パンチの独り言

(2008年10月13日〜10月19日)
(画餅、人心一新、自制心、師資相承、口車、訓育、静聴)



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10月19日(日)−静聴

 大人の仲間入りの儀式で、大暴れする若者たちに批判的な声が浴びせられる。大目に見ていた大人たちも、余りの無軌道ぶりに呆れ果て、投げ捨てた感もあるが、本人たちはどう思っているのだろう。社会全体が甘えすぎの状況となり、自己抑制が利かず、全ての世代に目立ち始めた行動の一つなのかも知れない。
 人が集まる場所での私語は禁じるまでもなく、何となく治まるものと思われていた。ところが、最近は何時までも止まることがなく、他人の声に自分たちの話し声が聞こえず、更に音量を増すようになっている。中でも驚くべきは、参観日の教室内での喧噪である。落ち着かない子供たちの声ではなく、分別がつくはずの親たちの声が、室内に飛び交い、教師が注意することさえあると聞く。空気を読めないという表現が、若者たちの間で流行しているが、おそらく、そんな現象は全ての世代に共通のもので、場を弁えない行動が溢れていることの一つの例かも知れない。そんな親たちを見て、子供がどんな印象を持つのか想像したくないが、礼儀作法の喪失はこんなところが始まりなのではないだろうか。自分の好きなことをして何が悪いのか、若者たちには理解しがたいのだろう。何しろ、これまで大人たちの傍若無人ぶりを見せつけられ、それが当然と思ってきたのだから。しかし、現実にはこんな言い訳が通用すると考えること自体に問題がありそうだ。他人との関係を築く時点で、相手に配慮することの必要性を感じ、それを身に付けていく。自分が相手の他人であることを考えれば、すぐに理解できるはずのことを、簡単に無視できるのは、全く別の感覚があるからなのだろう。異常な行動を示す親たちを冷たい視線で眺める子供の姿に、違和感を覚える人が居るかも知れないが、現実には異常を異常と感じなくなることの方が、遙かに恐ろしい事態を示しているのではないか。子供たちが儀式の中で静かに振る舞うことを見て、安心感を抱くことはごく自然な反応であり、それを温かく見守り続けることが重要なのだと思う。

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10月18日(土)−訓育

 若者を批判的に見る大人が居るのは、いつの時代も変わらぬことだろう。しかし、彼らを客のように扱う人々が居ることは、これまでにない現象ではないだろうか。ここで言う「客」も、時代により随分変化する対象のようで、金銭の授受という観点でのみ話されるようになったのは、ごく最近のことのように思う。
 いずれにしても、発達途上にある人格に対して、ある程度の批判が浴びせられるのは、ごく当たり前のことと思われる。だからこそ、自らの過去を顧みることなく、無責任な批判が繰り返されてきた。しかし、こういう人間関係は成長過程で必要な要素と考えられ、一方的なやり方を諫める声は小さく、誰もが歩む道の如く受け取られていたのではないだろうか。この段階で受けた心の痛手が大きく、回復しないままに余生を過ごした人は沢山居ただろうが、余り問題視されなかったのだろう。ところが、最近の客扱いが目立つようになると、その辺りの事情は大きく変化したように感じられる。つまり、その場での接客が重要であり、如何に満足してもらうかが課題となるわけで、将来に疵を残すことは忌避される。当然ながら、悩みの海を漂う若者が多く出てくるわけだが、以前と違い、放置されることはなく、様々な処置がなされることとなる。では、結果としてどうなのかを見ると、まだ経過時間が短いことを差し引いたとしても、心の痛手から回復できない人の割合が減ったようには見えず、注目されていることから、却って増加したようにさえ見えてくる。将来のある人間を大切にするとは、決して客として扱うという意味ではなく、将来の成長を促すことを指す。この辺りの取り違えは、いつ頃からか増え始め、最近ではそちらが正しいと思いこむ大人が増えてきた。丁寧に扱うことが大切であり、傷つけないように育てることが重要というわけだ。その一方で、些細なことで傷つき、苦悩の淵に落ち込む人が増えていることは、何かを明示しているのではないだろうか。理不尽な暴力を認めるつもりはないが、上辺だけの理想論の崩壊はすぐそこにあるように見える。

