世の中には貧富の差があるのと同じように、幸不幸の違いがあるのだろうか。最近の熱の入れようからして、注目に値することなのだろうが、それにしても悲劇の主役の如く振る舞う連中には呆れてしまう。何がどうあろうとも、自分には責任がなく、全て他人、社会のせいであるとする姿勢には反吐が出てくる。
彼らの全部がそういう輩とは思わないが、果たしてどの位がそんな連中なのか、想像も付かない。図に乗った連中を更に煽るような善人ぶった人々の心理は、おそらく想像を絶するものなのだろう。悲報と同時に流される社会情勢を見る限り、どうにも深刻さは感じられず、のほほんと毎日を暮らす人々がいることだけは確かとなる。為替の変動に乗じて、高級品を買い漁りに他国へ出かける人々を見れば、何処が消費の冷え込みなのか、さっぱり分からなくなるし、新鮮な果物を提供する食堂の長蛇の列を見れば、無駄遣いという言葉は吹っ飛ぶ。皆それぞれに欲を満たすことに躍起となり、その為には金に糸目は付けない。数値の変動に目を白黒させする人が居る一方で、悪化材料を目を皿のようにして探し回る人が居る。どちらにしても、欲望に走る人々には、何の関係もない話である。欲望と書いてしまうと、如何にも低俗に思われるやも知れないが、現実には生きるための最小要素であり、それを無くせば生き甲斐などとは言ってられなくなる。そんなことも理解せず、ただ闇雲に浪費を続けることを歓迎する考え方は、根本的に誤っており、要不要の区別のない選別は、馬鹿げた議論しか導かない。たとえ高級品と雖も、必要と思うからこそ、遠路遙々買いに出かけるのであって、不要なものは目に入らない。安物買いの銭失いと言われる一方で、大いなる無駄遣いを期待するのでは、何とも情けない話ではないか。いい加減に自作自演の三文芝居を流すのを止めて、将来を見据えたもっと大切なことを考えるべきではないか。
街のかつての栄華を測る指標に映画館の数が上げられるのではないか。全盛期には、それなりに賑やかな街には幾つかの小屋があり、沢山の人を集めていた。その後も繁栄してきた街では別の建物ができ、賑やかさを保っているところもあるが、衰退の一途だったところでは、更地になったままの光景も見られる。
栄華は娯楽の王様として一時期君臨していたとは言え、別の媒体が登場すると途端にその勢いを失った。集客力も減退し、金の周りが悪くなると、一気に勢いが衰えてしまい、国内生産は減る一方となった。そんな時、空席が目立つ館内に小学生の姿が増えていったのではないか。記録映画や教育映画といった形式で、子供の情操教育に役立つという触れ込みからか、学校の協力も得られて、かなりの数の子供たちが訪れていた。ただ、それも一時のことで、映画館自体がその体を支えられなくなれば、協力もへったくれもない。映画そのものが一気に衰えていってしまった。しかし、それでも記録映画を制作する会社は何かしらのものを作り続け、媒体が変わっても頑張る姿が時々見られていた。企業が存続していれば、過去に制作したものを保存することもさほど難しくはない。ただ、やはり記録を録る意味が認めにくくなると共に、経営も難しくなり、ついには姿を消すこととなる。企業の消失そのものは時代の流れとして致し方ないものと受け取られるだろうが、では各々の時代を記録したものはどうなるのか。各自に任されていた役割を担う組織は何とか作られたようだが、いかんせんそこに委託するための仕組みの構築は間に合わず、結局大切なはずの記録媒体は打ち棄てられてしまったらしい。何とも情けないことだが、過去を振り返る余裕がなく、今この時を必死で生きている人々に、そんなことを考える余裕なぞあるはずもない。手遅れとなりつつある今、少しずつ活動が起こり始めていると伝えていたが、さてどの位救われるのか。気になるところではある。
仕方がないと諦めるのは、この国の人々の潔さを表すものであり、それが好結果を産むとする向きもある。しかし、最近の仕方がないには、何処かに大きな誤解があるような気がする。評論する時に、仕方がないことを理由とするのは、殆ど無意味であり、論理の欠片も感じられず、情けなさばかりが目に付くのだ。
