パンチの独り言

(2008年11月17日〜11月23日)
(一時流行、卑下、麻、意気自如、調和、問題解決、規定)



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11月23日(日)−規定

 働くということは、別にどんな国にも始めからあったことだろう。それによって収入を得るかどうか、それも金銭という形にするかという点は、国ごとに違いがあっただろうが、集団の中で労働が価値を持つというところには、差異はなかったに違いない。ただ、共同生活を基本とする集団ならば、対価の支払いも必要ない。
 同様に、物々交換が基本となっていた時代には、現金取引などあり得ない話である。税でさえ、物で納めるわけで、それが更に別の物と交換され、生活が成立することとなる。ただ、それでは事が済まなくなる時代が訪れ、現代社会とさほど変わらない制度ができてきたのだろう。基本はそんなところだが、表面的には今と昔は大きく違うところが沢山ある。戦後まもなくと比べても、今との違いは大きく、それを知らない人間にとっては、何か事が起きる度に、自らが不当な扱いを受けているように感じるのではないだろうか。自由と責任を度々繰り返すようだが、ここでもそんな雰囲気が流れている。契約などという形式的なものは、昔は存在しなかったが、最近は労働契約なるものがあり、それに従って就労の場を得ることとなる場合がある。日雇いという言葉が日常的だった時代には、紙切れの存在はなく、不当な扱いを受けても泣き寝入りするしかなかった。今でもそんな状況の人はいるのだろうが、当時日雇いの存在など無かった業種に、臨時雇いの人々が入り込んできた時期があった。契約社員と呼ばれる人々は、労働の場で雇用されているわけではなく、他で雇われた人間がやってくるわけで、それまでとは大きく違う雇用形態として注目を集めた。しかし、法律制度に不慣れな国民にとって、契約は一方的な制度となり、様々な問題を噴出することになった。結果、それに対応した方策が整備され、不当な扱いを受ける可能性を減らす努力がなされたが、このところの流れはそれが不十分であったことを示している。ただ、気になるのは、そこに不備があることだけではなく、契約を受け容れた人々の反応であり、それが恰も永遠に続くかの如くの反応にある。やむを得ない状況にあったことを差し引いたとしても、この態度には首を傾げてしまうが、どうだろう。

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11月22日(土)−問題解決

 義務というものは、様々な形で果たされるものだろう。しかし、その主体が何処にあるのかを誤解している話が多いのは、何故だろうか。その典型とも言えるのは義務教育制度で、教育を受ける者の義務とする解釈が罷り通っている。現実には、子供たちを保護、育成する意味で定められたもので、親の義務でしかない。
 これは昔からあった誤解であり、特に就学中の子供たちに対して、まことしやかに広められていたようだ。勉強したくない子供を前に、何とかしたい気持ちから出た嘘なのかもしれないが、間違いは間違いでしかない。それに、騙されたまま成長し、親になった人々がいたとしたら、どうなるだろうか。親の義務を果たすことなく、自らの享楽に明け暮れる人々に批判が集まるが、もしその原因の一つに、こんなことがあるとしたら、それは考えすぎだろうか。自由と責任の関係でも話題に上るが、義務についても同じような形で、回避しようとする輩が増え続けているようだ。この背景には、社会全体の考え方がありそうで、個人主義と他人事の重なりと、欲望の追求という形の自由主義が、何とも言えない歪曲を産んだ結果と言える。その中で、被害者は子供たちであることは確かだが、それを社会が保護するという手法の氾濫には、言いしれぬ不安感を覚える。社会の成熟とともに格差が広がり、そこに保護という考え方が広がるのはごく当然の成り行きだが、これは立場の固定が背景にあることに気づかぬ人が多い。受け身の人はあくまでも受け身の立場に追いやられ、逆の立場に変わることは殆どない。その上、その立場にあることを当然の権利と考え、条件を満たさない人までもが、認められようと躍起になるような状況になると、社会の混乱は高まるばかりとなる。数が少ない内は気にならないことでも、徐々に増加した結果、目立つ水準に達すると、急に問題が大きくなったように感じられる。保護が必要なことを否定するつもりはないが、安易に制度化し、問題の本質を顧みない状況には、明らかな誤りがあると思う。

