パンチの独り言

(2009年3月9日〜3月15日)
(緑、近場、操作、常軌、デマ、個人情報、旬)



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3月15日(日)−旬

 初鰹、秋茄子、季節を感じさせる食べ物は多いが、最近は旬を感じる機会が失われている。消費者の欲求に応えるために、様々な工夫を凝らし、一年中手に入れる事が出来るようになると、旬の存在は消えてしまう。それでも自然の営みによって何かしらの違いが生まれているのかもしれないが、鈍った感覚では分からないようだ。
 慣れというものは恐ろしいもので、こんな環境で長く暮らすと、欲しいと思えば何でも手に入ると思い込んでいる。しかし、養殖しているものを除けば、海産物は季節による変化や気候の影響を大きく受ける。大きな魚であれば、輸送経費が少し位嵩んでも、世界各地から運んでくる事が出来る。冷凍技術は、こんな背景で発達が繰り返され、新鮮さを失わずに運ぶ事が可能となった。季節の違い、気候の問題はこんな形で解決され、それによって一年中食べる事が出来るわけだ。そんな時代にも、ある季節しか手に入らないものもあり、旬が残っているものがある。魚が生まれ、大きくなる過程である大きさになったものを材料として、佃煮を作るものがある。旬の美味しさを長く味わうために、保存食として作られたのだろうが、材料は春先にある地域でしか手に入らない。加工食品となれば、何処にでも流通できるから、そこから先には季節感は無くなるが、原材料はそうも行かない。その地域では、一般家庭でも作られるという話だから、その季節には各家庭で佃煮が作られるようだ。となると、時化などで漁が休みとなれば、市場に出回らなくなる。こんなことが起きる事が今でもあるというのはある意味不思議なのかもしれない。これを不便とか贅沢とか言う人もいるが、ごく当たり前の事が当たり前じゃなくなっただけの事であり、不便でも贅沢でもないのだろう。旬を感じる機会は貴重となったけれども、それを大切にしようとする気持ちが、人の中にあればいつまでも残る風習なのではないだろうか。

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3月14日(土)−個人情報

 誰でも他人に知られたくない事があるだろう。気の置けない友人に何でも相談していたら、いつの間にか他人の知るところとなり、裏切られた気持ちになった人もいる。何でも一人で決められるのなら、大した苦労もせずに済むが、重大な事ほど他の見解が欲しくなる。そんな思いが裏切られた時は辛いものなのだろう。
 友人との間の軋轢は一度生じると、消し去る事が難しい。それでも人と人との間の事なら、何とか修復の可能性は残っている。ところが、情報化社会では機械的な存在が間に入り、事を複雑にしているようだ。個人情報の漏洩は様々な形で生じ、特に最近は、情報交換ソフトとそれを悪用するウイルスの存在に注目が集まっている。それぞれを作った人間に、どれほどの悪意があるのかを定める事は難しいが、結果として被害が生じてしまえば、その対象は大きな痛手を負う事となる。そんな背景から、全ての関係者に応分の責任を、とする考えが出てくるわけだが、現実には、大元の情報を握った人間の責任が最も大きいのである。恰も機械的な欠陥により、生じた事件であるかの如く扱われるが、現実には、情報を管理する人間が注意しさえすれば、間違いが起こる可能性は殆どない。そこの問題を全く論ぜずに、責任問題を議論するのはおかしなものではないか。その一方で、機械が情報を保存するようになり、それを利用する人々が出てくると、対面的な感覚が薄れ、利用管理の厳密さが失われる。公的機関で、何気なく漏らされる情報の多くは、関係者の管理意識の薄れから来るもののようだ。相手の顔が見えなくなってしまい、そこにあるべき注意が無くなった結果だとしたら、こんな仕組みが抱える問題の一つとして、対策を講じなければならない。

