パンチの独り言

(2009年3月30日〜4月5日)
(中庸、引き金、平坦、黙殺、筋道、連関、春)



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4月5日(日)−春

 花冷えという季語はさほど古いものではないと、ラジオで言っていた。開花宣言が出されたあとに、冬に逆戻りした時、急に縮こまった人も居ただろうが、花も同様少し勢いが萎えたようだ。ただ、そのまま散ることは勿論無く、じっくりと時間をかけて数を増やし、見る者には更なる愉しみを与えてくれたようだ。
 四季の移ろいはまず間違いなく進むが、その変化は一様にはならない。その時々で気紛れを見せることもあれば、すんなりと移行することもある。思い通りにならぬことを、様々な形で表現したとしても、所詮人間の欲望に過ぎず、自然はそんなものに惑わされることはない。他の生き物たちは、自然の気紛れに対して、どんな戸惑いを見せるのか。仕方ないと諦めるか、はたまたそんなことは気にも留めず、営みを続けるのか。多分、前者は人間たちの勝手な思い込みや擬人化から生まれたものであり、感情の起伏を勘定に入れることなど、必要ないことだろう。天候の変化に一喜一憂したり、先々の心配をしたり、兎も角何かを気にしないと生きていけないのは、何とも窮屈な性癖だが、それを互いに理解し合うのも、社会性の構築の一段階なのだろう。だから諦めて、何も考えなければいいと、単純に思うのは、ごく一部の人であって、大部分は大層な思いに気分を振られながら、何とか生き延びていると感じているのかも知れない。自然の営みを愛でる気持ちがあれば、まだまだ余裕があるとする人もいるが、そこまで荒んだ心を持たずとも、周囲の勢いに押されて、つい流されてしまう自分を悔やむ人が居る。こんな心の移ろいに、揺らぎ続ける人々は、季節の変わり目に勢いを取り戻すことがある。花芽時と表されるものだが、理解できぬ人には何のことはない、変なものにしか映らないのだ。本人の心の中を覗くことができない限り、何時までも変としか思えないものなのだろうが。

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4月4日(土)−連関

 今更と思うが、伝達能力の向上を教育課題とする話がある。とても重要なことだから、と言うのが理由だろうが、今更と言うのは、当然すぎる話なのに、何で今頃になってこんなことを言うのか、という意味だ。社会性動物の一つとして、孤立することは有害であり、協調性を高める為の方策が第一となるのは当たり前だ。
 当然のことができない人々が増えた原因は色々と考えられるだろう。教育という見地から、その部分を反省し、転換を図ることは重要なのかも知れない。しかし、と思うところもある。何が何でも教育によって、人を更生させるのだという使命感は、こういう時に役立つことはまず無い。既にある歪みを受けたものを、無垢な状態に戻すことができない限り、やり直しは利かないと言っていい。にも拘わらず、教育の効果を過大評価する人々は、いまだにそれに取り憑かれたかの如く、無理難題を押し通す。もし、伝達能力の向上を目指すならば、おそらく人格形成のごく初期の段階で、効果的な手法を編み出すことが必要であり、ある色に染まった就学期に達した子供たちには、更なる上塗りが濁った色にしかならないことは明白なのだ。人と人との関わりという点で、親子関係はその原点となる。そこに着目せずに、ただ闇雲に上塗りの工夫をするだけでは、真の効果は得られないだろう。ただ、一方で、間違った関係によって根付いた性癖は、除去不能であるだけに、何でも良いとは言えないところがある。例えば、親子の間での継承が目立つのは、親の示す欠点にあり、その中には了解事項の頻用などがある。仲間同士の会話に慣れた人々にとって、互いの理解は大前提となる。逆に見れば、見ず知らずの人に話を通じさせることは、困難を伴うこととなるわけだ。仲間同士の符牒や暗号を使いこなすことが、仲間意識を植え付けるわけだが、これは伝達という作業において、却って逆効果を招く。特に、始めに取り上げた伝達は、知らない者へのことを指しているのだから、当然のことだ。積み木を積むように話をすることの大切さを意識できなければ、無能ということになるだけのこと。

