村八分、これも忘れ去られた言葉だが、見方によって意味合いが異なるようだ。虐めという結果の方から見れば、集団の恐ろしさを垣間見ることとなるが、その原因を考えると、集団での処し方や私利私欲を戒める雰囲気が伝わる。自己中心的な考えが大半を占める時代には、死語と化すのも致し方ないのだろう。
生活に困ったからと、犯罪に走れば、当然の如く罰せられる。こんな当たり前のことが、理解できない人が増えたのかと、最近流れるニュースを聞く度に、思う人がいるのではないか。生活に困るまでの過程を論じぬままに、恰も社会の責任であるかの如く宣う人間が、社会に溢れるようになったのは、結局隣近所との付き合いや社会との繋がりが希薄になっているからだろう。自制心は自らを律する気持ちから芽生えると言われるが、見て見ぬふりをする社会ではそんな気も起こらず、他人を出し抜くことに躍起となる。一方で、集団の中での自分の役割を意識できず、身勝手な行動を何とも思わぬ人間が台頭してきたのも、何処か他人との連携の喪失が関係していそうである。良心の呵責とか罪の意識とか、まるで普通の人間に対するのと同じように、罪を犯した人間に問いかけても、まともな答えは返ってこない。罪の重さと罰との繋がりが、何処か心の奥底で成立する時代には、こんなことを論じる必要もなかっただろう。しかし、自分可愛さだけで行動する人間が、大きな顔して歩ける時代には、論じても無駄になってしまう。社会的制裁が殆ど意味を持たなくなると、結局は被害者の数だけが増えることとなり、自己防衛の必要性が強調される。しかし、社会の本来の姿を考えれば、正直者が馬鹿を見るのは明らかな間違いであり、犯罪者を野放しにしない仕組みを編み出さねばならない。子供の臓器を売る人々に驚いたこともあったが、そこまで行かずとも、子供の未来を打ち消す行為を平気でやる親が出てきたことは、社会の歪みの深刻さを実感させるものである。
見知らぬ相手から、突然かかる電話。ぞっとすることも多いが、その多くは単なる勧誘、別の言い方をすれば詐欺とか騙りにあたるものである。電話帳に掲載されていないのに、何故と思うことは少なく、何かの名簿が流通したとの考えが当然になったのはいつ頃からか。確認の言葉のあとは、切るだけのことだ。
情報の把握が勝利に繋がると言われ、その為の投資の必要性を説く人も現れたが、現実には情報漏洩は犯罪である。欲しがる人が悪いとする意見もあるが、供給源が絶たれれば、成立しない業界なのである。被害の声が大きくなるに連れ、情報の管理が煩くなり、結局名簿を廃するところが増えた。しかし、顧客情報については、無くては商売が成り立たないわけで、お互いの了解の下、厳重に管理されることとなる。と言っても、全ての関係者が理解できるわけではないのも確かで、情報交換ソフトを介した漏洩や、遺失物からの漏洩など、不注意による間違いが多数生じている。これ自体も重大な影響を及ぼす犯罪だが、故意かどうかを問う声に、酌量の余地が検討される。一方で、明らかな故意による犯罪の場合、影響の大きさによっては、刑罰の軽さが問題視されることもある。情報を盗むという意味で、窃盗罪が適用されるわけで、盗んだものの価値の判断が重要になるとはいえ、せいぜい数年単位の懲役止まりと判断されるだろう。しかし、多方面への影響の程度によっては、巨額の被害を与えることもあり、場合によっては、殺人と同等の影響を及ぼすこととなる。現行法では、被害額については民事訴訟で、犯罪そのものについては刑事罰として、扱うこととなっているが、それが適切かどうか疑問が残る。これも、企業内での犯罪となれば、管理責任を問う声が上がるものの、犯罪者自身の責任はそれとは別に考えるべきだろう。莫大な損失を与える犯罪に対して、どのような判断が下されるのか興味深いところだが、法律の制限はある仮定の下になされるだけに、限界があるようだ。
自然の中で暮らすことに注目する向きがある。と言っても、一部の職業の人にしかできず、毎日の暮らしとなれば無理がある。週末だけでも、都心を離れて爽やかな空気を吸えば、と勧める話もあるから、その位ならと思う人もいるだろう。ただ、この話、少し気になるところがある。街中に自然は無いのかと。
