パンチの独り言

(2009年4月6日〜4月12日)
(先行、意欲、是正、技術、購買欲、無恥、花)



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4月12日(日)−花

 この国では昔から、花と言えば桜のことを指した。他にも色々あるのに、何故そうなのか、疑問に思う人もいるだろう。一方、全国の春を飾る染井吉野の影響と信じる人もいるが、歴史の流れからすれば、ほんの少し前に現れたものを大層に持ち上げるのは、現代人の悪い癖と笑われるのが関の山だろう。
 確かに、今巷に溢れる桜の多くは、江戸時代に作り出されたものの子孫である。しかし、山里に行けば、それぞれに特徴的な古木が咲き誇り、訪ねる人の目を愉しませる。都会に溢れるクローンと違い、花の色や付き方などが微妙に異なり、新たなものを探そうという人々は絶えない。これほど人の心を楽しませるものもないが、何故、桜が特別扱いされるのだろう。長い冬を越えて、やっと訪れた春を愉しむのに、梅でも桃でもいいだろうし、木蓮や辛夷も鮮やかな白を魅せる。人それぞれに解釈があり、それぞれに楽しみ方も異なるわけだが、染井吉野に限らず、多くの桜はそれこそ枝一杯に花を付け、それを一斉に咲かせたあと、一斉に散る。その姿にものの哀れが、と表現することもあり、何やら心情に訴えかけるものがあると言われる。梅は少し早すぎるだけでなく、匂いは素晴らしいが、花の数が少なく派手さが無い。木蓮は一斉に大輪の花を咲かせるが、その後がいけない。盛りを過ぎた花は茶色に変色し、数日前の鮮やかさは何処へやら、汚らしい印象を与える。その点、桜は散った花片を見ればわかるように、薄桃色そのままに、地上に降り注ぐ。この雰囲気が独特のものであり、その印象が余りに鮮明だからだろう。昔から、花と言えば桜となってきたのではないか。こういう言葉の使い方が、この国の感覚の特徴の一つとなり、古から伝えられてきたのである。大切にしたい、という意見がある一方で、合理性の名の下に、そういう情緒を捨て去る動きもある。まあ、若い世代にとっては、どちらにしてもどうでもいいことなのだろうが。

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4月11日(土)−無恥

 責任が話題の中心になったのは、おそらく無責任な人が増えたからではないか。皆がそれぞれに意識していた時代には、無責任を自認する人が話題となっていたのに、何時の間にやら逆転してしまった。その後の経過については、様々な見解もあるだろうが、今、身の回りを見渡すに付け、呆然とさせられることが多い。
 このところ、掲示板に下らないものを貼り付ける輩が沢山いるように見えるが、おそらくただ一人の下らない人間の行為に過ぎないだろう。発信元は全世界に散らばり、如何にも、多数の人間の行状のように見えるが、そんな中継点を供給する連中もいて、世間は下種の天国となっている。私利私欲に走る人々の多くが、それによって損を被った人々の責任を引き合いに出すのは、最近の流行だが、この辺りにも心の貧しさが表れている。社会全体が転げ落ちていく過程で、流石に危機感を覚える人が現れ、種々の規制がかけられたが、自制心の他には有効なものはないようだ。国内では、プロバイダの責任が問われており、先日も犯罪を繰り返す輩の侵入口となった業者に連絡して、措置してもらった。良識ある人間には、何を馬鹿げたことかとしか思えない行為も、それを野放しにすれば、無知な人間が犠牲となる。犠牲者の責任を問う声もあるが、社会ではある程度の保護をするのが務めであり、制限の必要性は明らかである。自由こそが、という自由絶対主義者には、この意見は受け容れがたいだろうが、犯罪そのものの自由を引き合いに出して、考えて欲しいものである。今も、無駄な投稿を次々と繰り返す無能者は、自らを省みることなどできないのだろう。何とも情けない人間で、人間とみる価値もないのだろうが、しかし、人間と見なして、罰を与える必要はある。そうでなければ、人のいない世界に送り込むことこそが、彼らの価値に見合うことなのではないだろうか。

