流れが淀んできて、人の心までがどろりとしたものになり始めると、小気味いい人間性に惹かれる人が増える。潔さに注目が集まるのは、そんな時なのではないだろうか。逆から見れば、それだけ汚れが目立つ世相であり、何かにつけて人の強慾さが前面に出る。欲深さに注目が集まるのは、停滞があるからか。
流れが急である時、自分の進む道を外さぬようにするだけで精一杯で、他人の行状に目を向ける人は少ない。不満を口にするより、よりよくするための方策を考える方が大切で、他人との比較も話題に上る機会が少ない。そんな世相であれば、潔さなど問題にするまでもなく、皆それぞれに努力を重ねるだけのことだ。ところが、一度流れが淀んでしまうと、様子が一変する。ふと立ち止まれば、周囲の風景を眺める余裕も出る。生活の余裕とは別に、時間的な余裕が出てくれば、それだけ周りとの違いが見えてくるのだ。動きが速くとも遅くとも、変化を捉える眼力があれば、こんなことは起きないが、普通の人々にとって、速度の違いは大きく影響する。色々なものが停滞し、じっくりと眺められる時間ができれば、それだけ細かな点も気になってくる。ついこの間まで、気がつかなかったものを見つけ、それを話題にし始めると、更に細かなところが気になる。そんな繰り返しが、今のような状況を招いているのではないだろうか。潔さを気にしなくてもいいという訳ではないが、そればかりに心が奪われ、今この時の大切なことを見出せなくては、どうにもならない。こうなると、他人のことばかりが気になる訳だが、現実には、こういう時こそ、自分のことをしっかりと見つめ直すいい機会なのではないだろうか。悪い時に、他人の批判を繰り返すのは、誰にでもできることだろう。自分への批判というと、大袈裟な感じもするけれど、反省の一種と思って、少し距離を置いた形で、自分の姿を見てみるのもいいのではないだろうか。
忘れた頃にやってくると言われたものに襲われて15年になるという。当時の状況を思い出すことも難しくなり、また忘れ去られてしまうのかと思う人も多いだろう。親と子の間での親密な連絡があってこそ、ものが伝え継がれていくわけだが、こんな世の中になると、その場の対応だけで右往左往、期待できそうもない。
先人たちの経験を伝えるための手段は、今では専ら文字と映像となるのだろうが、ずっと昔は口伝しかなかった。それにより、尾鰭が付くことも多かったのだろうが、一方で、話を真剣に聴き取り、それを正確に記憶しようと努力したのではないか。それに比べて、様々な媒体が手に入るようになった現代は、心を傾けるといった雰囲気は微塵もなく、ただ漫然と眺め過ごすこととなる。どんなに正確な情報でも、受け手の気持ちが弱ければ、訴えかける力も弱まる。結果として、そこに示される映像や文字が、起きたことをそのままに伝えていても、人々の心に響くことにはならない。おかしなものと言ってしまえばそれまでだが、これが現実なのではないだろうか。忘れた頃と表現した人も、記録が無くなることより、記憶が薄まることの心配をしたから、そんな呼び掛けをしたのではないか。記録の実体は媒体であり、余程のことがない限り、全てが失われることはない。しかし、記憶の実体は人間そのものだけに、ほんの僅かなことで、全てを失うことに繋がるわけだ。それ程危ういものに過ぎないのに、どういうわけか、そればかりに頼る人がおり、朧気なものをかざしてくる。危うさを実感しない人間にとって、思い込みは最も安易な手法であり、それを貫けば何物も恐れるにあたらず、となる。正確な情報を正しく解釈することの重要性も、忘れてはいけない、という話の中に含まれているわけで、それは現代にも十分に通じるものであろう。その為に必要なことは、人それぞれに違って当たり前だろうが、その気持ちを持たねばならぬという点は共通なのだ。
慣らされてしまったということか。事件が起こる度に、連鎖反応を心配する声が上がる。主体性を無くした輩が、他人と同じ行為に耽り、そこに安心を見出す。全てがそうなれば、頭脳のない肉体と同様に、行き先を失って混乱に陥る。そうなっていないのは、まだ脈があるからとも思えるが、どうだろうか。