走る車や雑踏に囲まれ、爽やかな空気は望むべくもないが、人工物の間に、様々な自然があるのに気づかぬ人がいる。雑草として忌み嫌われる植物はその典型だろうし、動物だって、たまには見かけることがある。根性何とかと称して、野菜のことを取り上げる向きには、呆れるばかりで、そんなものより、ごく普通の植物に目を向けて欲しいと思う。どんな都会の真ん中でも、様々な草が街路樹の根元に生えているし、それが小さな花を咲かせていることもある。動物は、流石に野生のものは少なく、たまに見かけても鼠の類だったりして、いい印象は持てない。その代わり、空を飛ぶ鳥の類には、結構色々なものがいる。都会でも、雀や鵯の類は、よく見かけることがある。先日も、ピチクパチクという声がするので見上げたら、燕が飛び交っていた。こんなに早くと思うが、毎春同じことを考えるから、温暖化云々は関係ないのかも知れぬ。護岸をコンクリで固められた川では無理だが、少しでも草原が残されているところでは、ピチピチという声が聞こえ、上空で羽ばたく雲雀の姿が見える。川の近くなら、鶺鴒の姿も見かけられ、鳥好きの人なら、もっと多くの鳥たちの姿を見分けることができるだろう。用意された自然を楽しむのも一興だが、ごく当たり前の風景の中に、意外な自然を見出すのも別の面白味がある。要するに、心の持ちよう次第ということだが、たまには余所見をしながら、街中を歩いてみるのも面白いのではないか。至れり尽くせりの出来合いのものを喜ぶより、自分なりの面白さの悦びに浸ることができるのだから。
今更、と思うことは多い。先日も、新入社員の訓練風景で、そんな内容が流されていた。問題とされる部分を今更とは思わないが、企業に入ってまでそんなことをやらされる連中に、呆れるからだ。教育の害毒は、その影響の中身にもあるが、一方で、与えられるものという認識が、強く残ることにもあるわけだ。
仲間意識が強調されたのは、虐め問題が表面化した頃だろうか。間違った認識から、仲間外れが横行し、それが社会的な虐待に繋がったことから、仲間の意識を更に強めることとなった。その後の展開からも、誤解が解けたとは思えず、小さな集団形成を重視する思いは、強化されたように見える。その過程で重要となったのは、同じ言葉、同じ理解などという感覚で、共有が最大関心事となったようだ。孤立する事への恐怖が、こういう傾向に拍車をかけ、無理難題が罷り通ることになるわけだが、それ程極端でないにしても、現代社会で問題視されているのは、ここを発端としているものであろう。仲間にしか通じない言葉を操り、それによって自らの立場を保証することは、逆に見れば、違った種類の集団とは没交渉となる。小さな世界で生き続けるならまだしも、より大きな社会に出た人々には、単なる足枷にしかならないわけで、それを取り除く手助けをするのが、始めに紹介した話となる。手を貸すことの重要性は、企業の一員に対する責務という見方もあるが、今更という思いを抱くのは、その年になっても気づかぬ連中の情けなさからだろう。いつまで受け身を続けるのか、と指摘したとしても、返ってくるのは何がいけないのか、という返答で、考える力さえも失ったことを如実に表している。互いの了解事項を共有することの重要性は、仲間を意識するためにも当てはまるが、世の中には相手というものの存在がある。それを意識せずに暮らせる社会が如何に間違ったものかは、自ら意識する以外に解るはずのないものなのだ。
差別的、侮蔑的発言が厳しく糾弾される。意識的か無意識的かに関わらず、発言自体の意味するところが取り上げられ、場合によっては社会的地位をも失うこととなる。それも止むなしと思える人物もいるが、俄に信じがたい話もあり、何故と思うこともしばしばある。生け贄探しとしか思えぬ事さえもあるのだ。
確かに、立場の違いを利用して、人を貶める行為をすることは、恥ずべき事だろう。しかし、恥じるのは自身であり、他人がとやかく言うべきことではない。この辺りの事情が、いつの時代からか大きく変化し、今の風潮のようになってしまった。自責の念などとは、すでに死語なのかも知れないが、責任が負うものではなく、負わされるものとなったのではないだろうか。他人事と片付けるのは卑怯だとか、見て見ぬふりをするとか、そんな話が引き合いに出されるのも、そんな雰囲気からかも知れない。しかし、と思うこともある。例えば、社会的な弱者が日常的に目に触れるようになったのは、それ程昔のことでもなく、その為の整備も行われてきた。その一方で、何か別の差別感を抱く人が増えているように思うのは、こちらの偏見によるものだろうか。