パンチの独り言

(2009年1月5日〜1月11日)
(井中蛙、好機到来、本分、主観、色覚、象徴、禅譲)



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1月11日(日)−禅譲

 激動の時代を憂う人々は多い。しかし、他人を批判しても、後悔しても始まらない。変化に振り回されて自分を見失うより、こういう時こそ、何か本質的なものを見つめ直すようにしたいものだ。そんなところから、これを好機と見る人も多い。勢いに任せて無理難題を押し付けていた人々が、行き場を失うからだ。
 何の根拠もなく、ただ自らの欲望に走って、言いたい放題を繰り返してきた人々は、変動に右往左往をするだけとなる。将来を見据えた計画を組み上げる訳でもなく、その場限りの刹那的な欲にかられて進む人には、安定成長の時代は天国である。何をどうしようとも、世間は安定したままであり、自分が立つ基盤が崩れることはない。好き勝手のし放題、そんな時代を漫然と生き抜いた挙げ句に、崩壊が訪れた時、目の前が真っ暗になるのではないだろうか。三日しか続かない天下ならば、すぐに思い直すこともできるだろうが、それが数年の単位となれば、微温湯に浸かりきってしまう人も出てくる。ふと気がつくと、確かなものは何も持っていない自分が見えてくる。そんな人々にとって、激動の時代はある意味地獄だろう。それでも、歴史は繰り返すもの、しばらくじっとしていれば、天国とは言えないまでも、何となく楽になってくるものである。ただ、全ての人々がこんな他力本願だったとしたら、その国は崩壊してしまうだろう。安定していた時代にも、様々なことに気を配り、進むべき方向を見極めようと努力していた人がいてこそ、激動の時代の道案内がなせるのではないか。そんな役目は自分の仕事でないと思う人は、激流に巻き込まれておけばいい。ほんの一握りの人で十分なことであり、彼らを肝心な時に表舞台に出せる準備さえ整えておけばいいのだ。さすがに、困ったときは自然とそうなるとは言えない。やはり、そんな時にこそ、舞台を譲る精神が必要だろうし、引き際が肝腎なのではないだろうか。強欲な人にとっては、そんなことさえできないとしたら、押し退けてでも実行する必要が出てくる。その役目を果たす人がいてくれれば、国も何とか生き延びるだろう。

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1月10日(土)−象徴

 象徴とは何か。的確に答えることは難しいのかもしれない。何かを色で表すとか、言葉で表すとか、そんな場面にも使われるが、学校で習うことからすれば、ある人物を表現する時に使われることが一番印象に残っているのではないだろうか。ある存在から、別の存在に、あの時を境にがらりと変わってしまった。
 それでも、他の人々とは明らかに違う存在であり、特別扱いをされる対象であることには変わりがない。行事の度に画面に現れ、何かしらの挨拶をすることもある。特別な存在として、節目節目で登場することも度々である。人間であることに変わりがないのだから、世間一般で言われることも当てはまる訳だろうが、それにしてもあまりに普通になりすぎているように思える。ある時、声が出なくなったという話が伝わり、心を痛めた人も多かったが、それでも特別な事情を察した上で、そんな心境になったのだろう。それに比べると、次の世代の人に関しては、何とも不思議な状況が展開している。帝国の人とて醜聞が伝えられるなど、世間との違いは殆ど無くなってしまったが、この国ではまだ特別視されている部分は多い。そんな中で、社会全般の問題として取り上げられている病に冒され、役割を果たすことができない状況に陥っていることが伝えられると、心を痛めるよりも先に、何か別の感情を表す人が多いように思われる。身近な存在となることが好ましいのか、はたまた象徴として存在すべきなのか、人それぞれの解釈があるのだろうが、特別扱いとしての不思議は誰の目にも明らかだろう。こんな話題が流された上に、人間関係の軋みが伝えられることは、どう見ても世間一般的な人の話に思えてくる。この流れが良い方向に向かっていることとなるかどうかは、現時点で判断できるものではないが、此処彼処で話題に上ることからして、何処かがずれていると感じられる。

