正から昭和にかけてのものであり、今から数えれば80年ほど前の時代にあたる。そんな時代に著された読み物を読んでも、時代外れのものでしかないと思う向きもあろうが、実際にはその指摘こそが的外れと言わざるを得ない。日常で身の回りの現象は、科学の発達と共に、便利で高度な技術に囲まれたとは言え、人間の性質には殆ど変化がない。そんな中で昔に指摘された事柄は、今でも十分に通用するものなのだ。これは、生活の程度の変化や複雑化の中で、戸惑い苦しむ人間の姿の反映であり、その点で彼の指摘は大いに共感を呼ぶものなのである。たとえば、その中に「一つの思考実験」という一文がある。青空文庫に掲載されているから、そちらを参照して欲しいが、ここでは新聞のことを批判している。この後に戦争に突入した過程から、指摘の重要性が実感できるが、それと同時に、これが今でも通用することから、考えさせられることも多い。彼が今の時代に居たら、新聞のみならず、数多の情報垂れ流し媒体に批判を浴びせていただろう事は容易に想像できる。こんなところからも、人間が懲りないものであることが判るのではないか。

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10月8日(水)−歳差運動

 何やら不穏な空気が流れている。終わることのない発展が約束された仕組みが、音を立てて崩れ始め、応急措置も一向に効果が上がらない。市場経済という言葉は、政府や個人の思惑に振り回されることなく、自立的な繁栄を可能にするものとして、理想的で魅力的な仕組みの説明として、しばしば用いられてきた。
 その番人とも言える人が表舞台から去り、世代交代が余儀なくされてから、ぶれが大きくなるに連れて、雲行きは怪しくなるばかりとなった。確かに、前任者は波乗りよろしく、様々な困難を乗り越えてきたが、現任者には荷が重すぎたのか、首尾一貫性が失われ、全幅の信頼を得られていないようだ。しかし、経済構造の歪みが高まったことも、大きな原因の一つと考えられ、たとえ誰が舵取りをしようとも、今回の崩壊を食い止めることは困難であったとする向きもある。原理の本質からすれば、自立性とは倒れかけた独楽が戻るように、自ら問題を解決し、新たな展開を導くはずだが、このところの流れを見る限り、回ることを忘れた独楽のように、倒れかかってしまったようだ。金の流通が続けば、外見上は回転し続けることはできたのだろうが、今度は逆に、独楽自体が壊れ始め、バラバラに分解することとなる。この仕組みは経済成長を永続化する為に、必要不可欠なものと言われていたようだが、現実の社会では、欲に駆られた人々がより厚い利益を得る為に、次々に新商品を担ぎ出し、その魅力を訴えかけることで、大きな流れを産み出した。それ自体に問題があったかどうかは、この時点で議論しても意味のないことで、更に様々な問題が明らかになってから、結論を出せば済むことである。重要なことは、この奔流によって、莫大な利益を稼ぎ出した人がいる一方で、流れに巻き込まれたまま浮かび上がれなくなった人々もいる。市場原理、市場経済などで使われている市場とは何を意味するものか、今一度冷静に分析する必要があるのではないか。それ無しで、うわべだけの解決を試みても、将来の糧は手に入れられないと思う。

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10月7日(火)−差別化

 広告は世相を映し出すものと言われる。景気が良く、車の買い換えが当然だった時代には、外観や高性能など、その魅力を前面に押し出すものが増え、先行きが怪しくなり、節約を心掛けなければならない時代には、低燃費や低価格を謳う文句が目立ち始める。人々の興味を惹く仕掛けが必要となるわけだ。
 そこで展開される手法が万国共通かと言えば、現実にはそうではない。一つには文化の違いがあるのだろうが、重要なのは比較広告が許されているかどうかである。海の向こうの先進国に行くと、テレビから流れる広告の大部分が何らかの比較を示している。業界一位の製品との比較や業界全体の比較だから、余所者には誰が一番なのかすぐ判り便利なものだ。追随する者達と違い、先頭を行く者は別の形での説明を必要とする。そんな時、この国の広告の方針が役に立つらしい。こちらでは比較広告は基本的に許されておらず、その為抽象的な表現が多用される。一見何の意味もないものだが、雰囲気を伝達させる為には役立っているようで、そこが一番である証しとなる。先日旅先で眺めていた広告では、町を歩き、ジムに通う人の上からドル札が降ってくるという金融業界の企業のものが流れていた。何かを使う度に、現金が戻ってくるという意味なのだろうが、他の人々が奇異と羨望が入り混じった眼差しを向けていたのが印象的だった。このところの金融危機で、肝心の広告主は身売りを余儀なくされ、国の反対側にある企業が買収したと報じられていた。ここでも重要な教訓があるような気がするが、一時の利益を追求した結果、破綻するとしたら、何もかもが無駄なのではないだろうか。これは企業経営者に当てはまるのみならず、顧客にも適用されることで、この広告の通りになることを望んだ人々は、全く違う環境に追いやられることとなる。都合の良いことを言い連ねるものだから、広告は所詮その程度のもの、と宣う識者も多いが、こんな意見が出るほど、その広告を信じる人々がいるのだから人間の心理は複雑だ。

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10月6日(月)−公平無私

 青天霹靂、突然の雷に驚くことに準えて、まさかと思う事柄を表現する時に使う。このところの食品に関係する事件は、その典型のように扱われているが、果たしてそうなのか。この間取り上げたように、話題になっている国には元々そんな素地があったのではないか。そんな声も聞こえてきそうな気がする。
 大統領や内閣の交替のように、政を司る人々の交替は本質的には大きな変化を生じない。長い歴史を誇る国は、国自体が交替し、時には支配する民族までが替わっていた。その歴史に責任を押し付けるつもりはないが、こんな情勢はその瞬間瞬間での利益の追求を第一とする下地を作ったのではないだろうか。世界の工場としての役割が増大し、それが産み出した利益が市場としての価値を高めた結果、あらゆる場所、場面で強い発言権を有するようになった。世界制覇を目論んでいるかどうかは兎も角、第三世界の支配者の如く振る舞う姿には、何処か歴史の重みが感じられる。しかし、その一方で私利私欲に走る人々の欲に駆られた行動は、社会制度自体が足下から崩れ始めていることを如実に表しているように見える。国の間の交流に限らず、人と人の間での取引は、法で縛る以前にある程度の信頼関係に基づくものである。それが根底から揺らぐとすれば、ここ数十年で築き上げた地位は、脆くも崩れる運命にあり、既に人々の心の奥底にまで到達した病を撲滅する手段は見つかりそうにもない。ここまで断定的に言う必要はないが、続発する事件にそんな解釈も可能に思える。その一方で、本来の姿でないとの反論もあり、市場原理という毒に犯された結果という意見もある。その毒はこの国にも蔓延しており、酷似した事件の続発は同じ病に冒された人々の心が産み出している。海を挟んで、こんな国々からの影響を受ける国にとって、今大切なことは昔から培ってきた独特の文化、考え方を思い起こすことではないか。新しいものを採り入れることが得意な国民性も、実は底流に確固たるものを持ち続けてきた。それまで捨て去り、一時の暴利に走った人々の悲惨な末路を眺めれば、自分たちにとって必要なものは自ずと明らかになってくる。

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