どんな賞でも、受賞者の言葉には注目が集まる。文学、科学、映画、どんな活動でも、その中で認められた人物はそれに見合うだけの言葉を持つからだ。ところが、ある業界ではその一部だけを取り上げ、それが恰も功成り名を遂げた人物の基盤のように扱う。それを金科玉条のように崇める虚け者がいるからだろう。
皆同じであることに集中してきた国民性を批判する人々は、海の向こうの散り散りばらばらな民衆の考え方を持ち上げる。それぞれが他と違うことが絶対条件のように盲信する人々にとって、独自性は価値を決める唯一の要素と見えるわけだ。確かに、他人の様子を窺いながら、それでも決められない人々に、不満を募らせる場面は多い。しかし、好き勝手に振る舞う人々の行動が、より良い結果を導くとは限らない。にも拘わらず、他との違いのみを問題にする考え方が台頭してきたのには、何か別の要因があるとしか思えない。独自についての評価は常に重要であり、あちらでもそんな手順を追って選別が繰り返される。評価されたからこそ、その独自性に意味が出てきたわけで、受賞者のこともそれに合致する。こんなに明白なことでも、棚に上げて議論を進める人々に、思慮の欠片も感じないが、取り上げる連中がいると言うことは、これまた別の要因から来るのだろう。こんな空気に汚された人々の一部には、周囲との違いしか目に入らず、基本の共通性を欠いた人が居る。多くの芸術家が歴然とした違いを見せることで、これらの人の心の満足が得られるのだろうが、彼らは成功者の多くが共通の基本を身に付けていることに気づかない。教育の重要性を説く人々の中には、教えてやることに意味があると考える人が居るが、現実には、道を誤らせないことしか出来ず、間違った方に向かう教育は、多くの人の才能の芽を摘むことに力を入れている。独自性を育む話も、現場での実情からは踏み潰していることの方が多いように見受けられる。ここを読みに来る人は全てそんなことは理解していると思うが、世の中では逆の人が多数を占める。
新しい年を迎える時に、寺の鐘が撞かれるが、その回数は煩悩の数と同じと言われる。それだけの心の迷いや欲望を抱えながら、人間は生きているのだと思いつつ、それを綺麗さっぱり忘れて新しい年を、ということなのだろう。冷たい言い方をすれば、そんなこと出来るはずもないとなるが、それじゃあねえ。
煩悩の中でも欲望と結びつくものは様々な形で表現される。無欲を強調することが度々あるのは、皆がその悪影響を意識するからだろう。だからこそなのか、世の中は欲望に満ち溢れており、それを抑制する手段に思い悩む人も多い。抑えるよりも、そのものについて考えることを説く人も居て、それぞれに捉え方が違うだけかもしれない。いずれにしても、欲望だけを追求することは嫌われ、他のものとの組み合わせにおいて考えることは許されるようだ。これが人間の本性と見れば、社会で通用することの大部分に悩まされることはないはずだが、それも様々な見方から物事の本質が垣間見えた上でのことだろう。最近の話題の内で、これに当てはまりそうなものに温暖化の問題があるのではないか。温暖化の兆候については蓄積されたデータが示すことから異論はないようだが、その原因については巷で言われている二酸化炭素による温室効果に反対する人もいる。学説としての価値は別にして、この解釈が受け容れられた経緯には、別の要因があるとも言われる。つまり、単に排出規制をするだけでなく、それに経済効果を結びつけた政策が関心を呼び、持続的成長を望む先進国の積極的な参加を促したというわけだ。一部の国が現状の利害を優先させたのに対して、明るい未来のためにと主張した国もあったわけだが、温暖化が世界中に影響を及ぼすためには、かなりの長期間を要することから、別の課題との優先順位を気にする向きもある。つまり、問題の重要度より、経済との関わりが強調されたことが、おそらくこれを最優先課題としたなのである。いずれにしても、議論が進むに連れ、経済効果が更に重さを増すことから、本来の目的とは違う姿が見え始めたことは、原点を意識する必要を示しているのかもしれない。
年の瀬も押し詰まり、街も賑やかになる。世間では悲観的な言葉が流され、気分が滅入ることこの上ないが、さて各人の心の中はどんなものか。今回もあの業界の非常識さを如実に表す話を綴ろうと思うが、大晦に向けてただ暗くなるようなことはしたくない。創作ならば創作で、物語として楽しめるものにして欲しい。