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1月9日(金)−色覚

 不況に陥ると、閉塞感を打ち破るために技術革新が起きるのだそうな。こんなデータがどの程度信頼できるものか、少し考えれば理解できるが、藁をも掴もうとする人々にとっては、有り難いものかも知れない。科学技術に対する印象も好悪様々あり、一概には言えないものだろうが、製品開発には欠かせないだろう。
 疑い深い人々には、新製品、新技術が発表される度に、何か悪いことが起きるのでは、と思う気持ちがある。中身が理解できないために、不安が募り、過剰反応を示す場合もあり、例として挙げれば、遺伝子組み換えに関するものもその一つだろう。この国の原子力技術に対する感情的な反応と似て、こちらの技術にも本質の理解よりも、好悪が先行している気がする。科学技術に関して、理解を拒否する態度も大きな問題であり、無知が招く危険への警鐘もこの手の人々には届かない。それでも、選択の権利が与えられているものならば、まだましと言うべきだろう。放送のデジタル化という新技術には、結果的に権利が与えられず、周知さえすればいいという姿勢で、かなり乱暴なことが行われている。最近気になるのは、発光ダイオード、LEDの技術革新で、波長の短い光を発するものが開発されたことから、混色によって白い光を発するものが出回り始めた。何処かで見かけた人が多いだろうが、異様な眩しさに違和感を覚えた人もいるのではないか。この画面を見ている人も、白い色を見ているわけだが、この場合には三原色の混色が使われている。青色の発光が可能になった時に、白い照明の実現が報じられたから、てっきり同じ方式が使われると思っていたが、現実には補色を利用したものが殆どらしい。つまり、色の環の正反対にある色の光を混ぜれば、結果的に白に見えてくるというわけだ。同じような誤魔化しと言えばそれまでだろうが、色の感覚としては全く異なるものとなる。眼の網膜にある受容器は三原色に対応するものであり、それぞれの刺激を統合して何色かを脳が判断するが、補色と三原色では、かなり違ったことが起きていると思えるからだ。それが悪影響を及ぼすとは断言できないものの、そんな環境で育った人々に、何かしらの異常が出てこないか、暫く気にしておきたいところだ。

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1月8日(木)−主観

 実感を大切にしたい時代である。時代に遅れないように、情報を採り入れることに励み、振り回される時代は過ぎ去りつつある。大多数が情報に頼る状況になると、それを利用する輩が登場し、不安を煽りながら自己都合に合う方向にもっていく。そんな状態になると、情報は無意味なものとなり、気にする必要もない。
 感覚を大切にすると言われても、肝心の感性が狂ってしまったらどうにもならない。おそらく多くの人はこの点で戸惑っているのだろう。実感と情報とのずれを見出した時、万人共通に受け取る情報を優先させる行動様式は、こういう人の特徴となる。その結果、自分が直接見たものを信じず、他人の思惑に満ちた解釈を有り難く戴く。こうなれば、人間の心理状態が安定を失うのも当然のことと思える。自分を信じられない人が、他人の言葉に振り回された時、拠り所を失って自己崩壊を来す。もしかしたら、こんなことが現代社会が抱える病の原因となっているのかもしれない。それにしても、不況と言っておけば大丈夫というおかしな時代となった。個人的に見れば、一部を除けば大した不安を抱えているわけでなく、どの業界もそれなりの水準にあると思える。前年比という下らない数値処理に頼る人々には、下降傾向が明確になっていることが重要なのかもしれないが、成長あるのみという馬鹿げたことがあり得るはずもなく、こんなことで大騒ぎをする気が知れない。それより、節目節目の金の使い方に目を向けるべきだし、明るい顔をして海外で買い漁る人々の思いを理解すべきだろう。能天気と片付けることこそ、相も変わらず続けられている下らない大芝居であり、景況感についても、変化のみに目を向ける取り上げ方には、強い作為が感じられる。正月明けの料理店の混雑具合は、確かに一時の勢いは無くなったとはいえ、依然として強い購買意欲を感じさせるものだったが、これとて変化を第一と見なす人々には、悪化の一途としてしか映らない。何とも不思議な具合だが、目の前で起きていることを自分なりの判断で考えるべきではないか。

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1月7日(水)−本分

 予想通りに事が運んだのなら、もっと喜んでいいはずではないか。なのに、画面に映る面々の表情は冴えないままで、悩み苦しんでいるように見える。景気の悪化を予測した人々は、本来ならば勝ち誇ればいいだけのことなのに、そうなっていない。確かに、苦しむ人を目の前にして、ほくそ笑むわけにも行かないのだろう。
 でも現実には、それが理由でないことは明らかだ。何故なら、あの時将来の見通しを論じた中で、万全の準備を仄めかしていたのが、全く何の役にも立たず、おそらく口先だけのものだったことが露呈したからだ。折角予想が当たっても、無策では何にもならない。実際には、その場を取り繕うことだけが目的だったに違いない。予想外の的中には本人も驚くのだろうが、これじゃあ何にもならないわけだ。このように日々変化するものの将来を見極めるのは難しいことだが、数年先のことを予想するのも難しい。時流に乗ることを自慢する人の多くは、自らの判断の的確さに酔っているのかも知れないが、その殆どは偶然によるものだろう。結局は、その場での対応が大切で、それによって落ち込まずに済むことになる。昔を思い出すと、世間で流行の兆しが言われた分野に進学した人々が、四年後に未開の土地に歩み出さねばならなくなった時、悔やんでいた姿が印象的だった。ところが、その二年後には状況は一変し、引く手数多となったのだから不思議なものだ。そんな展開を予測した人はおらず、ただ恨み辛みを誰彼無く突きつけていただけだったのに。運命とはそんなものと思うが、本当に大切なことは、流行廃りに振り回されず、実力を磨くことにある。今再び、公務員への注目が集まるが、ついこの間は、財政破綻に瀕する自治体への不信感が露わだった。人間は所詮目の前のことしか見えず、先のことなど読み通せないものと理解すれば、目の前にある学ぶべきものを一つ一つ片付けるのが、学生の本務となる。ただそれだけのことに過ぎないものを、時流に乗ることを目指して、道を踏み外す人はいつの時代にもいるものだと、改めて思う。

