パンチの独り言

(2009年1月26日〜2月1日)
(落書き、局所的、標的、向上、貪欲、無駄、信心)



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2月1日(日)−信心

 恥の上塗りという言葉がある。重ねて恥をかくという意味で、一つ目の恥を消そうとして、更に二つ目の恥をかくということだ。日常的にもたまに聞くことがあるが、それとは違う行為として、この言葉を連想させるものに出遭った。別の言い方をすれば、壁の上塗りなのだが、臭いものに蓋をするといった感覚だ。
 この国では殆ど見られたことがないが、根を同じとする宗教が混在する国では、こんなものが見られる。宗教施設のように、偉容をたたえたものは、一度現れてしまうと消すことは難しい。そこで、同じ根っこを持つことを利用し、転用を図ることがよくあるようだ。外観の装飾を施すことは当然だが、内部の装飾は特に重要となる。それぞれの宗教の象徴がそこに飾られ、信者を見守る姿は必要不可欠であり、信心の対象として見つめられるからだ。逆に言えば、異教徒たちにとって、それは特に目障りな存在であり、排除すべきものとなる。しかし、壁面に施された装飾では、取り除くことは殆ど不可能だから、その代わりに新たな面を作り出し、そこにその宗教の象徴を施すことが行われる。侵略戦争が繰り返され、その度に変更が施されると、そこには何層にも渡る歴史が刻み込まれる。そういうものと馴染みが薄い人々にとって、恰も恥の上塗りのように見えるものも、生真面目に信心を表現する人々にとっては、重要な重ね塗りとなる。他の教えを否定し、自らの教えを広めることだけが、信教の証しであり、その為には残虐な行為さえも許されるとする考え方は、異なる思考に基づく宗教や特別な対象を必要としない人々にとって、異常としか思えないものだ。今残る証拠は、そこで起きた残虐行為を示すものではないが、その基盤となる感情の一部を表すものとなる。根が同じということは、根が深いという意味と繋がり、簡単に受け容れられるものではないことを示す。未だに紛争が絶えない地域では、そんな感情の渦巻きがはっきりと見て取れるから、信じることの難解さは一筋縄では取り組めないものなのだろう。

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1月31日(土)−無駄

 ある人が「勿体ない」というこの国の言葉に感銘を受けた、という話が伝わった。外からの力に弱い国民は、改めてそのことに気づいたようだが、実際には表面的なものでしかない。物を大切にするという意味では、どう見ても合格しない人ばかりだし、安い物に飛び付く姿勢も、とても褒められたものではない。
 発言者の真意は違うところにあり、おそらくそんな目からすれば、この程度もことさえも十分と思えたのだろう。それ程に世界は狂った方向に向かい、崖から飛び込む動物さながらの様相を呈していた。悲劇を語ることが生き甲斐の人々は、この機に乗じて、次々とその思いをぶちまけているが、彼らの話から解決の糸口が見出されることはあり得ない。節目にあって肝要なことは、決して騒ぎ立てることではなく、冷静に本質を見つめ直すことなのではないだろうか。狂い騒ぐことは、如何にも異常に思うけれども、その異常さに気づくのは集団を外れた時のみである。その点、今の騒ぎも同様で、悲劇を語るのみでは何も見えてこない。異常の原因は皆気づいているが、それを解決する手段がないばかりか、異常の程度を見誤ることで、騒ぎを大きくしていることには気づいていない。景気と雇用の関係でも、ただ単に失業率のみに注目し、その数字の根拠に思いをいたさなければ、事実誤認となる。雇用の捻出を問題にする人も、社会での必要性をその点からしか見ないからであり、労働の根拠という視点が感じられない。皆が狂ったように働くという図式を描いているように見えても、現実には意欲の欠落こそが現場での問題となっているし、経済的自立を必要としない人をも巻き込む計画には、明らかな論理欠陥が見出せる。こんな時こそ、社会にとって必要な仕事は何か、労働と雇用との関係は如何にあるべきか、などといった問題を考えるべきであり、慌てて馬鹿げた応急措置に走るべきではないだろう。全ての基が金であるという考えから、主婦という役割を選択肢から排除することの誤りは、現実には「勿体ない」と繋がるはずなのだから。