このところ、不況ばかりが話題となり、悲観的な話に花を咲かせるのが得意な人々にとって、大歓迎の状態にある。その中で、例年の如くの春闘が始まり、認識のずれが取り沙汰されている。好況時に大した要求も出さず、恰も労使の馴れ合いのような儀式が進められたことは、何処か記憶の隅にまだあることだが、堪忍袋の緒が切れたように、今回の交渉は雰囲気ががらりと変わったようだ。帰属意識がそうさせたのかどうかは分からないが、兎に角我慢することが大切だった時は過ぎ去り、自らの生活の維持を第一とする主張が出てきた。しかし、世の中はそういうことが許される状況にはなく、まるで馬鹿げた要求をする集団のような扱いがなされている。交渉で展開される論理についての説明もなく、先祖返りしたかのような過剰要求が批判され、時代錯誤のように扱われる。ところが、説明を聴いてみるとそれなりの論理が展開されており、それこそ経営者たちのここ数年の馬鹿げた説明に比べれば、ずっと意味深いものとなっている。にも拘わらず、報道ではこの不況時に無理難題を突きつけた人々という扱いばかりで、説明を紹介したとしても、理由は理解できるが難しいことと、仕方がないといった形での批判が繰り返される。何が馬鹿げているといって、これほど馬鹿げた話はないのではないだろうか。現状認識の重要性は当然あるとしても、昨年までの経営者の誤認をいい加減に扱った連中が、此処に来てこういう論を立てるのは、余りの無知をさらすことになる。更にいえば、あの時の約束を反故にする人々こそが批判の矢を受けるべきことを、誰も言わないのは何とも情けない。
車が売れない、という悲鳴が色々なところから届いているようだ。そんな中で、製造元はかなり厳しい状況に陥り、発明者の国では、特に酷い状態になっている。ただ、ここまでの展開は国によって大きく違い、原因を一つに特定することは意味を成さないように思える。企業形態の違いか、根本理念の違いか。
国を支える大企業の窮地に、手を差し延べないわけにも行かず、財政状況の厳しさを脇に置いて、救済措置が講じられようとしている。しかし、成果や効果を重視する国民性からか、海のこちらに比べると、かなり慎重に事が進められているように見える。困った時はお互い様、とでも言うように、何も考えずにただ手を差し出すなどという暢気な態度ではなく、問題点を整理し、それぞれに解決策を示すことが要求され、八方塞がりの経営者たちは苦肉の策を編み出すべく、頭を捻っているのだろう。しかし、社員との関係を保つために必要な要素を捨て去ることはできず、それが最大の問題の一つと見なされていることから、打開策が見出される可能性は低く、この障害を如何に取り除くかが焦点となっているようだ。その為か、現状を維持しつつの再建を諦める案も出ているようで、それ程の重荷になっていることを如実に示しているのではないか。国民としての誇りとまで言われた企業が、これほどの没落をすることを予言した人は少なく、下り坂にあった時代にも、これほどの危機感は抱かれていなかった。しかし、資本主義の根本原理に対する疑念が出てくるに至り、そんな神話はあり得ないことが明らかになった。企業とそれに属する人々にとって、福利厚生は重要な因子の一つには違いないが、適度な線を維持することは難しい。特に、競争社会にあって、生き残りをかけるための手立ての一つと見なされることからも、その難しさが見えるのではないだろうか。この際潰してしまった方がいい、という意見が出るほどの劣悪な状況に追い込まれていては、そこに光を見出すことは難しく、解決を目指す動きは自ずと鈍くなる。
百薬の長と言われる一方で、悪魔の贈り物と呼ばれることもある。ある精神医の書物によれば、受動喫煙で問題にされるものより、精神に対しては遙かに危険なものとあるが、その真偽はどうだろうか。欲に結びつくものである以上、人それぞれの資質に拠るところが大きく、一概に決めないことが肝心なのだと思う。
それにしても、危険視する人々にとっては、何とも心強い味方ができた気がしたのではないだろうか。飲まれてしまう人の奇行は数限りなく伝えられているが、それを制御できるかどうかが、人生の成否を決めるとなれば、普通は決心が付くものだろう。以前から取り沙汰されてきたからこそ、今回の愚行も「体調の不良」という一般的な言い訳では済まされなかった。受け手の明らかな偏見は、それまでの積み重ねから生じたものであり、結果としては卓見と呼ばざるを得ないものとなりそうだ。責任の出所として、例の如くの深追いが始まるが、下らない論争に無駄な時間を使うことを、そろそろ止めたらどうだろう。今回のことが、本当に溺れた挙げ句のことであれば、全ての責任は本人にあり、そろそろ正式に治療を受ける段階にあると言える。件の医者もおそらく手招きしていることだろう。