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11月21日(金)−調和

 親子の絆が断ち切られていることを示す事件が頻発している。個人の快楽の追求が第一とされ、人間関係が二の次となった時、血の繋がりさえも追い遣られたということなのだろう。僅少の例を取り上げ、さも一大事のように伝える人々の劣悪ぶりは、こんなところにも現れているが、問題の核心には近づけないようだ。
 個人主義の台頭に連れ、様々な問題が表面化してきたが、今海の向こうの国で起きていることは、それを如実に表しているのではないだろうか。単純に享楽を求めることの問題だけでなく、家族主義の崩壊が招いたものが、社会の荒廃に反映されているように見える。模倣を繰り返し、追随を第一と見なしてきた人々にとって、このような変化は忌避すべきものであり、更なる悪化を見せつけられたら、金科玉条のように扱ってきた考え方を根本から見直す必要が出てくるだろう。繁栄を続けるためには、成長が必要不可欠であり、その為の方策を講じてきた結果が現状だとすれば、目の前に広がる市場に限りがあり、その中で無限の成長を想定すること自体に問題があったことは明白となる。こんな話を始めれば、必ず返ってくる反論の中に、宇宙開発などに活路を見出すものがあるが、それが解決に繋がるなどと思う人は、殆どいないのではないか。特に、このところの崩壊の流れを見れば、そこには一つの考えに固執する人々の存在があり、彼らの思惑に基づいた様々な提案が選択された歴史がある。改めて考え直すと言っても、容易に答えを見出せるものではなく、中でも快楽を求めることを第一としてきた人々には、別の選択肢を見つけることは困難だろう。身の丈を考えてとする人々でも、このような混乱の中では自らの立場を守ることは難しく、巻き込まれる危険性は高くなりつつある。しかし、こんな時代だからこそ、自らの考えるところを信じ、自分なりの生活を築くことが大切なのだろう。大したことはない、分相応に暮らせば良いだけのことなのだから。

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11月20日(木)−意気自如

 深々と冷え込んだ朝、山の端が赤く染まる。冷たい空気だからこそか、鮮やかな色が目に染みる。人間社会がどんな苦境を迎えようと、委細構わず季節は巡る。炭酸ガスの濃度の変化も、殆ど影響がないように見える。人間の営みが様々な害をもたらしても、自然は全体として、それを覆い隠してしまうようだ。
 危機を煽る情報が氾濫し、不安を募らせた人々が喚き回る。阿鼻叫喚の図を嘆く声も聞こえるが、裏ではせっせと悪事を働く連中が蠢く。不安定な時代に暮らす人々にとって、何か拠り所が必要なのだろうが、頼りにならない話ばかりが流布され、傷は広がるばかりとなる。こんなことを書けば、それ自体が煽動という批判が聞こえてきそうだが、現実にはこんな言葉に踊らされる場面が目の前で展開されているに過ぎない。まるで劇場での芝居のように、迫真の演技を続ける人々は、自分たちが役者になっていると理解していない。誰かが書いた筋書に沿った、悲劇的な話の流れに、疑問を挟むこともなく、乗っかってしまっている。舞台から下りて、客席から眺めれば、どうと言うことのないものだが、劇の渦に巻き込まれていては、そんな余裕が出てくるはずもない。凶悪な事件を起こす人々の心理は、こんな環境の中でも理解不能だが、それが社会の荒廃によるものと関連づける識者の言葉は、異次元世界の如く感じられる。自らの姿を見失った人々にとって、他者への依存や責任転嫁は当然の結果に過ぎないけれども、その時代が長く続いたことで、こんな論法までが登場するに至った。今一度、自らの影を見つめ、その実体を見出すことで、落ち着きを取り戻さないと、不安の濁流に巻き込まれた心を、救い出すことはできない。劣悪な情報に踊らされ、他人の思惑に振り回されるのは、それに関わる人間の悪意によるものであることは確かでも、踊っているのは自分自身である。そのことに気づかぬまま、まるで魂を失った操り人形のように振る舞うのは止めにしたらどうか。安定よりも不安を好む心理がそこに横たわっていることに気づくべきだ。

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11月19日(水)−麻

 ある精神医の書いた本によれば、煙草よりも酒の方が社会的な悪影響が大きいとある。精神医学から見れば、依存の度合いや問題行動などの点から、こういう判断が下されるのだろうが、どっちもどっち、こんなことを論じる意味は殆どないのではないか。過ぎたるは及ばざるが如し、と見るかどうかは別として。
 自分は大丈夫とか、他人に迷惑をかけていないとか、そういう論法は欲望に駆られた人々が口にする言葉だが、ここでもそんな声が聞こえてくる。ただ、どちらも社会的には大きな税収をもたらすものであり、その部分を無視するわけにも行かない部分もある。とはいえ、前者は健康問題との関わりや周囲への影響から、様々な国で規制がかけられ、肩身の狭い思いをさせられているのに対し、後者は機械を運転すること以外には殆ど問題視されず、社会的には全く放置されていることは、何かしらの差別を感じる人もいるのだろう。これを問題として取り上げ、制限を考えるべきというのが、件の著者の主張なのだろうが、精神の問題を取り扱う人々の偏見とも思えるものがそこに現れているように思う。自ら抑制できるかどうかを問題にする代わりに、何かしらの制限を設けるという考え方は、現代社会ではごく当然のものと思われているが、この二つの問題にある大きな違いに考えが及ばないところに、この人物の視野の狭さが感じられる。この話とは別だが、欲望の対象となるものの一つで、煙草の一種と受け取る向きもあるものが、最近大きく取り上げられている。理由は簡単で、最高学府がそれに蝕まれているからで、類似物に過ぎないという論理が一時は展開されたが、この頃は単に欲望に走った結果という感覚のようだ。法律での規制に微妙な問題が含まれているとはいえ、自分だけは大丈夫とする考え方がこれほど蔓延するのは、やはり社会が病んでいる証左かもしれない。敷地内での禁煙を大々的に実施する大学がある一方で、明らかな社会規範からの逸脱を見過ごしてきた大学があることは、甘やかされ続けてきた連中の思い上がりだけではない何かを示しているのかもしれない。

