パンチの独り言

(2009年4月27日〜5月3日)
(流行、回避、決心、直面、責任感、懲り懲り、狂気)



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5月3日(日)−狂気

 病んだ社会、と表現せざるを得ないほど、狂気に満ちている。こんなことは嘗て無かったと評する人もいるが、情報量の変化を考えると、果たしてどうなのか、確実なことは言えそうもない。ただ、それにしてもと思うのは、身の回りだけに限ったことでも、このところ驚くほど目立ち、何らかの変化を感じさせられることだ。
 狂人の戯言に耳を貸す必要はない。こんなことを言うまでもなく、人々は自分なりの基準を持ちながら、それぞれに判断を下していた。それが徐々に変わり始めたのは、事件と人権の関わりが取り沙汰されるようになってからだろうか。その一方で、寛容性とも言うべき感覚が、社会の成熟度の表れと言われ始め、その台頭と並行して、街中で異常行動を見る機会が増えたような気がする。これらの変化だけからでも、何かしら身の回りの変化が感じられるが、それに加えて、別の力が大きく働いているような、そんな気もしてくる。数が増えなくとも、社会の構造の変化により、接触の確率が増えたと見る向きもあり、それはある程度的確な指摘と思える。しかし、その一方で、数自体が増えたと見る以外に、解釈できない事例も多数あり、その辺りの変化が特に気になるところとなる。つまり、こういう人々を患者と呼ぶならば、昔からそれなりの数の患者はいたものの、直接確認する手段がなかったのに対し、最近はそれらの人々が社会に出る機会を得て、日常的に見かけることが可能となってきたのに対し、それと同時に、それ以上の数の患者が、世の中に溢れるようになったことが考えられる。狂気の姿は、奇異なものとして映るだけでなく、異常性がある限度を超えると、一気に脅威として感じられるようになる。危害を加えられなくとも、その姿を見るだけで、心理的な圧迫を感じるとなれば、本人だけでなく、周囲もかなりの抑圧を受ける。そこには、常に何故とする気持ちが働くが、現実にはそれは些末なことであり、自らの身を守る上で必要なことを優先すべきなのだろう。

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5月2日(土)−懲り懲り

 またか、と思えるほどの過剰反応が巷に溢れている。目に見えない脅威に、恐れを抱くのは無理ないとして、それを煽り立てる情報の嵐には、いつものことながら、怒りを覚えてしまう。何故、これほど、無知蒙昧のように騒ぎ立てるのか。知性の欠片もなく、反省の素振りも見せず、無闇矢鱈に暴走を繰り返す。
 命の危機を感じた時、人々はそれぞれ固有の反応を示す。戦場で戦意喪失する者もいれば、意を決して立ち向かう者もいる。しかし、それが根も葉もない噂によるものとしたら、どんな感覚を持つのだろう。今回の事件は必ずしも、そう断定できる状況にはない。しかし、これまでの経緯を見る限り、それ以前に、専門家から出されていた警告ほどの結果は出ていないように思える。つまり、感染力にせよ、毒性にせよ、想定されたものとはかなりの格差があるように感じられるのだ。多数の人々に影響を与えるだけに、冷静な分析を必要とするはずだが、今までの経過を見る限り、相も変わらずの空騒ぎ、不確定な情報を次々に垂れ流した挙げ句、空振りの続報を流す。知る権利をかざす人々には、ごく普通の行動なのかも知れないが、そんなことを深刻に感じない大衆にとっては、続々と流れてくる、如何にも深刻そうな情報に、不安感が募るのではないだろうか。これを散々繰り返すことは、その背景を理解できぬ人々には、狼少年に振り回された村人の気持ちそっくりの心理構造が構築される。となれば、次に起きることは何か。今回のものが深刻化すれば、そこで一つの解決を見るだろうが、そうならなければ、次に起きるだろうより重大な事件に、何の備えもしない人々が出てくるかも知れない。その一方で、その危険性を心配する専門家は、更に声を大にして訴えることとなり、別の副作用が頭をもたげる可能性もある。杞憂に終わることかも知れぬが、騒ぎを煽動し、不安を煽る連中に、猛省を促す必要が出てくるのではないか。