休日にごった返すのは、観光地を含め様々な所があるが、年末に向けて賑やかになるのは、買い物をする場所だろう。毎度のことで大して驚きもしないが、都内のある場所はそろそろ身動きがとれないほどの混雑をし始める。暮れから正月に向けての準備として、恒例行事のようなものだから、これまでも散々叩かれた年でも勢いは失せず、かえって賑やかになったような印象がある。それに比べると、少し事情が異なる場所は百貨店だろうか。この時期の買い物は年末年始より、贈り物のためという話が昔から多かったが、最近は地下の売り場が混雑するから、事情が変わったのだろう。先日のラジオで経済関連の話題として取り上げていたのは、百貨店のお節料理の注文に関することで、例年以上に殺到しているとのことだった。世相の変化はこんなところに現れ、正月三が日の手料理の手間を省くためと思われたお節も、自分の手をかけないものとなってしまい、一切合切効率を求める省力化が極まったとも言える。これの何処が経済事情かと思う向きもあろうが、そこに出ていた専門家と称する人物は、この傾向を分析し、次のように解説した。「不況で節約したいから、外食を控えるために、お節料理を自宅で食べようとするものだ」と。奇妙奇天烈、荒唐無稽、どんな言葉で飾っても良さそうなほどの、自己中心的な解釈ではないか。「不況」の二文字を何としてでも入れたいから、こんな屁理屈を捏ねているとしか思えない。正反対の見方をすれば、世の中何処かの誰かが調子の悪さを連呼しているが、現実には庶民の心にはそんな気持ちは微塵もなく、例年通りに来たる年を祝いたい、となる。どちらが正しかったか、ではなく、如何に勝手な都合が罷り通るか、が大きな問題なのだ。
批判的な意見を掲げると、素人のくせにとの声が聞こえてきそうだ。確かに、本格的に関わったことが無く、他の事柄との関連で読み解くだけでは、理解も不十分だろう。しかし、専門家を自負する人々の言動を聞く限り、知識はあっても知恵がない。言葉を弄んでいるだけで、結局は実のない話を繰り返すだけだ。
経済発展を継続するためには、市場を開拓し続けなければならない。市場が確立されれば、市場経済とか、市場原理主義とかが適用され、動きのあるものが出来上がる。では、市場とは何のことか、この疑問に答えるのは難しい。元来の意味は、需要と供給が成立する場を表し、ある時点まではそれで説明をほぼ完結できた。ところが、更なる拡大を目指す人々は、実体のない商品を開発し、その売買の場を市場と見なすようになった。この辺りから事情が激変し、巨大な金銭の動きが引き起こされた。そこに需給の均衡は存在せず、架空とも思える取引に基づく遣り取りが表舞台に出てきた。その激動は従来からあった先物取引にまで伝播し、思惑による動きが目立つこととなる。ところが、そこでの解釈は旧態然としたものに過ぎず、恰も現実的な原因があるかの如くに留まり、嘘八百が横行することとなる。日々変動する相場に、猫の目状態の解説を施すのは、記憶喪失者の言動を彷彿とさせ、無責任極まる行動としか思えない。ニュースの解説でこんな妄言が流され、市場の意志があるかのように振る舞うのは、倫理の欠片も感じられない。需給の均衡による高騰との解釈は、遂に200に届くと断言するに至り、自己崩壊に陥った。現実には、その後の暴落から解釈の誤りが明白となり、需給は新たな均衡点を目指して進むこととなる。驚くべきは、妄言を吐いていた人々が反省を微塵も感じさせずに居続けることで、この世界が何の原理もなく、ただその場限りの欲望と感情に満ちた行動を繰り返していることを表している。市場とは何か、今一度明確にする必要があるのではないか、彼らのために。
根も葉もない噂を流すことは禁じられているが、根も葉も付けた噂を流すのは許されるらしい。そんな思いを抱くほど、論理性の欠片もない情報が世に満ち溢れている。身近な話題であるべき経済はその最たるものであり、欲に駆られた心情が露出する。これまでにも触れてきたが、ここ数日はそんな話題を取り上げようと思う。
世界に冠たる大企業の赤字予測に、それまで半信半疑だった不況の話は、強い援軍を得たような勢いを示し始めた。これで大手を振って不安を煽れる、と言うのは言い過ぎだろうが、そんな気がするほどだ。このところ、急激に収益を伸ばし、史上最高益を達成したのも束の間、一気に赤字へ転落することは、状況の急変を表すものと伝えられる。しかし、ちょっと昔のニュースを思い出して欲しい。収益の伸びに比べ、賃金の上昇は厳しく抑えられ、社員の不満が鬱積していることを伝え、それに対する経営側の見解が述べられていた。そこでは、現状の好調さに慢心せず、先行き不安材料に警戒する声が並び、恰もその対策に注力する姿勢を示しているように見えた。前期までの好調な黒字と比べ、今期の赤字予測は一桁小さなものであり、序の口にしか過ぎないとする見方がある。ここから更に悪化するという煽りも出されるだろうが、その一方で、あの時口を酸っぱくして忠告した話は、どの棚に上げられたのかと思えてくる。単純に考えれば、当座のことばかりに目を奪われ、過去も将来も見極める判断力が失われていると思える。相手の要求を躱すための方便が、現実の物となった時には別の言い訳を考える。こんな経営方針に基づく発言だったとしたら、何とも情けないものではないか。無策を暴露するのなら、放漫経営と呼ばれてでも、収益を還元することを考えるべきだ。こんな流れの根底に、経済理念なるものがあるとすれば、理念そのものが誤解と曲解に基づくものと見るしかない。これが経済の本来の姿とする見方は、何処かの異常者が作り上げた幻想なのかもしれない。