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4月10日(金)−購買欲

 景気の停滞は、消費の冷え込みによると言われる。一度冷え込んだ消費姿勢をどう暖めるのか、難しいことは明らかだが、施政者として放置するわけにも行かないからか、次々と思いつきが並ぶこととなった。全てを下らないものと片付けるのはこれも誤りだろうが、それにしても消費者の心情の理解は無さそうだ。
 同じように景気が停滞した時に、一部企業に公の金が注入されると、一斉に反対の嵐が吹き荒れた。今回の施策の殆どは、これと同様に、公金を注ぎ込むことによって実現されるわけだが、対象が一般大衆である為か、あからさまな反対の声は上がらない。その代わり、その効果の程を訝しむ声の方は、大きくなるばかりのようだ。金のばらまきと揶揄された制度は、既に始まり、地方から都市へと浸透し始めているが、即効性は期待されたほどではなかったようだ。ただ、人口分布から考えれば、密集地ほど配付が遅れる傾向にあるわけだから、真の効果はこれから見なければならないだろう。これとは別に税の優遇措置も次々に導入されているようだが、そちらも思い通りには事が運んでいないらしい。不要な物を買う気にさせるというのは、社会の仕組みとして異常であるだけに、こんな事で効果が上がる方がおかしいわけだが、それにしても、全体の均衡を考える姿勢が伺えないのは、どうにも気になることだ。例えば、自動車購入の気持ちを高めようと、補助金が検討されているのも、大体二百万円する物を買う為に五万円の補助を出すとか、話が聞こえてくるが、一瞬耳を疑ってしまった。ほんの2%強の助けに、気持ちの揺らぐ人がどれだけ居るのだろう。それより、同じ車を購入したあとの毎年の税金などの諸経費を割り引く方策の方が、心理的影響が大きく出るのではないだろうか。つまり、5年間にわたり一万円の割引をするとすれば、同じ五万だが、おそらく2割くらいの割安感を抱ける。冷静に考えれば同じことでも、心は違いそうなわけだ。と言っても、政権を維持したい人には、その場限りの方が魅力的なのだろうが。

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4月9日(木)−技術

 一般にはどうだか知らないが、安売り合戦はそろそろ限界に達しているのではないだろうか。廉価販売の価格の限界、という意味ではなく、安くしても買う気のない人の気持ちを変えるのは難しい、ということが解ってきたという意味である。高いものが良いものという保証を無くしたのは意味深いだろうけれども。
 この過程で、様々なところに歪みが生じたことはよく知られるところである。例えば、下請け業者への圧迫はその最たるものであり、工賃の値下げは彼らの生活そのものを脅かした。しかし、現場からの声が流れてくると、少し違った雰囲気が漂っている。つまり、そんな嵐が必ずしも吹き荒れなかったところがあるというのである。新製品の開発において、様々な工夫がなされるが、中でも特殊な部品の加工は無くてはならない部分だろう。その実現によって、ある製品が完成したとすれば、それが無ければ成り立たないことが自明だ。にも拘わらず、有名メーカーは、その下請けの肝心な工場にまで、圧力をかけたという。これ自体が信じがたいものだが、長年に渡る付き合いから、応じたところも多かったのだろう。ただ、それが限界を超えるに至り、一種当然の反撃が始まる。「応じなければ、他に頼む」という脅し文句が横行した世界でも、他が応じられなければ話にならない。そんなことが頻発するに至り、本質を捉えずに机上の計算による価格追求のみをしてきた人々は、思い知ることになったわけだ。これは何も、商社化してしまった大企業だけに通じる話ではない。消費者そのものがそんな気持ちばかりで、何が本質かを考えずに行動することが、こういう歪曲を産み出すことに気づかぬから、社会全体が荒廃へと向かうのだ。第三次産業ばかりが繁栄する時代に、これは当然の結果と言えぬわけではないが、それを食い止めるのは一人一人の心の問題であることに、改めて気づかせられる話だった。馬鹿が生まれるのも問題だが、それを放置するのも問題なのだ。

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4月8日(水)−是正

 平等化の為に様々な政策が実行されている。女性の社会進出もそうだろうし、障害者のものもそうだろう。しかし、そこに違った匂いがするのは何故だろうか。一つには、逆差別の助長があり、振り子が振れすぎた感がある。もう一つには、その制度を悪用して、自らの利益を追求する輩がいることだろう。
 確かに、それまでの慣行を改めて、是正する必要がある場合、その為の制度の導入が必要となる。雇用機会均等法は、その為のものだった筈だが、期待したほどの成果を上げていないように見える。男女格差を無くす為の方策として、一部の業界で議論が進んでいるようだが、これとて何やら怪しげなものといった感は拭えない。おそらく、本来の土壌として、その気運が高まっていないところへ、性急な動きが起きれば、こんな雰囲気になるのではないかと思うが、一つの歪みを取り除けば、別の歪みが生じる、といった表現が最も適切だろう。制度上の問題は、それを推し進めてから再度考慮すればいい、という考えもあるだろうが、その最中に適用された人々は、単純に被害者となることが明らかなのだ。それが分かっていながら、これほど慌てて導入しなければならない理由は、どこにあるのか、簡単には見えてこない。一方、銭儲けの対象として優遇制度を悪用する人々には呆れるばかりだが、これも制度欠陥という見方も当然あるだろう。補助金の支給によって、導入を推進させるのは、これまでにも数多くの場面で使われてきた手法である。しかし、特に障害者の雇用に関するものに限っては、聞こえてくる話は厳格さの欠片もないものに思える。制度の理念を無視して、単純に数の確保を図る役人がいれば、不備を見過ごすことばかりとなる。数字の上では、制度の効果は素晴らしいものと言えるはずが、その実態は全く逆であることが明らかになると、何処かに矛盾を感じないわけにはいかない。こんな話ばかりが表に出れば、平等化というお題目は、中身のない容れ物に過ぎぬこととなる。

