パンチの独り言

(2009年2月9日〜2月15日)
(免許、地道、閉鎖、閉店、夢想、口演、変動)



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2月15日(日)−変動

 季節の変わり目は気候の変動が大きくなり、体調を崩すことが多くなる。特に、春先や秋口にはそんな話がよく聞かれるが、今まさにその真っ只中にあるようだ。南北に長い列島では、この変化も場所ごとに違い、戸惑い方も大きく違っているようだが、兎にも角にも振り回されていることには変わりがない。
 大雪や大雨は災害を直接引き起こすから、記憶に残りやすい気がするが、気温の変動はその場では騒がれるものの、少し時間が経過すると忘れ去られる。今回のものもその一つになるだろうが、記録としては残るようで、それ程珍しい現象ということだろう。異常気温でも高い方は、世界中で騒がれている現象との繋がりから、様々な取り上げられ方をする。しかし、平均が上がる話と一時的な異常気象とでは、同じ観点から論じることはできないだろう。更に、温暖化と称される変化が思ったほどに極まっていないという指摘も徐々に出始め、見直しが始まりそうな気配もある。紫外線が強くなる原因の方は、工業製品の規制にも拘わらず、依然として深刻な状況にあるが、温暖化については、話題性ばかりが先行している感がある。その理由の一つに経済効果があり、フロンが製造業界のみに限られた規制であるのに対して、炭酸ガスは全ての人に関係するものと扱われ、更に何処かの賢い人々が、経済との結びつきを編み出した結果、予想以上の反響が得られるようになった。だからといって、現象が予想通りに進行するとは限らず、元々両極端な考え方があったのを、片方に偏った話ばかりが取り上げられ、様々な結びつきが作られたのだから、用心して聞かなければならないことのようだ。経済そのものの調子が悪くなるに連れ、起死回生を目論む人々にはこの材料は魅力的に映るだろうから、それも合わせて相手をする必要があるだろう。いずれにしても、一般人は過ごしやすい気候を望むのが精々なのだが。

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2月14日(土)−口演

 人前で話す機会ができた時、どんな準備をすればよいのか。人それぞれだろうが、不慣れな人ほど力が入りすぎる傾向にある。結果は、総じて逆に出るのは、力んだために的を外すからだろうか。もう一つ、この国で問題視されるのは、教育現場での訓練の少なさで、それが全てであるように取り上げる人もいる。
 確かに、人に話を聞かせるためには、内容の魅力も当然だが、本人の表現力が大きく影響する。豊かな表現と言うだけでなく、単に、声の大きさや間の取り方といったところだけでも、相手の視線の向かう方が違ってくるから不思議だ。才能と片付ける人もいるが、周囲を見渡す限り、訓練の方が重要に思える。例えば、若い頃に全く魅力が感じられなかった人が、ある年齢を超えた途端に、人を惹きつける話を始めることも多く、正しい訓練だけでなく、場数を踏むことの大切さが見えてくる。ただ、誰もがそれだけの時間をかけてよい状況にあるわけでなく、社会に出た瞬間から、その力を必要とする人の方が圧倒的に多い。その意味で、学校教育での訓練はもっと重視すべきものではないだろうか。特に、最近の傾向は形式に走る人の数を急増させており、訓練もそれだけに集中する場合が多いように思えるが、現実には、それは始めの段階に当てはまるだけのことであり、それだけでは軽く、訴求力のない営業しか行えない。実践力という意味では、単純に言えば、臨機応変さが必要であり、相手の反応を見ながら、微調整を繰り返す力が要求される。場数の問題は、その部分に最も大きく影響するはずで、時間をかける必要はそんなところから出てくるのだろう。これを補うための手法として注目すべきは、他人の発表からの学習であり、その意味で、学校における訓練は重要な要素を含むわけだ。そんな機会を増やす工夫と共に、表面だけでなく本質を伝える教授法の開発が必要となるが、教える側にその資質があるか、最大の問題はここにあるかも知れない。

