不況不況と連呼され、その気になっている人も多い。しかし、現実はどうだろうか。声の大きな人々に振り回され、身の回りを見渡すこともなく、ただ無闇に信じ込むのはおかしくないか。企業の業績を次々に発表し、その低迷を声高に訴える姿勢には、どうにも納得できない部分がある、単純な理由だけで。
確かに、一時好調だった業種に陰りが見えたのは事実だろう。しかし、見込み違いに端を発する結果とする向きはなく、全体の経済低迷を原因と見なすのは何故か、その点が大きな理由だ。つまり、本来ならば様々な見方が適用できるはずなのに、敢えて一つの偏った見方に基づき、全てを解釈した上である方向に暴走する。社会を誤った方に導く典型的な手法に、世の中の人々は惑わされているのではないか。これまでも何度も騙されてきた、そんな単純で馬鹿げた、そして軽薄な手口に、再び踊らされている。誰しも、自らが窮地に追い込まれれば、あらゆる誘いに乗りたくなる。しかし、現状では殆どの人が安全地帯にいるにも拘わらず、その気にさせられているのだから変な話だ。危機を煽ったり、不安を増長させる手口は、詐欺師の用いるものでも単純なものの一つに数えられる。冷静になれば、その矛盾点を簡単に見出せるのに、何故か口車に乗せられる羽目に陥る。何とも情けない話だが、人間の心理とはその程度のものなのだろう。絶対的な自信を持って、あらゆることを判断できる人は多くなく、周囲が惑わされればそれに巻き込まれる。特に、今回の展開において重要な役割を果たしているのが、情報を流す人々であることを考えると、致し方ない部分もあるだろう。でも、自滅への道を押し進めたのが彼らだったことを思えば、これもまたいつもの筋書き通りなのではないだろうか。購買意欲の高い人々は相も変わらず買い漁りを国の内外で繰り返し、業績好調の企業は大人しく構える。此処彼処に見られるものに覆いを被せ、筋書きに見合うものだけを大きく捉える。同じ悲劇が繰り返されるわけではないが、懲りない馬鹿者共に耳を貸す必要など無いのだ。
努力が報われるかどうか、気になるところだろう。コツコツと積み重ねて来たものが、何らかの形で結実すれば、満足しない人はいない。しかし、それが徒労に終わった時、地道な努力の一切が無駄となり、不満の言葉だけが残る。その瞬間の気持ちを理解するのは容易だが、本当に無駄だったかは分からないものだ。
人生の節目で多くの人がこんな壁にぶつかり、悩み苦しむ姿をさらす。無駄な努力は最大の損失と考える人々にとって、彼らを救うことは重要な課題となるらしい。その為、努力を減らす一方で、そのことが欠落にならないような工夫がなされ、様々な場面に取り入れられる。最低限という括りは、悪い印象を与えることもあるが、努力と結びつく場合には、かなり違った印象を与えるのではないか。誰もが、程度の違いこそあれ、積み重ねを要求されるのは、おそらく教育現場を除いて他にはないだろう。特に、義務教育では、最低限の知識の伝達が重視され、時代の変遷とともに、その範囲の縮小がなされて来た。もっともっとという考え方に基づくのだろうが、不要なものを取り除く為には、要不要の判断を下さねばならない。しかし、そこにある判断基準は、これから学ぶ人々を対象としたものではなく、以前の詰め込みに悩み苦しんだ人々から来るもので、的外れな部分があることは否めない。その上、最低限の範疇には、これがあったら便利という考え方はなく、兎に角最小を目指す基本姿勢がある。重要な理念なのだろうが、現実社会を対象とした場合、何かと無理が生じることがあるのは、致し方ないところだろう。全体としてはこんな捉え方ができるが、実際には、その場にいる個々人にとって、全体のことはどうでもいいのである。自分の努力が何に結びつくか、最低限の課題は何の役に立つのか、そんなことだけが問題なのだ。こう考えると、徐々に減らされて来た課題が、いつの間にか不十分なものになりつつあることも、人によっては大きな問題を生じていると言えるのかもしれない。
新しい試みを始める時、その効果を説明することが求められる。それによって、様々な効果があることを訴えることで、方策が如何に意味深いものかを示すわけだが、その多くは正の効果ばかりに注目する。逆効果になることがある程度予想されても、この段階でそれに触れることは、何の意味もないと理解されるからだ。
