パンチの独り言

(2009年2月23日〜3月1日)
(情報量、悠々自適、貧困、裁き、転進、持ちよう、幇間)



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3月1日(日)−幇間

 買う人が居なくなれば、物は売れなくなる。ごく当たり前のことで、商売の基本であり、巷で騒がれている問題も、簡単に言えばこんな状態なのだろう。そんな中で、売れない物を作るのは愚の骨頂であり、誰もが縮小を考える。これも容易に理解できることだが、少し事情の違うものには当てはまりそうにない。
 奴隷制度が存在した時代と違い、人間を商品と見なすことは禁じられている。しかし、人材と称することで、同じような解釈を当てることができる。そうしてみると、売り手やら買い手やらという市場における動向は、経済動向と同じ動きをすることだけでなく、まるで商品取引のように人が動くことから、商売と同じように見ることが可能となる。ただ、そこには一つだけ大きな違いがある。それは、減産という手法が適用できないことで、いくら人口減少が問題となっても、製造業で実施される大規模な調整とは比べるべくもない。となれば、売れないからと言うわけにも行かず、別の買い手を探す必要が出る。同時に、一番手が良品を買い漁っていた時代には、二番煎じしか手に入らなかった人々が、この機に乗じて良品を手に入れることが可能となり、安売りしか解決法が見つからない工業製品とは大きく異なっている。となれば、製品の卸、仲買と同様な立場の仲介者も、全く違った動きを見せることとなる。買い手の要求に応じて、人材を紹介する立場であれば、人材に対して買い手の説明が必要となれば、その機会を設けることとなるし、それまでの求人と異なる動きが必要となれば、買い手に対して説明すればよい。こんな形で、必要な情報を授ける仕事には、世の中の経済活動の浮き沈みとは全く違った変化が起きる。説明は時宜にかなったものとなるから、日々変化を繰り返し、正反対のことでも平気で施される。こんな役割が複雑化した社会からは必要とされるわけだが、不可欠なものとも思えない。ああ言えばこう言う人々を心の底から信頼できるか、否定的にならざるを得ない。

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2月28日(土)−持ちよう

 テレビゲームやギャンブルに耽溺することが社会問題となっている。関心を抱かない人には理解不能な魅力があると言われ、病的と思える例も数多くある。そこへ、新たな病気を提案してきた業界が、新提案を掲げ始めたらしい。依存症の括りを適用し、治療が必要となる病気として認定しようとする動きだ。
 感情の起伏や精神の不安定は誰もが経験するものだが、いつ頃からか極端なものだけでなく、単なる揺らぎの一過程と見なせるものまでも、病気とする動きが急となった。悪質としか思えない専門家が街に蔓延り、治療という名の下に、薬物の濫用としか思えない行為を繰り返す。治療方針は各専門医の専決事項であり、ある範囲内であれば違法行為とは呼べないから、こんな悪行も放置されるわけだが、悪徳業者と同様に、何らかの指標により制限を加える必要が出ているように思う。病気かどうかの判断は、専門家に委ねられるわけだが、多くの人が気づいていないことは、その手前で本人の判断が入り込む余地があることだろう。心の弱さとする判断が全ての人に当てはまるわけではないとしても、現状で問題視されるほどの割合となれば、何かしらの過誤があるように思えてならない。そうなれば、最も大切なことは制度の整備であるとはいえ、現状での問題解決には、如何にして罠にはまらないようにするかが重要となる。悩みの淵に陥り、苦しむ人が救いを求めるのは当然のことだが、それをすぐに病気と繋げ、別の落とし穴にはまるのでは悲惨である。意外に思われるかも知れないが、こんな時に本人が強い心を持てば、簡単に片付く問題なのである。それが持てないからこそ、との反論もあろうが、現実にはそれ程大層なことでなく、単に心の持ちようと言われるものが重要なだけだ。強い弱いという分類でなく、気楽深刻という違いに近いもので、その程度のもので、簡単に打ち克てるものということを、もっと強調する必要があり、悪徳な連中を社会から排除することが大切なのではないだろうか。