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5月1日(金)−責任感

 共同作業を行う目的の一つに、間違いを減らすというものがある。一人の点検では見つからないものも、複数人数でやれば、見つかることがあるという経験からだろう。ただ、これが絶対的なものでないことは、度々流される事件情報から見えてくる。何重にも築かれた点検組織も、間違いが発覚すれば、無力となる。
 製品の検査や書類の校正について、こんなことが行われているが、現実には間違いを皆無とすることは不可能である。機械による検査でも、人間と違って日々の変動は無いとはいえ、想定外のことに対しては無力であり、始めの設定の重要性が何度も指摘される。一方、文章の点検となると、依然として困難が伴い、自動化されているものは少ない。こうやって書き込むのに使っているソフトウェアも、文法やら単語やらの点検機構を備えたものが多いが、その指摘の度に、首を傾げることとなる。文章の書き方は人それぞれに違い、独自の型を貫こうとする人も多い。そうなれば、ある一定の形式を強いる仕組みは、全てが余計なお節介となる。学習段階であれば、重要な指摘も、ある水準を超えた状況では、無駄なものと言えるわけだ。人間性の表れとして扱われるものであれば、人間による点検のみが有効であり、その為に多くの人をあてがう場合もある。しかし、そんな場合においても、ごく少数の関わりが重要となり、他の人間の役割は、数を増やすことにしかならない。結局、その作業に注力する人は限られており、そういう人がいれば、他の人々は必要ないこととなる。それでも、世間的に共同作業を好む傾向があるのは、間違いを減らす目的というより、責任を軽くすることと関係があるのではないだろうか。軽減は心理的には重要と考えるが、だがと思えるのは、数のうちとなることを承知した人間には、責任感の消失も起きていることにある。共同作業には共同責任があることを、関係者は理解しておかねばならないだろう。

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4月30日(木)−直面

 恥をさらすことは、昔は忌み嫌われた行為だったが、徐々に考え方に変化が生じているのではないだろうか。ここには、恥をさらすこと自体を何とも思わなくなったのではなく、昔なら恥と思われたことをそう見なさなくなったという背景がある。そうなれば、さらすことに何の抵抗感もなく、ごく普通にできるわけだ。
 お笑い芸人が自らの欠点をさらしたり、身内の恥をさらすのは、芸のためと受け取られ、笑いの対象とされる。ただ、この手の人々も、以前ならば越えなかった線を、いとも簡単に越えてしまい、観客を戸惑わせることさえある。笑いが起きるのであれば、品格を捨てることさえ厭わない、というのを職業意識と見る向きもあるが、人間であるを捨てることに繋がりかねないことを、そんな扱いにするべきだろうか。悲惨さが漂うのは、ごく普通の生活からよりは、例えば病に冒された人々の生活にあると思うのは、一般的なことだろう。問題点を捉えるために、実情をさらけ出し、視聴者、読者に訴えるのは、最近頻繁に使われる手法だが、中には目を逸らしたくなるものもある。当事者にとっても、重大な決心に基づくものであり、その上で訴えたいとするわけだから、受け手も目を逸らさず、その真意を汲み取るべきかも知れない。ただ、そんな場面や話を見聞きする時、ふと別の考えが過ぎるのである。ここまですべきかどうか、その問題はどう扱われたのか。実態を見せなければ、問題を提起することはかなわないのか。そんなことを、今困っている人に突きつけるのは、間違ったことかも知れない。しかし、その一方で、そこに現れる一個人が、このような形で伝えねばならない状況は、何処か的外れなものになっていないか。ああいう情報に触れる度に、そんなことが思い浮かぶのである。悲惨さは、人の心に響く効果をもつが、逆の効果を生じる危険性はないのか。それを直視する勇気を持たねば、問題は解決しないのだろうか。

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4月29日(水)−決心

 話をしてもすぐには信じて貰えないことがある。決断に至る過程についてで、多くの人は悩み抜いた挙げ句と思っているようだ。信じて貰えないのは、決断は一瞬のことであり、その後の悩みは決めた後のこと、という解釈のことだ。特に、若い世代にはほぼ確実に疑われ、騙されまいとする顔が目に入ってくる。
 人生の先輩から、人間は悩んでこそ大きくなれると言われ、悩もうと努力する人さえいると聞く。しかし、何をどう悩んだらいいのか解らないままに、悩もうとする意欲だけが強くなれば、精神的な不安定は高まるだろう。助言した人は、そんなことは考えもせずに、自らの経験として自慢も含めて話すわけだが、実際にその過程を分析する人は殆どいない。彼らの頭にあるのは、そこに流れた時間のことであり、最終的な結論が出された時点で、悩みから解放されたと思うから、そこまでの長大な時間が決断に要したものと信じ込んでいる。ところが、悩んでいる時に何を考えたのかを問うてみると、その殆どが「これをして、失敗したら」とか、「これを選んだ理由は何だ」とか、そんなことだったのが明らかとなる。ここで重要なのは、「これ」が先立っていることであり、それがあって初めて思考が始まっていることだ。これを読んですぐに出てくる反論は、確かに、「これ」があるのだろうが、その時その時出てくる「これ」は、次々に変化するではないか、といったところだろう。では、どれ程の変化が起きるのか。現実には、そこまで多数の選択肢を並べ立て、それぞれを吟味した挙げ句に、最終結論を出すといった方式をとる人はまずいない。それより、一つの選択肢をほぼ発作的に導き、それについてあれこれ考え抜く人の方が遙かに多いのである。だからこそ、「これ」が「あれ」とか「それ」に変わる話を聞くことは殆ど無い。とはいえ、変更が全くないとは言えないわけで、紆余曲折もあり得るだろう。それでもなお、決断は一瞬と言いたいのである。