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2月13日(金)−夢想

 憧れとか夢とか、誰もが持つものだが、いつの頃からか、その大きさを問題にし始めた。別の言い方をすれば、夢や憧れは達成できないくらい遠くに設定するものであり、それができない人間は駄目だと言わんばかりの意見が出てきたのだ。分不相応なものを手に入れようと望む人間が台頭し始めた時なのだろう。
 子供の夢は大きいものと、まるで相場が決まっているかの如く、大袈裟に取り上げる人々がいる。しかし、自分の幼少時を思い出せば、憧れの職業は身近なものであり、お飯事の延長にあるようなものだった。いつの頃か、身の程知らずが世の中に溢れ始め、彼らが先頭に立って、子供の夢を経済の風船と同様に膨らませようと躍起になった。その頃からだと思うが、子供の夢と言いながら、大人たちが自分たちが果たせなかったものを子供に託す動きが急になった。親の商売を継ぐことは大切ではなく、別の夢のある職業に就くことが願いとなり、子供たちはある意味、その犠牲となった気がする。この傾向は経済の風船がはじけた後も続き、今でも何か事が起きる度に、それを夢の対象とする子供たちが現れる。夢見る年頃と片付けることは簡単だが、身近で理解できる範囲を超え、遙か遠くのものに憧れるのは、どんなものだろう。情報社会の影響も大きく、更に輪をかけて、親の悪影響が及んでいる気がしてくる。子供の夢の実現に向けて、親が全面的に支援する姿は、ある意味美しく取り上げられるが、それがいつの間にか押しつけとなり、苦しみに苛まれる子供たちが出てくると、誰も見向きもしなくなる。だから、その流れの顛末は皆の知るところとはならず、結局、同じことが馬鹿げた夢を見る親たちによって繰り返される。現実を直視しなければならないとは言わないが、分相応の、身の丈にあったものを持つことの大切さを、改めて認識する必要を感じるが、ここまで荒んだ社会ではそれも無理難題となるのだろうか。

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2月12日(木)−閉店

 世の中の歪みを強く感じる人もいるだろう。特に、毎日のように悲惨な情報が持ち込まれ、それが恰も世界中を覆い尽くすかのように表現されれば、正常な神経の持ち主ならば、悲鳴を上げたくなる。ただ、本当にまともな人は、その前に馬鹿げた情報の真偽を問い、その殆どを成す偽物を捨てているだろう。
 歪みが強まっていると実感させる事柄は、実のところ、沢山持ち込まれている。しかし、悲劇にしか興味のない人々の目には入らず、打ち棄てられているだけのことだ。情報社会という観点からも、そんな事例は掃いて捨てるほどあり、今こうやって覗いているインターネットの世界は、まさにそんなゴミ捨て場になっている。これまでにも何度も取り上げてきたことだが、この世界に巣くう餓鬼共は、自らの欲望を満たす為だけに走り、めぼしいところに唾を吐きかけていく。欲望の矛先は、金銭的なものに繋がる拝金主義的なものと、単純に精神的なものに繋がる精神異常的なものにあり、世界の貯め込む力が飛躍的に伸びている時には、殆ど無視されるほどの存在だった。しかし、様々な要因が積み重なり、閉塞感が意識されるようになると、その辺りの事情も大きく変貌したようだ。仕組みの上での必然的に生じるゴミと同様に扱われてきたものが、いつの間にか、深刻な被害を及ぼす有害物として扱われ、その排除に躍起になる人々が活躍する場ができた。しかし、一般利用者にとって、そのような特殊な取り扱いは不可能であり、いつからか、時間の浪費のみが注目されるようになり、問題は深刻化するばかりとなった。そうなると、何をすべきか。最も安易な方に走る人々は、次々にその場を閉じ始め、ゴミを拒絶するのと引き替えに、それまで楽しんできたはずの場所を捨てることを決断した。末端使用者の決断が明確になるに従い、それまで傍観を決め込んでいた場の提供者にも変化が起き、提供物の消滅となる。自ら律することのできない組織では、こうなるのは当然なのだが、違和感を禁じ得ないのは何故だろうか。

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2月11日(水)−閉鎖

 閉じ籠もると聞くと、厭世観をまず思いつく人が居るだろう。言葉自体を知らずとも、何となく、自らの世界に留まり、外向きへの力が働かない、そんな人を思い浮かべるのではないだろうか。でも、これが今の若者の殆どに当てはまると言われたら、どんな反応が返ってくるか。多分、そんな筈はとなるだろう。
 籠もるという表現は大袈裟だとしても、最近の若者の境界線の引き方には、何か閉じた世界を連想させるものがある。事情が知れていて、安心できる場があれば、それで十分満足できるというのは、何とも羨ましい限りだが、この感想はある一面だけのものだ。人との関わりは様々な面で煩雑なものであり、障害を産み出す原因ともなる。そんな面から捉えれば、新たな試みを極力減らし、既知のものだけを相手に暮らすのが、無難ということになる。これで納得する人が増えているのでは、というのが現代の若者に対する評価だが、さてどんな反応が返ってくるか。敷かれた道を歩み、道先案内人の指示通りに行き先を決める。これを、とてもつまらないことのように思う人は、ここまでの話を理解することはできない。しかし、どことなく共感できると思えたり、まさにその通りと思う人が居たら、こちらの考えが当てはまることになる。確かに、変化に富んだ道は不安に溢れ、安住の地への道程とは思えないだろう。しかし、経験を積むことで様々な能力を伸ばすのが、人間の最大の能力と見なせば、それを獲得してこその人生と理解できるのではないか。誰かの経験をそのまま写し取り、それで獲得した気になれる人ならいざ知らず、殆どの人は実地体験無しで獲得できるはずもない。にも拘わらず、近年の傾向はこの考えと逆行し、模倣による疑似体験で十分との判断を下している。これ自体を問題にすることは難しく、逆効果を及ぼす可能性が大きいから、触れないことが多いが、今の社会が抱える問題の多くが、そこから始まっているように感じられる。殻を破ればいいが、今の社会は閉じ籠もる方に向いているのではないか。