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3月13日(金)−デマ

 古今東西、何か事が起きるたびに、根も葉もない噂が飛び交い、それに振り回される人々が出る。後から考えれば、何の根拠もなく、論理の欠片もない話に、なぜ乗せられてしまうのか、理解に苦しむところだ。しかし、その場その時に、それを見極めるだけでなく、狂気に満ちた人々を説得するのは難しい。
 天変地異など、避けきれない事件では、心の動揺を抑えることは難しい。特に地震では、単発のものは少なく、大きなものほどその後の連発が精神の不安を煽ることとなる。不安定に陥った精神では、冷静な判断を下すことは難しく、どうしても流言飛語に振り回されてしまうこととなる。心の傷が大きければ仕方のないことと、反省も含めて振り返る訳だが、それを防止する手だてとして、情報の流通が重要とする人々がいる。様々なメディアを利用して、詳細に渡る情報を流せば、詰まらぬ噂に惑わされる人が減るとするものだが、事はそれほど簡単ではなさそうだ。新聞テレビだけでなく、インターネットの発達に従い、日々流れている情報量は格段に増加した。これなら、嘘に騙される人も減る筈と思われたが、現実には正反対の現象が起きている。情報が増えるに従い、吟味力が増すどころか、逆に、鵜呑みにするだけの人が増えており、最終的には、いとも簡単に騙されてしまう。人を信じることは生きるために重要なことだが、相手が限られた中で通用するだけで、不特定多数が相手となると、話が違ってくる。そんな中で、悪事を働く連中が蠢けば、犯罪天国のようになってしまう訳だ。これが更に度を強めると、情報の流し手そのものが、自らの思惑を埋め込んだものを流し、世論を操作することも難しくなくなる。どうにも理解に苦しむ内容でも、世論を背景に展開すれば、信じる人は増えるばかりで、様々な部分に弊害が生じている。情報化社会とはこんな姿と想像した人はいなかっただろうが、何をどこで取り違えたのだろうか。

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3月12日(木)−常軌

 意見を求められても何も出ない、種々の会議での一コマではないか。この国の人々は、独自の意見を持つことを忌み嫌い、皆と同じに振る舞うことで安心する。全てがそうとは限らないが、総じてこんな傾向にあり、特別に意見を求められるような機会があっても、押し黙ってやり過ごすことが多いようだ。
 そんな社会では、それぞれの構成員が常識を持って行動することが、最善策を産み出すことに繋がる。少しくらい非常識な人間がいても、全体としてそれが目立たぬ仕組みになっていれば、大した齟齬も生じないものだ。ところが、そこへ独自性の台頭を望む声が上がり、質の議論抜きで、あっという間に持て囃されてしまった。常識を備えた独自性は、どんな場合にも通用するものだが、ここで話題に取り上げているものは、そんなものを微塵も感じさせない連中のことであり、逆効果しか生じない。全体としてみれば、依然として始めに取り上げた状況が続いているものの、一部ではこの台頭が大きな影響を及ぼし始めている。様々な方策を編み出し、昔ならば知恵袋として重んじられた筈が、そこにあるべき常識が無く、常軌を逸した展開ばかりが出てくるとなれば、それを取り上げることに意味は殆ど無い。そんな中でも、発言が繰り返され、その度に善後策を講じなければならぬとなれば、その存在は単なるお荷物と化し、居ない方がましと言われることとなる。そんな筈では、と登用した人間は思うだろうが、現実には、そこに最大の問題があり、立場が人を作るといった考えが通用しない人種の存在を、知らぬことに全ての原因がある。本人にすれば、人の期待に添う活躍を目指しているのだろうが、あるはずの基盤がなければ、どうにもならないわけだ。期待外れと打ち棄てられればまだましで、それさえできぬままに、買い続けなければならない組織はたまったものではない。個人の関係であれば、自己責任も問えるだろうが、組織となるとそこでの悪影響は大きくなるばかりだろう。

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3月11日(水)−操作

 悪い話ばかりが流れていると、人間の心は荒んでくる。流している方は、おそらくこんな形で危機感を煽っておかないと、更に急激な破綻に襲われると思っているのかも知れないが、どうもやり過ぎばかりが目立っているのではないか。一人一人が様々な見方を身に付けることが重要であることから、この状況は歪んでいると思う。
 大衆の反応は、最近の政治情勢に対する見方から、簡単に推測できる。何も拠り所をもたず、自分なりの考えのない人々は、ほんの少しの揺れで酷く乱れる傾向にある。それはこれまでの調査から十分に分かる話であり、それを了解した上で過度な変動を及ぼすような情報供給は、悪影響しか及ぼさないだろう。こんなに簡単なことを、敢えて繰り返す所を見ると、どうも彼らの中にそんな悪意が満ちているような気がしてならない。もし、そんなものが存在しないとすれば、恐ろしいほどの無知がこの世界に蔓延しているわけで、流石にそうなっているとは思いがたい。ほんの一握りの人々がこの世界の行く末を操っているとする意見もあるが、ここでいう悪意がそこから出ているものであれば、何となく理解しやすいようにも思える。どちらが正しいのか、知ったとしても大した違いは出てこないが、それでもこの辺りの事情をもっと深く掘り下げて分析する人が出てきても良いのではないか。ひょっとすると、とうの昔にそんな人々が出ているにも拘わらず、こんな世情だけに、そこへの注目が集まらず、ただ全体としては無視されているだけなのかも知れない。そうだったとしたら、事態はより深刻になりつつあり、白痴化に拍車がかかっているということになる。そこでの最大の問題は、人々がそのことに気づかないままに、したり顔をしていることだろう。どうなることやらと思うこともあるが、だからといって、雑音を出すことを止めるつもりはない。

