パンチの独り言

(2008年11月10日〜11月16日)
(勤倹力行、決裁権、礎、修学、テイクアウト、為替、隠蓑)



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11月16日(日)−隠蓑

 何が始まるのか分からず、固唾をのんで待っている心境だろうか。それでも、様々な対応が決められ、それによって一息ついたところもあれば、冷たい扱いを受け、奈落の底に落とされたところもある。これから暫くの間も、こんな状況が続くわけで、外から眺めるだけの人たちには理解できない、不安が漂うようだ。
 いずれにしても、いつの間にか増えてしまった現金は、紙切れの如くなってしまったところもあり、資産と言われても価値が激減したものも多い。その一方で、一部では価値が高まるものもあり、依然としてゲームが続いているような部分もありそうだ。市場という何の制限もなく、誰も責任を持たない箱の中で、膨れ続けた風船はついに自らを支えることができなくなった。それでも、これまで箱を弄んで来た人々は、次の風船を探すのに躍起になるわけで、場合によっては、別の箱を探せば良いだけのこと、と思っているのではないだろうか。何かしらの制限を課そうとする人々の思惑は、また別のところで別の効果を産みそうな具合で、このままでは例の如く、先手を取る人々の思うがままに踊らされそうに見える。遊び場の一つだった原油市場は、何処まで落ち込むのか誰にも分からず、商品を直接扱う人々は混乱に巻き込まれたままである。しかし、当時先物市場を荒らした人々は、今何処に手を出しているのだろうか。こんな調子で、次々に甘い汁を舐め、排泄物をまき散らすばかりの状況が、市場の姿だとしたら、制限もやむを得ないという考えが出たとしても不思議ではない。ただ、大きな問題は、たとえ何かしらの制約をかけるにしても、抜け道は至る所にあるわけで、それを全て潰すことは不可能に思えることだ。ロンダリングの問題ばかりが注目されているようだが、ここにも似た状況がありそうな気もしてくる。

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11月15日(土)−為替

 輸出企業にとって為替水準は死活問題に繋がるという。このところの予想外の水準は利益を上げられないものらしく、悲鳴が聞こえてきそうだと伝えられる。単純に値段の問題だけでなく、今回の変動は経済状況が反映したものだから、購買意欲の低下がより大きく影響し、経営予測の変更も余儀なくされている。
 それぞれの企業で働く人間にとって、これらの話は無視できないものであり、収入の道を断たれるかどうかは、まさに死活問題へと繋がる。まだ、そこまでの悲惨さは表に出ていないが、輸出先の企業は効率化を図るために、大量の人員削減を計画しているから、それが海を渡って来ないとも限らない。そこまで想像すれば、さすがに笑っていられないのだろうが、この為替変動に笑いを隠せない人も登場するから、世の中は分からないものだ。ブランド品の売り手からは上客として迎えられる人々は、世界経済を支えようとしているわけでもあるまいが、危機と言われる中で相変わらずの購買意欲を示している。そこへブランドの主要国連合の通貨との交換水準が大きく変化し、突然訪れた機会に喜び勇んで出かける姿があるという。何とも不思議な光景であり、平和な時を楽しむことに一生懸命になっている人々に溢れる国ならではのものかもしれないが、これを理解不能なものとして見ている人々もいるのではないだろうか。長い目で見れば、これから悪化が始まるとの見方もあろうが、逆の見方をする人々もいる。狂騒的な状況が過ぎ去っただけであり、これから落ち着きを取り戻すと見れば、売買取引の実体が見えない業種は消え去り、一つ一つ確実なものへと人の目が移っていくだけのことで、従来から確実な取引を行っていた業種は一時の落ち込みがあったとしても、早晩回復を見るというわけだ。どちらの結果が訪れるかは今のところ分からないが、その時が来て、今騒ぎ立てている人々の意見を改めて検証してみたら面白いと思う。その時には、もう忘れたというに違いないのだが。