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4月3日(金)−筋道

 話を聞いていて、何も見えてこない相手がいるものだ。次々に飛び回り、繋がりの見えない話に、苛立ちを覚えたことは誰にでもあるだろう。こういう相手の多くは、自らの思いつきによる展開に、何ら疑問を持たず、当然の成り行きと思いこむ。何をどう言っても、そこにある大きな欠陥を修復することは難しい。
 少々拙い表現でも、流れが見える話だと、それなりに会話が成立する。これを論理の構築と表現すると、如何にも堅苦しいものとなるが、本来の論理とはそんなものに過ぎない。一部の人々は、論理には絶対的なものがあり、誰にでも通じるものの存在を信じる向きがあるが、現実にはそんなものはどこにも無い。科学の理論や哲学にはそれがあると反論する人もいるが、あれとて人間が定義したものに過ぎず、互いの認識が重ならなければ成立しないものだ。それ程大袈裟でなくとも、実際の会話や文章において、先の見通しができるかどうかは、そこに共通認識があり、同じ道を歩む姿勢の存在が必要となる。訳の分からない話を繰り返す人には、独自の論理という思い込みがあることが多いが、誰も受け容れないものでは、論理という表現は当てはまらなくなる。共通部分を持ってこそ、共通認識や共通理解が可能となるわけだ。それを共有できない人や、他人の意見を拒絶するだけの人とは、通じ合うことは不可能なのである。社会性を育む過程で、こういう能力が伸ばされ、結果として一員となれるはずが、最近は、別の考え方が蔓延り、独自ばかりを強調することで、協調性を欠いた欠陥品を世に送り出す。昔からこんな人々は居たものだが、最近の傾向の違いは、そこに注目が集まることであり、下らない連中と切り捨てないことだろう。逆に、注目することに意味をもたせる人が登場し、奇抜な論理を展開するに至っては、困り果てる以外に手段はない。良識が通用しない社会は、何らかの破滅に突き進むことを、今一度考える必要がありそうだ。

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4月2日(木)−黙殺

 何度も書いたことなのだが、此処に来て決定的とも思えることがあったので、触れることにする。情報操作が行われていることは、殆どの人が知るところだが、にも拘わらず、いまだに振り回される人がいる。不安を煽る手法は既に使い古されているのに、依然として心理操作に惑わされる人間が如何に沢山いるか。
 政治に金が必要なことを、様々な立場から議論する場は、これまで何度も設けられてきた。しかし、功を奏したことはなく、理由が不明なままに、巨額に資金の流れが続いている。そんな中で、本丸を攻め落とす手法として、金庫番に取りかかった話は、種々雑多な意見が飛び交う結果に結びついた。始まりは、ある企業の不正な経理操作なのだが、当時、海外での活動の為という話が伝わった。ある割合はその通りに使われたのだが、残りは国内に持ち込まれたとされ、その行き先に注目した人もいた。それがある日突然に、ある政治家との癒着が表出し、金庫番の拘束へと繋がる。その手際の良さに疑いを持った人も多く、裏に蠢く思惑を指摘する声も数々出てきた。しかし、坂道を転がるような展開に、様々な横槍は意味を成さず、結局筋道通りの結末を迎えたわけだ。その過程で、情報を流す人々の思わせぶりな行動に、不信感を持ったわけだが、ある日のラジオから聞こえてきた話と、その後の顛末に、結論が出されたような気がしている。その組織に昔属していた人の話からは、勇み足と暴走という指摘が感じられ、それまでの報道の偏りを批判する姿勢が伺えた。話を聞いた担当者の言葉少なさが表したように、制作の意図からかけ離れた話は、それまでの体制を改めるかどうかを考えさせる空気が感じられた。その結果、何が起きたか。結局、何も起きなかったのである。有識者の話は完全に無視され、その後の報道姿勢は何も変わらず、思惑に満ちた話を伝えるばかりである。これが何を意味するか、簡単に分かるはずが、そうならないのは何故か、知る必要もないということか。

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4月1日(水)−平坦

 成長率、様々なところで接する言葉の一つだが、特に最近、誤用というか、首を傾げたくなる使用が目立つように思う。言葉の定義を誤っているわけではないが、それを問題として取り上げること自体に、明らかな誤解があるようだ。大した考えもせずに、安易に使う人々の頭の中は、理解不能にしても、悪影響が気になる。
 人間の一生を考えてみると、ほんの初期だけに成長という言葉が使われる。その後は成熟した後、加齢現象、つまり老化が目立つようになり、最終的には死を迎える。生き物は全てこのような経緯を辿り、生きとし生けるものは死ぬ運命にある。また、それだけではなく、そこにある成長は何時かその勢いを無くし、衰退へと移行する。全てを生き物と同様に考える必要はないが、もし、こういう形で何もかもが成長し続けたら、生態系はあっという間に破壊される。このことは、例えば、人口増加率を見れば簡単に理解されるだろう。その昔、地球上の人間の数を習った頃と比べ、今は数倍どころか一桁多くなっているように思う。増加数を問題とするなら、すぐには破滅は訪れない。しかし、それを率で考えようとすると、この星の表面が人間に覆われることもあり得ることとなる。成長率という言葉には、そんな意味が込められていることに気づかぬ人々は、そればかりに気を奪われ、永遠に続くとして全ての解釈を展開する。次々に編み出される方策により、これまではそれなりの成長を続けてきたが、星の隅々にまで浸透した仕組みは、そろそろ限界に達している。この先どんな展開があるとしても、肝心なことは成長あるのみという考え方に固執するのではなく、どのような形で安定を図るかという方向に転換することだろう。高齢者社会と強調される国だからこそ、その展開が重要となるに違いない。とはいえ、欲望の塊たる人々には、そんな考えを受け容れる気は毛頭無いのだろうが。