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3月10日(火)−近場

 身近な所で作られたものを、様々な形で手に入れ、それを使うことが一つの言葉として表現され、注目を浴びてきた。言葉はそれぞれに独自の意味をもつが、同じ結果を生じるものが、違った言葉を用いることで、全く違うもののように扱えるのは、一部の人々にとって重要なようだ。口先だけに思えないでもないが。
 地産地消は、自給自足とは違った意味で最近使われるようになった言葉である。地元という心地よい言葉が、重要となった時代には、こんな表現が歓迎される。しかし、このところの不況から、別の言葉が登場した時に、何処に違いがあるのか分からなくなる。様々な地域を結ぶ経済活動では、互いの間に障壁を設けることは、円滑な取引を妨げるものとして、色々な形で禁じられている。そんな中で、地元に拘る形は、別の見方をすれば、まさに同じ状況を産み出すように思えるが、主体が違うからと言う解釈で、余り問題視されることはない。それが、関税などの仕組みを導入するとなると、全く違った印象を与えることとなった。根本となる考え方は同じでも、その強制力の差から、異なる結果を生じることは容易に想像できるが、それにしても、この辺りの解釈の違いは何処か言葉の上だけのものに思える。ここまで悲惨な状況に陥っているとの意見が大勢を占めるようになると、流石に自分たちの仲間に無理難題を押し付けることはできず、強制することによって無理を相手に押し付ける形を取らざるを得ないのだろう。いずれにしても、今後どんな展開が巻き起こるのか、注視していかねばならないのだろうが、何処かに誤りがあるような気もする。このような窮地に陥った要因の一つに、互いの繋がり、依存性の強さを指摘する声もあり、こういう関係が本当に最適なのかに疑問を示す人々もいる。保護が必要かどうかを議論するだけでなく、別の意味でこの仕組みが必要かどうか、もう一度考える時間を取るのも一つの手ではないか。

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3月9日(月)−緑

 目に青葉と言われるが、目の疲れを除くものとして、一時期大変持て囃された。それに比べると、最近は栄養補給的なものに注目が集まり、緑の効果を訴える声は少ない。どれ程の効果が上がったのか、簡単に結論づけることはできないだろうが、あれほど取り上げられていたのだから、何らかのものがあったのだろう。
 木々の効果はそれ以外にも様々唱えられている。森林浴がその後の注目株だっただろうか、化学物質の影響を並べることで、何となく更なる効果が存在するような気になった人もいただろう。これもまた、単純に説明できるはずもなく、幾つも並ぶ怪しげなものの中に、いつの間にか含まれてしまったようだ。健康に良いという謳い文句は、長生きを望む人間の欲に直接影響し、多くの人が関心を向ける。自然を保護する心も含まれるから、何も悪影響を及ぼさないように思え、これまでの破壊の繰り返しを反省する気持ちからも、取り組みやすいのだろう。それにしても、グリーンという言葉を今ほど矢鱈に使う時代はないのではないだろうか。様々な言葉に付けることにより、それがもつ本来の印象を和らげ、如何にも魅力的な言葉に仕上げる。特に、工業化の発展により、様々な弊害を招いた歴史から、それとは正反対の印象を与えるために、頻繁に使われているのは、何か別の思惑が蠢くように思えてくる。カタカナで表せば、濁音を除くだけで、清澄な意味に変換できるのは、この国においては重要なことなのかも知れない。しかし、全ての変化がそれまでの仕組みを破壊することに繋がるわけで、何の影響も及ぼさないものからは、新たな何かを手に入れることができないのは、ごく当然の論理だから、ここでも目に見えない形で、徐々に変化を引き起こす可能性は十分にある。特に、これが経済活動と直接結びつくものとなれば、単純に自然に対する影響だけでなく、別の悪影響を及ぼすことがあるだろう。

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