パンチの独り言

(2008年10月27日〜11月2日)
(気配り、安居楽業、重見天日、放辟邪侈、冷眼傍観、好奇心、文語)



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11月2日(日)−文語

 相手に自分の意志を伝えたい時、人はどんな方法を採るのだろう。言葉を媒体として使うことはほぼ当然として、それを音声の形で伝えるのか、はたまた文字の形で伝えるのか、その間の違いは何だろうか。音声は記録に残す人もいるとは言え、その場限りのものとの理解があるのに対し、文字は同じものを何度も目にできる。
 時間的な問題と同時に、音声では同時進行である為に、確認作業が当事者間でできることが大きな要因であろう。それに対して、文字は過去に遡って確認できる為、受け手のみの判断が入り込む余地がかなり大きい。つまり、前者は誤解を生じたとしても、その場での修正が可能であるのに対し、後者は修正よりも前に、別の展開があり得るというわけだ。その為、音声による伝達では、不十分な情報でも修正を繰り返しながら、それなりの形を整えていけるのに対し、文字による伝達では、始めからかなり整った形のものが伝えられないと、あらぬ誤解から取り返しのつかない事態を招くこととなる。この違いを考えに入れた上で、最近の伝達手法の発達を見直してみると、特に大きな問題を産むものとして、携帯などで使われる電子メールという手段に注目が集まるだろう。同じように文字を使ったものでも、葉書や手紙などという形で送られるものでは、それなりの配慮をした上で準備を整えるが、気軽さが前面に出た媒体では、話をするように書くことができるのが特長となっているので、準備が不十分となることが多い。その為、文章から受け取られる意味は様々に変化することとなり、時には誤解を生じることにもなる。音声によるものと、この段階までは似ているものの、その先の展開は、大きく違ってくる場合がある。メールの遣り取りが会話のように交わされれば誤解はすぐに解消されるだろうが、必ずしも全ての人がそうするわけでもないから、場合によっては、生じた誤解が膨らみ続け、確信へと変わることもあるわけだ。中間的な存在が出てきた時、こんな問題が生じるわけだが、最近の状況は、かなり極端な方向に走っているように見える。そろそろ、気軽さだけに頼らず、自らを磨くことで正しい文章を作る努力を始めるべきではないだろうか。

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11月1日(土)−好奇心

 興味を持たせることの大切さを説く意見は多い。しかし、現実にその場にいると、興味を繋ぎ止めることの難しさを実感することばかりだ。ほんの一言で失わせることはあれほど簡単なのに、何故、繋ぎ止めたり、湧き起こさせるのはこれほど難しいのだろうか。本人の欲望から来るものであれば、維持するのは簡単だろうか。
 小さな頃は誰もが何にでも興味を抱くと言われる。それがいつの間にか、自分の欲求と結びつかないものには殆ど興味を示さず、時には何事にも興味を示さないとなることもある。一言で言い表しているものの、頭や心の中で起きていることは理解不能であり、それにも拘わらず、興味の重要性が強調される。この状況は矛盾に満ちたものであり、特に、子供たちと直接接する人々にとっては、厳しい環境を作り出すことにもなる。それでも、時に現れる純粋で素直な子供と接することで、夢よもう一度という気持ちが強まり、無駄な努力と知りつつも、呼び掛けを繰り返したりする。子供にとって、機会を与えられることは非常に重要であるが、その時期を誤ってしまえば、効果は殆ど期待できない。その見極めを期待されたとしても、現実には殆ど試行錯誤と言うしかない状態で、相手が変わる度に様々な試みを行うこととなる。理論的には、子供たちの反応を見極めさえすれば、興味を喚起することは難しくないと言われる。しかし、現実的には、その難しさばかりが目立つこととなり、誰もが悩み苦しむ結果ばかりが出てくる。一人で多数を相手にするような状況の場合、この傾向はより強くなるから、おそらく殆どの場合に対応不能に陥るのだろう。これでは、予定通りに進まないばかりか、却って後退することに繋がり、徒労の連続となるのではないだろうか。興味云々の話においては、やはり対面する数の問題が非常に重要で、それを如何に絞り込むかが肝心となるのだろう。となれば、それを上手くやり抜く為の環境も自ずとその姿が見えてくるのではないだろうか。

