パンチの独り言

(2009年4月20日〜4月26日)
(目的地、気紛れ、関係者、執心、母語、気品、最低)



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4月26日(日)−最低

 半ば強制的に受信料を徴収しながら、経営、管理上の問題で様々な不祥事を起こしたのは、ついこの間のことだ。違法性を指摘する声が高まり、様々な障害が増えるに連れ、番組編成に注がれる力は弱まり、民放各局との違いが殆ど見えなくなった。自局番組の宣伝もその一つだが、際立つのは報道内容ではないか。
 広告を集めるためには、耳目を集めることが先決と、話題性の高い話ばかりを取り上げ、まさに井戸端会議的な痴話話を流し続ける。一昔前までは、昼下がりのワイドショーと呼ばれた番組の専売特許だったのが、いつの間にか教養番組の一つと思われた、夜のニュースまでもがそんなことを繰り返すようになった。原稿をまともに読めず、噛み続けるキャスターの言葉の質の低さにも呆れるが、番組が取り上げる話題の下劣さには、怒りさえ覚える人もいるだろう。国内だけでなく、世界中で起きた事件の報道を行う中で、番組の始めに流れるものは、その日の最重要なものとの扱いがある。新聞の一面トップと比較すれば、すぐにその価値が理解できるだろうが、まさかそんなところに、芸能人の酔っぱらい事件が来るとは、誰も予想しなかったのではないだろうか。こんな下らない話に、金を払う価値があるのか、と思った人も多く、地に堕ちたと表現する以外に、言葉が浮かばないほどだ。天下の、と呼ばれたのは既に遠い昔のことで、今では他の民放同様に、制作そのものは他の組織に任せ、金儲けの材料を探し回るだけとなっては、見限られるのもすぐ其処のことだろう。管理にあたる省庁の大臣の暴言も凄まじいものがあるが、社会全体に非見識が蔓延っていることは、こんな所からも理解できそうだ。出歯亀根性丸出しで、他人の生活を覗き見する向きは、別のメディアを利用すればいい。国民全てが知るべきことと、扱われるものかどうかの判断なしに、こんなものを垂れ流しする姿勢こそが、「最低」と批判されるべきことだろう。

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4月25日(土)−気品

 品格を扱う書籍の出版が相次いでいる。二匹目三匹目と追いかける姿勢には、肝心の気品は感じられず、業界の荒廃を映し出すだけだ。こんなことが題材になったのも、一業界の問題でなく、世の中須く自らを律する姿勢が失われているからだろう。皆が持ち合わせるものなら、敢えて取り上げる必要もないのだから。
 一般大衆の倫理観の喪失は、今更取り上げても手遅れなほど、深刻な状況にある。彼らを対象とした内容では、肝心の読み手の心を捉えることができず、もっと一般化するか、あるいは抽象的な対象に絞り込む必要がある。そんな中から生まれたのが、数々の著作だろうが、それにしても当然のことを書く作業に、どんな知恵を絞ろうというのだろう。現実はその言葉の理解さえ覚束ぬ人々が巷に溢れ、傍若無人ぶりを発揮するわけで、その代表格は画面の向こうで、大きな顔して叫んでいる。自らの暴言を、恰も思慮深い格言のように思い込み、それに酔い痴れた姿は、情けないより呆れるばかりで、時に、子供のように振る舞うに至っては、何の価値も感じられない。自覚がないことは明らかだが、攻撃は最大の防禦と信じるからか、他からの攻撃にはいとも簡単に陥落する。前言撤回とは、彼らのためにある言葉かと思うが、恥の上塗りに等しい、度重なる暴言には、何様と思っているのかと訝るのも無理はない。世襲制への批判が強まるに連れ、その心強い応援とも思える発言の数々に、自らの出自をも見失う不見識に、嫌気がさしてくる。品格が大人の振る舞いそのものであるとは言えないが、少なくとも、思慮深い行動がそこにあることは確かだろう。怒りにまかせ、勢いだけで繰り返される暴言の数々に、芝居の世界かと見紛うのも、致し方ないところか。たとえ、芝居だとしても、次々に繰り出される台本にない台詞に、田舎芝居のドタバタを観る気分にさせられるのは、真っ平御免といきたいものだ。

