パンチの独り言

(2009年1月19日〜1月25日)
(霧中、公約、待望、翻弄、忘却、少数派、読書)



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1月25日(日)−読書

 昔懐かしい人のことを読んでいる。文章から感じるものは、その人のことを知らない人とは違うだろうが、どんなものなのだろうなどと考える。でも、自分の知らない姿が出てくると、成る程と思うと同時に、別の感情が湧いてくる。自分なりの解釈とは、何とちっぽけなものだと思えるのとは、何か別のものがある。
 ずっと昔の、会ったこともない人のことを書いたものを読むのとは全く違う、たとえ一面に過ぎないとしても、自分の知識との比較ができるのが、こういった時の感覚なのではないか。それを文章で表現するのは、とても難しいことだが、誰しも経験できることに思える。人それぞれの見解の違い、印象の違い、そんなものが次々と現れ、それを楽しむことができる。出会いが無ければ、そんな感覚は生じないだろう。その一方で、互いに同じ人物を思い出しているのに、全く違ったものを見ていた場合、何となく受け入れ難い感じを覚える。その辺りの葛藤が、読むことの愉しみを増しているように思う。人それぞれの読書で、それぞれに違う愉しみがあると思うが、一つ欠けてならないものは、遣り取りではないかと思う。活字の好き嫌いにもこれが関係しており、離れていく人の多くは、一方的な、説教を聞かされているような感覚があるのではないだろうか。遣り取りは、常に双方向であり、単に受け入れるだけでなく、本という冷たい存在に対して、働きかけている。そんなことで、何が起きるのか想像できない人にとって、こんな話は何の役にも立たないだろう。しかし、自分という存在が、何も返事をしないものから、何かを得られるとしたら、それは、自分の中に別の存在があるのかもしれない。何やら話がずれてしまったが、本を読むことの面白さは、その中で展開される話の面白さだけでなく、自分が持っている何かとの比較の面白さにもあるのではないだろうか。何かを読んでいる時の心理の変化を眺めてみたら、そんなことが見えてくるのでは。

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1月24日(土)−少数派

 世の中は不況であると言いたい人で溢れているようだ。かつての栄光が失われ、製造業でなく、商社にでもなったような企業の赤字を大袈裟に伝え、世界一になることを夢見た企業の赤字と夢が実現したことを複雑な形で伝え、兎に角、論理的な破綻に満ち溢れる解説には、思惑しか感じられないのである。
 時代を牽引した提案力を誇った企業も、創業者たちが去ると共にその力が失われた。その後の展開は、怪しげな経営者たちに受け継がれ、日の目を見ない潜在力しか話題に上らない。こんな企業が赤字を出したとしても、何も不思議なことはない。世の中の流れに逆らい、新たな流れを作る力は、何処にもないのだから。同じ思惑から語られる話に、雇用問題があるだろう。非正規労働者の問題は、そろそろ綻びを見せ始め、権利主張のみの事例も出てきた。全体として考えねばならぬことはあろうが、これほどの騒ぎはどうかと思う。そこには理性の欠片も感じられず、感情に流される人々の悲鳴のみが聞こえる。いざ、社会に漕ぎ出そうとする人たちの話題も、意図的な煽りばかりが目立つのではないか。徐々に増加する内定取消の事例の数に、騒ぎの広がりを感じる人がいるだろうが、所詮は数百人の話に過ぎない。同じ頃流れている大学入試の受験生の数と比べて、何を感じるか発言者に聞いてみたくなる。現時点で、三桁近くの差があるということは、百分率で小数点以下でしか表せない数値であることに、何を思うのか。別の見方でも構わないが、例年と比べて、その数字はどれ程大きなものか。精々百倍にしかならないし、そんなわけがない。こんな数字を書き並べ、大層に騒ぎ立てる人々の頭には、明らかに別の考えが棲みついている。現代社会では、少数派の保護は重要課題だから、たとえ少なくとも、問題を取り上げる必要があるとする声もあろうが、例年との違いをどう論じるのか、人道はそんなに安っぽいものなのか。では、何をすればとの反論もあろうが、慌てて余計なことをしないのも、大切なことに違いない。