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3月31日(火)−引き金

 税金が個人の懐に、という話に激怒する大統領。果たして、熱狂を持って迎えた人々はどんな印象を持ったのか。前任者が開けた穴を一つずつ埋めようとする姿に、応援する人々がいる一方で、熱の冷めた連中は冷ややかな目で見る。当然の成り行きに違いないのだが、他にどんな選択があるのか、聞きたくもなる。
 私企業の救済措置に国民から集めた金を使うことに抵抗を覚えるのは、何も自由主義の塊じゃなくともありそうなことだ。それが更に、公共性を前面に出していたのに、個人に流れたとなれば、納得できないことは増える。救済とは、本当に困っている人々を救う為のものであり、禿鷹のように死肉を食らう人々に施すものではないからだ。この話については一段落付いたらしく、ほとんど何も聞こえなくなった。その代わり、世界最大とも言われる企業の救済策に、更なる注入が持ち出され、その交換条件が提示されたところで、不安に襲われる人々は過剰反応を示した。個人主義、自由主義と持て囃され続けたものの、此処に来てその歪みが表面化している。特に、どのような企業活動も、その対象が必要であることが明白となり、単純に自分本位の姿勢が通用しないことは、新しい視点の必要性を予感させる。その一方で、これまで直接的には取り沙汰されなかったものの、政策に基づく景気浮揚が重要視されるようになったのも、内容は古いものの、新鮮な気分で受け取る向きが多いのではないだろうか。市場原理などと声高に主張した人々は舞台を降り、何らかの意図的な刺激が、様々な変化を生じることを改めて意識する気運が高まっている。しかし、この時点で考えるべきことは、このようなやり方が一時的措置に過ぎず、長続きはしないことをだろう。刺激とは、きっかけを与える引き金に過ぎず、勢いを付けられたものが減速することなく、走り続ける為には別の要素が必要となる。ここでも、訳の分からぬ主張が飛び交うが、他人の金に頼る姿勢は緊急措置に過ぎないことは、意識すべきだろう。

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3月30日(月)−中庸

 発明や発見など画期的な進歩は、突然訪れるものと思っている人がいる。何処か別世界での出来事と思う人ほど、こんな考え方をするようで、渦中にある人間はそれまでの積み重ねを大切にする。巨人の肩に乗ったと評した偉人はその自覚を持っていたわけだが、小さな発見をした人もその多くは同じ意識を持つものだ。
 ここで大切なのは、大きな変化に見えるものも、それまでに堆積した小さな変化の集まりが、ある変貌を遂げたものであり、それによって新規性が表出したものと考えられる。それらは、組合せの妙によって引き出されることもあるし、違った観点から導き出されることもある。要するに突然起きる変化と雖も、目に見えぬ形での変化の蓄積があるということだ。それを無視して、一人の人間の功績を過大評価することは避けねばならないし、逆にその功績を取るに足らぬものと無視するわけにもいかない。漸進的な変化というのは、見極めることが難しく、意識することもできない。その為、どうしても大きな変化を見せようと努力する人が多いが、その大多数は理解力の不足した人々だろう。何故なら、そこでの小さな変化の行き先を見定め、その集結による効果を推し量れば、その結果を予測することはさほど難しくなく、その途上での遅滞も必要なものと見抜けるからだ。しかし、世の中の多くはそんな眼力を持ち合わせず、慌てて大転換を図り、それによって生じた混乱を不可避なものと片付ける。数代前の宰相の時代はまさにそれを絵に描いた如くの様相を呈していたが、その結末は惨憺たるものであった。やっとその弊害がほぼ全て露出したところで、別の問題が噴出し、混乱の極みとなっている。しかし、ここでまた進路を逆転し、方針転換を図る人々の姿を見るにつけ、政に携わる人々の理解不足の深刻さに、諦めの図しか浮かばないのは、何とも情けないことだろう。何度やっても、有か無かという考え方では、解決の糸口さえ見出せない。

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