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4月24日(金)−母語

 ある方言は余所者には理解不能であるとしてつとに有名である。地元で生まれ育った者の言葉は、何一つ伝わらず、まるで外国語を聞くようだと言われる。笑い話の一つとして紹介されるなら問題も起きないが、医療現場での問題が紹介された時、成る程そんなこともあるのかと考えさせられたことがある。
 標準語と呼ばれる共通言語が導入されてから随分と時間が経過したから、既に方言の問題は片付いたものと思われた。しかし、押し付けられた言葉は改まった席でない限り使うことはなく、日常では慣れ親しんだ言葉を使い、それが互いの親密度を示すものとなる。特に、齢を重ねると、外国語を話すような面倒はせず、自分の言葉しか使えなくなるのだろう。その一方で、地域間の行き来が盛んとなり、医療に携わる人々は地元出身に限らなくなると、意思の疎通に必須となる言葉の理解が難しくなる。海外旅行の際に、病気になった経験のある人なら、その辺りの事情も理解できるだろうが、自らの病状を伝えることができず、地団駄踏むのはまるで泣き面に蜂といった感じなのだ。それが自分の生まれ育った土地で起きるとなれば、何とすればいいのか、戸惑うばかりだろう。結局、方言表なるものを配付したようだが、その後の経過は伝わってこない。言葉とは、困った時にこそ重要になるもので、日常では互いの助け合いも含めてどうにかなるものが、窮地に追い込まれると二進も三進もいかなくなる。方言というものは特殊だからとする向きもあるが、それぞれの国を単位に考えれば、そこで使われる言語が必須の道具であることは確かだろう。外国人にとって、この国での生活を保証するのは、単に技術や労働の力だけでなく、意思疎通であることを不況という苦境に陥って気づいた人も多い。日々の仕事に追われた時期は、考える暇もなかったが、此処に来てその重要性が大きくなった。そんな時代に、外国語で教えることを条件に留学生の獲得を目指す方策が出されたのは、浅慮としか思えないがどうだろう。

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4月23日(木)−執心

 何か新しいことを始めようとする時、それに関わる人々の思い入れの程度が成否を決めると言われる。目新しいことであればあるほど、従前からの繰り返しは通用せず、新たな試みが必要となる。単なる思いつきにしても、それを何処まで考え抜くかが大切で、そこには揺るぎない意欲が必要となるわけだ。
 そんな形で紆余曲折の末、様々な新機軸が実現することとなる。新しい試みを実行に移すにあたり、別の問題が生じることはあまり知られていないようだ。問題が生じれば、計画が頓挫する場合もあり、それは失敗として片付けられる。しかし、その多くは計画段階での誤りに基づくものとされ、実行に移す段階での判断に言及することは少ない。現実には、少し違った事情がある場合もあり、その辺りを吟味することは、次の実行に向けて必要なことに思える。新しい計画を打ち立てる段階で、滅私奉公とは行かないまでも、かなりの思い入れを持って打ち込む人がいる。彼らの努力によって、計画が夢物語で終わることなく、実行に移されたのだから、その貢献は大きなものと言える。しかし、開始後に様々な問題に取り組む段階では、同じ人物が妨げとなる場合もある。計画は所詮絵に描いた餅にすぎず、実際に進める段階では、想定外の事柄も起きる。そうなれば、事前の予定とは異なる策を講じる必要も出てくるが、ここで思い入れが邪魔をすることになるのだ。それがなければ実現不可能だっただけに、本人も含めて、その段階で予定を変更し、新たな方策を講じることに対して、抵抗を覚えることも多い。しかし、計画はあくまでも計画であり、それを実行に移す段階で、更なる精査と吟味を繰り返すのは、当然のことなのである。それに対して思いの強さからつい反対してしまうのは、人間としてありがちなことだが、妨害という結果に繋がる。計画段階と実行段階で、関わる人間を入れ替える必要性が重視されるのは、そんな事情によるのだろう。

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4月22日(水)−関係者

 早朝、霧が立ちこめ、視界が遮られる。青みを帯びていることから晴れていることはわかるが、見通しが利かないのは不安を招く。先が見えないことから様々な思いが過ぎり、注意深く進むしかないが、これと同じようなことが普段の生活にも当てはまることに気づく。ここでの視界を広げるものは、情報と言われるものだろうか。
 何も知らないままに、何かに取り組むことは、失敗に繋がることもあるが、その多くは心理的な不安的から来る。用心して取り組めば、誤ることはないとする人もいるが、現実には選択肢が多すぎて、決めかねることから生じる失敗もある。そこに確かな情報がもたらされれば、一気に選択の幅が狭まり、無理なく通り抜けることができるわけだ。情報をこんな捉え方で見れば、その重要性は高まる。しかし、世の中に流れている情報は、その殆どが不確かなものであり、道を見誤らせることになる。確かな源をつかみ、連携を密にすることで、がせネタに振り回されることは少なくなるだろうが、手に入れられる情報の量が減ることはやむを得ない。確実性を追い求めれば、量より質を追求することとなり、それによって見えてこないものが増えることにもなる。情報源を固定するだけでなく、色々な経験に基づく判断を磨くことによって、情報の真偽を吟味する力を伸ばせば、質の向上だけでなく、量を増やすことにも繋がる。理想的な姿とは、こんな所なのかも知れない。それにしても、世の中に流れる情報には、何とも怪しげなものが多い。報道の中にも、関係者への取材によれば、といった言い回しが頻繁に見られるようになったが、情報源の確かさを保証するためのものなのだろうが、現実には名を伏せてあるわけだから、何の保証もない。その上、特定できない人物からの情報となれば、そこにあるはずの思惑も見えてこず、情報の加工の可能性も十分に出てくる。本来守秘義務がありそうなものにまで、そんな話が出てくると、更に疑いが深まる。誰が何のために、情報を漏洩するのか。知りたがりには大切な情報かも知れぬが、それに振り回されてはいけないと思う。