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2月27日(金)−転進

 不況と言われ、大企業の行く末に不安が噴出しているが、こんな時を良い機会と感じる企業もあるのだろう。以前の氷河期と呼ばれた時期に活躍したのは、派遣業と呼ばれる業界で、職種とは違った形で分類されていた。大手に行けなかった人を掬えば、優秀な人材が確保でき、会社の成長も約束されたわけだ。
 流石に、今回の状況を同じように見ることはできない。製造業にまで浸透した派遣という仕組みは、今回の騒動の一番の被害者を産み出したと言われ、悪い印象のみを残す結果となったからだ。それなら、と注目を集めているのは、より小さな企業だろう。大企業にぶら下がる形で生き延びてきたところは、かなり苦しい状況に陥っているはずだが、それでもこの時をチャンスと見ている。人材確保という観点からすれば、駒の増加は多様性を豊かにすることからも歓迎すべきで、思い切った求人数を訴えるところも出てきた。ただ、逆の立場から見てどうかと思える点も多い。つまり、職を探している人々にとって、小さな会社の魅力は何か、容易には見えてこないのだ。派遣が流行した時代によく言われていたのは、入社する企業は無名かも知れないが、働く場所は有名企業という話で、更には将来の転職の可能性まで言及されれば、魅力を感じ始める人も出てきた。寄らば大樹と思いながら適齢期を迎えた人々にとり、こんな解釈が披露されれば、何となく心変わりもし易くなる。しかし、今回の状況はかなり違っていると言わざるを得ない。今巷で話題に上っていることも、こんな考え方にまで踏み込んだ内容ではなく、ただ単に機会を増やすことのみに集中している。今まである一定の観点を植え付けられてきた人が状況の変化に応じて、それを修正できるのなら良いが、これまでの例から見る限り、その可能性は非常に低い。さて、どんな解決策が講じられるのか、見守るしかないけれども、どうなるのやら。

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2月26日(木)−裁き

 裁判の制度が大きく変えられることが話題になっている。人を裁くことの難しさは今更言うまでもないのだろうが、今回の制度変更の意図は理解しがたいもののようだ。現実味を帯びるに連れ、新制度に必要な準備が紹介され、更に緊張度は高まってきた。時間的な負担だけでなく、精神的なものが問題を生じそうだ。
 そんな中で、凄惨な事件の裁判の報道が為される。事件の内容を正確に伝えることが必要不可欠となれば、特に猟奇的なものでは、異様な展開の紹介も必要となる。これが人間に与える心理的影響はある程度論じられているものの、専門家と一般大衆の違いは容易に測ることができない。眼前に提示された時、耐えられなければどうなるのか、大きな課題が残っているようだ。そんなことが話題になり、裁判の短期化が問題となっている時、別の古い事件の裁判が再び話題となっていた。一つの裁判の期間が短くなっても、上告が繰り返されれば結局は長期化する。古い制度でのことだから仕方ないとは言え、まだ片付いていなかったのかと驚くが、報じる画面に出てきた弁護団の顔を見て、更に驚かされた。こんな場面で活躍する人々は、人権を第一と扱うわけで、その為に手段も選ばずといった印象を受ける。特に、見知らぬ母子を殺した少年の裁判でのやりとりは、伝えられる範囲では呆れるばかりで、優先順位の違いがこんな手法を選ばせるのかと驚いた。同じ顔が画面に現れ、真犯人は別にいるとの被告の主張を伝えるのを聞くと、再び人権が最優先との考えが見えてくる。冤罪が話題になり始めた頃、真の被害者は彼らであることが強調されたが、それでも反証が必要であった。疑わしきは罰せずとの判断を下す必要がある事例かどうか、更なる検討が必要なのだろうが、彼らにはそれとは別次元の考えがありそうに見える。その点で、彼らが使う手法は違和感を覚えるものばかりで、同調できない。小手先、口先、いずれにしても心に伝える努力の跡は見えてこないのだ。

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2月25日(水)−貧困

 碁や将棋などの勝負事は、当事者よりも周囲で見守っている人の方が、良い手を思いつくと言われる。岡目八目と呼ばれる現象だが、傍目と書くこともあるらしく、傍で見ているとということだろう。これは何も碁や将棋に限ったことでなく、様々なことに適用され、傍観者、第三者が的確な判断を下せることを指す。
 直接的な責任のない第三者が楽な気分で判断することは、おそらく追い込まれた当事者が切羽詰まった判断を下すより、ずっとましな結果を産むのだろう。そんな気分からか、様々なことに口を出し、批判を繰り返した挙げ句、何もせずに立ち去る評論家が沢山居る。毒にも薬にもならぬと無視するのが最善手であり、所詮能力のない者と見ておくのがよいだろう。これまでにもしばしば評論家然した人を登用した例があるが、殆ど成功しなかったのも、こんな立場の違いを見抜けなかったからなのだろう。その一方、最近聞こえてくる話は、かつて当事者であった人間が、今や第三者の顔をして、批判の矢を放っていることで、自ら貶めている事に気づかぬほどの力量の無さに呆れる人もいるのではないか。その命の短さに驚かされた内閣の中核を成した官房長官は、その起用が決まった時点で危ぶむ声も聞こえた。自由の身となった現在、現内閣の状況に様々な批判の声を飛ばしているが、中でも仰天するのはある閣僚の辞任の経緯に対する声だ。肝心なところで辞任の助言を与えなかった人物を批判したものだが、あの瞬間にかつての内閣での彼の立場と迷走を続けた宰相の行動を思い浮かべた人もいるだろう。側近として傍に付いていながら、的確な判断を下せなかった人物が、その責任を解かれた後に、こんな正論を吐くなどと言うのは、驚くしかない。傍目から見れば、というのはその立場の責任の重さを実感できないからこそできることで、それを知る人物は違う判断をするのが当然だろう。こんな所にあの人物の力量が現れているのではないか。