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2月10日(火)−地道

 夢を追う人々にとって、それが成就したように見える人の話は、非常に価値の高いものとなる。夢を実現するための秘策が、その中にあると信じて、必死になってそれを探す。まあ、ここまで来れば結果は知れたもの、そんなものがあれば苦労はしないよとの意見を戴くのが関の山で、隠すものなど何処にもないのだから。
 夢を実現した人々は、昔から抱いてきた大切な物を、皆に紹介できる機会を持ち、とても幸せそうに見える。でも、と考えるのは、斜に構えているからか、四六時中夢のことばかり考えてきた人は、殆ど居ないのではないだろうか。目の前の目標に果敢に取り組む姿勢は見えても、遠くの方ばかりを見ている姿はない。夢追い人たちの多くは遠くしか見ておらず、足下に目を向けることがないのに対して、余りにも違う光景ではないだろうか。成功者の発言の中にも、普通としか思えない部分があり、過度な期待を抱いた人々は落胆の色を隠せない。基礎を積み上げることの大切さを説く人たちは、当然のこととしてそれを繰り返してきただけで、そこには奇を衒ったり、他との違いを感じさせるものは全くない。この辺りに誤解を生じる原因があるようで、多くの人々が優れた業績を上げた人々は、根本的に違う何かを持っていると信じている。しかし、成功者として崇め奉られる人々の多くは、ごく普通の精神構造を有し、ごく当たり前の道を歩んできたにすぎない。その中で、もし違いがあるとすれば、ほんの少しのきっかけを逃さず捕まえ、それまで同様にそこに力を注いだことにある。才能の違いを前面に出すなら、夢を追うことは止めるべきだし、努力がそれをも上回ると考えるのなら、地道な努力に精を出すべきだろう。どちらもやらずに、ただ天から降ってくる恵みを待ち続けるのは、馬鹿げたことと認識するのが安全な道だ。いたって普通の話を、恰も天の声のように押し頂き、そこに何かの符牒を探そうとすることこそ、無駄というものに違いない。地道な努力の積み重ねを忘れた人々に、もたらされる恵みは宝籤が精々なのだから。

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2月9日(月)−免許

 業務上云々という罪の呼称があった。与えられた免許の範囲を逸脱する行為によって引き起こされたものを指すが、過去形となるのは事情が一変したからだ。一部の特権階級だけに与えられていた時代は半世紀以上も前のことであり、殆どの国民が取得するとなれば、業務と呼ぶより日常の方が適切となるからだろうか。
 危険運転とか、そんな呼び名を使われたからといって、何か特別なものになるかと問われれば、大部分の人は否定するだろう。殺意とかの罪の意識を持っていたかどうかが問題であり、その表現がどうであろうが、他の犯罪と区別できるわけではない。単純に、特定の人を対象とした暴力と、不特定対象のものとの違いがあるだけである。意識の深さで罪の重さが決まるというのは、何処かおかしげなところがあるが、現状はここまでに留まっている。誰でもいいと無差別殺人を犯した人間と、同じ理由で暴走運転をした人間に、どんな違いがあるのか、説明してくれる人は居そうにもない。業務上の犯罪は、人の間の恨み辛みによる犯罪とは違うと言い切るのは差ほど難しくもないだろうが、それが無知に基づくものである場合、今一度検討する余地がありそうに思える。毒魚として恐れられ、外国でも話題になる魚は、その美味たることから高い人気を誇る。危険度の高さから、免許制が採り入れられ、消費者は信用の下に味を楽しむこととなる。素人がさばけば何が起きるか、容易に想像できるが、そんなことを何とも思わぬ人が世の中にはいるようだ。以前から繰り返し行われてきたことは、内部の人間には周知のことであろう。にも拘わらず、繰り返し行われてきた犯罪は、看過されてきた。制度の成り立ちから考えれば、この行為は単なる免許との関わりとして扱うべきでなく、それ以上に重い犯罪とするべきではないか。自らの都合で様々な違法行為が蔓延する業界では、この先厳罰化が取り上げられることになるだろう。

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