パンチの独り言

(2008年12月29日〜2009年1月4日)
(狂言綺語、邪道、幸災楽禍、不朽、付き合い、時論、夢想家)



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1月4日(日)−夢想家

 予定通りに事が運ぶのが、安心に繋がると言われる。場面毎に意外な展開があれば、その度に打開策を考えねばならないから、心が休まる暇がないとなるからだろう。では、予定とはどんなものなのだろうか。望み通りであれば思いつきでも構わないことだが、予定通りとなると話は違う。利己的な考えとは違うのではないか。
 一部のものにしか目を向けず、偏った情報に耳を傾ける。そんな風潮が強くなるに連れ、予定というものの意味が変わってきたように感じられる。本来は、全体の流れの中で向かう方向が自ずと決まってくるものだったが、最近はどんなに極端なものでも、自らが望んだものを予定と見なすようになった。そうなると不思議なもので、夢は実現できるといった話が巷に溢れるようになり、誰もが夢を持つことが出来るということになる。これは間違いではないが、その夢の質を論じる機会は殆どない。だから、夢を持つことばかりに夢中になり、そのために必要な事柄やその実現可能性を考える時間が無くなる。確かに夢を持ち続けることは重要だろうし、目標に向かって邁進することは人の将来を決める要素の一つとなる。しかし、その道程で取り組み、解決しなければならないものについて、忘れていいわけではない。最近の傾向を聞くところでは、この辺りの均衡の崩れが目立っているようだ。何故、こうなってしまったのか。以前も触れたことだが、安定した時代にはある程度決まった展開があり、その中で非常識な考えを持っても、結果的には何とか収まるところに収まることとなる。そんな流れから、次々に道を見失い、独自の道を築く夢に縋る姿が現れたのではないか。それでも、優しい社会は包んでくれ、見守ってくれる。自分たちが築き上げた社会がそんな形で崩壊し始めても気づかないのは、安定にどっぷりと浸かったためかもしれない。夢の現実性が問題にされなくなったとき、その社会は基盤を失いつつあったのではなかろうか。

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1月3日(土)−時論

 国が破滅に向かいつつある時、外と中で伝えられる情報に違いが現れる。人から人へと話が伝わる時代から、人の意志が入り込まない線を伝わる時代となっても、差異が無くなることはない。送り手と受け手が人間であることには変化がなく、そこに感情が入る余地は十分にある。周囲に異論を唱えれば、窮地に追い込まれるわけだ。
 そんな筈はないとの意見もあるだろう。しかし、今巷に流されている話と違う意見を出したらどうなるか、考えてみて欲しい。例えば、苦しんでいると伝えられている人に対して、自業自得と切り捨てるような意見を街中で発したら、周囲の人の目はどう変わるだろう。ネット上はその典型であり、たとえ自分が正論と思っていても、世論と称せられるものと違う意見を吐けば、罵詈雑言の嵐となり、収拾がつかなくなる。どんな人間にも同等の機会が与えられる筈だが、発言の偏りは驚く程極端なものとなる。それこそが世論であり、世間一般の考えであるとする人もいるが、果たしてどうだろうか。言論統制が行われたと言われる時代も、家族や仲間内では全く異なる話がなされたと聞く、しかし、大衆の面前でそれをすることは避けられた。理由は説明不要だろうが、今と何処が違うのか、説明可能だろうか。誰かが書いた粗筋通りに話を進めることを目指し、それに合致する情報のみを流し続ける。この点では、あの時代と今とで何の違いもないのではないだろうか。その上、些末な事に注意を払い、優しさを最優先とする態度には、大局を見誤る気配が満ちている。芝居じみた成り行きに、反吐が出ると言いたいところだが、このところの流れからして、他人事のように振る舞うだけでは足らないだろう。どんなに小さな声でも、繰り返し正論を吐き続けなければ、この狂った時代を生き、狂った人々を排除することはできない。まずは、自分の周りからだ。