子供の頃に叱り飛ばされた経験は、ある世代以上の人々にはあるだろう。理不尽な扱いと思う向きもあろうが、それによって善悪の区別や、決してしてはならないことの認識ができるとなれば、意味があると言えるのかもしれない。ここで誤解する人が多いのは、虐待と叱呵の違いであり、相手への配慮の有無に関することだろう。声を荒げて叱る人間をつかまえて、虐待と断言する人の精神がどの程度のものか、一概には言えないだろうけれど、少なくとも様子を見てからでも遅くはない。叱るより褒めろと言い始めた時代から、何処かネジが緩んできた印象が残るが、そこに問題がなかったとは言えないだろう。善悪の区別も、中途半端なものは別にして、明確な事柄にまであやふやな扱いが横行し、自己中心的な判断基準が、社会秩序の崩壊を招いたことは明らかではないか。いずれにしても、踏み越えてはいけない線の存在が、薄くなると共に、主体性の喪失が露わになるに連れ、余計な心配をする必要が生じてきた。如何にも常識的な言動を繰り返すと自らが信じている人でさえ、その言葉の端々に狂いを生じる。秩序維持のための常識が失われることで、拠り所が無くなり、ついには社会全体の軋みが極限に達することとなる。異常さばかりに注目が集まること自体に問題があることは明白だが、それを抑制する手段は容易には見出せない。どの辺りから狂いが生じたのか、明確に示すことは難しいけれども、一見安定する時代の中で、歪みが積み重なったと見るべきだろう。それを憂えた人々の爆発が去り、落ち着きを取り戻したように見えたところで、現実にはより多くの人が病に冒されたと見るべきだろうか。
商品が売れなくなっていると言う。普段から必要なものにまで及ぶ段となり、耳を疑いたくなるが、庶民の不況感はマスコミからの情報によるとのことだから、こんなことも所謂情報操作の一端かもしれぬ。値下げ合戦まで起こり始め、といった論調には、煽りが見え隠れするものの、必要と思う人には有り難いことだ。
市場経済からすれば、需要の低迷を解決する手段として、廉価販売は一つの道筋だろう。しかし、様々な経験から想像するに、その限りはすぐ其処にあり、無駄な抵抗と呼ぶべきものとなる。一方、一時持て囃された付加価値の問題も、こういう事態に陥ることで、取り上げられる機会が激減した。差の無いところに差を設けると言っても、所詮はより良いものを望む声に応えるわけだから、贅沢願望に拠るところとなる。心理的余裕の縮小に伴って、そんな選択肢が埋もれていくのは致し方ないことだろう。それにしても、普通の商品を普通でなく売り捌く、といった手法は一種詐欺紛いのところがあるのではないだろうか。手をかけるにしろ、売り言葉を編み出すにしろ、商品そのものの価値や質が変わるはずもない。にも拘わらず、市場という絶対的な存在をかざし、その追求を強いてきた風潮は、此処に来て主体となる連中が抜け落ち始めた。ごく普通のもので満足できない人は、その殆どが心理的な要素を第一と考え、本質を見抜く力を備えぬようだ。だからこそ、付加価値に踊らされるだけでなく、それに便乗した偽物にまで振り回される顛末となる。その情景は、恰も被害者然としたものに違いないが、現実には加害者を唆す片棒を担いだように見える。味も素っ気もない、という海の向こうの食べ物の真似をする必要はないものの、見極めの力もないくせに、ブランドを追いかけることは、最低限の素養も何もあったものではない。普通のものを美味しく食べることや、普通の商品を大切に使うことが、ごく当たり前に行える人なら、こんな時、何も困ることはないのでは無かろうか。
景気浮揚策なるものが検討されているようだ。その中で、世界に先駆けてという謳い文句と共に、評判の一向に上がらない策を実施するべく、努力する人もいる。この国の特徴として、先行した時にはろくなことは起きないのだが、今回もそうなるのか否か。前評判は芳しいとはとても呼べない代物だが、どうだろう。
景気が低迷すると言われ、全体の傾向が明らかになったと断言されるにいたり、極端な戦略も含め、何でもありといった雰囲気が漂っている。こんな時期に出される方策に万全の準備を施したものは少なく、付け焼き刃的なものが多いのは、致し方ないところだろうか。それにしても、一時金をばらまき、何でもいいから買えと言われて、大衆は何をするのだろうか。一時の出費が何を意味するのか、提案者に深い考えがあるとは思えない。まして、既に忘れ去られたことだが、これとよく似たことを実施した経緯から、その効果の程を疑う向きも少なくない。そんな状況からか、論点は大きくずれ始め、受け取るか否かの問題に集中するのを眺めると、如何に馬鹿げた三文芝居が演じられているか、呆れてものが言えなくなる。特に、自分たちも大いに使おうという提言に至っては、国政に携わる人間なら、そんなことと無関係にすべきことは承知しているはずではないか。景気を刺激するために、購買意欲の上昇が必要とするのならば、そのように心掛ければいいだけのことで、ほんの一握りの人間の行動が、この状況を打破できるかどうかは、深く考える必要もなく判断できる。茶番劇を演じることに何の抵抗も感じなくなった人々に、任せられるものがあるかどうか、大いに疑問となるけれど、底なし沼にはまった宰相に何ができるものやら。ここに来て、改めて思うのは、これらの人々に景気云々を語る能力はなく、暴言、妄言を吐いているに過ぎないことで、手を出す機会さえ見出せないわけだ。どのみち、暫くすれば振り子が逆向きに振れ始めるだけであろう。