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11月14日(金)−テイクアウト

 成功した企業人が高級店で昼食をとる。映画で出てくる光景だが、経済状況が明るかったときには、憧れの一つとして羨望の的だったのかもしれない。坂道を転げ落ちるように一気に悪化の道を辿った後で、そんな光景が流されたとしても、非現実的なものとしか受け取られないのではないだろうか、何処か別世界の話として。
 この国では中小企業の資金繰りが困難な状況に陥り、銀行に対して様々な働きかけが行われている。震源地となった海の向こうの国では、中小どころか、巨大企業までもが自己資金の枯渇を訴え、銀行ではなく政府の助けを借りようとしている。国を引っ張って来た長い歴史を誇る業界も、このところの不況が深刻な影響を及ぼし、ついにその巨体が揺れ始めたといった状況だろうか。しかし、こちらから進出した企業が好成績を収めている最中、業績の悪化が伝えられ続けていたことからすると、もう既に企業の力自体が衰えてしまい、重さを増し続けた体を支えるための力さえ失ったというのが現実なのではないか。輸入量が増した時代に、様々な働きかけを政府に及ぼし、組合とともに勝利を収めたと思われたが、ここまで落ちてしまうと、経営だけの問題でなく、組合も含めた種々の失敗の繰り返しが、大きな原因と受け取られる。業界再編をしようにも、互いに大きくなりすぎた規模は、動きが鈍くなるばかりで、効率化を図ることも難しくなっている。ここまで来て、さすがに影響力の大きさに各方面が対応に追われているようだが、さて、妙案が見いだせるものか、ひょっとすると社会主義の国の崩壊のようなことが起きてしまうのかもしれない。自由を謳歌することの大切さは依然として尊重されているが、そのために必要な最小限の条件さえも満たせなくなった状況では、何か重要なことさえも失う危険が出ている。手軽で安価な昼食を求めて、持ち帰りの弁当屋が混雑するのは、こんな状況下の両国にとって、当たり前の光景かもしれない。

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11月13日(木)−修学

 いつだったか、留学の斡旋をしていた会社が倒産した。今度は、通訳の試験を実施していた組織が潰れた。何処が狂ってしまったのか、さっぱり分からないが、兎に角破綻を来したわけで、金を預けていた人々は慌てふためき、喚き散らしたとしても何も戻って来なかった。夢を実現するために、という思いだけが残る。
 外の世界を見てみたいとか、外からやって来た人の相手をしたいとか、そんな思いを抱く人は沢山いる。ただ、それを独力で成し遂げようとする人がいる一方で、誰かの助けを借りてという人も少なくない。独力が効率の悪いものであることは即座に理解できるが、助力がとんだ問題を引き起こすと想像した人は多くはないだろう。単なる旅行とは違い、留学となればそれなりの手続きが必要となる。受け入れてくれる学校を探すだけでなく、手続きも煩雑なことが多いわけだから、誰か詳しい人に頼りたくなる気持ちは分からなくもない。しかし、頼るべき相手が何か問題を抱えてしまうと、単純に夢が実現できなくなるだけでなく、そのために注ぎ込んだ資金を失うことになる場合も出てくる。そうなれば、効率云々の話しは吹っ飛んで、もっと切実な問題が残ってしまうわけだ。どんな仕事も社会奉仕を第一とするわけではないから、それを生業とする人々が出てくることは、そこに収入の道があることを示している。小規模で行っていたことが、徐々に規模を増すに従い、それにぶら下がる客も増えるが、収入を得る人も増す。これが即危険に繋がるかどうかは、経営手法によるものなのだが、今回の件についてはそこに問題があったようだ。この国の人々が外に向かうときには、こんなことが起きるのだが、他の先進国からやってくる人々は、そんな障害を抱える人はいないようだ。それに比べて、発展途上にある国からやってくる人々の中には、莫大な借金をさせられてくる人もいる。同じ状況とは言わないが、何処か似たところがありそうに思えるのだ。

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11月12日(水)−礎

 後悔先に立たず、本来の意味は戒めを含むものだが、そういう言葉が嫌われる時代には、姿を消してしまったのかもしれない。後から悔やんでも仕方ない、と考える人は減り、悔やむことにならないように、誰かが教えてくれるべきと思う。何とも都合の良い考え方だが、それを当然と見る向きがあることこそ問題か。
 この手の話でしばしば引き合いに出されるのは、学校での勉強のことである。色々と教えてくれるのが役割と受け取る人々は、自らの無知の原因をそこに求める。あの時、きちんと教えてくれたら、というわけだ。当時の怠惰は忘却の彼方におき、何から何まで、将来の問題解決に繋がる知識を身に付けさせることが、学校の役割に違いないと思っているらしい。自分の将来も見通せない人間ほど、こういう話に飛び付くようで、義務教育に求めるものが少ない割に、大学辺りに対する要求は凄まじく大きい。遊ぶために進学したと、当時豪語した人間ほど、こういう身勝手な解釈を展開し、あらゆる助言を拒絶したことを忘れ、説得してくれればと宣う。彼ら向けの言葉さえも理解できない状況に、昔の人々は呆れかえるに違いないが、現代社会はそんな馬鹿共の意見さえ受け入れようとする。そこには、いつ頃から採り入れられた目的意識の弊害が横たわっており、必要となるものを与える重要さが強調される。少し考えれば分かることだが、時代の流れは常に急速であり、目前のことなら別としても、将来役に立つことを予測することは不可能である。以前ならば、対応力を身に付けるための準備として、様々な分野の基礎を学ぶことの重要さが認められており、それが教養という言葉で表現されていた。ところが、目的意識が強まるに連れ、全般的なものへの関心は薄れ、目に見える有用性のみが重視されるようになった。その時代に育った人間は、それを当然と考え、何処かで不足を感じれば、時代を遡って、その原因を追及する。下らない人間の戯れ言に関わる必要はなく、今一度本質を見直してみる必要があるのだろう。