ただ、こういう展開や様々な事故からの繋がりとして、禁ずる動きが急になるとしたら、別のやり過ぎが起きることとなる。不器用な人間と片付けたり、失格者の烙印を押すこともおかしなことだが、楽しみとする人々の権利を奪うことは、この程度のことではできないのではないだろうか。おそらく、常習性や依存性の問題から、この手の議論は展開されるのだろうが、科学的な根拠としては、禁止薬物などと違って、かなりの段階を踏む必要がある。それでも、という正義感に溢れた人々の意見にも、耳を傾ける必要があるものの、大多数の人々の行動において、何ら問題が生じていないことは、やはり大きな意味があるのではないか。
三十数年ぶりという話を聞いて、思い出した人もいるのではないか。丁度その頃、様々な要因が重なり、石油の供給の不安が取り沙汰された。庶民への影響はさほど大きくないと予想されたにも拘わらず、結果として色々な製品の供給不安を招き、トイレットペーパーの買い占めが起きた事件だ。これは何を示しているのか。
要するに、これまでにも取り上げてきたことだが、庶民が問題にするのは、何の脈絡もない、根も葉もない噂であり、それを原因として、騒ぎが大きくなるということで、今でもこんな馬鹿げた行動の温床は存在する。今回の騒ぎも、世界各地で未曾有の出来事と捉えられているが、ほんの始まりとすれば、更なる悪化が起きることを意味する。しかし、正反対の見方をすれば、ほんの三十年ほど前に起きた現象と同様に、その後数年の間に回復することが約束されたとなるわけだ。どちらが正しいか、あるいは、どちらも間違っているか、については、これから出る結果によって判断できるだけのことで、更に多くの材料を並べてみたところで、大した役には立つまい。これを機会に、批判を繰り返す人々もいるようだが、彼らの中に、事前の解決策を論じた人が居るのか、知りたくなる。これは駄目と繰り返すだけの人が大部分とはいえ、中には、もう少しましな代替策を論じた人もいるだろう。それが有効かどうかは、今となっては知る術もないわけで、所詮評論にすぎないとするしかない。ただ、苦境に陥っている最中に、昔のことを持ち出して論じても、無駄としか言えず、結局は、今の状況をどう打開するかの、何かしらのヒントを持ち出してくれる方が、ずっとましなのではないだろうか。三十数年前のあの狂乱を、判断力を欠いた行動と断じるのもいいが、今この時、それと似た行動に走る人々を止められないのでは、所詮同じ穴の狢である。自ら律するのは当然として、批判めいたことを宣うくらいなら、何か一つ示して欲しいものだ。
久し振りに顔を出した途端に、批判の言葉を浴びせるのみか、売られた喧嘩を買うような言葉を返すなんて、餓鬼の喧嘩をみるようで情けない。国政の場はその国の現状を表す縮図とみれば、まさにこの国の状況は救いようのないところまで堕ちている。大人の振る舞いが人を押し退けることと子供が思うのも無理はない。
世の中全体に、子供同士の喧嘩のような幼稚な行為が溢れているが、その当事者の殆どは大の大人である。万引きを戒める言葉が聞こえる一方で、堂々と他人の金を掠め取る大人たちがいれば、倫理も道徳もあるはずがない。件の人物が国の政治を引っ張り回した時代に、民間からの登用という形で、様々な人が会合に呼ばれていたようだ。政に直接関わった人物は、いつの間にやら元の鞘に収まり、学生相手にどんな自慢話を展開しているのやら。それとは別に、いつも手弁当で駆けつけているような風を装っていた企業の長は、何の利益も得られない役割を、滅私奉公のように果たすことに注目が集まっていた。確かに、様々な場所に出されるだけで、何の利益も得ていないように思われたが、最近話題になっている民営化した組織の払い下げに関して、怪しい空気が漂い始め、やはりと頷いた向きもあるのではないだろうか。元々、一代で築いた企業であり、その業務内容も多岐に渡るものとなれば、多様な活躍の場は歓迎すべきものだったろう。後ろ盾が付き、身分保障をするだけでも、隠れた利益が上がったのだろうが、それでは対価として不十分という考えも当然だ。今回の事件については、中途半端な形で邪魔が入ってしまったので、どの程度の利益が期待できたのかを知る術はなくなったが、いずれにしても莫大なものになることは容易に想像できる。そんな中で、別の方向から餓鬼の喧嘩が起きたのは、偶然の一致でもあるまい。そうやって人の目を逸らすことなど、当時から件の人物が得意としてきたやり方なのだから。