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11月18日(火)−卑下

 国を閉ざしていたから、外に対する憧憬が高まったのだろうか。それとも、ちっぽけな島国に住む人間は、外への憧れを常に持っていたのだろうか。ずっと昔の対象と違い、今はある特定の地域に対するものとなってしまったが、兎に角、内を見る目と外を見る目は大きく違っているようだ。謙遜とは違う感覚で。
 東の果てと呼ばれるように、遠い見知らぬ国として扱われてきたが、最近の交通事情からすれば、ほんのひと飛びと思えなくもない。それでも、隣国に出かけるよりは手間がかかるし、経済状況が悪化したとなれば、わざわざ足を運ぶ人も少ないだろう。しかし、一度でも訪れた人の話からは、様々な発見が溢れ、異国情緒に浸る気分が伝わってくる。近代化が進んだ現代では、日常生活には殆ど違いがないのに、これほどの感覚の違いが感じられるのは、この地のもつ独特の雰囲気が漂うからだろう。訪問者から見ればこれほど容易く理解できるものが、どういうわけかそこに居着く人々には見えてこない。卑下する結果として表れたものもあるだろうが、多くは特別なものと見えないためと思われる。当たり前だからこそ、という考え方もあるだろうが、当然のものを捨てる気分があるとすれば、事情が違ってくるのではないか。古いものを大切に受け継ぐことが行われる一方、身の回りのものに限って言えば、次々に捨て去る勢いがある。この違いは価値判断の違いによるところが大きいが、その多くが訪問者から評価されるとなれば、安易に片付けられないところがありそうだ。こういう遣り取りは、これまでも度々行われてきたが、依然として自国に対する評価は上がってこない。その原因がどんな心情にあるのか、様々に指摘されてきたが、何も変わっていないのは、人々の頑迷さから来るのか、それとももっと本質的な何かによるのだろうか。いずれにしても、今更何もと言わず、周辺の事物に目を向け、興味を抱くことが重要なのではないだろうか。

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11月17日(月)−一時流行

 身動きがとれなくなって、何とか打開策を、ということで、改革を行うという話はよく聞く。決断とか英断とか、その場ではそれなりの評価が下されるが、それは低迷し、停滞している状況では、方策の一つと受け取られるからだ。本当の評価は、それから時間が経過し、何がどう変わったかが見えた時に下される。
 そう考えると、あの喧騒の後はどうなったのか。依然として個人としての人気は保たれているが、何をどう変えたのかに答えられる人は少ない。混乱のみが印象として残り、その後の経過が改善へと向かったという認識は殆どないのではないだろうか。何故、こんな事が起きたのか。あれほどの熱狂は何を意味していたのか、改めて総括する人が出てこないのは、何故なのか、全く分からない。時が過ぎるからという指摘もあるだろうが、愚策の総括が無意味だという指摘は確かだろう。それより、熱狂そのものの分析に精を出すことこそ、次の悪政を回避するための道具を与えるのではないだろうか。そんなことを考えていた評論家がいるかもしれないが、何も実現しないままに、海の向こうに模倣犯が登場した。犯人扱いは過ぎるとは言え、国の大きさや力からすれば、前後関係が逆との見方もある。しかし、今回に限って言えば、あらゆる点で先んじていたことは確かだろう。特に、表面的なことに囚われ、見かけ倒しの策を連発する点では、明らかに先見性があった。ただ、追随者がそれと同じことを繰り返すとは限らない。ここでの類似性は、あくまでも熱狂を引き起こした点にあり、その手法として共通なものがあったように思えることだ。既に、その経過において、徐々に差異が明らかになりつつあり、暴走を選択するより、無難に落ち着こうとする動きがあったことは、大きな違いを産み出しそうである。にしても、ここまで破壊された仕組みを、単純な手法で修復することは困難であり、特に、短期間での回復を望む声に応えるのは難しい。壊れてもいないものを変えることで壊した国と、壊れたものを変えることで直そうとする国、ここに違いがあると見るかどうかがこの先の流れを決めそうだ。

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