この話はおそらく様々な例に当てはまるだろう。だからといって、全てが欺瞞に満ちたものと言えるわけでもないし、新機軸を開くためには、少しくらいの冒険をすることも必要なのだから、こんな考えで何もかも押さえつけることは、却って悪い影響しか与えない。いずれにしても、変化が求められている時に、それを抑制する動きは警戒の対象となる。成る可く良い方向に向かうことが歓迎され、それをきっかけに様々な変化が引き起こされれば、その中で適当なものに注目が集まり、効果のほどが吟味される。こんな手順を辿れば、どのやり方でもそこから引き起こされる逆効果には覆いが被され、成功例のみが生き残ることとなる。それが更に次の動きを産み出し、更なる発展へと転換するわけで、場合によっては、問題が山のようになり、手の付けようが無くなることもある。後から考えてみれば、何処かで決断すべきだったのだろうが、その過程では誰も手がつけられず、批判さえ難しい状況にあることが多い。流れと言ってしまえばそれまでだが、そこで必要なことは、流れに船を出すことで、他から乗り遅れるのを防ぐより、暫く様子を見ることで、客観的な判断を優先させることだろう。それによって、様々な課題に目を向けることが可能になる筈で、時間の無駄が実はそうならないことに気がつく。始まってからの対処はこんなところだろうが、実は始める前の効果に関する議論において、もう少しきちんとした対応をすることが重要なのではないだろうか。どちらも難しい面を含んでいることは否めないのだが。
文章表現の巧拙は、それを生業にする人だけの問題と思う人は多い。子供の頃から、作文の時間を苦痛と考え、読書を強要されるのは御免だと思って来た人にとって、何を今更姿勢を正して机に向かう必要があるのかと。確かに、職業上で必要性を感じる機会は少ないが、分かり易い文章に接したら、どう感じるのだろう。
効率至上主義というものがあるかどうかは定かでないが、一人一人の独自性を伸ばすより、定型の文章で何事も済ました方が、苦心惨憺の末、訳の分からないものを提出する人間も、それを読まされる人間も、ずっと気楽なものかもしれない。空欄を埋める試験形式に馴れて来たことも、この状況に拍車をかけ、工夫を凝らす余地は全く無くなったという人もいる。しかし、たまに接する違った形式にふと興味を覚えるのは、それが正しく構成されていれば、情報を正確に伝える方法は数多あることを示しているのではないか。誤解とは言わないまでも、何処かに認識のすれ違いがあり、それを端緒に次々に対照的な方策が積み重ねられた結果、現在の状況が生まれたのだと思うが、そろそろこんな事態を解消する手立てを講じる必要があると真剣に思う。導入部での定型は必要不可欠としても、それが全てである状況は異常と言うしかなく、基本を教えた後には、独自の変形の必要性を説くべきだろう。そのためには、自己表現の面白さを実感させることが必要であり、それを正しく伝える手段を身につけることが不可欠であることを認識させねばならない。如何にも面倒な話に思われ勝ちだが、これは明らかに誤解であり、書くだけでなく話すための表現力の鍛錬は様々な場面で有用となる。更に、互いに高めていけば、より巧みな表現をし、それを理解する力が身につく。こんな相乗効果が、いつの間にか忘れ去られ、互いに低いところを目指す心を芽生えさせるようになったことは、何かが間違っていたとしか考えられない。
一時持て囃されたグローバル化、その後の成り行きから諸悪の根源と見なされ、当時の地位は何処へやら、すっかり影が薄くなった。経済の変化に対応するものとして編み出されただけに、それが奈落の底へ落とされたとなると、たとえきっかけは違っていても、坂道を転げ落ちたのはそのせいということになるようだ。
しかし、懲りない人々は既に次の言葉を探し求めている。たとえ、大きな損失を抱えても、次に大きな山を手に入れればいいということだろうか。それにしても、恥も外聞もないと言いたくなる部分がある。確かに、スローガンは様々な場面で役立つ便利な道具だろう。しかし、その中身がちゃんと揃っていなければ、それは単に張り子の虎な訳で、このところの景気の動向も、上辺だけ取り繕っただけで、基盤を固めていなかったことが大きな要因となっている。こんな事情はすぐにでも理解できる筈なのに、世の中はすぐに別の偶像を求めるが如く、さっさと新たな魅力を探し求めるようだ。このまま突き進めば再び同じ轍を踏むことになるのは火を見るより明らかである。にも拘らず、何故こうも信仰の対象のようなものを追い求めるのか、普通の神経では理解不能である。