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10月31日(金)−冷眼傍観

 何かまた新しい妙案を思い付いたようだ。頂点に立つまでは、どんなに絶妙な案を思い付いたとしても、それを実現することは難しかった。しかし、今では何を思い付こうが、即座に検討に入る状況だから、気持ちがいいに違いない。暫くは、その裏に潜む大きな責任というものには、目を向けなくても良いのだろう。
 停滞や低下という言葉は、何かと忌み嫌われるようだ。兎に角、成長あるのみと考える人々にとって、僅かでもその速度が緩めば、即座に対応策が練られる。そういう原理に基づいて構築された手法は、このところの大波で批判の矢面に立たされているが、現実的には基本原理やその解釈の誤りと受け取る向きもある。将来のことは、様々な仮定の上に築かれるものだから、もし、大前提が崩れれば、どれ程完璧な提案でも成立しない。ある限られた空間を占める人間たちが、その営みによって築くものには、自ずと限界があり、それに近づけば減速したり反転したりするだろう。この類の議論で重要となるのは、何処に限界を定めるかなのだが、これまでの話ではそこに言及することは殆どなかった。自らの限界を定めることは、始めから負けを認めるようなもの、と受け取る向きもあるようだが、現実を目の当たりにして、そこから逃げることは許されないのではないだろうか。昔提案された理論が、現代社会で通用するかどうかは、そういった背景がその中に含まれているかによると思うが、それを考慮に入れずに批判する人の数は減らない。自分たちの現代的な理論も、未来永劫に渡って通用すると信じているのか、何とも微妙な状況にある。本来の理論とは、どのような状況下でも成立するものだが、物理的なものと違って、環境そのものが大きく変化する対象に対しては、そうとも言えないようだ。ある限界点を迎えたからこその転換は、この先どのような経緯を辿るか、まだ朧気にも見えてこないが、少し様子を見ながらのことになりそうだ。

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10月30日(木)−放辟邪侈

 客のように扱う、という言葉には、丁寧に応対するという意味が含まれる。では、反対に、客のように扱われたい、という言葉には、どんな意味が込められているのだろう。以前ならば、全く同じように、丁寧を望む声と受け取られただろうが、今では、至れり尽くせり、何でもありといった感覚があるようだ。
 拝金主義が世の中に蔓延るようになり、客の扱いはより難しくなった。金を払ったのだからと、無理難題を押し付けるを当然と思いこみ、傍若無人に振る舞う人が出てきたからだ。これと並行して、主客関係にないものにまで、客扱いを持ち込む人々が現れ、そこでの歪みは急速に増すばかりとなった。独善的な思い込みは、互いの関係を築くことには繋がらず、信頼関係のない人間の間では、争いは起きても、協力は結ばれない。本来、そういう関係に基づいて、様々な事柄が成立する組織では、このことが大きな障害となり、機能不全に陥ることさえ起きていた。これほどの事態となれば、何らかの反動が起きても良いはずだが、今のところ、何も起きてこない。関係の改善は徐々に起きているのだろうが、組織全体にそれが広がる為には、暫く時間がかかりそうだ。特に、ある世代に蔓延した身勝手な考え方は、見方によっては既に定着しており、それを取り除くことは困難を極める。同じ世代でも、違う考え方を持つ人々が、少数とは言え、存在するわけだが、全体の流れとしては、影響力は小さい。おそらく、選抜が繰り返され、地位が上がる度に、良識派の影響力は増すだろうが、かなりの時間を要するに違いない。その時になって初めて気づく人もいれば、それまでの変遷から、自らの誤りを認めて、何かしらの変化を図る人もいるだろう。気づきさえあれば、何事もどうにかなるものとは思うけれども、社会全体としては、その効果に期待することは難しいのではないだろうか。個人の力に基づいて形成される社会とはいえ、その大多数が誤った方向を向いていては、簡単には修正できないものとなる。世代ごとの歪みが大きな影響を及ぼすのは、こんなところによるのかも知れない。

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10月29日(水)−重見天日

 規制緩和という名の下に、これまで放置されていたものが、まるで自己崩壊するような状況に陥った時、手を差し延べる必要を主張する声が聞こえてくる。市場原理は自主独立を意味すると解され、あらゆる介入を拒絶する風潮が定着した後、崩れ落ちていく姿に、同情を抱く人は少ないのではないだろうか。
 口出しが忌み嫌われた時期、市場から敵対視されることを恐れ、自制していた人々は今こそという勢いで、様々な提案を口にする。しかし、その多くは的外れであり、問題の本質を的確に捉えることはない。ただ、今の状況が底打ちだった場合、その後には自力か他力によるものかは別として、回復の兆しが見えてくることとなる。そうなれば、玉石混淆の政策でも、何かの役に立ったのではないかと思えることになりかねない。恐ろしいのは、的を外した政策が如何にも効果的なものだったかの如く受け取る向きが出て、その後に間違いを繰り返すことになることで、表面的な変化だけを捉えることが常である以上、ごく冷静に分析する動きが出てこないと困ることになる。しかし、騒動の最中、そんなことに気を配る人の存在は無視され、兎にも角にも、まずは回復という風潮になれば、学習しないままに、再び喧噪の場に出向くことになるのではないだろうか。応急措置も重要だろうが、金を渡せば使うだろうという見込みや、原資を気にかけずに繰り出される対策には、本質を見抜く慧眼は感じられず、これまで同様の先送りの繰り返しに過ぎないとしか思えない。国民の信を問う話は、何処へ行ったのか、彼ら独特の論理展開には、思惑が見え隠れして、不信感が強まるばかりだろう。それでも、回復さえあれば、自らの功績と主張できることは、千載一遇の機会というべきなのかも知れない。