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4月21日(火)−気紛れ

 目的と同様に誤解されているように思えることに、動機の扱いがある。自己反省に基づくが如く、目的やら動機やらを真剣に考えることを強いる人々の発言は、情けないとしか思えぬもので、未経験のことを勧める危険性に気づくべきだろう。過大評価を目論む誇大広告は、小心者の証しのように見えてしまう。
 決断を如何にも大きなことと扱う人は多いが、実際の過程を振り返ると、厳密にはほんの一瞬の判断に始まり、その後の長大な時間の殆どは、理由付けに費やされていることに気がつく。その理由付けに固執する人々は、恰もそれが始めに起こり、その上に色々と積み重ねた結果として、決断が成されたと信じ込むようだ。勝手な信じ込みに自らが騙され、他人を振り回すなどは、何とも情けない姿としか言い様がない。動機を重視する姿勢は、他のことにも見られるから、どうも人間はそういった過程を大切にしたいようだ。単なる思いつきで重大な行為をするはずはなく、そこには十分な思考過程があるべきという考え方は、如何にもありそうに思えるかも知れないが、各人の行為を少し詳しく分析すれば、その成立過程の順序が見えてくるだろう。多くが後付のものであることが確かめられれば、動機自体を重視する考え方を再考する動きも出てくるだろうが、そんなことはしたくないという人ばかりでは、どうにも期待薄である。人の行為を理解するために、共有できる部分は動機にしかない、という人もいるようだが、狂気に基づく行為や並外れた考えによるものでは、たとえ動機らしきものが示されたとしても、理解の及ぶところではない。そんな事例が続々と出てきても、依然として動機絶対主義が罷り通るのは何故か、その辺りの事情は見えてきていないのが実情だろう。一方で、有識者とか専門家とか呼ばれる人々が登場し、様々な解説を施すわけだが、これとて常識外れなものが目立つわけで、無益としか思えない。

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4月20日(月)−目的地

 相変わらず、自殺者の数が多いという。自死とすべきとの声もあるが、まあ、そんなことは本質的ではないだろう。原因の分析も進み、対策もある程度講じられているのに、何故減少しないのか、という声も聞かれるが、そんな簡単なことなのか、もっと様々な観点から考える必要があるのではないかと思う。
 死に至る考えを持った人を、現実に引き戻すのは容易でない。ただ、目の前の問題の解決を望む人には、それだけが唯一の解のように見えるのだろう。自殺の名所などでの掲示や、様々な働きかけにはそんな雰囲気が漂うが、それに気づく人ばかりでないのは、何か別のことを考える必要を示していそうだ。悩んだ末にとか、困ったからとか、ある意味抽象的な表現でしか表に出ない原因には、一体全体どんな事情があるのだろう。十把一絡げに扱うこと自体が、おそらく無理なわけであり、その意味では千差万別なものに、どんな対処が有効か難しい問題としか言えない。その一方で、社会全体がどんな変化を見せたかについて、あまり論じられていないのは何故か。特に、急増に関して、統計処理の問題が取り上げられることもあるが、現実に数そのものが増加したと見る向きもある。もし、それが当てはまるのなら、社会の変化を精査すべきところだが、どうなのだろう。世の中が安定するに従い、何かしらの歪みが蓄積し、その結果として表に現れたのがこの数字とすれば、歪みの原因を挙げることが重要に思える。経済成長の過程では殆ど顧みられなかったことが、安定期に入って重視されるようになったとすれば、そこに糸口を見出すことができそうに見える。具体的な対象は明確ではないが、しばしば耳にする言葉に、目標や目的という到達点の存在がある。これ自体が問題を生じるとするのは無茶だとしても、それを見失うことによる喪失感がかなり大きな影響を及ぼすことはありそうではないか。無理矢理設定した目標に、辿り着けないことが原因なら、そんなものを作らない心掛けも重要となる。思い当たる人もいそうな気がする。

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