統一基準が設けられ、全世界を一つに結ぶことを目標とした展開は、ここへ来て、頓挫し掛かっている。大規模な取引を基本とすることで、経費削減を図った戦略は、順風満帆と思われたが、まるで恐竜が絶滅した時のように、巨大な体を持て余し始め、小さな商売への回帰が真剣に検討され始めているようだ。
効率を第一とする考え方は、如何にも妥当と見える戦術を編み出してきた。売る側の問題だけでなく、買う側にも浸透し、安いことが最重要とする見方が大勢を占めていた。質の良さを売りとする商品は、買い手を失いつつあり、伝統的な作り手をも失うことになりそうだった。薄利多売を基本とする商売では、巨大な市場が必要不可欠となるが、全体を巻き込んだ気分の低下は、この手法の基盤を揺らがすものとなる。購買意欲の低下が問題視されているけれども、本当の問題は悪質な製品を次から次へと購入していたことにあり、がらくたに溢れる空間の始末が深刻化しそうな雰囲気である。本来は、良質な製品を長い期間使うことが、生活の質を高めることに繋がるが、廉価販売がごく当たり前となってから、そんな考え方は忘れ去られた。よく似た現象を経験した国でさえ、統一化の波に襲われた際に、毅然とした態度をとることができず、流れに身を任せる結果となった。現状はそのつけが回ってきたところなのだろうが、ここから何処へ向かうべきか、見えていない人が多いのではないだろうか。傷がどれ程深いかを現時点で正確に見極めることは難しいだろうが、免疫機能を高めるかの如く、何が肝心かを今一度見つめ直し、生活の改善を図ることが基本だろう。手当たり次第に好き勝手なことをやることは、不規則な生活を送るのと同様、基礎の崩れを招く。その意味で、何を優先すべきかは、簡単に見えるはずのものであり、馬鹿げた騒動に巻き込まれることなく、落ち着いて判断すればいいだけのことだ。簡単なことができない人がいるのには、驚くしかないわけだが。
朝に出されたものが、夕に改められる、というほど極端ではないが、猫の目のように変わるのが政策と見る向きもある。臨機応変に、的確な対応を施すと見なす人もいるが、その多くはただ単に検討不足だったに過ぎない。慌てていい加減なものを出しておいて、後から調整すればいいという考えなのだろうか。
当時は人気絶頂で、素晴らしい未来が待っているように絶賛する人もいたが、このところの問題噴出で、その実体が張りぼてに過ぎなかったことが明らかになった。自由化とか民営化とか、規制緩和という名の下に、様々な愚策が頭を出し、大した議論もないままに、多数決という民主主義が押し通された。決められぬままに滞ることより、まずは一歩を踏み出すことが肝心と解釈する人もいるだろうが、あらぬ方に踏み出した足を引っ込めることは難しい。現状はその姿を曝していると思えるが、当の本人はさっさと舞台を下りて涼しい顔のようだ。偶然というには余りと思うが、このところ話題に上る話の幾つかに共通点が見られる。法改正が同じ年に行われ、それによる効果が期待されたが、結果は正反対となり、政局の混乱と相俟って、更なる愚策の登場となりかねない状況にある。一つ目は派遣の問題だが、この仕組みそのものに問題があるかどうかより、経済状況の変化に対応できなかったからと、変更を迫るのはどうかと思う。現実には、穴だらけの仕組みの問題に過ぎず、適用範囲の変更では根本解決は望めない。もう一つの偶然は、医師不足の問題となる。過剰と不足の見極めを誤ったことから表面化したはずが、別の問題を殊更に取り上げ、同じ時期に改正された法律の見直しが進められているという。これも医師の質の向上を狙ったはずが、結果として配置の歪みを生じることとなり、それが恰も地方の医師不足の主要因であるとされたからだが、本質的な課題を帳消しにする意味は見えない。どちらにしても、穴を埋めるのでなく、本来の目的を忘れるという手法に、当時の熱狂が影を落としているように見えるのは、これまた偶然なのだろうか。