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10月17日(金)−口車

 振り込めを始めとして、詐欺事件の話が聞こえてこない日はない。どんなに制限をかけても、何処かに穴があり、漏れてしまう。人の起こすことだから、人が関わることでと、機械の周囲に配したとしても、見張る人が意味を理解していなければ、成立しない。心の隙間を突くという意味では、詐欺ならではなのだろう。
 詐欺もその巧妙さは高まるばかりで、規制をかけても鼬ごっこを繰り返すだけとなる。明白な犯罪性から事件として取り上げられるものばかりでなく、所謂詐欺紛いという話が多くなるに連れて、規制緩和の悪影響を指摘する声が大きくなっている。一部の学者は明らかに痛烈批判を繰り返し、その責任を追及している。言い放つことが常であった人々は、既にそんな手が届くところにはおらず、知らぬ存ぜぬを決めるだけでなく、恰も無関係であったかの如くの振る舞いをする。世の中には、責任という物自体が存在しないのだとする人もいるらしいが、人と人の関わりで成立する社会では、果たせないとしても、言葉による作用は有り得るのではないだろうか。金融業界は、金銭取引が主体となるだけに、様々な商品が編み出され、その中には怪しげなものもあったのだろう。このところの騒動において、その問題点を指摘する人が居て、厳しい批判を繰り広げているが、これらの人々の考え方の流れは、どのようになっていたのだろう。問題が発覚した後で、それを指摘することは、分析能力さえあればできることだが、提案時に同じことを問題と指摘することは、容易なことではない。このためには、分析だけでなく、様々な想定をおくことが必要であり、その為には、分析とは異なる能力が必要となる。特に、その商品がある仮定の下に成立する場合、その仮定の成立可能性の検討が必要となり、未来予測という困難な作業が伴う。いずれにしても、これらの金融商品の多くは、ある仮定においては妥当としても、全てにおいて成立するわけではない。となると、結果的に詐欺となることもあるのではないだろうか。そこで自己責任を登場させるのが常とも思われるが、さてどうなのだろう。

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10月16日(木)−師資相承

 毎度お馴染みのお馬鹿ぶりだが、基礎研究重視の意見は何のことかと思う。経済発展に、即座に役に立たないものは無意味、という意見が大勢を占めていたかと思えば、世界が注目する報道に、手の平を返したような反応と来る。所詮、主義主張などありはしない、と分かっていても、呆れてしまうものだ。
 今回の受賞劇では、ある大学に注目が集まった。四人のこの国出身の研究者のうち、三人までもがその大学と関係していたからだ。その人々を知る人は殆ど居ない状態でも、祝いの席となれば盛り上がる。そんな光景も報道されていたが、それはそれで別のことを考えさせられるものだった。法人化をした国立大学は、自らを売り込む手立てを探すのに躍起になっている。そんな中で、今回の騒ぎは格好の材料を与えることになったからだ。戦前からある国立大学は、旧帝大と称され、その十倍以上ある他の国立大学とは、明らかに区別されている。それに在京の工科系大学を加えた八校で、全体のトップを構成するが、件の大学はその中では下の方に位置づけられる。特異な人材、環境を売りにしているものの、数字の比較では地方大学の雄のような扱いとなる。以前の受賞者に現役の教授がいたものの、出身大学ばかりが注目され、恰も偶然の如くと、その存在は取り上げられなかった。今回も、そういう意味では在職した大学、組織が権利主張に躍起になっているが、この類の話では、こんな身勝手な解釈は当然なようだ。三人全員が、というのも驚かされたが、その二人が件の大学の卒業生であり、彼らの恩師の関わりの重要性が取り上げられたのは、当然のことだろう。更に、その一人が英語嫌いで有名であり、今回も駄々をこねている姿に、首を傾げた人もいるのではないか。それでも才能さえあれば、という意見には、監督省庁は苦々しく思っているのかも知れない。いずれにしても、人の出会いの大切さを改めて感じさせられる事件であり、中でも、化学分野の人は、現役の教授だった人と同じ人に感謝したという話は印象的だった。業界では有名な人も、おそらく一般には無名であり、今回の一致にも気づかぬ人が多かったのではないだろうか。

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10月15日(水)−自制心

 危機回避の為に一人の人間が使える能力の中で一番強力なものは何だろう。そんなことを聞かれても、何を答えたらいいのか分からない、という人が多いと思うが、たとえば、視力は役に立つだろうか。目に見えるものは次々に変わり、そこに異状を認めるのは難しい。聴力も余程注意深い人にしか通用しないだろう。
 これらに比べて、嗅覚はその特長から、異状を感じることが第一となっている。臭いは、快いものから耐え難いものまで様々にあり、それが入り込んでくることを拒否することは難しい。その為か、嗅覚に慣れは付き物であり、少しくらい不快に思っても、すぐに慣れて感じなくなる。この能力によって、新たに入ってくる臭いに対する感度を保つことができるわけだ。生き物のもつ感覚の多くは、慣れを伴うもので、それによって激しい環境変化に適応している。これは直接的な感覚だけでなく、人間の場合、言葉や状況といった、脳がその変化を感じ取る感覚についても、当てはまるように思える。急激な生活の変化に対して、いつの間にか慣れてしまい、戸惑いが消えた経験を持つ人も多いだろう。その能力が不足する人々は、新たな生活を始めるところで、戸惑いが大きくなり、不調を訴える。新しい機械や道具が入り込んできて、始めは面食らったとしても、いつの間にか使いこなしているのも、そんなところから出てくるのではないか。今、これを書いている仕組みもそれの一つであり、当初は専ら受け身だったのが、最近は送り手になる人が増えた。これにより、意見交換や発表に障害が無くなり、極端な考えでさえ世間に出すことができるようになった。これを自由と呼ぶ人もいるだろうが、それはこの仕組みを良識を持って使える人だろう。それに対して、このところの発達は異常な人間の台頭を促し、彼らの身勝手さを批判する声も聞こえてくる。身体的な暴力は厳しく罰せられているのに、言葉による精神的な暴力は放置されているとの批判もあり、刑罰の導入を検討せよとの声もある。ただ、最近の異常さからすれば、導入は別の問題を生じるはずで、その点からは、今後何らかの制限を仕組みに導入する方を選ぶしかないのかも知れない。良識が失われた社会で、自由が奪われるとしたら、何とも皮肉なものではないか。