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1月6日(火)−好機到来

 伝染病のように広がり始めた病、その実体が掴めぬままに、不安に戦く人々、どうしたものかと思う。一部の人の利益になるからと、煽り続ける人たちに、依然として信頼をおくのは何故か、首を傾げるしかないが、普段は身勝手な行動を続ける人々が、こんなに流言飛語に弱いものとは俄には信じがたいところだ。
 幾ら横並びの社会だと言っても、好き放題にしてきた人にとって、ここで突然列に並ぶ必要などありはしない。にも拘わらず、ここ数ヶ月の注目の仕方には、異常さを覚えるほど、急激な変化が現れている。情報操作に専念する人々にとって、明るい未来への提言は唾棄すべきだろうし、折角書き上げた悲劇の台本通りに、事が運ぶことが第一だろう。しかし、ある日突然、好転の兆しが見え始めた途端、以前からそんな話があったと報じるに決まっている。自らが注目しなかっただけのことを、恰も誰もが注目せず、奇想天外な話のように受け取られていたと脚色し、それがまるで奇蹟のように伝える。使い古された手法だが、操作に振り回される人々には、かなりの効果を上げる。今回の騒動も、先の見えぬ不安と表現される、ごく当たり前の事象に、奇妙奇天烈な解釈を施し、恐れ戦きに繋げようとする。現実には、先のことなど見えるはずもなく、ただ単純に、盲滅法に歩んでいるに過ぎないことを、先読みできると誤解しているに過ぎず、不安を微塵も感じない方が、余程おかしなことなのだが、それに気づく人は少ない。しかし、傲慢なしたり顔がいなくなれば、馬鹿げた要求に応える必要もなくなり、一部の人たちには今こそが好機であると言えるのではないだろうか。高慢ちきな客の要望に応じる必要もなく、自らが正しいと思うものを作ればいいのだから、本来の姿勢に戻る機会であろう。玉石混淆、多種多様な要望に振り回され、多彩な品揃えを強要された業界も、必要不可欠な要素のみを残したものを提供すればよい。これは単に製造業に留まらず、サービス業を含むあらゆる業界、おそらく教育の現場にも通じることである。それくらいの対応力があればこそ、競争社会を生き抜けるというものだ。

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1月5日(月)井中蛙

 従来とは違う役割を担うにあたって、自らの存在意義を明らかにすることも必要だろう。新たな仕事での活躍の機会がなければ、手を広げる意味など無いからだ。ある研究機関が人材育成への関与を明らかにした時、その長たる人間は視野を広げることを役割の一つと推した。理由は様々なれど、重要な要素と見たからだろう。
 逆に言えば、それだけ視野の狭い人間が多いことを表す。山を登れば視野が広がるのに比べ、研究を深めるのは井戸を掘るのに似るという。深く入れば狭くなると言うわけだ。これは如何にも環境による影響と見られているが、現実には、当人の資質に拠る所が大きい。特に、最近目立っている、一つのことにしか集中できない才能は、深みへ行こうとすれば、入り口からそこまでずっと細い道筋しか作れない。それに対して、様々な関係を基礎に、より高みへ登ろうとする人間は、裾野を広げる準備も怠らない。一つことの出来不出来の比較では差が無くとも、前者と後者の差は歴然としている。余程特殊な場合を除き、視野の狭い人間は利用価値が低くなるのだ。では、環境を整えると少しはましな結果が出てくるのか。今までの経験からは全面的な同意を出せない。環境に影響される人材もある程度はいるだろうが、本質的には当人の周囲との関わりに起因するものだけに、周囲だけを変えたとしても大した成果は期待できない。にも拘わらず、そんな役割を負おうとするのは何故なのだろう。研究機関の最重要課題は研究成果であろうが、それが期待ほどでなかった場合、やはり人を作ることを前面に押し出す必要があったのだろう。結果が期待通りになるとは思わないが、別の側面を見せることで、その存在意義も変化する。一つの見方では低かった評価が、多面的な評価基準を設けることで結果も異なってくるわけだ。それにしても、第一にすべきものがその水準に達していないことが、その原因なのではないかと思えてくる。いずれにしても、ここまで狭くなった視野を広げるために必要なことは、外からではなく内から出てくるしかないのでは無かろうか。

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