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1月23日(金)−忘却

 「言った」「言わない」で揉めることは多々ある。記憶を頼りに言い争っていても埒があかないわけだが、それはそれでいつの間にか収束し、落ち着く場所が見つかる。ところが、何やら記録媒体が世間に溢れ始めた頃から、この辺りの事情に変化が生じた。どちらが正しいのか、「証拠」が残ってしまうからだ。
 物事を正確に記録し、間違いを防ぐ意味で、こういった仕掛けの普及は大きな影響を及ぼした。しかし、その一方で、他愛もない言い争いに決着が付き、別の効果を及ぼしているのではないか。所詮は単なるじゃれ合いと思われた論争が、白黒が明確に区別できるとなれば、勝負も明らかとなる。それは当然のことで、良いことに決まっているとする意見もあろうが、元々がじゃれ合いとしたら、そんな必要があるのかと思えてくる。記憶は記録とは違い、主観が大きく影響するから、「言った」「言わない」と同じように、「聞いた」「聞いてない」も曖昧にならざるを得ない。受け手の問題だから、その人物の主観に左右されるのは当然として、送り手はその影響を排除する必要があるわけだ。その為に、様々な手立てを尽くし、その場だけでも相手を納得させ、結論に達しようとするのだが、後日改めて話してみると、主観が再び姿を現し、記憶の歪曲を促すことに気づく。この点は、記録さえあれば問題が解決する筈だが、どうも心理的にはそうでもなさそうだ。何故なら、そこでの言葉の遣り取りが全て残されていたとしても、互いの心情の変化が記録に残ることはないからである。心の動きはこの際重要でないと判断する人もいるだろうが、現実にはその場での心の変化は経過を辿る上で重要な要素であり、言葉にそのまま反映されるとは限らないのではないだろうか。そうこうしているうちに、記録媒体への作為が可能となれば、それ自体に確実さは無くなる。そしてまた、記憶に戻っていくことになるのか、どうなんだろうか。

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1月22日(木)−翻弄

 もうすっかり忘れ去られたことと思うが、戦後最長の経済成長期なるものはいつの間にか終わってしまった。実感がないと頗る評判が悪かったが、悪い方向への意識が強い人間性からすれば、この程度の数字ではびくともしないということか。それに比べて、今の世相はまさに正反対の情勢で、悲観に溢れている。
 数字が全てを語ると言われつつも、心理要素の介在は否定できない。受け手の気分により左右されるのは、それだけ微妙な結果だからであり、決定的なものであれば、曖昧な印象は与えない、という人もいるけれど、現実には、それ程に明白な事実など、そう容易く見つかるものではない。数字が言葉に変換されれば、そこに印象や解釈が入り込み、事実を歪めることも起きる。ところが、多くの人は冷たい印象を与える数字より、人間味が感じられる言葉の方を好み、それによって気分の上げ下げを促される。すんなりと入り込む言葉を編み出す人が受け容れられ、言葉のみが独り歩きをし始めれば、更なる解釈が加えられ、根拠となった数字は忘れ去られる。一度その転換をしてしまえば、二度と原典に戻る人はおらず、結果として誰かの思惑が前面に出てくる。成長期の話題がどちらの側に立つものかは分からないが、現状はかなり偏ったものになっているように思える。次々に繰り出される悲劇的な筋書きに対し、根拠となるデータに立ち帰る人もなく、ただ鵜呑みを繰り返すだけだとしたら、それに巻き込まれて損を見る人たちは、実際には自業自得の結果に見舞われたと言われるべきだろう。ただ闇雲に新たな変革に期待し、踊り狂う人々の心情は全く理解できないが、彼らの理解力が皆無だとしたら、何となく納得できる。しかし、そんな姿を羨ましく思いつつ、自らの悲劇を何の根拠もなく演じようとする人々も、彼らと大した違いを持たないのではないだろうか。慌てふためき、右往左往する姿を、何処かで見つめてほくそ笑んでいる人こそ、元凶であることは確かなのだが、さてその姿が見えてこないのは何故なのか。

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1月21日(水)−待望

 抱えきれないほどの夢を持つ、期待に胸を膨らませる、そんな言葉を聞いた時、将来ある若者たちの心の支えを感じる。現実が甘くないからこそ、夢や期待が重視されるのだが、将来への道が暗く長いわけでもない。一歩一歩進むことで、徐々に道が開けていくわけで、道中意欲を失わないことが重要なのだろう。
 現在の状況がどれ程の危機なのかは未だに明らかとなっていないが、此処彼処で連呼されるところを見ると、感覚的にはかなり重篤な段階にあるらしい。先行き不安が募り、意欲減退が顕著になるに従い、人々が他に寄せる期待は大きくなるようだ。初物尽くしの行事が行われ、期待の高まりが世界中に伝えられるのを見て、何処か薄ら寒い感覚を覚えるのは、穿った見方に過ぎるのだろうか。心理的な影響の大きさから、全てのことを都合良く解釈することにも違和感を覚えるし、言葉の受け取り方にも過剰反応が見える。繰り返しに過ぎない見せ方も、大好評を博すと伝える向きがあるが、何処にも新鮮さが感じられない。初物としての見せ所は何処へ隠れてしまったか、前評判に乗せられた人間には、何ら異常が感じられないのだろうが、その気のない人間には、見せ物興行を眺めている気さえしてくる。期待感という捉え所のない指標が使われるのは、ある業界の常であるが、今度の行事に関しては、その影は微塵も感じられなかった。これが何を意味するか、すぐさま分析に走る人がいるだろうが、冷静なる判断や実態を掴んでからといった解説が続くのかも知れない。いずれにしても、このところのお祭り騒ぎはそろそろ終焉を迎え、夢物語が現実のものとなるかが明らかになるだろう。裏方の演出力と主演者の演技力の賜物によって得られた地位が、今後確固たるものへと変貌するかは、ここからが勝負となる。当日の筈が、前夜かの如く見えてくるのは、そんなところからかも知れない。高すぎる期待がどう変化するか、見守るしかない。