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1月2日(金)−付き合い

 正月三が日、貧乏学生にとって辛い日々だったのは、遥か昔のことか。今、別の苦しみが伝えられているが、それでも世間の暖かさを感じる機会が与えられる。あの当時、世間はこの期間全て門を閉ざし、普段の蓄えのない人々にとって、部屋に籠るしか選択のない日々だった。毎日の食べ物にも困るという。
 こんな書き方をすると、多くの人は自分が見たことのない、百年やそこら、近くとも戦前の話と思うかもしれない。実際には、三十年ほど前には、こんな正月が国中でみられた。四六時中開く商店がお目見えし、それが当たり前となったとき、神への感謝を優先していた伝統は消し飛び、単なる便利さへ人々は走っていった。盆と同じように、正月も休むことが当然と思っていた人々も、こんな連中の力に負けたか、大きな商店も一日のみの休みとなり、食べる場所もいつの間にか、本当の年中無休となった。客第一、という考えに基づく行動と言われるが、どうだろうか。それがなければ死んでしまう訳でもなく、ただ単に贅沢に走り始めた人々にすり寄り、次々と伝統を破る行動を起こす。便利だからとか、欲しいからとか、そんな言葉が優先され、それによって振り回される自分の姿が見えない。そんな連中に何が起きたとしても、自業自得と見るのは筋ではないか。その昔、食う物に困った貧乏学生は、お節を振る舞ってくれる場所を見つけていた。その多くは、日頃から世話になっている人の家、そんなところに遠慮はなかった。お互い様という考えは、ごく普通に通用していたが、いつの間にか、遠慮が先に立ち、互いの距離を大きくさせた。こんな中で人間同士の付き合いはあり得ない。そういう環境を長い時間をかけて作り出し、互助の考えを打ち捨てておきながら、困った途端に悲鳴を上げる。常日頃からの付き合いこそ、こんな時に活躍するものであり、備えと考えずに続けるから、本当の関係が築ける。小さな頃からそんな関係を当然として見てきたから、ごく当たり前としてできる。毎年、こんな時期に思うことの一つだ。

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2009年1月1日(木)−不朽

 節目に変化は付き物、特に閉塞感が極まる時には、様相一変を待ち焦がれる声が高まる。今はまさにその時、と考える向きもあるだろうが、さてどうなのか。その最中にあって判断を下せる人間は、おそらく先を見通せる力を持っているだろう。今慌てていて、落ち着いた後で一言出すくらいは、誰にでもできそうだ。
 結果が出てから分析するためにも、知識が必要なことは当然だが、それ以上のものを持ち合わせないと、予測はあり得ない。成功者の道程はそれを明らかに示すが、だからといって真似をすればいいという訳でもない。このところの流れからも、過去の経験が通じない場合があることがわかる。歴史は繰り返す、としても、どの部分が同じなのか、見極めるのは容易でない。慌てて見誤るより、冷静に分析した上で、判断を下すことが必要なのは、言うまでもないことだろう。その一方で、次々に降り掛かる難事に対応する必要があり、落ち着いてなどいられないように見える。ではどうすれば、と悩んでいても始まらない。実は、全く正反対なことを言われているように見えて、上に書いたことに大した違いはない。現状を分析し、将来の変動を見極めておけば、少々の変化には対応できるし、予想外のことが起きたとしても対応可能となる。準備万端のような態度を取りながら、何の備えをしないことが最悪であり、様々な想定をした上で、種々の対応策を練っておけば殆ど問題は起きない。確かに、突発事故に備えることは難しいが、事故後の対応は想定内で可能の筈である。口で言うのは簡単で、実行するのは困難なのは当たり前、それを承知の上で、常日頃から準備を整えるのが、大切というわけだ。全てを無難に運べれば幸いだが、そういかぬこともある。新たな一年、何を目標にするかは人それぞれだろうが、自らの道を行くことだけは変わらない。

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2008年12月31日(水)−幸災楽禍

 平穏無事な日々が続くと、誰しも不安を懐かしがるものだろう。明日をも知れぬという時代を生き抜いた人々にとって、人生設計が出来るなぞ夢にも思わなかったのではないだろうか。では、今はどんな時代なのか。巷には荒んだ話題が満ち溢れ、明日への不安を煽り立てるような雰囲気が感じられる。自分の周りを除いて、だが。
 金融関係の人々にとって、この一年は激動の連続だったと言う。それまで通用してきたことが通じず、何を拠り所にすればいいのか、見えなくなったらしい。自ら築いた仕組みが根本から崩れ落ち、災難が次々と雪崩を打って襲ってくる。そんな恐怖を抱く日々だったのだろう。金の流れが全ての仕組みでは、それが滞りを見せた途端に、連鎖的に破綻を来す。現状での頂点に達した時、そんなことが起きたとしか考えられない。その上、冷水をかけられた世界は、急速に冷え込む経過を辿り、多くの業界に悪影響を及ぼす結果となる。不況と呼びたい人々には、格好の材料を与える事象だが、問題はその病巣の深さにあるだろう。連鎖反応として起こされたものが、心理的な影響を主体とするなら、傷は浅く、回復も早い。しかし、それが全体の仕組みの障害によるものであり、根本的な組み直しが必要となるなら、回復は当分の間望めない。例の如く、評論家と思しき人々の多くは、後者を選択したようだが、果たしてどうだろうか。金融危機をきっかけに、様々な不安要素が噴出した流れは、確かに仕組みの上での課題を提示した。しかし、個人の範囲での影響はどうだろうか。あらゆる人々が参加した市場の崩壊という過去の悲劇とは異なり、今回はこの国のバブルと同様に、一部の人々が一攫千金を夢見て、暴走を繰り返した挙げ句のことである。確かに、国全体の被害は甚大であり、その補修にはかなりの手間を要するだろうが、各人の被害は千差万別、一様とは言えない状況にある。そんな中で、時流に乗せるべく、話題提供に奔走する人々の思惑は、全く別の所にあるのではないか。これもまた、バブルの時と酷似しているように見え、反省しない人間の特性を垣間見る気がしてくる。これを読みに来てくれる人々にとって、来年は、いい年でありますように。