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4月28日(火)−回避

 新しい春を迎え、気持ちも新たに生活を始めた人もいるだろう。環境が大きく変貌し、思い通りに事が進まなくなった時、悩みに沈む人も出る。そろそろと、長い間言われた時期が始まるが、ここでの休息が吉と出るか凶と出るか、人それぞれに違うようだ。急激な変化の後、適応のために努力を積み重ね、疲れたところの休息。
 体力的な疲労に対して、休むことが一番と言われるが、精神的な疲労については、休息は必ずしも吉とは出ない。疲労の蓄積は確かに危ないことだが、日常的な継続が途切れることで、そこへの復帰が難しくなることの方が、遙かに厳しいものとなるからだ。その意味で、長期の休息をどのように過ごすのかが、人によっては重要な事柄となる。新しいことを始めたことで、生活面だけでなく、様々な面で変化を生じ、それが心理的な圧迫を産むこともある。徐々に慣れてくることで、何とかやり過ごすだけでなく、次の段階に進むことができれば、圧迫の程度も変化して、少しずつ解決に向かうこととなる。書いてしまえば何と言うこともないことだが、現実には紆余曲折があり、山谷を乗り越えるのに手間取ることが殆どだろう。その中で、どんな解決手段を講じるか、人それぞれに独自の答えを導くしかない。よく似た経過を辿る人がいたとしても、それは一部の一致に過ぎず、その解決法を模倣すること自体は、必ずしも良い結果に繋がるわけではない。巷にその手の書籍が溢れ、毎年この時期に売れ行きが伸びるようだが、肝心の本自体が毎年のように様変わりするところを見ると、絶対的な方法は見つかっていないことがわかる。安易にそちらに走ることは、無駄な手間をかけることになるだけでなく、依然として依存体質を強く残すこととなるから、危機がより迫ってくることになるだろう。何も感じない人がいる一方で、深い淵に落ち込む人がいて、何処に違いがあるのかわからないが、いずれにしても自分なりの答えを用意することが必要なのだ。

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4月27日(月)−流行

 鳥から豚に、突然の変更に驚いた人もいるだろう。食肉の話ではなく、流行性感冒の話である。騒ぎの大きさに、当局の戸惑いやら混乱やらが感じられるが、それにしても、これほどの大騒ぎになるのは何故だろう。ついこの間まで、鳥の話で持ちきりだったものが豚となって、一般大衆にも話の筋が見えてこない。
 ウイルスを原因とする病気、という点ではこれまでと何ら変わりがない。しかし、鳥からの感染の危険性が、恐怖に駆られるほど強調された後で、別の感染源が取り沙汰され、更に死者が出る事態に至っていることは、不安感を高めるに違いない。ただ、相変わらずと思えるのは、その源と考えられる国の衛生状態や栄養状態への言及が無く、死者の数のみが表に出ていることで、重要な要素が抜け落ちたままで、垂れ流されているという感は否めない。当局も過剰反応をするわけにいかず、その一方で、判断を誤れば事態を悪化させることになるわけだから、情報収集にあたる以外、今できることはないようだ。おそらく、他の国への伝染がどのような経過を辿るかを見た上で、何らかの判断を下すのだろう。ところで、鳥と豚と聞いて、何か思い出すことはないだろうか。もう20年以上前のことだろうが、その当時、この病気の始まる地域として、病名に名を残した場所で、どのような形で感染が始まるかを推測した話があった。それは、当時の国境を隔てた向こう側で、家鴨から豚に伝染したものが、人に感染して広がるというものだったと記憶している。今回の騒動も、ひょっとしたらそんな形で広がったのかも知れないが、一切触れられないのは学説が改められたからか。また、強毒性として警戒を呼びかけたものと、混同されることを危惧したためか、専門家と呼ばれる人の考えることはわからない。いずれにしても、騒ぎ立てるだけでなく、もっと正確で詳しい情報を集める努力なしには、本当に恐れられている事が起きた時に、適切な対応ができるはずはない。

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