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10月28日(火)−安居楽業

 情報化社会、それ以前に比べた利点って、何だろう。出てきそうな答えははっきりしている。色々な情報に接することができる、というのがおそらく一番になるのではないか。でも、その中で役に立ったものはどれだけあるのか、と聞き返されたらどうだろう。的確な答えが返ってくることは少ないのではないか。
 それでも、あれがこれがと思い出す人もいるだろう。たとえば、為替の変化をきっかけに、海外旅行に出かけたとか、燃料の高騰を機に、車を買い換えたとか、そんな情報の使い方もある。でも、ここでよく考えて欲しい。これらの情報で、旅行に出かけた人や新車を買った人は、何を得したのだろうか。こんな情報は知らなくても、旅行に出かけたり、物を買うことはできる。円高差益でこんなに得したという人の話を聞いても、その為にどれだけ無駄な買い物をしたのかと考えると、情報が役に立ったとはとても思えなくなる。どちらかと言えば、情報に踊らされている人の方が多いのではないか、と思っているが、悦に入っている人に向かって、そんなことを言えば、怒りを買うに違いない。痩せる為の食品の紹介が、その売り切れを招いた話は、余りに下らないので、呆れるしかないのだが、ことほど左様に、なのである。意味不明な情報を垂れ流すマスメディアと、思惑に溢れた偽情報を掲げるネット、これらによる情報の氾濫に、知らんぷりを決め込める人は余程の精神力の持ち主だろうか。噂話に流されるのは、井戸端会議が唯一の情報交換の場であった時代でも同様で、情報化社会とは、その機会を増やしただけに過ぎないのかも知れない。世界的な経済成長の停滞によって、様々な問題が生じているが、それとて、実感として何も湧いてこないものが多く、能天気に浪費に努める人もいて、何とも不思議な状況である。分相応な生活を送ることが、まるで貧しさの表れのように扱われ、つましく生きることが、忌み嫌われる時代は、何とも不自由なものなのではないだろうか。

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10月27日(月)−気配り

 道を行き来するのが人だけだった時には、大した問題も起きなかったのだろう。牛車が通り、馬が通り、大名行列が通った頃とて、ほんのたまのことで、問題が起きたとしてもその場限り、対策が講じられることもない。おそらく、人力車が行き交うことになり始めた頃から、そろそろ問題が出てきたのではないか。
 現代社会から見れば、それでも悠長な時代であり、怪我人が出たとしても稀なことだったろう。ラジウムの発見者の一人が馬車に轢死させられた話は有名だが、当時の事故率はどれ位だったのか、おそらく小さかったのではないか。昭和の時代も半ばまでは、車と人が同じ道を使っていたものだが、交通事故死数が急増したことから、歩道の整備が進み、その効果が現れてきた。始めの頃は、自分の身を守る為とはいえ、我が物顔で走り去る車を横目で見送ることに、腹を立てる人もいた。いつの間にか、それが当然のこととなり、歩道橋までが登場して、歪みが頂点に達した感を持った人もいる。しかし、その一方で、当然のことに感覚を失う人々が現れ、車道一杯に広がり、我が物顔で歩く若者たちに呆れることとなる。危険回避の回路が失われたような振る舞いに驚くばかりだが、老人たちにも同じような行動が現れていることから、単に若さから来る傲慢さによるものとは言えないようだ。横断歩道や信号交差点を渡るのを面倒と思い、家の前の道を強引に渡る老人たちに、呆れた顔で走り去る運転者の姿を見る度に、何処がどうずれてしまったのかと思う。高齢者に優しい社会を構築することは重要だが、その一方で、社会の秩序を守る為の規制も必要となる。如何にも正反対な事柄のように扱う人もいるけれど、現実には社会の構成員一人一人が、こういう問題を自らのこととして考えれば、その間の距離はぐっと縮まるのではないだろうか。いずれにしても、降りかかる災難を避ける為の手立てにも限度がある。互いの為にも、最低限の配慮をしたいものだ。

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