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1月20日(火)−公約

 約束したことは守りたい、と思う人が殆どではないか。しかし、ある世界にはそんな思いを抱く人はいないようだ。そういう事情からか、期待を抱く人もおらず、単なる売り文句としか受け取らない向きも多い。極端な場合は、記憶に留めることさえせず、戯言程度にしか思わず、別の指標を当てはめるようだ。
 そんな中で、ある一人の人物は強硬とも思える勢いで、自らの思いを達成したから、強く印象に残ったようだ。不思議なのは、その行為が及ぼした影響ではなく、その姿勢のみが評価され、恰も正しい政策が実施されたように思いこむ人が沢山いることで、おそらくその辺りが人気が続いた理由なのだろう。約束を守ったというそれまでにない成果は、余程強い印象を与えたわけで、人間心理の複雑さを感じさせる話である。とはいうものの、そんな過去のことに思いを馳せても仕方がない。将来を見据えて、この難局を打開するためには、件の人のやり方ではなく、解決へ向けての方策が必要となる。困難に陥り、解決の糸口さえ見出せない人々にとって、他力本願と言われようが、誰かの手が差し延べられるのを待つしかないのかも知れない。そんな条件下で、ただ闇雲に念願の策を講じたり、状況の変化を無視した方策を実施すれば、一部の人には救済となっても、多くの人に更なる追い打ちを下すことになりかねない。現時点で既に、選ばれるための長い期間とはかなり違った様相を呈しており、当時の提案通りの変革が功を奏するとは思いがたい。こんな状況で重要なことは、おそらく初志貫徹ではなく、如何に対応力を発揮するかということなのではないか。類似点が一部あるものの、海の向こうとこちらでは、こんな形でかなり大きな違いが見出せる。互いの結びつきの強さから言えば、対岸の火事を眺めるようには行かず、それなりの関与が必要となるだろう。肝心のこちら側は、何とも情けない様相を呈しているが。

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1月19日(月)−霧中

 人間誰しも欠点を持つものであり、完璧な人はいないと言われる。では、欠点だらけでどうにもならぬ人は、と考えると、こちらもそう簡単には見つからない。長所短所の両方を持ち合わせ、更にそれぞれの特徴も、時と場合により、長短どちらにもなり得るところが人間の面白さであり、全体の均衡を保つものだろう。
 こんなことは改めて書くまでもなく、余りに当然のことなのだが、ちょっとした出来事でその思いを深めることとなる。寒い朝は、車の始動にも色々と気を遣うものだ。湿度の多少にもよるだろうが、ガラスが凍り付けば視界が遮られる。氷を融かすために様々な工夫をする人もいるが、時間を掛けても良ければ車の熱風を使えばいい。時に乱暴な人がいて、熱湯をかけるのを見るけれど、余り良いことではないように思う。氷が無くなればいざ出発となるかもしれないが、時に、車内の湿気がガラスを曇らせることがある。場合によっては、視界が完全に遮られ、こちらの方が厄介な存在となる。これも同様に熱風に頼るか、あるいはエアコンを入れれば済むことだが、見込みで出てしまう人も多いようだ。こんな時、本人は視界不良の不安から、低速運転となるわけだが、他の車にはそんな事情は分からない。一人馬鹿げたほどの速度で運転すれば、他の車の通行は妨げられる。事情の理解の有無は、この際関係なく、兎に角邪魔なだけの存在となる。ところが、当人の心理はと言えば、ただ安全な走行をということだけであり、ガラスの曇りと同様、他への迷惑への視界は開けていない。そんな車が数台前を行き、非常識な運転に、腹を立てていたのだが、その後の展開で、偶然誰が運転していたのかが知れた。普段から常識をかざす人物の登場は、何とも言えないが、それにしても、身勝手な行動をどう自己分析するのだろう。まあ、そんな人に限って、と思うところがあるから、本人に気持ちをぶつけようとは微塵も思わないのだが。

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