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1月30日(金)−貪欲

 以前何度か取り上げた話だが、常識とは何か。一つの集団における常識は、他の集団では通用しない、という話をする人がいるが、時々首を傾げたくなる。確かに、局地的にしか通用しない規則のようなものはあるが、それを常識と呼ぶべきか、と思うのだ。自分中心で考えれば、そうしたくなるのかも知れないが。
 若者の無軌道ぶりを憂う人々がいる一方で、ごく普通に生きて、一区切り付けた世代の人々の行動を批判する人もいる。無知からの非常識な行動は仕方ないとしても、如何にも常識ぶった人々が自分勝手な行動をすることは許せない、というわけだ。知識として身に付けていても、それをどう使うかは心の問題であり、特に欲望が主体となるところでは、その影響力は大きくなる。何も知らなければ、無知と片付けられることも、却って、全てを知り尽くした上で、欲望に走ることとなれば、止めることも許すこともできなくなる。自制心を確保した上で、行動に移るようにすれば、簡単に抑えることができるが、瞬間的な判断による行動は、そうはいかず、暴走に繋がることも多い。事が済んだ後で、言い訳が積み重なれば、本人の心は更に強固なものとなり、批判の声を跳ね返すほどとなる。常識のすり替えが起きる瞬間かも知れないし、それ程大袈裟ではなく、単なる開き直りとなるだけかも知れない。いずれにしても、そんな行動をしていることに気づかぬ人は多く、自分を見る目と他人を見る目の違いもはっきりしなくなる。これは年齢によるものだけでなく、最近取り上げたネット上の落書きなどにも、知識をある程度有する人々の馬鹿げた行動が目立つ。非常識と片付ける手もあろうが、どうもそうでなく、汚らわしい欲望の捌け口に過ぎないように思えてくることもしばしばである。結局、知識を使う人間の心根が腐っていれば、そこから出てくるものは全て無用のものとなるのだろう。

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1月29日(木)−向上

 どうも、この国が心配性の塊になってしまったように感じる。のほほんと楽観的に生きるより、何かと将来を悲観して、用心深く生きる事の方が、恰も優れているように思う人がいるのではないだろうか。確かに、過ぎたる楽観は戒められるものだろうが、果たして過ぎる心配の方はどうだろう。結局同じではないか。
 心配ばかりすれば、将来への準備が整わなくなる。それより、暗い未来に対して、様々な不満を並べる事の方が優先され、結局はちゃんと準備できなくなるわけだ。その事が分かった上での行動であれば、誰も文句は言わないだろうが、現状は何も分からず、ただ闇雲に悲観に走っているように見える。この状態は健全とは言えず、何かに病んでいるように思う。自分の将来を考えた時、そこにあるべき向上心が失われれば、逆にそれ自体が悲劇を招く事になる。気軽に作った悲劇の台本に、自分自身が振り回されるのであれば、それは幸いとはとても呼べないものになるだろう。今、全ての人々が同じ病に罹っているとは思わないが、何となく、そういう人々が昔より増えた気がしている。この状態が長く続けば、次代を支える人々によくない傾向が現れ、結果が悪くなる事もあるだろう。実際に重要と思われるのは、こんな環境下でも向上心を失わない事であり、それを持ち続ければ、打開策は自ずと見いだされるのである。先人たちは、そんな心配と戦い、その中で自らの道を見つけ、歩んで来た。この時点での問題は、本来、そんな向上心を支援し、道を見いだすのを助けるべき世代の人々が、変な煽りに走っている事であり、それが大きな障害を産み出しているように思える。ここは、自然の成り行きに任せた方が良い結果を招くのではないだろうか。深く考えているようなふりをして、逆効果を産み出しているのでは何もならない。同じように、上の世代から心配を強いられても、自分たちの考えを持ち続け、向上心を失わぬように心がける事が、大切なのではないだろうか。

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1月28日(水)−標的

 どんな思惑が背景にあるにしろ、収入の道を考える上で、雇用問題は無視できない話だろう。何でもしたいという話には、かなり大きな嘘が隠されているようで、追い込まれている人々の反応も様々なようだ。ただ、最近の流行はこんな環境で被害者意識が目立つ事で、何か物足りなさを感じさせるものとなっている。
 金の為に、と言う一方で、好き嫌いの話題が取り上げられる。何かしらの難癖をつけ、決断を先送りするのも、そんな背景によるものかもしれない。気になるのは、自らの窮地に関する判断で、それによっては選択の余地も無くなる筈が、悠長に構える人には、そんなつもりは見られない。単に世相の問題だけでなく、自分の判断の誤りもそこにある筈が、そんな話に及ぶ事は少ない。こんな状況下で、雇用の波は外国人に被さる事となったようだ。3Kと名付けられた仕事のなり手として、重宝がられた時代は遠くなり、向上心を持つ人々とそうでない人々の区別は歴然とし、こんな環境ではそれまで無視された要素が大きく取り上げられる。基盤を持たぬ人にとって、こんな波を乗り越える事は難しく、悲劇が訪れた場合もあるようだが、その波を被らなかった人たちは安泰かと言えば、そうでもないらしい。一方にいる被害者たちには、こんな存在は受容できぬものであり、攻撃の的とする人々も多い。冷静に考えれば、これで左右される割合なぞ、ほんの一握りに過ぎぬのだが、標的を見つける事が解決に繋がると信じる人には、いい口実となるようだ。馬鹿げた論法が展開され、自らを貶める発言が重なるに従い、世論の方向に変化が生じる事もある。特に、最近の無思考傾向からすれば、こんな展開は当然なのかもしれない。ここまできても、就きたくない仕事があり、更なる言い訳を考える人にとって、こんな事でも身勝手を隠す手立てにはなるやもしれぬ。勝手な連中に振り回されるのは、こちらにも責任がある筈で、こんな時にも一言苦言を呈すれば済む事だ。聞こえぬ人には無意味だろうが。