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2月24日(火)−悠々自適

 灰色の時代と呼ばれたこともあったが、今はどうなのだろう。全入時代の到来が話題となっていたが、現実にはそうならないとの指摘もある。競争がある限り当然のことだが、騒ぎ立てる理由は別にあったのだろう。毎年訪れる季節だが、今年もまたいつもと違うと称せられる。これもごく当たり前のことに過ぎないが。
 不況を確実なものにしたい人々にとって、将来に対する不安を抱く世代を操るのは難しくない。困っている人々に、甘い言葉をかければいいだけなのは、まるで詐欺師の手口のようだ。製造業の大手が苦しむ中、その基礎となる学部の人気は凋落すると言われた。その通りの結果となったようだが、四年後の状況は誰にも分からない。下らない言葉に惑わされ、進路を変更した若者が、卒業が迫った頃に悪態をつくのは、ありそうな話である。彼らにとって、自らの責任は皆無であり、全てが社会の問題なわけだから、これとて同じことである。現実には、自らの浅慮が最大の原因であり、それに気づかぬ人間に明るい未来の保証はない。この現象と共に強調されていたのが、給与の減少を理由とした進路の変更である。経費を抑えるために、国公立の希望者が急増すると予測されたが、こちらは見事に外れたようだ。分析は何とでもなり、結果が明らかになった途端に、全く違った解説が登場した。受験科目数の違いが主たる原因であり、それまで楽に走っていた人々には突然の変更は難しかったというものだが、金しか目に入らなかった人々が急に現実を認識したとでも言うのだろうか。本当のところは、金のことなど話題にも上らず、単に楽がしたい若者の心情がそのまま現れただけのことで、親の都合は問題外ということではないか。これこそが今の世相を表しているようで、楽に走るだけの人間を雇い入れることの難しさが如実に表れている。そんな時代に何が必要か、すぐに分かりそうに思うけれど、理解する力さえない人々には届かないらしい。

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2月23日(月)−情報量

 以前流されていた目薬の宣伝を覚えているだろうか。企業の報告会で、若手の社員がデータを提示する光景が映り、中堅の社員が細かな数字の羅列に驚く姿が大写しされる。それにたじろぎながら、若手は次の画面を映し出し、更なる数字の洪水が起こる。これに面白いと反応した人もいるだろうが、首を傾げた人もいるのではないか。
 そう思う理由はただ一つ。今、世間一般にはこんなプレゼンが氾濫しているからだ。もし、この広告を面白いと思うのなら、その問題点に気づいている筈で、そんな人間が同じことをする筈がない。洪水が起きているというのは、ここに表されている問題に気づいていないからだろう。こういう人々の抱える問題は深刻であり、要約や概略といったものの本質を掴んでおらず、説明力は殆ど無いに等しい。ずっと昔、スライドという形で提示が行われていた頃、画面に示せるデータ量は限られていた。その為、発表者は重要なものを抽出し、それを示す作業を必ず行っていた。いつからか、パソコンのデータがそのまま提示できる媒体が出回り、データ量の問題が解消されたと信じる人が増えた。そこから洪水が始まり、次の世代では量の多少を論じることもなくなり、宣伝で流された光景が様々なところで見られることとなった。この変遷における問題を、正確に理解している人は殆どおらず、対策が講じられていないから、洪水を防ぐ堤が築かれるはずもない。ここには最近の風潮が出ており、自分のことしか考えられない人間の急増が背景となっている。自分が聴衆になれば、データの氾濫は入力停止に陥り、思考停止へと移行することは明らかだが、自分が演者となれば、ある限りのものを示そうとする。こんなふざけた話はないが、今やそれが当然なのだ。媒体の責任とする人もいるが、これもお門違いであり、使う者の問題に他ならない。馬鹿と鋏の話を引き合いに出すまでもなく、使えない人間が急増しているということだ。

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