逆に言えば、こういうものを追いかける人々は、自分という存在を定義できず、何かしら寄りかかる対象を探し求める。それがたとえ、ある時間が経過した時点で、崩壊するかもしれないという心配の種を蒔いたとしても、他に選択肢がないようなものなのである。それにしても、こんなことをどれほど繰り返せばいいのか、全く人間というものは困り果てた存在なのだろう。その上、歪みが極致に達し、どうにも解消できなくなると、すぐに言い訳の羅列となるのだ。反省も改善も、何もかもが絵に描いた餅に過ぎず、何の糧にもなっていない。まあ、そんなことを言っていても、日はまた昇り、また沈むだけのことなのだが。
いつも通る道にある給油所が閉じていた。昨日まではごく普通に営業していたはずだが、値段を示す看板が外され、給油機は覆われていた。無印で安い燃料を探し、その都度廉価で供給する形で、原油の高騰が報じられた当時は、行列ができたこともあったが、最近はそんな勢いもなく、ごく普通になっていた。
薄利多売という商売の方式は、儲けるための秘策として、一時持て囃された。ただ実際には、二つの全く違った手法が混じっており、十把一絡げで扱うことは誤解を産むこととなる。本来高級品であるはずのものを、ぎりぎりまで値引きし、その人気にあやかって商売を続ける手法と、無名な商品を安値で売る方式があり、それぞれの立場が全く違うことが分かる。偽物でない限り、高級な有名商品はその品質が保証されており、信頼が背景にあると言って良い。その為、購入者も値段のみを比較するだけで良いわけで、品質の吟味は不要となる。唯一の問題があるとすれば、仕入れ先に供給を止められる危険性であり、価格を維持しようとする製造者とのせめぎ合いが続く。それに対して、後者は安物を安く売っているだけのことであり、品質の保証は全くないと言って良い。購入者はそれを含めて選択する必要があり、眼力が問われる部分がある。それでも、何もかもが高騰する折には、少々質が落ちても、無い袖は振れぬという考えが優先される。そんな流れがあれば、上手く乗ることができ、薄利多売が実現するわけだ。だから、流れが変わればどうなるか、容易に想像できる。投機筋が何をしようが、彼らにとって結果が全てであり、巧く立ち回ればそれなりの儲けが手に入る。しかし、一つ指し手を誤れば、損失のみが膨らむ結果ともなりかねない。まさにそんな成り行きが展開したのではないかと思うが、無くなってしまえば他所を探す。消費者は本質的に賢いかどうかは別にして、そんなことを繰り返すだけのことだ。
契約書に書かれたことだから、という声が時々聞こえてくる。契約という風習が定着していない国では、守る必要はないとする意見もあるが、法治国家である以上横車と言うしかない。その一方で、契約書に書かれた文言が絶対とする主張も聞かれ、これまたより上位にある法律との整合性を無視する暴言と言うしかない。
互いの権利を守り、諍いを減らすために、約束事があるのだろう。口だけでのものでは無効とされ、文書として残すのが不可欠とされた頃から、契約書なるものが交わされるようになった。しかし、現実にはその重みを理解せず、互いに破り合うことが度々起こるのを見ると、この国ではその本当の意味が理解されていないのだと実感する。では、その意味での先進国では、何の問題もなく、順調に処理されているのかというと、そうとも言えないことがあるようだ。破綻寸前の事態に、救済措置がとられた大企業において、多額の賞与の支給が問題視されたのも、元はと言えば、契約で定めたこと。約束は約束として、法律上の権利を施行したのみということだろう。しかし、一方で破綻が現実のものとなっていた場合、権利が消滅するばかりか、別の損失も生じたわけだから、状況を無視した契約は破棄されるべきとの意見もある。法の下に、という考えは、恰も唯一の解を持つかのように思われるが、現実には場合ごとに両極端の解が導かれるもののようだ。釈然としないまま、ごく普通の契約にしか接したことのない大衆は、結局のところ誤魔化されるのだろうが、遵法精神を拠り所とする職業出身の大統領でさえ、その非常識さに怒りを覚えるとなれば、さて、そんな契約の有効性はどう吟味されるべきなのだろう。この辺りの事情は、海を挟んで全く違っているわけだが、所詮人間の考えること、様々な変化に応じた臨機応変さを失うことは自滅に繋がる。顛末がどうなるかは不明にしても、決め事が揺らぐのだけは避けたいものだ。