パンチの独り言

(2008年10月20日〜10月26日)
(人身御供、存在感、厳正中立、自己防衛、保身、新機軸、安全)



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10月26日(日)−安全

 車を運転するとその人の本性が露わになるという。自分だけの空間で、誰に遠慮することもなく、自分なりの行動がとれる。そうなれば、気遣いすることもなく、場合によっては、罵声を浴びせながら、鬱憤を晴らすこともできるだろう。でも、確かに箱の中の声は聞こえないが、車の動きに何かが現れているものだ。
 車の運転の仕方を習ったとき、様々な技術を習得すると共に、周囲の観察や気配りなどの指導もされた。一人だけの道路でなく、無数の車が行き交うところで、独り善がりの動きは危険を招く。そんな観点からのことだったと思うが、いざ道に出てみると、そんなことはとうの昔に忘れたと思える車が溢れているのに、驚かされた。譲り合いの精神は消し飛び、我先に目的地に向かう人々に、圧倒されてしまうこともしばしばあったが、そのうち慣れてくるものだ。すれ違う車の傍若無人ぶりに立腹したり、道を塞ぐ右折車に呆然とすることもあったが、徐々に当然のこととして受け容れられるようになる。箱の中では怒りをぶちまけていても、何とか外に漏らさずに済ませようと、別の心が働きかける。これほど多くの人々が車を走らせている社会では、何が起きても不思議ではなく、その備えをしてこそ、自分の身を守ることができる。酒酔いや暴走などといった予想不能な行動を伴う連中には、偶々出遭うことが少なかったこともあり、まあ無事に過ごしてきたが、これからも同じ調子で行くとは限らない。精々周囲を観察することに努め、君子危うきに近寄らずといった感じで、車を走らせていくしかないのだろう。車自体の安全性も高まり、交通事故死者の数は減少し続けている。と言っても、何も起こらないわけではなく、事故数だけのことは起きているのだから、注意するに越したことはない。他の車は全て危険だと思いこむことはいけないと思うが、他に依存するような運転だけはしないように心掛けたいところだ。

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10月25日(土)−新機軸

 傾向と対策、激動の社会を生き抜く為に必要不可欠なものと捉える人も多い。調査を行い、傾向を焙り出し、それに基づいて対策を講じる。如何にも論理的に思える手法だが、全てに通用するとは思えない。傾向を導き出す背景に、様々な思惑が蠢く時、そこには本質的でない事柄が積み上がることになるからだ。
 そんなことは承知した上で、という人々が居て、今の世の中の流れに乗ることが、最重要と考える向きもある。一見効率的に思えるけれども、明らかに間違った方向に向かうことがないわけではない。社会の動向に敏感に対応することは、非常に重要なことかも知れないが、その一方で、そこで起きた間違いを正すことも、危機回避の為に必要だろう。そういうことを一切合切無視して、兎に角要求された形に合わせることだけに終始することは、その先に来る破局に盲進することになりかねない。安定した社会において、傾向と対策は当然の流れとはいうものの、その安定を保つ為には殆ど役に立たない。全てが受け身の態勢にあり、対応に追われることは、本質的なものを見る目を曇らせるからだ。新たな方針が打ち出されたとしても、それが必ずしも良い結果を産むわけではなく、改革どころか、悪化の一途を辿ることもしばしばある。そんな中で、ただ闇雲に傾向を見つけ出し、その対策を編み出すことは、悪化の速度を増すことはあっても、歯止めをかけることには繋がらない。安定した時代が長く続いたことからも、この手法を最良と思いこむ人が増え、それを巧みに操る人が重用されてきた。しかし、その結果が今の下り坂を招いたとしたら、そろそろ考え方を基盤から変更する必要があるのではないか。邁進する中では傾向から外れた考え方は、打ち棄てられてきたけれども、不安が高まり、種々雑多な方策が必要となれば、何処かで打ち出された方針とは異なる提案の必要性が増す。混迷期に入り始めたのではと思われるからこそ、そろそろ積極的な打開策を講じる必要があるのだろう。