人権という言葉も、使われ方に変化を生じてから、随分と時間が経過してようだが、依然として矛盾に満ちたものに思える。この組合せから生じた問題は、既に山と化しているが、それが片付けられる気配は見えない。身の回りで起きていることは、世界でも起きているわけで、最近の狂気の沙汰としか思えぬある国の行動なども、その身勝手さに意見する国は現れない。それぞれの権利を尊重することは、とても重要なことには違いないが、しかし、それにより迷惑を被ることに、何の保証がなされるのか。何とも不条理の塊に思えるが、社会と同様、権利と義務の均衡の崩れは、大きくなるばかりに見える。狂気に対抗する手段が見つからねばどうなるのか、あまり考えたくないところだが。
浪花節や人情話に弱いのは、この国の人々の特徴だろうか。厳格な制度により処分を受けた人に対して、同情の声が上がる。心情の理解は確かに必要であり、人の温かみは何よりも大切なものだろう。しかし、法制度などを曲げてまでも、個人の利益を図るかどうかを、感情のみで決めるのはどうかと思う。
定職に就けない人が街に溢れ、大きな問題を生じていると言われるが、その実態については、詳しいところが見えてこない。職を求める人々の要求が、的外れとの指摘もあり、一概に言えないところがあるからだろう。3Kと呼ばれた職は人気を無くし、外来者に期待するしか無くなった時代、多くの労働者が流入してきた。始めは合法的に就労していても、いつの間にか滞在許可が得られず、国外退去処分を受ける人が増えたが、それをも無視して居続けた人も多かった。中には、家族での生活を確立し、この国しか知らない子供を抱える人もいて、彼らの一部を取り上げる報道が、しばしば為されている。その多くは同情的なものであり、支援者の意見が取り上げられることもあるが、処分自体を批判する声は、一時ほど大きくはないようだ。始めに書いたような社会的背景もあるのだろうが、無い袖は振れぬという考え方が、こんな形で出てくることには、違和感を強く覚える。本来は、制度の遵守こそが基本にあり、その可否を問うこと自体を問題とすべきである。この国の醜悪な部分は、このように感情を引き合いに出すことにあり、それによって問題のすり替えが行われたり、秩序の破壊に繋がる論理が展開されることにある。可哀相という声を上げる人の気持ちは理解できないわけではないが、ここでは的外れとしか言えず、解決に繋がるものとは思えない。個人の範囲内での支援は仕方ないとしても、それを上回るものを期待するのは、秩序を乱すと言わざるを得ないと思う。
有名大企業の凋落は、悲劇的な筋書きを好む人々に好都合であり、様々な場面で使われた。少しは先の見える人なら、そこで企業ごとの事情の違いを見極め、十把一絡げにしかできない人の近視眼を笑うだろうが、そんな話は聞こえてこない。それ程質の劣悪化が進んだのか、今後の展望も開けてこない感じだ。
ものづくりの重要性が巷の話題となったのは、訳のわからない銭儲けに走る人に注目が集まるようになった頃だろう。右から左にものを動かすだけで、泡銭が手に入るという時代に、基盤の空洞化を心配する向きから、そんな声が上がった。泡は消し飛ぶのが当然と、後の時代に人々はしたり顔をさらしていたが、その最中に警告の声こそが消し飛ばされていた。再びの経済危機が現実のものとなった時、当時と変わらぬ張りぼて同様の姿をさらす企業に、懲りない人の存在を驚くと共に、奇抜な電化製品の製造が過去のものとなったことに、改めて時代の変遷を実感させられた。下請け工場で働く人が記したものに、商社化した業界の大企業に、苦言を呈した文章がある。泡がはじけた頃に記録されたものが、今、別の企業にそのまま当てはまるのは、何とも情けない気持ちにさせられる。製品を手にする人々は、企業の印象を強く持つわけで、それを基に選択の決断を下す。それが、単に製品を右から左に流すだけのものに成り下がった時、企業の基盤は脆くも崩れ、製造業という業種が当てはまらぬものとなる。よく似た話は、番組制作の企業でもあり、電波を流す企業は、提案者のみの集団となり、ものづくりに携わるのは、下請けのそのまた下となりつつある。二次産業は一次産業ほどではないにしろ、手間の掛かるものであることは確かで、それに比べれば、右から左、左から右に、ものを流すだけの方が、遙かに気楽で儲けの厚いものとなる。そんな中で、流すべきものが無くなった時のことを考えぬ人が増えれば、こうなると言うことなのだろう。