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12月30日(火)−邪道

 例外とは厄介なものだ。数を扱うある学問は、例外が見つかった途端に、論理が破綻する。普遍性が第一とされる由縁である。それに対し、生き物を扱う学問では、例外を珍重し、その発見を祝う。多様性を重視するからだろう。人が何かを考える学問においても、立場次第で変貌する例外は、何とも扱いにくい。
 日常生活ではどんな具合になっているか。いつも通りの生活を第一とする人にとって、例外は忌み嫌うべきものだろう。それに対して、日常を嫌い、変化を求める人には、例外は歓迎すべき存在となる。人それぞれに多様性を持ち合わせているから、社会全体から見れば、例外は何処かに当てはまるもので、その他と言っても全体には含まれる。ただ、少数派であることは確かで、それに当てられる光も弱くなる。こんな感覚を持ち合わせる人が大多数を占めた時代、例外は無視される存在であり、冷遇されるのが当然だった。しかし、少数派を持ち上げ、全体の均衡を保とうとする動きが強くなると、そんな隅っこにも光が当てられ、多数派よりも注目される存在に祭り上げられる。歪みの蓄積と共に、この問題が巨大化し、何もかも取り上げなければならなくなった時、全体の均衡は却って崩れる結果を産む。数の多少が全てではないが、全体を見渡す際には、それを第一としなければ埒があかない。少数派は所詮切り捨てられるべきもの、という考え方が糾弾され、隅々まで行き届いた配慮が優先された時、社会規範が崩れ、私利私欲が前面に出ることとなる。正反対の事柄の筈が、同じ方向に向かい始めた時、この社会は行き先を見失うことになるだろう。現状はまだそこまでぶれてはいないものの、早晩その域に達することは見えてきた。こんな状況で何を考えるべきか。あらゆるものに違いがあり、それを差と見なせば、格差は始めからそこにある。それを多様性の表れと見るか、人為的なものと見るかは、見る人によるのではないか。歪んだ主観に基づく考えが、人道という名の下に語られては、人の道を曲げることになる。

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12月29日(月)−狂言綺語

 狂気の沙汰と表現するのは、おそらく常人の理解を超えているからだろう。本人の論理では破綻を来していなくとも、他人に理解できなければどうにもならない。個々の独自性を追求することは、本来このこととは無関係だが、最近の事件の扱いを眺めるにつけ、この辺りの感覚のずれが大きくなりつつあるようだ。
 常識とは共通認識から来るものだけに、隔離された集団の間で、全く異なるものがそれとなることも有りうる。このところの傾向で気になることはこの点で、常識のずれが狂気から来るのか、はたまた属する集団の違いから来るのか、あやふやになっている。そこまで大袈裟に捉える必要はないのかもしれないが、狂気の宗教集団の事件は、この国のあの時だけでなく、これまでも度々起きていた。中心となる人物の異常性が不安を抱えた人々を引き寄せ、破滅へと向かわせる。後の分析では、殆ど全ての事件がこんな形で総括されるが、そこへの道程は千差万別であるようだ。だからこそ、これまでの事例との比較が難しく、悲劇が起きることを未然に防げた例は少ない。ここ最近の事件に、これと似た背景があるものはないが、事件を起こした人間の心理を蝕んだ何かには、ある共通性があるのかもしれない。目標は明確化できるのに、そこへの道筋を見出せない。抽象的な表現を使えば、こんな言い方が当てはまるのではないか。目標とするもの自体にもかなりの異常性が表れるが、それより何より最終的に選んだ手段に狂気が露出している。自死の代わりに死刑を望む心理には、彼らなりの論理があると解釈されるが、現実には、始めから論理性の欠片も存在しない。動機の始めの部分でも、本当に死にたかったかどうかが怪しく、自らの描いた空想の世界を彷徨っているに過ぎないのではないか。聞かれれば答えるという態度にも、屁理屈や言い訳の心理が作用しており、耳を傾ける価値は微塵も感じられない。それにも拘わらず、これほどの扱いがなされることに違和感を覚えるのは、こちらの感覚がずれているからだろうか。

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