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4月7日(火)−意欲

 一般庶民にとって、平等とは途轍もなく魅力的な言葉のようだ。皆が同じように、という考えは、虐げられる立場にある人には、唯一の救いのように聞こえる。だから、何かにつけて平等が唱えられ、機会均等が必要不可欠のように説かれる。でも、しかしと思う機会を持つ人は少なく、鵜呑みにする傾向には別の危険があるのではないか。
 機会均等を意識的に使う人々に対して、多くの庶民は当然の受け止め方をする。前者と後者には明らかな違いがあるにも拘わらず、その間の乖離は話題に上ることさえない。例えば、教育の機会均等は長年訴え続けられてきたものだが、その問題を根本から考え直す機会は得られていない。親の収入の多寡に関わらず、教育を受けることを希望する子弟には、その機会を与えるという主旨だが、真ん中にある言葉の意味を重視する人は少ない。希望するかどうかが、機会均等の根本原則の筈だが、ここではそこを飛ばして、現実には、多寡に関わらず、その子弟には機会を与える、となっているのではないか。やる気のない学生の増加に手を焼く学校の話題が出る度に、この部分の再考を願うが、一向にその兆しが見えない。その代わりに、恰も別の所に問題があるが如く、機会を与える為の補助金の要求ばかりが取り上げられる。大都市圏ではその殆どが進学するわけで、高校は今や義務教育化していると、何とも的外れなお題目を並べる人が居るが、そこから誤解が生じていることは確かだ。下らない親共と、何も考えぬ餓鬼共、そんな組合せから生まれた歪みを、まるで社会に責任があるが如く扱い、その解消に別の力を頼る。何とも情けない様相を呈しているが、有識者を含め、そんなことに目を向ける人はごく少数に過ぎない。向上心とか知識欲とか、そんなものをごく当たり前に持ち合わせていた世代と異なり、用意された食卓につくだけの連中に、これ以上の飽食を許すわけにはいかない。不況だからというわけでなく、常識としてそういう考えが出てこなければ、社会の荒廃を食い止めることはできないだろう。

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4月6日(月)−先行

 大都市圏の下落が著しいと伝えていたが、そこまでの変動を示さないのは片手落ちと言うしかない。都会に出る度に、高層住宅の建設が新たに始まり、まるで泡がはじける前の様相と思えるほどだった。此処に来て、流石に勢いが緩み、過剰在庫に苦しむ姿が露わになると、当然の如く、価値の下落も明らかとなる。
 そんなことが話題になりかけた頃、中小地方都市では遅れ馳せながらの建設が始まり、何を根拠に新規参入を図るのか、真意をはかりかねていた。当然売れ残りが出て、市場の厳しさがそのまま表出した結果となったが、この期に及んでまたと思えるものが始められた。駅に近く、便利が良いのは分からないでもないが、これほどの規模の住宅の需要があるのか心配する向きを他所に、何時の間にやら完成に漕ぎ着けた。と、そのビルの最上階には何やらロゴらしきものが見える。何とそれは、変わり者社長で有名な企業に買収された子会社のもので、新築マンションに見えた建物は、社宅だったわけである。近年の傾向からすれば、自前の社宅を建設するより、何処か一つの賃貸物件を丸ごと借りる方が、遙かに割安と言われたものだが、さてこの戦略にはどんな裏があるのか。おそらく、あの社長のことだからと勘繰る向きは沢山あるに違いない。それにしても、全世界的に売れ行きが滞り、期間従業員や派遣社員の切り捨てで悪名を馳せた業界の、そのまた下請けとなるべき業界では、雄と呼ばれたとしても、この危機をどう乗り越えるのかと、注目が集まっているのではないか。その時期に、これほどの戸数を持つ物件を新築するのは、どんな意図があるのか。想像することはかなり難しい気がした。ただ、数年経て顧みれば、何と先見の明が、と言われそうな話であることは確かだろう。他人と違うことをする、それが自らを有名にした主因なわけだから、今回もまた、その一つに過ぎないと、本人は思っているのかも知れない。

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