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1月27日(火)−局所的

 郷にいれば郷に従え、よく聞く言葉だが、どちらの側に立つかにより、かなり雰囲気が変わるようだ。郷の中にいる人物にとって、余所者の存在は気になるが、それが様々な形で自分たちに合わせてくれれば、大変楽になる。逆に、自分が余所者だった場合、さて簡単に従えるものかどうか、そこが問題になる。
 何もかも突っぱねる姿勢で臨めば、自己主張は可能となるが、妥協点は見いだせない。相手の懐に入らねばならない時、これでは話にならないわけだ。そこで相手の事を確かめ、何処が共通するか、何処が違っているかを比較し、対策を考える事となる。文字で書くと簡単な事が、いざ人と人との関わりとして、答えを出さねばならぬ時、結論が出せなくなる事は多い。となれば、暫く放置しておくというのも一つの方法で、これで大抵の事が済む。しかし、複雑な事例の場合、そんなに簡単に答えが出るわけもなく、その代わりに厳しい制限がなされる事も多い。一つの集団の規律を守るためとはいえ、様々な制限が適用される事には、かなり多くの人が反対する。無駄と知りつつ、働きかけを行う事で、相手を変えるやり方もあるようだが、これも容易な事ではない。いずれにしても、受け入れられ、受け入れるという組み合わせが無くなる事はなく、何らかの形で、この関係が続く事も多い。机上の論理として、何処にも間違いがなくとも、何処かが違っている事から、結論に結びつける事は難しくなる。小さな組織ほど、個人の姿勢が反映されるわけであり、そういう場面は数多く起きているように見える。ネット社会でも同様な事があるが、それにしてもこれほどの数に達すると予想した人は、どれくらいいるのだろうか。現実社会では、うまく入り込む事ができたとしても、その後が続かなければいけない。どの程度長続きするか、更にはどう対処すべきか、などという点が問題となりうる。意識しても、無意識でも、結果が同じになるのは、少々寂しいことだが、ある意味仕方がないところかもしれない。

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1月26日(月)−落書き

 相も変わらず、暇人どもがネットの中で這いずり回っている。時は金なりと言うが如く、暇だけではない愚者もいるのだろうが、どうにかならぬものか。考えてみると、媒体が出てくる度に、生活が豊かになる反面、それを悪用する人間が登場し、折角の利点がかき消される。人の欲望とは、所詮そんなものかもしれぬ。
 悪意に満ちた行為に対し、処罰や予防策が講じられるが、その殆ど全てが徒労と化す。人の考えるものに穴があるのは当然で、だからこそ面白い部分もあるが、事これに限っては、腹立たしい事この上ない。特に最近問題となっているのは、悪意の当事者だけでなく、善意の仲介者の存在であり、様々な事が複雑な仕組みの中で入り組み、容易には解決しないようになった。時は金なりという教えからすれば、手間をかけて管理するのもその範疇であり、その時間も馬鹿にならない。相手が自動化した仕組みを導入すれば、こちらもそれへの対応を考えるのも、一見容易に受け取られるようだが、現実には簡単な事ではない。悪意の存在がそもそもの現況と言ってしまえばそれまでだが、そこから全てが始まっているとすれば、それを根絶する手段を講じない限り、この図式は消える事がないだろう。自分の意見の発表の場を、どんな形にするのかを真剣に考える人がいる一方で、深い考えもなく、ただ罵倒を繰り返す人がいるのは、一部の人たちには理解できない部分である。愉快と悪意が混在したところにこそ、この問題の重要な部分があるように思えるが、そこに潜む狂気にも似た感情は、やはり常識的な理解の範囲を超えているのだろう。こんな事を書いたとしても、これが理解できる人はそんな行為に耽る事はなく、理解できない人はただ愚行を繰り返すのみとなる。まあ、それが社会の常だと思えばいいだけの事かもしれないが、これ以上狂った社会は誰もが御免だと思っている事だけは確かなのではないだろうか。

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