人に優しく、と言われる時代である。虐めが横行した時代を経て、そんな心持ちになったのか、何かにつけて、優しさが強調される。でも、と思う人もいるのではないか。今、世の中で持て囃されている優しさは、何処か矛先が外れたものに思える。優しさの裏に、とても冷たい心が潜んでいるような、そんな感じが。
拝金主義と優しさは本来相容れないものではないか。シャイロックやルイージに限らず、金貸しは血も涙もない職業の代表として、引き合いに出される。彼らが改心した時、拝金思想を捨てる覚悟が示されることとなる。昔話を引くまでもなく、人への優しさを論じる際に、金での解決のみに触れることはない。心からの気持ちの表れとして、それが滲み出ると言われてきたのだ。しかし、最近の状況を眺めると、これが大変換を起こしたように思える。先立つものは、といった考えが染みついたのか、何よりも金、といった話ばかりが聞こえてくるのだ。政府の予算が話題になる時期だが、その中で耳を疑うような使途が紹介される。不況の波を被り、将来の道を失った人々を救済するために、様々な方策が講じられることに反対するつもりはないが、留年学生の学費の支援という、極めて個人的な事柄への配慮は無用と思えるし、それを実施する学校に金を出すという話には、耳を疑うばかりだ。これこそ、最近の社会が抱える病気の深刻さを如実に表すものであり、下らない博愛主義の安売りとしか思えない。もう何年も前のことになるが、ある大学で一つの単位が取れないがために卒業できず、内定企業への就職が駄目になったということが話題となった。驚くべきは、「可哀相」という声と共に、救済措置を主張する人々が居たことで、社会が守るべき規則を無視する態度に、呆れてしまった。最も恥ずべきは、そんな非常識な発言をした人ではなく、それを取り上げ、触れ回った連中であり、この辺から倫理や道徳の喪失が目立ち始めたのではないだろうか。今回の騒動は、一過性のものでしか無く、解決策が出ないのは確実だろう。下らないばらまきを止めない限り、先は見えてこないからだ。
原因と結果が明確なものも多いが、どちらが先か分かりにくいものも多い。鶏と卵の喩えを使って表現されるけれども、あれと同じでどちらとも言えないものだ。ただ、中には作為的なものも多く、そうすることで正当性を示そうとする。本来の姿を覆い隠し、幻影を見せようとする。どうにも貧しい心が働く。
年功序列が常識だった時代には、誰が何をしていようが自分の道を突き進むのが当たり前だった。閉塞感が強まるに連れて、他人の行動が気になるようになり、鼻につくものが出てくるに至り、正当な評価を望む声が高まった。それと共に、評価に基づく俸給制が導入され、多くの場面で価値の高低が話題となり始めた。自己によるものか他者によるものか、どちらにしても、正当な評価が下されれば、人の意欲の高揚が期待できる。にも拘わらず、その後の展開は期待とは裏腹なものとなり、別の閉塞感が強まることとなった。その要因の一つに、他人の目を気にすることがあるが、それよりも重要なのは、おそらく評価基準に従った行動選択があるだろう。つまり、評価されるものには精力を注ぐのに対し、範囲外のものには目もくれない、というやり方が、世間一般に広がることとなり、様々な要素の欠如が問題となったのだ。確かに、全ての要素を評価対象として掲げれば済むことだが、その為に必要となる労力は膨大となるし、その範囲の広がりは通常予想以上のものとなる。それにより、当然のものほど項目から外れ、当然でないものとして扱われるから、誰も見向きもせずに、物事が円滑に進まなくなる。こういう世の中では、何かをする動機が評価の有無に依存し、本来重視されていた必要の有無が無視されることとなる。大した影響がないとする向きは、本質的なものに対する見方の重要性を意識するが、一般の人々は評価されるかどうかの方が、それよりも優先順位が高くなる。その結果、当然で本質的なものに対する意識が減退し、肝心な仕事への力が緩む。だからこそ評価をと考える人々には、真に重要なものが見えないのだろうが、このままでは気分の閉塞より、もっと深刻な事態が起きるのではないか。