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10月14日(火)−人心一新

 市場の意志を尊重するという考え方を支持する声は大きかった。その象徴とも言える人物が頂点にあった時には、絶妙な舵取りにより、不安が巻き起こることもなく、平穏な成長が続いていた。その後の展開は、ここで説明する必要もないほど、多くの人々に鮮明な記憶として残っている。何が変わったのだろうか。
 自由という言葉の持つ意味は重い。勝手気儘にという解釈は社会的には受け容れられず、何らかの責任を伴うものとする解釈が支持される。精神的な責任だけで事が済むのであれば問題ないが、現実にはそんなものに頼ることは何の効果も産まず、形のある責任を負うこととなり、罪に相当する罰が下される。こんな中で、様々な規制を排することで、自由市場の形を整えてきたが、その一方で犯罪行為の摘発が行われてきた。矛盾しないと考える人々もいるだろうが、これは社会的規制の適用の仕方の違いの現れであり、規制という概念からは同じ範疇に入るものと考えられる。自由を享受する為には、ある程度の制限が必要だという考えには変わりがなく、表向きが違うのみと言えなくもない。ここまで書くと、流石に無理があるわけだが、そんな考え方もあるとしておきたい。その上で、このところの混乱を眺めてみると、現実には規制緩和の歪みが表面化してきただけであり、異なる規制はこの流れを止めるのには無力だったことが判る。社会制度として、強い規制を望む声も聞こえるが、たとえそこまで極端に走ったとして、人々に幸福がもたらせられるとは限らない。それは、東側諸国の現状を見れば、何となく解るのではないだろうか。利欲に走る人々にとって、自由な環境は好都合であろう。それが、勝手気儘に近い状態なら、猶更である。二者択一とは言えないだろうが、ここでの選択は、問題を人心に帰すか、制度に帰すかの違いなのではないだろうか。どちらも嫌だという人間がいる限り、こういう破綻は訪れるに違いない。

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10月13日(月)−画餅

 ヘッジ、何時の頃か投資の世界で聞かれるようになった言葉である。hedgeの元々の意味は生垣、取り囲むことであり、中にあるものを防衛することに繋がる。そこから、投資の世界では損を防ぐ為の手立てを講じることとなり、それにより投機的な運用が可能となり、それからファンドが生まれたということらしい。
 絵に描いた餅と言われる通り、理論的に正しくても、現実の世界では実現しないことは世の中に数多ある。その理由の一つは、理論が理想論に基づくものであり、全てが想定通りになることが少ないことがある。別の言い方をすれば、理想とは、恰も最も高いところに位置するもののように受け取られるが、実際には独り善がりの都合の良い解釈に過ぎない。この手のものは様々な世界に見られるが、経済に関わる世界では特に目立つように思える。一つには、金が絡む欲の世界であり、その中で生き残る為の手段として、上辺だけの理論が必要ということがあるだろう。その上に、経済の動向がまるで世界の生死を左右するかの如く扱われることが被さり、人々の注目を浴びることとなる。そんな中で、更なる利益を求める動きは歓迎され、次々と新手法が編み出されて、それに群がる人々が世界中から集まる。綻びさえ見えてこなければ、こういう循環が成立し、一つの手法の限界が見えかけても、新手法が跡を継ぎ、事なきを得る。そういう連鎖に導くべく、業界の人々は日夜努力する、とまで言うと、余りに批判的に聞こえるだろうか。これまでも、何度か厳しい状況が訪れ、繁栄を誇った運用会社が姿を消した。その影で資産を失い、途方に暮れた人が居たとしても、自己責任という一言で片付けられてきたが、今の状況は関係組織全体を巻き込んだものであり、負の連鎖の恐怖が迫り、逃れようのない状況に陥っているように見える。こんな中で、ヘッジは何の役にも立たないらしく、塀の中に囲まれているはずの資金を引き揚げるという内部崩壊が起き、想定外の事態となった。食べられると思われた餅は元の絵に戻り、眺めることしかできない。

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