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10月24日(金)−保身

 世界標準と言っても、その出所は世界全体ではなく、一部の地域だったり、国だったりする。それでも、優れた制度や基準を様々な国や地域で共有することの重要性は高く、そこから導入が進められるわけだ。表面的にはこれが全ての筈だが、現実にはその裏で利害が渦巻き、そちらの方が主体となってしまうことも多い。
 標準化を主導してきたのは欧米各国であり、自らが全体の管理にあたるべきという自負があった。しかし、経済発展を支える為に、利益追求の勢いが増すに従って、主たる目的は別の所へ行き、水面下にあった筈のものが浮かび上がる結果となった。それまでならば、導入の利点を魅力的に語る言葉が輝いていたのだろうが、私利私欲の鍍金をつけ、くすんだ輝きを見せるに至っては、容易ならざる事態を招くこととなる。社会機構に深く食い込んでいた仕組みも、徐々に綻びを見せ始め、世界基準なるものや、全体化なる動きが、その実、一つかごく少数の国が自らの思い通りに事を運ぶ為の方便に過ぎないものであることが、露わになることとなった。ここまで来ると、流石に思惑ばかりが目立ち始め、言葉の持つ本来の意味が蔑ろにされていることが明らかとなる。基準を決める段階でも、どの方式が最良かという議論ではなく、更に上を目指す議論があってしかるべきだが、主導権を握りたいと思う人々には、そんなやり方は受け容れがたいのだろう。基本理念が根底から覆されたと、今回の騒動を見て思った人々もいるだろうが、今後の展開によっては、そんな扱いはなされずに、有耶無耶に事が進められるだろう。これを機会に、後進に道を譲るというのが、ある地位にある人々の潔さを表すものとしたら、標準化の世界には、そんなことが起きないようにする、秩序を保つ為の仕組みが築かれているのかも知れない。

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10月23日(木)−自己防衛

 非常識な人間が増えている、と主張する人は多い。しかし、本人の非常識さ加減もかなりなもので、そちらを問題視する人もいる。何を常識と見るか、何が重要か、取捨選択に似た感覚が必要と思われるが、単なる常識の有無だけでなく、ものの見方という点に最近の社会問題の原点があるような気がしてくる。
 子供たちを客扱いする人々の異常さは深刻な問題と思うが、それと同列に扱えそうなのが、全ての人間を無知蒙昧の如く見る話であろう。何も知らない人間に、全ての事柄を教えてやるのが役割と、そういう類の人は考えるのかも知れないが、それこそが無知の塊のようなものではないか。何もかも学校に任せようとする風潮は、流石に影をひそめてきたが、それでも事件、事故が起こる度に、それに基づくような妄言が噴出する。箸の持ち方を教えようとする教師の姿は、何とも情けないものだったが、最近では、物事の善悪の区別がつかないギャングたちの再教育を押し付けられることまで起き、加重負担が露わになっている。その一方で、能力不足を指摘され、散々な目に遭わされる教師の姿に、そこへの憧れは消し飛んでいるのではないだろうか。自分の身は自分で守るという考え方は、最低限のものであり、子供でもそれを徐々に学び取っていくことは当然だろう。危険を回避する手段は様々にあるが、それを冒してまでふざけ回る子供がいたとして、その監督を一個人に押し付けるのは如何なものだろう。親子関係は、その前にある重要なものだが、それに言及することは忌避され、他人の関係に責任がのしかかる。この状況を常識という扱いで括ることには、かなりの抵抗を覚えるが、世間的にはそちらが選ばれるようだ。親子関係と師弟関係では、全く違った影響の及ぼし方が考えられるが、この頃はよく似たもののように扱われる。これが今の常識と主張する人々には、その関係に関わる機会が無く、全く異次元の話題に口を出しているのではないかと思えるが、その真偽を確かめたことはない。いずれにしても、責任の所在を明確にすることや、その能力を批判することだけに終わり、社会のあるべき姿を示せない議論は無意味なのではないだろうか。

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10月22日(水)−厳正中立

 広告は景気の動向を測る指標として使われる。企業自体の健全さだけでなく、社会全体の景気が反映されるからだろう。このところの急激な変化では、時期がずれてしまった感があったが、それ以前にこの激変の予兆が起きていたと見る向きもある。経済成長なる数値と比べれば、遙かに信頼度の高いものかも知れない。
 折り込み広告の数が減り始めたと感じた人もいただろうが、こちらはその場で比較できないので、感覚的な問題となってしまう。それに対して、テレビの広告はその中身で判断できるから、比較的信用できるのではないだろうか。たとえば、広告の数が減ったと言っても数えるのが大変だが、その代わりに番組宣伝が増えたとみると、それを見るだけで変化が実感できる。数年前から、その傾向が続いているけれども、最近更にその勢いが増したように思える。まさか民放各局が番組宣伝を始めたからでもないだろうが、広告収入を当てにできない局までがそれを始めたのには面喰らった。視聴率との関わりを指摘する声もあるが、それを超越した番組制作が基本のように扱われたのは遠い昔のことだろうか。こんなことがあったからといって、すぐに民営化を主張する声が上がるわけでもないだろうが、中身的にはそんな方向性があるように思える部分もある。国政選挙の報道はあくまでも中立的であることが重要で、偏りが見えた時点で大きな問題を生じる。流石に広告料を手に入れる為と、一つの政党に傾倒するような番組制作をすれば、公共電波の利用ができなくなるわけだ。常識とも思えることだが、その線引きは容易ではなく、意見が分かれるところだろう。その例として最近話題になったのが、ある政党の党首選びに関する報道である。一般選挙と違い、ある組織の長を選ぶだけだから、公共性はかなり低くなる。しかし、それが政の長ともなるわけだから、別次元の話と受け取れなくもない。この辺りは判断が分かれるところであり、あの時点での局の判断は後者だったと思われる。しかし、毎日のように一政党のことが取り上げられ、それが連呼されると、恰も広告のように感じる人も少なくない。中立という見方からすれば、行き過ぎがあったと言われても仕方ないように思う。