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11月11日(火)−決裁権

 食事の内容から「蛙」と呼ばれる人々の国の大統領が、人気を回復しつつあるという。急激な崩壊で的確な対応ができず、呆然と成り行きを見守る宰相たちを訪ね、次々と新たな展開を進める手腕に、期待が膨らんでいるようだ。つい先日までは艶聞ばかりが誌面を賑わしていたのに、何という変化だろうか。
 経済政策一つ見ても、英米とは一線を画してきたものが、このところの危機に対して、その実力を現してきたと見る向きもあるが、果たしてどうだろうか。確かに、大企業が国有企業のような扱いを受け、国策として海外進出を支援する姿は、政治と経済が大きく乖離し、勝手気儘な振る舞いをする企業を抱える国とは全く違った印象を与える。この際、従来大勢を占めていた考え方を見直す必要があり、そこで活躍の場を見出したと言えるのかもしれない。では、今回の騒動でどちらかと言えば蚊帳の外のように思える立場の極東の国は、どう振る舞うべきだろうか。景気対策が次々編み出されているように見えて、その実態は殆ど幻想でしかないと受け取られるに及び、如何にも浅はかな考えに基づくものと切り捨てられかねない状況にある。それにしても、これらの政策の影にいる政党に目を向ける人は少ないようだ。このような経済危機に陥った時に、世界の国との関係をどう保つかは、重要な問題であるにも拘わらず、現政権にはその能力は備えられていない。こんな事態にある時には、冷静な判断が必要となるが、漫画に夢中になる人物には、そんな力も無いように見える。他人事のように、と揶揄された人物は、今から思えば、こんな時にこそ活躍しそうな資質を持ち、順序が逆になれば、全く違った展開があったように思えてくる。その人物をトップの座から追いやったのが、今回の景気対策の目玉に固執する政党だと言うから、その責任もかなり大きいのではないだろうか。タラレバを今更書いても仕方ないが、こんな茶番を続ける連中に何を期待するのだろう。

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11月10日(月)−勤倹力行

 評価を正しく行うと言われて久しいが、実現したという声は聞こえてこない。自己評価と他人の評価が違っていると思う人だけでなく、評価そのものが行われていないと感じる人もいる。いずれにしても、それが単なる数値化に留まらず、何かに反映されるとなれば、気になる人が増えるのもやむを得ないことだろう。
 評価の是非が問われたのは随分昔のことだが、反対論はいつの間にか消えてしまった。最近では、されるのが当然とする意見が大勢を占めている。是非が問われた頃までは、敢えて評価を口にしなくとも、誰かが見ていてくれるという信頼関係があり、それに基づいて結果が出されていた。ところが、自と他の乖離に疑念を持ち、不当な扱いを疑う人が増えるに連れ、主観でなく客観的な評価を望む声が高まる頃には、海の向こうの評価制度が紹介され、恰も理想的なもののように扱われた。数値は誰が見ても同じにしかならないが、その基準が明確とは限らない。更に、評価対象が定まることにより、それのみを目標に動き回る人が増え、負の作用もかなり大きい。これが理想と見る向きには、自らが下す総合的なものが、現実には偏重に満ちたもので、妬みを買う可能性が高いことがあったのかも知れない。いずれにしても、当然となれば、前提となり、それが無ければ動かないという状況まで出てくる。今や、評価されるかどうかが先に立ち、何が重要かに目が向かないところまで来た。管理する側に、評価を重視する動きがあることを否定するつもりはないが、管理される側、働く人間たちが、評価基準だけに固執し、それ以外に目を向けないとしたら、組織の荒廃は免れまい。自ら考え、行動に移すという基本的な仕事の進め方は、上からの指示のみに従うだけでは見つからない、何か大切なもの、本質的なものを見出すための重要な手立てを示しているのではないだろうか。

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