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10月21日(火)−存在感

 暴落とか恐慌とか、過激な言葉が飛び交っているが、実態はどうなのだろう。株価が軒並み下がり、金融危機が叫ばれる中、そろそろ崩壊が始まったと見る向きもあるが、各国政府は食い止めようと矢継ぎ早の対策に乗り出した。その中で、極東の大国は何をしているのか、不思議に思う人もいるのではないか。
 現在の経済構造は、米欧主導で作られたという意見に反対する人はいないだろう。一部には、欧州の関与は小さく、やはり一つの大国が主体であるという意見もある。その中には、その国が覇権を維持する為に、このような仕組みを築いたとさえ言う人もいる。表面的にはそうと思えないこともないが、ここまで様々な流通が整うと、始めの意図が何であれ、互いに支え合う仕組みにならざるを得ないことがわかってくる。特に、金融危機については、大洋に浮かぶ小国の経済が破綻しかかるなど、負の連鎖はかなり広範囲に広がりつつあるから、無視することも難しくなっている。この騒ぎは海を渡ってこちら側にまで及んでいるはずだが、今回の対策への関与は殆ど目立たぬ状況にある。この違いは何処から来るのか、騒ぎを報道するだけの人々の口からは、何も聞こえてこない。利下げの話ができないのは仕方ないとしても、公的資金の話が出てこないのは、国内の銀行の状況が外とは余りにも違うからだろうか。同じような被害が始めのうちは報道されていたが、最近はとんとその話が流れなくなった。その代わりといっては何だが、窮地に追い込まれた海の向こうの企業の救済に乗り出す話が、毎日のように流されている。その資金は何処から出るのか、今手を出すことのリスクはどうか、などの意見が多く聞かれ、まずは国内の不況から回復するのが先との声も聞こえる。順序の問題として捉えるべきか、はたまた利益最優先のことと見るべきか、そんな目先より長い目で見た世界経済の回復を目指すべきか、どの選択肢でもそれぞれに不確定要素があり、容易に決められるものではない。緊急時の存在感という意味で、何度も失敗を繰り返した経験は、今回活かされるのか否か、暫く様子見となるのだろう。

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10月20日(月)−人身御供

 閉塞感が強くなると、変化を求める声が大きくなる。しかし、いざ変革が始まってみると、逆風が吹き始めるから不思議だ。あれほどの勢いがあったものが、一夜にして微塵もなく飛び散るとは信じがたいが、想像力に乏しい人間たちにとっては、現実を目の当たりにして慌てふためくのが精々といったところか。
 変化を起こす時も止める時も、本質から目を逸らせる為に、標的が必要となる。生け贄とも言える存在だが、それまでの経緯がどうであれ、そこに全責任を負わせることが多い。興味深いのは、変革の主体となった人々が、その選別をすることで、ここでも主体性を失わずに、自らの責任を回避するようにしている。後々、どんな形で語られるかは定かではないが、その場での責任回避は歴史上も強い印象を残さず、無難な流れを作ることが多い。それに比べて、標的として掲げられた人々は、ある程度の関与があったことは確実で、その責任が問われることで、恰も全体の責任までも負わされることになりかねない。これでは余りに不公平ではないか、という声も聞こえてくるが、こういった形が多用されるのは、事を進めるのに都合良いからだろう。変化の前の責任は、ある程度仕方ないと思えるが、変革を起こした後の責任を、主導した人々が負わないのは何とも不条理な気がする。特に、この形が起きるのは、多くの支援を得て変革を進めた末に、素早く身を引いた場合にあり、当事者が消えてしまうことで、責任の所在が明確にならず、跡を継いだ人間にその責があることになってしまう場合である。ここでも生け贄となるのは、後始末を負わされた人々であり、自らの考えを反映できず、歪みを和らげることに躍起になった末に、崩壊が訪れることとなる。時間のかかることである限りは、始めから終わりまで責任を持つことは難しいけれども、誰が始めたことかを忘れてしまうことは、何処か矛盾しているように思えてくる。

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